アルカニルの鏡

しげぞう

第1話

1、

 南大陸の南西に版図を広げるゴルゴス王国で、いま、何にもまして必要なのは、〈鏡〉であった。

 〈アルカニルの鏡〉を入手すべし、という若きムラーブ王の命は、王権を守護する円卓会議で下されたものではなく、王自身の豪奢な私室において、近習のナート卿に直接かつ秘密裏に指示された。王の乳兄弟でもあるナート卿は、我知らず息を飲んだ。

 それはつまり、ナート卿が、かの廃都クセノスに赴かねばならない、と云うことを意味していた。

 当世の京師みやこザレッポスより、内陸部に東進すること三日、かつては切り開かれていた密林の奥深くに廃都クセノスはあった。三世紀前、妖術師の呪いのため放棄されたというこの旧い城塞都市は、ゴルゴスの民のあいだでは、いまや妖魅や悪霊の棲みとして気味悪がられられているのだった。ナート卿は、頑是がんぜない頃、王の乳母めのとでもあった母よりこの古言ふることを聞かされて育った。それ故か、猛勇で知られるナート卿も、クセノスの名を耳にすると心穏やかでは居られないのだった。

 

 *

 この年、ゴルゴスの国土を見舞った災厄の数々は、五指に余った。

 それは、春には稀な極端なながあめに始まって、強風と曖昧な陽光が作物の生育を阻んだ。夏に、地震で各所の水源が渇れた。秋は飢饉に、えやみが追い討ちをかけた。国勢の窮状を見てとってか、獰猛な海賊が沿岸部の交易都市を荒らし回り、略奪を繰り返した。腹が減っては戦ができぬ。守備兵たちは、充分な糧食もないまま敗走を重ね、脱走者が相次いだ。

 ムラーブ王は、星詠みを呼び、密かに原因を探らせた。陸続する災難を前にして、大地神ラドーの祭司長たる己れに、何かしら超自然のさわりがあるのでは、と踏んだのである。治世二年めで、その政治的、宗教的手腕の真価が試されていたからでもある。

 果たせるかな、星詠みは、天宮図に、それらしき不吉な影を見出だした。星詠みによれば、犬頭蛇座の方角から、王と王都ザレッポスの守護星座たる火喰鳥座に、尋常ならざる邪悪な暗雲が侵食しており、しかもその禍霊まがついの源泉は、あろうことか王宮に存するというのだった。すなわち、王宮に妖魅の類いが取り憑き、ゴルゴスの嚮後きょうごを歪めているというわけだ。

 往古より、神官の長たる祭祀王と、俗人の長たる執政王の二頭体制を採るゴルゴスであるが、現王家が二頭を兼務するようになって久しい。王宮に邪悪が取り憑いているということは、清浄であるべき祭祀の中心ーー併設された神殿ーーに、邪悪が存するのと同義である。これが真であるなら、直ちに祓わねばならない。尤も、実際には、ムラーブ王も、その父王も、そのまた父王も、とうに神官としての役割と力を省みなくなっていたが。

 さて、王命によって、最初にことに当たった悪魔祓い師は、無惨にも失敗した。調伏のため神殿に籠った翌朝、見えない鉤爪で引き裂かれた四肢が、王宮のあちこちにばら蒔かれたのである。云うまでもなく、神殿内部には、人はおろか、動物など実体を持つものの入り込める隙間などない。この出来事は、厳重に隠匿されたが、人の口に戸は立てられず、無気味な怪異として宮廷の隅で囁かれた。

 悪魔祓い師を擁する神官団は、甚だ及び腰になった。もとより、神職からすっかり官吏に成り下がっていた彼等には、荷が勝ちすぎたのである。

 曰く、神官団がこぞって修祓しゅうばつに当たれば禍霊に打ち克つことが出来ようが、集中攻撃の為には、敵の居場所を精確に捉えなければならない。そしてそれには、言い伝えにある魔術の道具〈アルカニルの鏡〉が必要だ、と主張するのである。ついては王よ、クセノスにあるという〈鏡〉をば、我等に賜りたくーーというわけだ。

 窮したムラーブ王は、無二の親友にして、円卓会議きっての若武者ナート卿に白羽の矢を立てた。敵がいずこに潜んでいるのか判然としない現況にあって、信頼に足る者は他に考えられなかった。

 二心ある者はその胸の裡をさらけ出し、妖魅の類いはその正体を顕したという、伝説の〈鏡〉を、魔都と化したクセノスより持ち帰れる剛の者は、そなたしかおらぬーー。

 旧知のよしみも露にムラーブは、王者らしからぬ弱気でかき口説いたのであった。

 

