リレーのバトンを渡すみたいに

リレーのバトンを渡すみたいに

　見上げれば、秋晴れの空が広がっていた。どこまでも続く青の色を瞳に吸い込んで、智樹（ともき）は、高ぶる心を落ち着かせる。

　グラウンドの至る所から、ワーワーと騒ぐ生徒たちの声が聞こえてくる。智樹の学校では本日、運動会が行われており、彼が出場するクラス対抗リレーは、もう間（ま）もなくスタートだった。

「今日こそ負けないぞ、智樹くん」

　隣のレーンから声をかけられて、そちらに目を向ける。ボブガットの髪型がよく似合う小柄な少女は、智樹の幼馴染だった。

「それは僕のセリフだよ、裕子（ゆうこ）ちゃん」

　幼稚園の年少組以来の付き合いであり、こうして高校2年生になった今でも、まだ「智樹くん」「裕子ちゃん」と呼び合う仲だ。

　中学時代は部活も一緒だった。彼女は高校でも陸上部だが、智樹は部活動を一切行（おこな）っておらず、いわゆる帰宅部になっている。それでも裕子だけでなく智樹も、足の速い生徒として、それぞれのクラスでリレーのアンカーを任されていた。

「無駄話はそれくらいにして……」

　小さく微笑んでから、彼女は視線を逸らした。

　智樹も彼女に倣って、後方を見る。

　最終走者である二人に、一瞬でも早くバトンを渡したいのだろう。必死で走る者たちの姿が、視界に入ってきた。他のクラスよりは断然速く、二人の走者は、ほぼ並んだ状態だ。智樹と裕子、どちらが先にバトンを受け取るのか、予断を許さない状況だった。

「頼んだよ、智樹！」

　クラスメイトの言葉と共に、バトンが智樹の手に渡る。

　そのタイミングは、裕子のクラスよりも微妙に早かったらしい。

　走り出した智樹の視界に、もう彼女の姿は入ってこなかった。もちろん、他のクラスの走者も同様だ。

　裕子は今頃、僕の背中を見続けているに違いない。そう思いながら、智樹は走り続ける。

　せめて今だけは、僕の存在を裕子の目に焼き付けてやろう。そんな気持ちが、智樹を加速させるエネルギーになっていた。

「優勝おめでとう、智樹くん。また負けちゃった……」

　ゴールの後、同じクラスの仲間よりも先に、裕子が近寄ってきた。

　彼女だって走り終えたばかりであり、汗びっしょりだ。ブラジャーのラインが透けて見えるくらいだが、それを目にした智樹の心に生まれるのは、思春期男子にありがちなザワザワした想いではなかった。昔の裕子ちゃんはブラジャーなんかつけていなかったのに、というノスタルジックな感慨だった。

「しかも、智樹くんったら、そんなに涼しい顔で……。なんだか悔しいなあ」

　汗ひとつかかないというほどではないが、裕子に比べれば極めて少ない。それは智樹自身も承知していることであり、軽く笑ってみせた。

「僕だって頑張ったんだよ。汗が出ないのは、そういう体質だからね」

「体質か……。そういえば、昔からそうだったかも」

　思い出を頭に浮かべているような表情で、小首を傾げる裕子。

　だが、それは一瞬の出来事に過ぎなかった。

「おーい、裕子！」

　遠くから聞こえてきた声に、彼女はパッと顔を輝かせる。

　そちらに視線を向けると、陸上部の部長の姿があった。こちらに向かって、大きく手を振っている。

「先輩だ！ 私、ちょっと行ってくるね！」

　なんて素敵な笑顔なのだろう。感動すら覚える智樹に対して「行ってくる」と言ったはずの裕子が、逆に顔を近づけてくる。

「大丈夫？ 私、汗臭くない？」

「へへっ。安心しなよ、裕子ちゃん」

　敢えて鼻で笑うような口調で返すけれど、智樹は内心、ドキッとしていた。汗臭いどころか、むしろ心地よい甘い香りだと感じてしまったのだ。

　これが女性のフェロモンというものに違いない。そんなことを智樹が考える間に、裕子は走り去っていた。

「裕子、行っちゃったね。いいのかい？」

　まるで彼女が立ち去るのを待っていたかのように、入れ違いで智樹のところに、クラスメイトの琴美（ことみ）が駆け寄ってきた。艶々（つやつや）とした長い黒髪と、健康的に日焼けした肌が特徴的な少女だ。

