番外編 自称勇者と元姫の生活
「ただいま……」
疲れた顔をした女性が物置小屋の中へ入って行った。
小屋の中には、ひとりの少女が目に涙を溜めて震えている。
「うわぁぁぁ! アイビィィィー!」
「……なにかあったのですか、チュチュ?」
小屋に入るなり、チュチュと呼ばれた少女が女性の名を叫びながら抱きついた。
アイビーと呼ばれた女性はうんざりしながらもチュチュに訊ねると、彼女はさらに喚き始める。
「今日店長が客の入りが悪いってずっと不機嫌だったんだよ!」
「それで……?」
アイビーは冷たく話を続けるように言った。
チュチュがいうに、なんでも店長が不機嫌なせいで、このところ仕事先である食堂の雰囲気が最悪らしい。
なんだ、そんなことか――。
アイビーもうさっさと眠りたいと思っていながらも、しょうがなくチュチュと話を聞き続けるのだった。
二人は今いる街にたどり着いてから、別々のところで働いている。
それはもちろん生きていくためだ。
チュチュは先ほどの話でわかるように、この街の食堂で働いている。
アイビーのほうは日雇いの肉体労働をしながら、この街にある職業組合で安定した仕事を得るために通っていた。
二人はこの街へ着く前に出会った。
アイビーは元はある裕福な国の姫君だった。
だがとある事情により、父である王に国から叩き出され、さまよっていたところをチュチュと知り合った。
そのきっかけとは――。
「ちょっと……なぜあなたがわたしのパンを勝手に食べているのですか?」
森で野宿していたアイビーのところにチュチュが現れ、彼女の食料を勝手に食べ始めたのが二人の出会いだった。
そのときにチュチュは、パンを頬いっぱいに詰めながら自分の名を告げる。
「あたしは……モグモグ。チュチュ……だよ。モグモグ」
「とりあえず……。まずは食べながら喋るのをやめてもらえないでしょうか……」
それからチュチュは自分のことを勇者だといった。
だからこれは運命の出会いだと言葉を続け、これからはアイビーへついていくと言い出したのだ。
アイビーは呆れながらも、なぜチュチュが自分の名を知っているのかを訊ねた。
すると彼女は、パンを詰め込んだ頬とは違い、まだ膨らんでもいない胸を張って答える。
「そんなの当然だよ、モグモグ。だってあたし勇者だもん」
自信満々にいうチュチュを見たアイビーは、こいつはとんでもない奴に捕まってしまったと思った。
国の外にはこういうおかしい人間がいるのだと。
そんなアイビーのことなど気にせずにチュチュはいう。
「だからあたしは、アイビー姫を守るために来たんだよ」
自分が食べるはずだったパンは、すべてこの勇者を名乗る少女に食べられてしまった。
アイビーは、この場で縛り上げて身ぐるみでも剥いでやろうかと考えたが、この少女は見るからに無一文だ。
そこでアイビーは考える。
ここらは夜も冷える。
おかしなことはいってはいるが、こいつに危険はなさそうだ。
それに、こんなよくわからん奴でも、凍死を防ぐための肉布団くらいにはなるだろう。
――と、チュチュと同行することにした。
それから旅の途中で聞いた――。
職に就くための技術を教えている組合の存在を知ったアイビーは、その街を目指し、そして今に至る。
「はいはい。わかりました……わかりましたから今夜はもう眠りましょう」
「うん! アイビーに話したらスッキリしたよ! いつもありがとうね!」
そして二人は、物置小屋の端に積み上げられている干し草の上で眠った。
この物置小屋は、金銭のないアイビーたちに、無料で貸し与えられているところだ。
二人は、まず街に着いてから住み込みで働ける仕事を探したが見つからずに、途方にくれていたところ――。
組合にいた教師によって、この物置小屋のことを教えてもらったのだ。
当然小屋の中は狭く汚い。
だが、最悪雨風はしのげるのだから文句は言えないだろう。
「いつまでこんな地獄が続くんだろう……」
身体が疲れているというのに、なぜか目が冴えてしまっている。
アイビーは昼間は眠いのだが、夜になると眠れなくなることが多かった。
先行きが不安なせいもあるのだろう。
彼女は、眠る前にはどうしても未来のことを考えてしまうのだ。
「うぅん……アイビー……暖かいよぉ……」
アイビーへ抱きついているチュチュが寝言を呟いている。
そんな彼女の顔を見たアイビーは、明日のためにも無理矢理に眠ろうと両目をつぶるのだった。
――次の日の朝。
アイビーが目を覚ますと、すでに起きていたチュチュが朝食の支度をしていた。