2、

 かつての京城へと続く街道は、一日も進むと密林に呑み込まれた。

 土を突き固めて造られた盛土の土手道は、繁茂する下草に覆われ、仄暗い奥地へ消えていった。丈の高い椰子は威圧的に聳え連なり、無花果の仲間の、うねるように入り組んだ根が、行く手を阻むのだった。ナート卿は、やむなく馬を捨て徒歩かちになった。極秘の任務とあって、供はなく、単独行である。

 それでも当初は、人の通った気配があった。野放図そうに思える叢にも、踏み分け道が見えるのである。案の定、日暮れどきに、森の中の小邑しょうゆうに行き着いた。

 密林の日没は早く、たちまちくらくなった。ナート卿は住人に見つからぬように、むらに入らず、木蔭に野営した。

 翌朝、農作業に向かう邑人を掴まえ、クセノスについて訊ねた。驚くべきことに、もう三世紀も前に廃れた都邑まちへ続く道を、邑人はまるで昨日も訪れたかのように教えてくれた。実際は、邑いちばんの長老ですら、その方角には一歩たりとも足を踏み入れていないのだった。そして、ナート卿が道案内を請うても、怖じ気づいて決して首を縦には振らなかった。

 ナート卿が眉をひそめたのは、そのとき聞いた中に不審事が含まれていたからだった。ナート卿より半日早く、邑を訪れて、同じことを訊いた者がいたというのだ。邑人によるとそれは、南大陸では稀な、人間ゾブオンでない異種族の男であるらしかった。その男は自ら、ルルドとモーアキンとの間の子だと述べたという。邑人とさして変わらぬ短身矮躯であったが、たいそう逞しい躰つきであった、と邑長は付け加えた。

 一軍を率いて修羅場をくぐったこともあるナート卿の警戒心が、この奇妙な符合を怪しんだ。人も通わぬ廃都を、ほとんど同時期に目指す相手は、ムラーブ王が仄めかした、敵の実在感を、一気に高めたのだった。事態は風雲急を告げていた。敵に〈鏡〉を奪われるわけにはいかなかった。ナート卿の足取りは速まったが、脳裏でもまた、目まぐるしい思惟が繰り広げられていた。

 ーーされば、あの噂は真であったのか。

 ナート卿の眼は、暗鬱に翳るのだった。

 

 *

 首都ザレッポスの郊外、チト高地へと連なる裾野の北に、涌き水で形作られた美しいオエ=レ湖があって、その湖畔に王家の離宮があった。

 現在の離宮の主は、王の正妃レイナアル妃殿下である。ザレッポスで王の傍らにあるべき正妃が、もっぱらオエ=レ離宮に居るのは、山岳地帯の小国から輿入れしてきた彼女が、ザレッポスの高温多湿な環境に馴れず、体調が優れないというのが理由といわれる。

 しかし、違う絵解きをする者たちもいた。レイナアル妃はまったくもって健やかであらせられるが、当人の意志で離宮に籠っているというのだった。レイナアル妃の生家は、版図こそ小なりとはいえ、金鉱と岩塩鉱を有する豊かな国レンサであった。ゴルゴスの国力を支え、ひいては他国の侵入を阻んでいる威力の淵源は、レイナアル妃が、婚家に惜しみなくレンサの富を融通しているからと云う者もあった。畢竟、レイナアル妃の発言は隠然たる力を持つようになり、妃殿下たるもの何処いずこ御座おわすべきか、などと諫言する者とていなかった。湖水地方には、引きも切らぬ追従屋の列が続いていると云われていた。

 ナート卿は、この噂を苦々しく思っていた。理由のひとつは、王の権威が軽んじられているからであり、いまひとつは、にも拘らずレイナアル妃に悪感情を持てないことからであった。

 王の近習としてレイナアル妃に拝謁したのは、ムラーブの即位礼と同時に行われた婚儀の際で、山だしの田舎娘と侮っていた心をものの見事に打ち砕かれてしまった。山岳民の、色鮮やかな刺繍入りの花嫁衣装を纏ったレイナアル妃は、頽廃的で精気のないザレッポスの貴族連中とは比べ物にならないほど、生き生きとしており、その素朴な快活さは魅力的で眩しいほどだった。それまで楚々とした所作の淑女や、艶やかな美姫との遊戯に向けていた情熱は、もはやナート卿には、酷く虚しいものに思えた。

