彼女の庭
ぬえべ
本編
閑静な住宅街の中に彼女はいる。
淡いカフェオレ色の小さな戸建てにいる。
温かな日差しが射し込む午後3時、彼女は決まってその家の庭にいる。
そして、彼女は庭の手入れをする。
彼女の庭には一つ横に広がる、とても大きな長方形の花壇がある。
そこに私はいる。
私は去年の冬に花壇に埋められ、冬の身にしみる風と、雨粒と、霜の寒さを乗り越えた。そして、幾日か分からない時が経つと、冬風は東風となり、春を運んできた。春の温度は私の全身を包んでいた。
その間に私は姿を変えた。
今日は休日だろうか。隣の家から塀越しに子供たちが駆け回る音と、父親の笑い声が聞こえる。昼下がりの今、彼女の元には客が訪れていた。
「お呼び頂きありがとう。久々のお茶会だからとても楽しみだったの。」
少し気取った喋り方をするこの女は、夫の姉であった。
彼女には夫がいる。
夫は去年の12月2日から行方不明になっている。
12月2日の午後、遅く起きた彼女の枕元には夫からの手紙があったそうだ。その手紙には夫の自殺を仄めかすような内容が記されていたらしい。
彼女のおどろおどろしい泣き声はベランダの窓越しからも聞こえ、実に悲愴的で他人の同情を誘っていた。
だが時も経ち、彼女は徐々に平生を装うようになった。今では人をもてなす程の気力もあるようで、彼女は私がいる庭に繋がるウッドデッキに客を招いたのだろう。紅茶の匂いと彼女お手製のスコーンの匂いが庭中に広がっていた。
お茶会は始まり、慎ましく小さな笑い声をあげる彼女と、ハキハキとした客の話し声により二重奏が進んでいた。
「あら、今年もキレイに咲いているわね。あの花は何かしら。」
世間話も終わる頃、客は私がいる花壇に興味を示したようだった。
「それはムスカリというお花です。」
「まあ、キレイな瑠璃色ね。はっきりとした鮮やかな色。ツヤツヤしてて生きてるって感じだわ。」
「お義姉さんのお気に召して良かった。そうだ、まだ種が残ってますし、育ててみたらどうですか?」
彼女に意外な事を言われたのか、客は大きな笑い声をあげた。
「いいえ、無理よ、私には無理。私植物を育てるのがとっても苦手なの。サボテンだって枯らしちゃうんだから。それに虫も苦手。見ただけで倒れちゃうかも。ウフフ、咲いている花を眺めるのは好きだけど、近くで見たり、自分で面倒を見たりするのは到底できないわ。」
拒む理由を羅列する客には植物を育てる才がないのだろう。それに客の苦手な虫、例えばミミズ達は今、私の足の方で土をむしゃむしゃと食べている。
彼らは土の中を蠢き、栄養を貪り、生きて、死んで、栄養となる。
彼らが私の姿を変えさせたのだ。
こんなのを見たこの客はきっと、その場で卒倒してしまうだろう。だが、彼女はそんな虫達もお構いなしで私のもと、土に触れる事ができる。
私には純情で、言ってしまえば、弱々しい彼女がそのようにできるのが意外であった。
スコーンの匂いが完全に消え去った頃合いに、客は改まった口調で彼女に話し出した。
「でも良かったわ。貴方、弟がどこかに行ってからとっても気分が悪そうだったもの。ここにお邪魔する度、ドンドン顔色が悪くなってるように思えたから。もう、ホントに真っ青。ウフフ、失礼かもしれないけど、あのムスカリみたいだったわ。」
客は笑いを堪えずにいた。少々不謹慎な例えが客にはツボに入ったようで、拍子の取れない笑い声が続いた。その間、彼女は何も言わずにいた。客は何とか落ち着きを取り戻すと、また話を続けた。
「それに、貴方の趣味のお庭いじりもできていなかったし。貴方の心みたいにお庭も寂しくて、嗚呼、このお庭は貴方の心なのね、って私悟ってたわ。
弟が消えて空っぽになっちゃったんだ、って。
でも、今は貴方の顔色も良いし、またお庭に花も咲いている。それでいいのよ。弟の事は弟にしか分からないんだから。元からちょっと変わってたし。」
珍しく寄り添うような声をあげ、喋り続ける客とは対照的に彼女は依然、沈黙を抱いていた。そして、コトリと音を立てながらカップを置くと、言葉をひと粒ひと粒拾うように話しだした。
「夫の失踪後、お義姉さんの言う通り、とてもヒドい感情に沈んでいました。もう庭なんかには手もつけられなくて‥。不安で不安で、夫の事しか考えられませんでした。
でも、春になったらこうやってムスカリが咲いたんです。ムスカリって丈夫な品種ですけど、去年の内に種を蒔いただけで、こんなにもキレイに咲いてくれて。
私、この花を見ていたら、私を励ましてくれているように思えて。確かに夫の事は分からない、でも、それでも私自身こうしてちゃいけない、って。
こうやって今日、お義姉さんをご招待したのは、私だけで進むための一歩なんです。」
彼女の語りは哀切に満ちながらも、穏やかな希望へ新たに進み出す事がひしひしと伝わるものだった。
私の中の柔和な彼女そのものであった。
彼女の語りに感銘を受けていたのか、客は一時言葉を忘れていた。そして、思い出したかのように笑い声を溢した。
「ウフフ、そうだったのね。貴方にとって希望のお花なのね、ムスカリって。もしかしたら、弟が悲しむ貴方を励ましてくれたのかも。
そのお話を聞くと、お花がもっと、より美しく見えるわ。ホントによく咲いている。」
「そうだ、お義姉さん、お花何輪か包みましょうか?せっかく気に入って頂けたのだし、お義姉さんに愛でて頂けたら私も嬉しいです。」
「あら、そう?それなら貴方の幸運、私も頂いちゃおうかしら。」
「ええ、勿論です。元々お渡ししたいと思ってました。お義姉さんはこちらに座っていて。私がいくつか摘んできますから。」
そう言った彼女は機嫌の良い音を立てながら、ウッドデッキの階段を下りた。私がいる花壇を前にしゃがみこみ、スコップでできるだけ、何ものも傷つけないように優しく穿る。
こんなに彼女を感じるのはいつぶりだろう。
私は眩しさを覚えた。
それは例えではなく、実際、私が彼女のスコップによって掘り起こされていたからであった。
そして、彼女の瞳は私を捉えた。
私を見た彼女の表情は一瞬にして変わった。
そして、彼女は小さく呟く。
「え、ヤダ、まだコレも残ってるの。」
彼女はとても嫌そうな顔で、スコップの上に乗る私の身体の残骸を見る。
それは、土中の中で腐敗し、崩れかけた私の眼球である。私の眼球は、私とお揃いの指輪が彼女の左手薬指から消えている事を映した。
彼女はジッと私を見つめた後、浅いため息をついた。そして、慌てた様子を見せずに、丁寧に私の眼球をまた深い土の中に埋め込む。
戻された私の眼球の上を、ミミズがさも当たり前のように這いずり回る。
12月2日午前2時に私を殺し、この庭の大きな花壇に埋めた彼女、私の妻は、私によって育った花達より相変わらず美しく、可憐であった。
彼女の庭 ぬえべ @oishiine29
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