このところは――。
食堂で働き始めたのもあってか、チュチュは率先して食事を作るようになっていた。
最初の頃は食べるだけだった彼女だが、今では立派に家事を任せられる。
「あっ、おはようアイビー。ゴハンもうすぐできるからね」
笑みを浮かべながらいうチュチュ。
だが、アイビーはそんな彼女の姿を見て驚愕する。
「……チュチュ。どうして裸にエプロン姿なんですか?」
朝食を作っていたチュチュは、なぜか裸にエプロン姿だった。
驚いていたアイビーだったが、なんとか冷静になって彼女へ訊ねてみると――。
「うん? ああこれね。前にねぇ。お客さんに人を喜ばせるにはどうしたらいいかを訊いたら、この恰好がいいって教えてもらったんだ。ダメ? 嬉しくない?」
アイビーの反応を見たチュチュは、どうして彼女が喜んでいないのか不思議そうにしている。
そんな彼女へアイビーはひとまず深呼吸をしてから訊ねる。
「それを……あなたに教えたお客さんというのは誰ですか?」
「うぅんとねぇ。アイビーが通っている組合の先生だよ」
「そうですか……なら、あいつは殺します」
「朝から怖いこと言わないでッ!」
それから食事を終え、これから仕事へと向かうアイビーはチュチュへいくらかの金銭を手渡した。
チュチュの働く食堂では一応賄いが出るのだが、なにかあったとき用のお小遣いといったところか。
「無駄遣いはダメですよ。必要なもの、または困ったときにだけ使いなさい」
「わかってるよ。もうっ、アイビーは毎日同じこと言うんだから」
そして、アイビーは物置小屋を出た。
彼女の今日の仕事は新しい家を建てること。
とはいっても、ひたすら重たいレンガを運ぶだけの仕事だが、なんの技術もない彼女の就けた仕事はそれくらいだった。
アイビーは、チュチュと同じような接客業にも挑戦したが。
あまりにも彼女に愛想がないため、面接で落とされてしまった。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
現場に着いたアイビーは、まず挨拶をした。
だが、作業員たちは返事もせずにその場で談笑している。
この仕事は肉体労働なので男性しかいない。
女性のアイビーは、すぐに辞めると思われているのか、彼らは彼女に冷たかった。
そして、仕事が始まり――。
アイビーは男たちに交じってレンガを運ぶ。
他の者たちと比べると、一度に運べる量が明らかに少ない。
それはしょうがないことだ。
アイビーは女性で、しかも元は一国の姫だったのだ。
だから当然、食器よりも重たいものなど持ったことがない。
「ここは地獄か……。なぜわたしがこんな目に遭うのでしょう……」
作業中に誰にも聞かれないような声でよく愚痴をいっていたが、それでも彼女は生活費を稼ごうと頑張っていた。
それから陽が沈むくらいの時間まで作業は続き――。
ようやく今日の仕事が終わる。
「お前さんも女だてらによく続くな。はいよ、今日の分だ」
「ありがとうございます。明日も来るので、よろしくお願いします」
そして、現場監督から給与を受け取ったアイビーは、仕事場を後にした。
しかし、彼女の一日はこれで終わりではない。
これから組合へ行って、まともな職に就くための技術を学ばなければならないのだ。
組合までを歩く中、アイビーの腹の虫がグゥーと鳴る。
「やはり、パン一枚だけではお腹が減りますね……。……しかし、空腹のあまりお腹の音を鳴らすなんて……我ながら情けない……」
アイビーは、今朝チュチュへいったよう、極力無駄遣いはしないようにしていた。
当然それは食費もである。
そのため、朝と夜はまともに食べているが、自分が食べる分の昼食は節約している。
幸いなのは、こんな極貧生活でも育ち盛りのチュチュがちゃんと朝昼晩三食の食事が取れていることだ。
それに、チュチュの働く食堂の残りものは二人の生命線。
毎晩チュチュが持ち帰って来る店の食材がなかったら、アイビーもチュチュも確実に飢え死にしていただろう。
「おう、来たねアイビー」
組合の訓練場へと到着すると、快活そうな女性が立っていた。
彼女はアイビーに技術を教えている教師である。
もっと細かく話せば、組合の授業についていけなかったアイビーのことを、自主的に教えている人だ。
他に組合の教師は、アイビーのあまりの不出来な様を見て匙を投げたのだ。
戦士、武道家、狩人、聖職者、魔法使い、商人、踊り子、薬師など、どんな職業にも就けないと。
