榊原康政の落涙

 関ヶ原の争乱から五ヶ月余りが経った慶長六(1601)年四月一日。大坂城にて、秀頼成人の儀が執り行われようとしていた。







「よう育ったのう秀頼、わらわは嬉しいぞ」


 淀殿は秀頼の晴れ姿に感動の涙を流していた。


「秀頼君の健やかなる成長ぶり、太閤殿下もさぞお喜びにございましょう」

「太閤殿下にも見せたかったのう、この秀頼の晴れ姿を……」

「大丈夫です、父は天より私を見守ってくれていますから」


 家康の賛辞に続く様に淀殿が秀吉を思う発言をし、秀頼が天下人の後継者にふさわしき堂々たる言葉を述べる。型通りの図式であった。


「それではこれより加冠の儀を……」

「おおそうであった、頼むぞ連署よ」

「はっ」


 そしてこれまた型通りに、しかし連署と言う耳慣れない役職の男が烏帽子を秀頼の頭に被せようとしていた。


「秀頼様、これより加冠の儀を執り行います」

「秀頼よ、この清正がそなたの烏帽子親じゃ」

「はい、これから大事に致します」


 その連署こと加藤清正が秀頼の頭に烏帽子をかぶせた事により、加冠の儀はつつがなく終わったのである。




※※※※※※※※※




「執権?」


 昨年、家康から執権なる名を聞かされた淀殿は戸惑った。


「五大老や五奉行では足らぬと申すか」

「はい、五大老も五奉行もみな豊臣家の忠臣たちである事は確かでございます。しかし彼らは豊臣家の親族ではございません」

「だから豊臣家の親族に役職を与えよと申すのか」

「さようにございます、さすれば豊臣家は安泰にございましょう」

「なるほど、されど執権と言う名は正直いささか古びすぎてはおるまいか?」


 淀殿も執権という役職があった事、それが鎌倉幕府の事実上の最高職であった事は知っている。

 しかし、鎌倉幕府と言う四百年以上も前の政権が使っていた名に今日日どれだけの重みがあるのか、淀殿には正直わからなかった。


「平氏政権は朝廷の官職に依存した政権、征夷大将軍は朝廷より任じられた官職。それに対し執権は幕府自らが朝廷に広めた名前でございます」


 北条時政が鎌倉幕府の初代執権に就任したのは建仁三(1203)年である。


 それ以前から朝廷にも執権という職名はあったが、その名が常用されるようになったのは御嵯峨天皇の時代、つまり時政が執権となって四十年以上も後であった。


「なればこそ、武家の政権にふさわしいと申すのか」

「そうでございます」

「なるほど……それで誰がふさわしいと考えておるのじゃ?」

「いえ、当分は空席にしていただきたく思います」

「なぜじゃ!?自分から提案しておいて適任者がおらぬとはどういうことじゃ!?」

「本来は小早川中納言卿こそふさわしいと考えておりますが……」


 一瞬吠えた淀殿だったが、秀秋の名が出てハッと気が付いたような表情になった。

 確かに豊臣家の親族で現在一番力を持っているのは秀秋だが、彼には秀頼が十七歳になるまで関白をやってもらわなければならない。


「とりあえずは加藤主計頭を連署、つまり執権の補佐役にお任じくだされば幸いかと」

「連署か……よかろう、それで頼むぞ」


 とりあえず秀吉のまたいとこである清正を連署として任ずる事により、豊臣家の権威を強化できる。そう了解した淀殿は、家康の提案を全面的に受け入れた。




※※※※※※※※※




「強引で一方的な申し出だが、どうか聞く耳を持っていただきたい」

「結構です。それでこの国と豊臣家が安泰になるのであれば喜んで引き受けましょう」


 清正は執権・連署職の創設と初代連署への就任と言う家康の無理難題を、躊躇う事無く引き受けた。



 九州で東軍方の旗を振っていた清正も、この余りにも不毛な戦いを見せられて戦その物に飽き果てていたのである。


 家康はその無理難題を押し付けた責任からか豊臣家の権力を高めるためか、清正に大坂城に近接した紀州で四十万石を与えた。



 小早川秀秋、いや豊臣秀秋の扱いは正直難しかった。八年間の代理とは言え、これから関白の地位に付く事になる人物である。


 八年後に秀頼に関白の座を譲ったとして、まだ秀秋は二十八歳である。


 むしろこれからとも言うべき若年で太閤となって隠居人になれようはずもない。そんな秀秋の処遇として、執権と言う歴史ある職名が必要である事を家康は感じ取っていた。




「連署は五大老の合議により行われた命令を関白及び執権に上奏し、執権は関白の命に対し承認或いは諫言し五大老及び連署に伝える」


 職務としてはそう言う名目になっていたが、その二つの役職が作られた本当の狙いは明らかだった。













 この天下分け目のはずだった戦の勝者は、一体誰なのだろうか。