 ナート卿の思慕は、みちならぬ罪に陥るものではなかったが、それはムラーブとレイナアルが、婚礼ののちも、睦まじい姿を友人として披露し続けたからだった。雲行きが怪しくなってきたのは、今年に入り国土に変事が頻発するようになって来た頃である。円卓会議でムラーブ王の顔は曇り、半年ほど前にレイナアル妃が離宮へ御幸みゆきして戻らなくなったのだった。

 クセノスにナート卿を遣わすにあたって、ムラーブ王は脅威を仄めかし、それをーーおそらく無意識であろうがーー「夏の……」と云い掛けたのだった。考えるまでもなく、オエ=レ離宮は、王家の夏の離宮である。ムラーブ王がゴルゴスを襲う妖魅と思いなしている相手、つまりは〈鏡〉を向けんすとる相手は、レイナアル妃ではあるまいか。だとすれば、レイナアル妃はいまやーー。

 ザレッポスを立つ際、ムラーブ王は、手ずからナート卿に、水晶の小瓶を賜った。それは神官が用意した大地神ラドーの聖水で、剣の刃にそれを垂らせば、破邪の力を持つと云いつかったのだった。

 ナート卿の暗鬱さの所以は、王権の守護者として、レイナアル妃のかんばせに剣を突き立てるのが、己れの責務であるからなのだった。

 

3、

 その遺跡は、大人が数人がかりで抱えねばならぬほど歳ふりた巨木をかわした先に、だしぬけに現れた。森の中に忽然と、見上げるほどの高さの城壁が、立ち塞がったのだ。城壁は一面、毒々しいまでに鮮やかな緑の苔に覆われていて、密林にすっかり溶け込んでいたのだった。

 ザレッポスを出発して三日目の午後である。クセノスまでの道程みちのりは、思ったより難事ではなかった。邑で補給した革袋の飲み水も、まだ充分に残っている。というのも、先行して、明らかに山刀をふるった痕跡が、散見されたからだった。張り出した枝葉を払った切り口がそここにあり、行く手を遮る障害は少なかった。

 しかし、途中の邑で聞き及んだ男が切り開いておいてくれた道筋を通るのは、安楽さよりも、緊張を強いられるものだった。何時なんどき待ち伏せをくらい襲われないとも限らないからだ。腕に覚えのあるナート卿は、戦闘を怖れてはいなかったが、万が一の手傷で、王命を果たせなくなる可能性がないではない。いまは故国存亡のときであり、怯懦きょうだそしられようとも、慎重に慎重を重ねるべきであった。

 同じ理由でナート卿は、口を開ける大門を前に、暫し躊躇った。門楼は、いにしえの王を象った堂々たる巨大な顔面像を戴き、往時の殷盛いんせいを偲ばせるのだった。

 言い伝えによれば、城塞都市クセノスは、巨大な方形であり、その四辺は、正確に東西南北に面しているという。城内に入るには、四辺にそれぞれ設えてある堅牢な門をくぐらねばならない。いまその内のひとつ、北大門は寂然とそこに鎮座しており、動くものの気配は感じられなかった。ナート卿は、妖魅や悪霊など超自然の存在に疎く、その脅威については備える術を知らなかった。故に寧ろ、実体を持った、己れ以外の何者かが、確実にこの中にいることは、奇妙に心安い感じがするのだった。少なくとも、実体相手なら、対処が出来そうである。虎や豹を相手取るのと同じだ。

 ナート卿は、用心深く、古都へと近づいていった。

 

 *

 〈アルカニルの鏡〉の在処ありかもまた、言い伝え頼みであった。城塞都市の中央部に、王宮と神殿を併せた大伽藍が聳えており、その二つの嶺を持つ小山のような内懐のどこかに、謁見用の広間があって、〈鏡〉はそこにあるのだという。

 北大門を通り抜けるとすぐ、言い伝えが正しかったことが判った。南北を貫く大通りの先に、大伽藍ーーかつて双嶺殿そうれいでんと呼ばれたーーが見えた。城市の街路は格子状に整備されており、ナート卿は、直交する小路や、物陰に潜む敵に気を配りつつ進んだ。

 三百年の時をけみした荒廃が、街並みの其処此処そこここに見られた。崩れた砂岩の石積みや、倒れている紅石の円柱は数知れなかった。幾つかは大通りで砕けて道を塞ぎ、ナート卿は迂回を余儀なくされた。