そんなアイビーを見て面白がった女教師が、彼女のことを拾い上げ、毎晩組合に呼び出していたのだ。
アイビーは彼女を見るなりに、訓練場にあったナイフを持って刺しに行った。
だが、女教師は彼女の攻撃を簡単に払いのける。
「おいおい、仕事の後なのにずいぶん元気じゃないのさ」
「先生……チュチュに変なことを吹き込むのをやめてくれませんか」
アイビーがそういうと、女教師はニヒヒと笑ってみせる。
それから彼女は素早く動くと、アイビーの背後に回って後ろから羽交い締めにした。
「変なこと? はて? 私、あの子になにかいったかな?」
「とぼけないでください。裸にエプロンとかいう破廉恥なことを教えたのはあなたでしょう」
「ああ~あれね。なんだ、喜んでもらえなかったのか~。アイビーはメイドのほうが好きだったかな?」
「殺す……殺すッ!」
だが、どんなに力を込めようともアイビーは動けなかった。
女教師は笑いながらアイビーを自由にすると、早速今日の授業を始めようといった。
そして、女教師は自分の腰にある財布を取ってみろと、アイビーを挑発する。
「ほ―らほら。さっさとかかって来なさい」
「殺す……殺すぅぅぅ!」
アイビーを日頃のストレスもあってか、その不満や怒りをすべて女教師へとぶつけていた。
だが、当然そんな感情に任せた動きでは、彼女から財布を奪うことなどできない。
女教師はアイビーの攻撃をかわしながらも、彼女へアドバイスをおくる。
「あんたにはスピードがある。それもっと生かしな。反射神経だけなら私よりも上なんだからさ」
「殺す殺す殺すぅぅぅ!」
「ああ~ダメだわ、こりゃ……」
それでも今のアイビーの耳には届いていなかった。
女教師は暴れ馬のように向かってくるアイビーに転ばせると、彼女へあるものを投げつけた。
それは、肉を挟んであるパンと水袋だ。
「とりあえずメシでも食って頭冷やしな。授業はそれからにしよう」
「いえ、いいです。さっさと続きを……」
アイビーが言い切る前に――。
彼女の腹の虫が鳴った。
アイビーは顔を真っ赤にしていると、女教師はニコッと笑う。
「あんたがよくてもお腹はそうじゃないみたいだね」
「くぅ……すみませんが、いただきます……」
それからアイビーは食事を済ませ、今度は落ち着いて授業を受けたのだった。
そんな一日を過ごしていたアイビーとは違い、チュチュのほうは彼女を見送った後に食堂へと向かう。
「今日こそは遅刻しちゃいけないんだよ~♪ だってまた店長の機嫌が悪くなるからだよ~♪ でもチュチュはいつもギリギリに着いちゃうんだよ~♪」
自作の歌を口ずさみながら歩くチュチュ。
店がもう目の前というところで、彼女はあるものを発見してしまう。
「ふおぉ~!」
両目を輝かせるチュチュが見たものは――。
二本の足で立っている豊かな毛をまとった仔羊だった。
「羊さんの子どもなのにどうして立ってるの? ねえねえ」
チュチュはその仔羊を抱きしめながら訊ねた。
仔羊は困った様子で小さく鳴いている。
「ま、いっか。よし、メメ。今日からお前はうちの子だよ」
チュチュはそんな仔羊のことなどお構いなく、勝手に名前をつけて店へ連れて行こうとした。
仔羊はやはり困った様子で鳴いているが、チュチュの耳には喜んでいるものと思われていた。
「こらこら、ダメだよ。人の友だちを勝手に連れて行っちゃ」
チュチュが仔羊を連れて行こうとすると、大人の男性から呼び止められる。
どうやらこの二本足で立てる仔羊は、このハットを被ったロングコート姿の男性の連れのようだ。
「え~メメはお兄さんのとこの子なの?」
「そうだよ。ちなみにその子の名前はニコ。君が付けてくれたメメも良い名前だけど、ニコって呼んであげて」
チュチュは残念そうな顔をしながら、抱いていたニコを男性へと返した。
すると、男性はチュチュへお礼を言い、彼女へ訊ねる。
「君は……もしかしてここの人間じゃないのかい?」
「そうだよ。最近アイビーと一緒にこの街へ来たんだ。って、やばい!? 遅刻しちゃう!? ごめんねお兄さん! あたしこれから仕事だから! ニコもバイバイ!」
そしてチュチュは慌てて仔羊と男性の前から去っていった。
唖然とした表情でたたずむ男性とニコ。
そして、男性はボソッと呟く。
「彼女は……いや、違うか……。それじゃ行こう、ニコ」
男性と仔羊は、走って行くチュチュの背中を眺めると、その場を後にした。
その後、なんとか時間に間に合ったチュチュは、早速食材の仕込みから始める。