 当初の目的通り豊臣家を守る事に成功した西軍だろうか。

 いや三成の死は仕方がないとしても、三成の希求であったはずの福島正則らとの豊臣軍再結成はついぞ叶わなかった。

 結局、三成の目的は果たし切れたとは言えない結果であると言わざるを得ない。


 では大坂城に入城し豊臣家の意向をまるで顧みることなく思うがままに諸侯の領土と人事を動かせた家康が勝者であろうか。

 いやその思うがままを為した結果どうなったか。徳川は天下人どころか五大老ですらなくなり、豊臣家と自分に反抗していたはずの西軍系勢力がますます力を強めただけである。

 これからただの平大名になった徳川家に待つであろう道程は、とても勝者のそれではない辛く険しい物となるであろう。


 なら秀吉逝去以前よりその権威と経済力を高めた豊臣家であろうか。それもちがうであろう。


 豊臣家がこの大乱に関わっていたであろうか。大体が日の本の天下人たる豊臣家が日の本の戦乱を見過ごす時点で職務怠慢であり、天下人足る資格が問われる話である。

 その豊臣家を、この戦乱の勝者と呼ぶことはどうにも無理な相談である。







 結局の所、この戦乱の勝利者は家康に付き従い続けた池田・浅野・藤堂らわずかな諸侯だけであろう。







 日の本を二つに分けた戦役の勝者としては、量も質も余りにも貧相であった。







 この余りにも空しい戦を見せられた人間が、果たして戦をしたいと思うだろうか。

 あれだけの人命と大金、そして米や馬などあらゆる物を注ぎ込んだ戦がこんな結末を迎えてなお、戦をする気が起きる者がいると言うのだろうか。




(これで良いのだ……)




 家康はそう思っていた。




 応仁の乱から百三十四年、民は戦に飽き果てていた。それでも戦をする気満々であった大名たちから、戦をする気を奪う事ができてよかったと。


 ちなみにこの時、家康には何の役目もなかった。単に、内大臣を辞任する旨朝廷に奏上した際に淀殿から加冠の儀に参加してもらいたいと頼まれただけである。




 戦を知らない秀頼、二度の落城を経験し二人の父と一人の母を失い戦を憎んでいる淀殿、豊臣家に逆らう事など考えられなくなった秀秋、多くの仲間を失いながら何もならなかった戦いを見る羽目になった清正。

 そして一度忠義を誓った相手に義を欠く事の出来ぬ上杉、豊臣家の繁栄と存続を強く望んでいる宇喜多と石田、政権の安定こそ領国と領民の安寧と信じてやまぬ島津、そして秀吉の盟友であった利家が興した前田。彼らとその志を継ぐ者が政権の中枢にいる限り、豊臣家と平和を脅かす者は二度と現れまい。

 家康は今、安堵の気持ちに包まれていた。




















「大殿様……」


 この時、秀忠のお供として榊原康政が大坂城に来ていた。


 家康の顔には殺気がまるでない、正しく好々爺の表情であった。


(世の安定と平和……何よりそれを願っていた大殿様……)


 本来ならば、徳川の手でそれを成したかったはずだ。しかしそれが不可能だと悟った家康は、現在の天下人である豊臣家を頂点としての平和を築かんと決めた。

 その結果、自らの栄光も繁栄も投げ出して、こんな行為に及んだのである。

(我らがほんの少しでも大殿様の、いや佐州の心をわかっていれば……)

 康政が溜まらず家康から視線をそらすと、そこには五奉行が座を並べていた。




 そして他の四名が整然としている中、正信だけがやりきれないと言わんばかりの表情をしていた。おそらく、まるで邪気のない家康の表情を目の当たりにしてああなぜこうなったのだと思っているのだろう。




 この時、康政と正信の思案は一致していたのだ。




「どうしたのだ?泣いておるのか?」

「いっ、いえ…秀頼君のご立派なお姿に…」


 そして本人すら気づかぬうちに、康政は目から液体をこぼしていた。


 果たしてこの涙が何なのか、康政本人にもわからなかった。家康への謝罪か、正信への謝罪か、自らの失態に対する悔恨の涙なのか、あるいは本当に秀頼の成長を祝しての嬉し涙だったのか。




 だがしかし、康政の涙が百年以上続いた乱世を締めくくると同時に、これから始まる治世を告げる使者であると言う事、ただ一つそれだけは確かだった。




 多くの罪なき人間たちの命を奪い、多くの人間を泣かせてきた乱世は、最後に天下に名高き猛将・榊原康政を泣かせてこの国を去ったのである。

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颱風関ヶ原~石田三成、関ヶ原に吹き荒れる~ @wizard-T

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