 建物も石畳も、まだらに地衣類に覆われ、また、街角に突如として出現する大樹が、くちなわのような幹と気根を遺跡に絡めて、呑み込まんとしていた。草花や下生えはおとなう者とてない都の大道の真ん中で、我が物顔に蔓延っているのだった。

 遺跡群は、当代とは微妙に異なる様式で造られており、違和感が拭えなかった。聖なる獣を掲げた尖塔があり、円蓋を戴く祠堂があった。往古の都は、現在よりずっと信仰が身近であったようだった。

 城内は、不自然なほど静まり返っていた。耳をすましても、密林の気配はーーつまり、生ある者の営みはーー城塞のうちに入って来ない。あって然るべき、鋭く啼く鳥や、飛蜥蜴の影や、毛むくじゃらの小動物が顔を覗かせる姿が見当たらないのは、実に気味が悪かった。

 乾季の今時分は、確かに一年の中で最も気温が低く過ごしやすいのだが、それにしても、この廃墟の、ひんやりとすらする気候は異常である。上空の太陽も、白く、頼りなげであった。

 音のない悪夢めいた死都のなかでは寧ろ、先行している敵の痕跡らしきものーー微かな足跡や、山刀の切り口ーーがうつつに繋ぎ止めてくれるよすがなのだった。

 今のところ、巷間で囁かれる妖魅の類いの気配は片鱗もない。無論、出逢わないで済むならそれに越したことはないーーとナート卿は胸のうちで独りごちた。

 そうは行かなかった。

 それは、双嶺殿まであと、ひと街区という場所だった。

 通りの真ん中に、女がひとりぽつねんと佇んでいた。それまでまったく空漠であった場所に、瞬きひとつする間に、忽然とたち現れていたのだった。

 緋の繻子に金襴が施された、見たこともない意匠の長衣を纏った背の高い女で、地面まで届く真っ直ぐな黒髪を、ゾロリと無造作に垂らしていた。俯いた表情は、長い前髪で隠れ窺い知ることはできない。両腕を脇に下ろしているが、片方の手には、華奢な指に不釣合な、幅広の彎刀を提げているのが異様であった。ナート卿は、長剣を抜き払った。

 聖水の小瓶に思い至ったときには、女は動き出していた。

 ゆっくりと、夢遊病のような手つきで、女は彎刀を持ち上げた。そして、頭の上で二度三度と彎刀を振り回す。腕は、ぐんにゃりと奇妙にやわげな、芯のないもののような有り様に変じた。次第に加速がついたその切っ先が、まるで絡みつくような動きで、女自身に向かった。

 ゾブッという気色悪い音がした。女の首が、女自身の持つ彎刀によって薙ぎ払われたのだった。噴き出した血糊が、長衣をみるみる濡らす。

 女が、ゾロリとした黒髪を掴んで、己れの首を掲げた。その白面は、美しく端正でありながら、どこか鼻の長い獣じみた造形で、それがナート卿と目を合わせて、嘲弄するようにニタニタと嗤うのだった。

 妖魅は、一瞬の喪心を、まんまとナート卿から引き出したのだった。生首を横に放ると、ナート卿の目は自然とそれを追った。気を逸らすのに成功した首のない本体が、彎刀を振りかぶっていっさんに卿めがけ殺到した。

「凶!」

 ナート卿が、斬撃に反応しえたのは、何処からともなく降ってきた掛声のお陰である。危うく長剣で彎刀を受けると、すぐさま後方へ飛び退いた。首なし女は、追い縋って横薙ぎの一閃を送ってくる。二分の一呼吸ほど余裕の生まれた卿は、摺り上げた剣でそれを弾くと、逆に踏み込んで斬りつけた。

 ナート卿の鋭い烈剣は長衣の脇を抉ったが、女は意に介さず、剣のない方の腕をふるってきた。関節を無視した曲がり具合の腕が、ナート卿の横っ面を薙いだ。卿は、弾き飛ばされた。

 大道から起き上がるナート卿めがけて、女は悠々と近づいてきた。いまや女の両腕は、蟷螂の斧のように異様に躰から飛び出していた。彎刀を握る手は相変わらず、ぶんぶんと頭上でそれを振り回しており、卿に向けられたもう一方の手には、おぞましい鉤爪が生えていた。一本一本が短剣のような鉤爪は、彎刀に劣らぬ凶器として、肉を引き裂くと思われた。

 建造物を背に、長剣をもろ手で構えたナート卿は、大地神ラドーの聖句を唱え、雄叫びをあげた。

 

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