「ウシさんブタさんニワトリさん~♪ いつもおいしくてありがとうございます~♪ もちろんサカナさんもエビさんもカニさんもありがとうございます~♪」
いつものように自作の歌を口ずさみ。
軽快に仕事をこなしていくチュチュ。
そして、店が開き。
今度は給仕の仕事へと変わる。
昼くらいになると、一番混雑する時間帯になる。
「なあ小さな店員さん。今日のおすすめを教えてくれよ」
戦士風の男がメニュー表を見ながらチュチュへと訊ねてきた。
チュチュはニッコリと微笑みながら快活に声を返す。
「今日はですね。ウシさんブタさんニワトリさんに~、サカナさんもエビさんもカニさんもおすすめですよ~。それとピーマンさんニンジンさんジャガイモさん野菜さんたちも!」
戦士風の男はガハハと笑い、それを聞いていた他の客たちも一緒になって大笑いしていた。
そして満員の店内からは、この店はなんでも美味しいのだなと声が聞こえ、次々に大量の料理を注文され始める。
「ふおぉ~! これで今日は店長が不機嫌にならなくてすみそうだよ! みんな! ありがとうございま~す!」
店内に聞こえるくらい大声で言ったチュチュ。
それを聞いた客たちがまた笑い、他の店員たちも皆笑顔になっていた。
そしてそんな笑い声の中――。
店長はひとり恥ずかしそうに料理を作るのだった。
ちなみにこのことがあってからか。
店長は客の入りが悪くても、不機嫌になることはなくなった。
「よし、それじゃあがりま~す」
チュチュの仕事は昼のランチタイムまでだ。
今日は誰も賄いを食べなかったので、いつも以上の食材を持って物置小屋へと帰るチュチュ。
しかも今日は、店長も店員も客も店にいたすべての人間が笑顔だったため、チュチュはかなりご機嫌な様子だった。
「今夜はおいもとタマゴを使ったシチュ―だよ~♪ チュチュはおいもとタマゴが大好きなんだよ~♪ そしてアイビーはチュチュの作るものならなんでも好きなんだよ~♪」
それから物置小屋へと戻ったチュチュは、室内にいる虫を追い払いながら掃除をする。
チュチュはあまり気にしないが、アイビーは虫を見ると固まって動けなくなってしまうからだ。
ひと通り掃除が終わると、次は二人で食べる夕食の準備へと入る。
もらってきた食材は日持ちしないので、その日のうちに使いきる。
そして、あまった料理は次の日の朝食へと回していた。
「よしできた! 今日のシチュ―は出来がいいからチュチュスペシャルと名付けよう! ふふ~ん、アイビーは早く帰って来ないかな~♪ 早く食べてもらいたいな~♪」
得意の歌を口ずさみながら――。
チュチュは夜遅くまで戻らないアイビーを待つ。
彼女は食事がなによりの楽しみではあるのだが、アイビーと一緒に食べるほうが好きなのだ。
「ただいま……」
疲れた顔をした女性――アイビーが帰って来る。
チュチュはおかりえといって、すぐに食事を用意し始めた。
いつもよりも早く帰ってきたアイビーを見ながら、嬉しそうに鍋に入ったシチュ―をスープ皿へと移す。
昨日もそうだったが、アイビーの帰りが遅いときは夕食をとらないことが多い。
そのことをアイビーは何度も先にひとりで食べるようにいっているのだが、チュチュはいうことを聞かず、結局アイビーのほうが折れた。
今夜はアイビーと一緒に食べられると思うと、チュチュは嬉しくてしょうがないのだ。
それから二人は食事を取る。
「今日はね。お客さんがいっぱい来ていっぱい注文してね。店長の機嫌よかったんだよ」
「それはよかったですね」
「うん、チュチュもがんばったもん」
二人はそんな会話をしながら、ジャガイモと卵のスープ――チュチュスペシャルにパンを浸しながら食べる。
「今日の夕食は特に美味しいですね」
「うん、だってあたし勇者だもん」
「チュチュ……勇者と料理は関係ないでしょ……」
「あれ? そうだっけ~?」
それから二人は街にある風呂場へと向かった。
この世界の風呂は基本的に家庭用というものはない。
あってもお城に住む王族か、一部の裕福な貴族だけだ。
多くの民は酒場や宿屋にある一室を借り、沸かした水を人が二~三人入れるような桶へと注ぎ、それで身体を洗っている。
この世界では、早朝に風呂に入るのが当たり前なのだが。
夜のほうが客が少なく料金も安いので、アイビーたちはいつも夕食後に利用していた。
「お風呂だよ~♪ お風呂なんだよ~♪ 楽しい楽しいお風呂の時間なんだよ~♪ アイビーのこともチュチュがピカピカにしちゃうんだよ~♪」