　クラス対抗リレーの走者の一人であり、彼の前走を担当して「頼んだよ、智樹！」と言いながらバトンを手渡したのが、この琴美だった。

「当たり前さ。僕が裕子ちゃんを引き止めておくわけにはいかない。クラスだって違うんだからね」

「でも裕子を呼んだのは、彼女のクラスの生徒じゃないだろ。陸上部の部長だよ？」

　わざとらしい笑みを浮かべて、琴美は、裕子たちの方を指さした。

　グラウンドの片隅で、裕子と部長が仲睦まじく語り合っている姿だ。彼女の幸せそうな表情が、智樹の場所からでもはっきりと見えていた。

「やめろよ。琴美だって知ってるくせに」

　裕子ほど長い付き合いではないが、琴美も智樹にとって幼馴染だ。

　初めてクラスが一緒になったのは、小学3年生だっただろうか。小学校時代はあまり親しくなかったけれど、中学では一緒の陸上部だったため、裕子と同じく『仲間』という意識だった。

　高校の部活に関しても裕子同様であり、琴美は陸上部を続けており……。

「あれあれ？ 部外者なのに、もう智樹も知ってるのかい？ 夏休みに裕子が部長と交際し始めた、ってこと」

　智樹は黙って頷く。唇を固く閉ざして真面目な表情を作り、気持ちを顔に出さないつもりだったが、琴美には通用しなかった。

「残念だったねえ、智樹。こうなる前に、なんで智樹の気持ち、打ち明けなかったんだい？ いっそのこと、今からでも……」

「今さら言っても仕方ないだろ。裕子に恋人ができた以上、僕の気持ちは、もう誰にも言えない秘密の恋心なのさ」

　少しイラッとしたけれど、智樹は敢えて冗談口調で返す。

　今度は彼の内心に気づかないのか、まるで智樹を煽るみたいに、琴美は続けてしまう。

「そうは言うけど、もしも智樹が先に告白していたら……」

「無神経なこと言うな、琴美」

　智樹は厳しい声で言い放つ。自分で思った以上に、激しい勢いだった。

　さすがに琴美も、悪びれた顔で肩をすくめる。

「すまなかったね、智樹。でもさ、あたしは少し悔しいんだよ。智樹の気持ち、あんなにわかりやすかったじゃないか。それなのに、肝心の裕子には伝わらなかったんだから……」

　琴美の口調には、悲しみの色さえ浮かんでいた。

「……ああ見えて、裕子って鈍感なんだねえ」

「いいんだよ、裕子はあれで。少しくらい鈍感な方が、女の子は可愛いのさ」

「あーあ。リレーのバトンを渡すみたいに、恋心も簡単に伝えられたらいいのにね」

　それまで智樹は恋愛の話題を持ち出されて動揺していたが、この琴美の言葉で、ふと冷静になる。

　考えさせられてしまったのだ。

　琴美だって陸上部のくせに、リレーのバトンの受け渡しを『簡単』と言い切るなんて、どうかしている。いや、走りの素人ではないからこそ、十分に練習を重ねているからこそ、『簡単』と言えるのだろうか。

　そもそも、リレーのバトンに例えること自体、おかしいではないか。僕と裕子はクラスが異なり、二人の間に、バトンのやり取りはなかったのだから……。

「おーい、智樹！」

　他のクラスメイトが近寄ってきたので、智樹は考えるのをやめた。

　その場に男子生徒の輪が出来始めるのを察して、琴美は離れていく。

「じゃあ、またね」

「ああ、お前も頑張れよ」

　彼女の背中にそう声をかけながら、何に対する『頑張れ』なのか、智樹は自分でもわからず、少し戸惑うのだった。

「鈍感なくらいが可愛い、か。あたしも、それは同意するよ」

　智樹がクラスの男子に囲まれる様子を眺めながら、琴美は独り言を口にする。

　その顔には、哀愁を帯びた苦笑いが浮かんでいた。

「智樹も十分、鈍感なんだぞ。あたしの気持ちに、全く気づいてないんだから……。あたしの方こそ『誰にも言えない秘密の恋心』だよ……」

（「リレーのバトンを渡すみたいに」完）