「こら、チュチュ。夜に歌うのはやめなさい。この時間だともう寝ている人もいるんですから」
「はいのはいのは~い!」
「はいは一回でいいですよ」
それから二人は、着ていた服を脱いで湯を注いだ大きな桶へと入る。
はぁ……と息を吐いて落ち着くアイビーとは対照的に、チュチュは桶の端をつかんでバシャバシャと足を動かしていた。
そのせいで湯がアイビーの顔に勢いよくかかる。
「ねえアイビー。今度湖に行ってみたい」
「……お金が貯まったらね」
「うん、大きな水の中で一緒に泳ごう!」
アイビーは、嬉しそうにそういうチュチュを見ていると、早く稼げるようにならねばと思うのだった。
それから物置小屋へと戻り、いつものように端に積み上げられている干し草の上で横になった。
「ねえねえアイビー」
「なんですか、チュチュ?」
「言い忘れてたんだけど。今日はね、仕事へ行く前に二本足で立つ子どもの羊さんを見たよ」
「それは……見間違いではなく?」
「うん、ちゃんと羊さんだった。ニコって名前の仔羊だよ」
「そうですか……。では、明日も早いのでもう眠りましょう」
「あっ、信じてないな! ホントに見たんだから!」
「はいはい、信じてますよ」
「はいは一回でしょ!」
そんな言い合いをした後――。
いつものようにチュチュはすぐにぐっすりと寝て、アイビーのほうは無理矢理に眠りに入ろうとした。
自分の体に抱きついているチュチュを見ながらアイビーは思う。
「明日から……もう少し先生の言っていることをやってみますか……」
そう呟くと――。
アイビーはいつもよりも早く眠ることができた。
そんな日々を繰り返していくうちに、アイビーの技術は確かなものへと変わっていった。
女教師の教え方もよかったのだろう。
今では彼女から財布を取ることも可能になっていた。
「それで……この技術はいったいなんの役に立つのですか?」
アイビーは教えてもらっていることができるようになってから、女教師に訊ねた。
すると、彼女はニヒヒと笑い返してくる。
「そりゃあんた、これで肉体労働しなくても他人から金をパクれるじゃん」
「おい、わたしに泥棒になれというのですか?」
アイビーは静かに返事をしたが、その内心では怒り狂っていた。
そんな他人から盗んだ金でチュチュを育てるわけにはいかないと、まるで母親のような心境になっていたのだ。
そんなアイビーを見た女教師は、今度は大きな声で笑った。
そんな態度にアイビーはさらに怒りを募らせる。
「ごめんごめん。まさかそんなに怒るとは思わんかったよ」
「では、盗みやスリ以外にこの技術がお金になる方法があるのですね」
「そいつはこれからのあんた次第だね。さあ、次は別の技術を教えてあげるよ~」
このままでは一流の泥棒にされてしまうのではないか――。
アイビーはそう考えるのと同時に、完全にこの女教師にからかわれていると思っていた。
だが、正直もうこの女教師以外に頼れる人間がいないので、彼女のいうことを聞くことする。
肉体労働などいつまでもできる仕事ではない。
これからチュチュと生活していくためにも、ここで何でもいいから技術を身に付けねばいけないのだ。
そう改めて決意したアイビーには、これまでと同じく、朝から仕事、夜は遅くまで技術の習得と休みのない日々が続いた。
相変わらず現場では無視に近い扱いを受け、疲労とストレスを抱えたまま教えを学ぶ。
女教師からは、仕掛けられた罠の解き方や室内に隠された扉、通路を見抜くやり方など、より高度な技術を教えてもらうようになっていた。
「最近理解しました。あなたがわたしに教えてくれている技術とは、盗賊のものですね」
ある日にアイビーが女教師に訊ねると、彼女は今さら気が付いたのかといった表情で呆れていた。
それからため息をつくと、女教師は言葉を返す。
「そうだよ。残念ながらこの街の職業組合には、あんたの適性に合ったものがなかったからね」
女教師がいうに――。
アイビーの長所は素早さなのだそうだが。
組合の教師たちはその素早さを活かすために、彼女の武道家に向いていると考えていた。
だが、アイビーには圧倒的に腕力が足りなかったため、その案は見送られる。
それから試しにいろいろ挑戦させてみたが。
戦士しては剣を振る力がなく(甲冑など身に付けたら動けなくなってしまう)。
狩人としては的に照準を合わすこともできず。
聖職者としては彼女の態度のせいで神父に拒絶されてしまい。
魔法使いとしては魔力を持たないためなれず。
商人としては商売の才覚がなく。
踊り子としてはリズム感が皆無であり。
薬師としては常人の十倍の努力をしなければものにならないと言われた。
「だから私が個人的に盗賊の技術を教えてあげてるわけさ。なんてたって組合で盗みの技術なんて教えているなんてなったら大問題だからね」
「盗賊にできる仕事とはなんですか?」
「そりゃそいつの腕次第だけど、まあたくさんあるよ。たとえば秘境と呼ばれる場所の探索やら、依頼を受けてある物を盗み出すとか潜入捜査とかね。あと当然あんたが嫌う泥棒稼業も」
「なるほど。泥棒以外にもトレジャーハンターやらいろいろあるのですね。わかりました」
それからのアイビーはメキメキと技術を上達させていった。
やはり女教師の目に狂いはなかったのだろう。
感覚的な剣、弓矢などは彼女に向いていなかったが(他にもアイビーの向いていないことをあげていけばキリがないが)。
決められた手順を覚えることと、彼女が本質的に持っている細かい性格は、盗賊と相性がよかったのだ。
それと、自分が覚えている技術が、いったい何の役に立つのかを理解したのもあったのだろう。
この街に着いてから数ヶ月――。
アイビーは女教師も唸るほどの盗賊になっていた。
「技術はもう問題ないね。あとは数をこなして経験を重ねればあんたも一流の仲間入りだよ」
アイビーはそういってきた女教師に疑いの眼差しを向けた。
それは彼女が、女教師の言葉に違和感を持ったからだった。
経験も何も、結局はやることは同じであろう。
すでに女教師が用意した試験で、自分に解けない罠はないし、見つけられない隠し扉、隠し通路もない。
さらに気配を消す潜伏、相手に気付かれないように後つける追跡。
そしてどんな険しい道でも難なく進んでいけることもできる。
だから自分には、別に経験など必要ないと思ったのだ。
「場数ってのは甘く見れないんだよ。それに、その過信につけ込んでくる連中も多い」
めずらしく真面目な表情でいう女教師。
彼女はそのままのシリアスな顔で言葉を続ける。
「戦士や武道家にとって戦いは、己を鍛え上げた自信から来る肉弾戦だけど。腕力のないあんたにとっての戦いってのは、頭をフル回転させて使わないと確実に死ぬものだ」
「つまり相手に頭脳戦を仕掛けろと?」
「それだけじゃ足りないね。腕力もない頭も悪い、しかもどん臭いあんたはすべてを利用して戦わなきゃ」
「なんだか言いたい放題言われてますけど……」
「相手が肉弾戦を仕掛けたかったら頭脳戦に。その逆もそう。そして、肉弾戦、頭脳戦でも敵わなそうだったら、せめて心理的に優位に立てるように組み立てながら戦うんだ。できるんなら敵だった奴を味方にしちゃってもいいし」
「やることが多いですね……。地獄です……」
「なあに、あんたの地獄は今に始まったことじゃないだろう?」
その通りだと、アイビーは思った。
姫に生まれたという理由だけで、父親である王に魔女への生贄にされた。
何不自由なく育てられる立場だったはずが、急に国の外へと放り出された。
やっとたどり着いたところでは、ろくな職も手に入らなかった。
きっと自分の地獄は終わることがないのだろう。
それは、生活の心配がなくなっても変わることはないのだ。
そんな辛く苦しい世界に生きていて、いったい何の意味があるのか。
さっさと死んでしまったほうが楽かもしれない。
いや、その前に自分を捨てた国へ復讐でもすれば気が晴れるのかもしれない。
――と、アイビーは俯いてしまう。
それから女教師から仕事を得たアイビーは、現場の仕事を辞めることにした。
仕事の依頼は、街の近くにある洞窟の探索だ。
報酬は、肉体労働をしていたときの倍以上であった。
そのため、これからは現場へ行かなくても生活していけるようになったのだ。
アイビーは仕事場にいる男たちへ最後の挨拶をしに行った。
そのときにも、やはり男たちはいつも通り冷たかった。
だが去り際にだけ、男たち全員が彼女に声をかけてきた。
「身体にだけは気を付けろよ」
「お前はどうも頑張り過ぎる」
など、男たちがアイビーのことを気付かう言葉だった。
そんなことで今まで冷たくされたことが帳消しになるわけではない。
アイビーはそう思ったが、内心では男たちの言葉に喜んでいた。
人が嬉しいと思うときとは、こういう些細なことなのだ。
たとえこの世界は地獄であろうと、あの女教師のような人物もいる。
それに、うっとうしい思っていたチュチュの存在が、自分をここまで支えていた。
そんな大したことのない喜びのおかげだった。
「まあでも……それでもこの世界は地獄ですけど……」
アイビーは、仕事場からの帰り道で涙を流しながら呟くのだった。
それからアイビーは、肉体労働の仕事を辞めたことをチュチュへと伝えた。
すると、急にチュチュも今やっている食堂の仕事を辞めると言い出したのだ。
アイビーにはそれ理解できなかった。
チュチュはその人柄と働きぶりもあってか、金銭もあがり、いずれは料理長になれると約束されていた。
それなのに、いったい何を考えているのか。
唖然としているアイビーへチュチュはいう。
「だって洞窟にアイビーひとりじゃ危ないじゃん」
チュチュが仕事を辞める理由は、アイビーの身を心配してのことだった。
もちろんチュチュに危ない目に遭ってほしくないアイビーは彼女を止めたが。
「アイビーを守るのはあたしだよ!」
「ですが、洞窟は危険がいっぱいなんですよ。もしあなたになにかあったら」
「大丈夫だよ。だってあたし勇者だもん」
結局いつものように折れることになってしまった。
たしかにチュチュがそういうのも無理はなかった。
なぜならば、どんなベテランの冒険者でもひとりで洞窟の探索をしない。
必ずパーティーを組んで入る。
チュチュはそのことを店の客から聞いていたので、アイビーに伝えられる前から一緒について行こうと決めていた。
それは、自分はアイビー姫の剣と盾になるのだと、出会った頃からのチュチュの想いだった。
その後――。
チュチュはアイビーが洞窟に一緒に行くことを承諾してから、すぐに食堂へと向かい、仕事を辞めた。
すべての店員から止められたが、事情を話したら彼らは納得してくれた。
その日のうちに辞めることができたのは、実は前からこの食堂で働きたいといっていた人間がいたからだ。
「いつでも帰って来い。お前なら大歓迎だ」
そして、最後に店長からはそう言われた。
かくして洞窟の探索の仕事についたアイビーとチュチュは、順調に依頼をこなしていく。
毎日街の外へ出て、長いときは数日物置小屋へ戻れないときもあった。
それまでに、けして仕事中に危険がなかったわけではないが。
アイビーが女教師から教わった技術のおかげで、彼女たちは大きなケガをせずに済んでいた。
少しずつだが、生活にも余裕ができ始めたのもあって。
彼女たちは、この街にたどり着いてから初めての休日を過ごすことにする。
「やった! 休みだよ! 朝から好きなことができるよ! なにをやろっかな~。ねえアイビー?」
アイビーは、はしゃぐチュチュに向かって右手をあげる。
「提案します」
そしてひとつの案を出した。
それは、以前にチュチュが行きたがっていた湖へ行こうというものだった。
「ふおぉ~! そういえば行こうっていってたね!」
「というか……あなたは今の今まで忘れてたんですか?」
「そんな細かいことは気にしない気にしない。さあ、早速準備だよアイビー!」
チュチュは、そんなに細かいことかと思いながら呆れるアイビーを気にせずに、さらにはしゃぐのだった。
湖の場所は女教師から聞いたアイビーたちは、次の日を休日にして街の外へと出かけた。
アイビーは、いつもなら仕事以外で外へは出ないせいか、なんとなく落ち着かない様子だ。
どこかへ遊びに出かけるという感覚など、すっかり忘れてしまっていたのだ。
反対にチュチュはいつも通りだった。
この勇者を自称する少女は、仕事だろうが遊びだろうが、なぜか何をしていても楽しそうだ。
「これから湖へ行くんだよ~♪ 水の中で泳いじゃうんだよ~♪ チュチュはアイビーと一緒にサカナになるんだよ~♪」
「残念ながら魚にはなりません」
チュチュの自作の歌を聴いたアイビーは、その歌詞に対して大真面目に指摘した。
だが、チュチュは気にせずに歌い続ける。
アイビーはそんな彼女へ、何度も自分が泳がないことを伝えるのだった。
それから森を抜け、二人は目的地である湖へとたどり着く。
早朝から出発したのもあってか、湖の周辺には鳥や鹿、さらにはあらいぐま、水牛の群れなどが仲良く水浴びをしていた。
「ふおぉ~! アイビー見て見て! 動物さんがいっぱいだよ! 初めて見るのもいっぱいいる!」
「むやみに近づいたりして、危険はないのでしょうか。ちょっと心配ですね。なんといっても野生の獣ですから」
「大丈夫だよ。だってあたし……」
「勇者と獣は関係ありません」
チュチュがいつもの決まり文句をいうとすると、アイビーはそれを遮って否定した。
それからチュチュは、動きやすい格好に着替えると、真っ先に湖へと飛び込んだ。
そして、野生動物たちにじゃれながら水の中を泳いでいる。
人間に慣れているのか。
動物たちはチュチュが触れても逃げ出したりはしなかった。
アイビーはその間に、用意していた布を地面に敷いて大きな日傘を立てていた。
今日の空を見る限り、日差しが強いと思っていたからだ。
「お~いアイビー! いっしょに泳ごうよ~!」
湖から手を振って来るチュチュ。
だが、アイビーはお構いなくと返事をし、けして湖へは近寄らなかった。
そんな彼女を見て頬を膨らますチュチュ。
なんとかアイビーを水の中へ引きずり込もうと、彼女はあることを思いついた。
そんな不敵に笑うチュチュを見て、周りにいた動物たちが怯んでいる。
「うわぁぁぁアイビー! 助けて! 助けてぇぇぇ!」
突然チュチュが水面でもがきだした。
叫び声をあげながら、今にも沈んでしまいそうな様子だ。
「チュチュ!? 待ってなさい! 今行きますから!」
アイビーはバッと上着を放り脱ぎ、湖へと飛び込んだ。
それを見ていたチュチュは不敵に笑う。
「よし! 作戦通り!」
これはチュチュがアイビーを湖へと入れるための作戦だった。
彼女は溺れたふりをすれば、アイビーが必ず湖へと自分を助けに来ると考えたのだ。
そして、その作戦は見事成功。
チュチュはアイビーが近づいて来たら嘘だったことを伝えようとしたが――。
「えぇ!? アイビーが出てこないよ!?」
アイビーはチュチュを助けようと湖に飛び込み、そのまま沈んでいってしまっていた。
そう――。
アイビーが湖に入るのを嫌がったのは、彼女が泳げないからだったのだ。
そうとは知らずにアイビーを騙してしまったことに気が付いたチュチュは、急いで沈んでいった彼女を助けにいった。
その後、チュチュに助け出されたアイビーが目を覚ますと――。
「ごめんなさいごめんなさい! あたし、アイビーが泳げないなんて知らなかったんだよ! でもいっしょに泳ぎたかったんだよ! うわぁぁぁん!」
泣きながらすがりついてくるチュチュがいた。
アイビーは泣きじゃくるチュチュの頭に手をやる。
そして、微笑みながら口を開いた。
「あなたが溺れたのが演技でよかったです。もし違っていたら二人とも死んでましたね」
その後に、そのまま頭を撫でて、二度とこういうことはしないでほしいと、言葉を付け加えた。
チュチュは涙を流しながら頷き、二度とこういうイタズラをしないことを約束した。
彼女の涙の理由は、ただ悪いことをして申し訳ないと思っているだけではない。
ろくに泳げないのに、自分のことを助けに来てくれたアイビーの行動を、嬉しく思っていたからだ。
それから二人は、持ってきていた料理を食べることに。
料理とはいってもパンに肉と野菜を挟んだだけの簡単なものだったが、いつもより美味しく感じられた。
チュチュはそのことが不思議なようで、首を傾げながらパンをくわえている。
「なんでだろう? いつもと同じ味付けなのに?」
「きっとこの湖のおかげでしょう。きれいな景色を見ながら食事をすると、より美味しくなると聞いたことがあります」
「すごいね! まるで魔法みたいだ!」
食事を終え、しばらく横なっていたチュチュは、気が付くと眠っていた。
アイビーは、気持ちよさそうに寝息を立てている彼女を動かし、大きな日傘の中にいれる。
チュチュはけして重くはないが。
やはり非力なアイビーにとっては、子供の身体でも動かすのが大変そうだ。
「アイビー……あたしは勇者なんだよぉ……だからぁ……姫を守るんだよぉ……」
いつもいう台詞を眠りながら呟くチュチュ。
アイビーはそんな彼女に呆れていると、いつの間にか動物たちが集まってきていた。
先ほどチュチュがじゃれていた動物たちだ。
鳥はさえずり、鹿は側にある草を食み、あらいぐまがチュチュの体の上で丸まっている。
そして水牛の群れが、チュチュに向かって甘えるような高い声で一斉に鳴き、湖から出て行く。
それは、とてもありえない光景だった。
「う~ん? これはやはり、チュチュが勇者だからですか……?」
アイビーは驚きながら、やはりチュチュは勇者なのかもしれないと思うのであった。
ロイヤルソング~呪われし姫たちは悲しみを謡う コラム @oto_no_oto
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