いつもの図書室で
いつもの図書室で 1/1
井上が、本橋を誘ったってよ。
噂が独り歩きしていた。斉藤は掌が汗ばむのを感じながら、サッカー部のたむろす昇降口をすり抜けて、図書室へと向かった。
井上はこの明栄西高校に入学してすぐ男子バスケ部のレギュラーになった。今では不動のエースの座を確固たるものにしている。高身長で、黒髪の童顔。文武両道を地で行きながら、性格は明るく誰からも好かれた。少年漫画の主人公みたいだ、と斉藤は思っていた。
図書室の扉を開けると、いつもの席に本橋が座っているのが見えた。斉藤は掌の汗をシャツにごしごしとこすり、真顔を作りながら返却カウンターへ向かった。借りていた本は二冊だけだったが、わざともたもた時間をかけてかばんを漁った。
「あ、斉藤」本橋が声をかけたが、斉藤は気づかないふりでまだ読み終えていないミステリ小説を取り出し、カウンターに置いた。「斉藤ってば」
「あ、本橋さんか。気づかなかった」
振り返った斉藤は、今のはちょっとわざとらしかったかなと思い一瞬後悔した。
「何借りてたの?」
本橋が手元を覗き込んでくる。近視なのだ。柔軟剤の香りがふわっと漂い、斉藤は体温が上がるのを感じた。
「森博嗣の『すべてがFになる』と、綾辻行人の『どんどん橋、落ちた』」
「ふーん……名前は聞いたことがあるような気がする。面白かった?」
カウンターの図書委員が何も言わずに、手元の貸し出しカードに何やら記入している。
「まあまあかな」まだ読んでいなかったので、適当にお茶を濁した。「あの、本橋さんはここで何を?」
「この間のテスト、赤点で。補習になっちゃってさ。だから勉強してた」
「ああ、うん、そうなんだ」
そうなんだ、と言った斉藤だったが、本橋が補習になったことも、今日図書室で勉強するつもりだったことも知っていた。本橋に関することは、大体知っていた。学食ではいつもエビフライ定食を選ぶこと、飼っている犬の名前はハナちゃんであること、先週髪を切ったがあまり気に入っていないこと。
「面倒くさいよねー。あと3点で補習免れたのになー。まあ斉藤は頭いいから関係ないけどさー」
本橋が大袈裟に頭を抱えた。半袖のシャツから覗いた二の腕の白さに斉藤はたじろぎ、鼻を指でこすりながら視線を明後日の方へ向けた。
井上と本橋はデキているらしい。斉藤は本橋のことは大体知っていたが、その真偽については知らなかった。しかし、少なくともお似合いだと思っていた。なんせ美男美女である。本橋はファッション誌の読者モデルをたまにやっていて、紙面ではふだんの天真爛漫な姿からは想像もできないくらい、すました顔をしていた。斉藤は一度その雑誌を買ったことがある。自分の知らない本橋を目の当たりにし、複雑な気持ちになった。そしてすぐに捨ててしまった。
「あの、そういえば、本橋さん、髪切ったね」本橋の方にちらりと目線を向け、すぐに興味のない図鑑の背表紙へと戻した。「似合ってると思う」
「え、本当? 変じゃない?」
「うん……いいと思うけど」
「そう? 斉藤が言うならそうかー。よかったー」本橋の華奢な指が、自らの前髪をぴょんぴょんと触った。「切りすぎちゃったかなと思ってた」
自然に言えたはずだ、と斉藤は少し安堵した。実際本橋の髪型は本人が言うほど変ではなく、むしろとてもいいと思っていた。それを伝えたかったが、斉藤と本橋は教室内で会話することはほとんどなかった。
「あの、そういえば」
「なんだよ。もっと髪型褒めてもいいんだぞ。もう別の話かよー」
本橋は行儀悪く机に座り、長い脚を組んだ。スカートから覗く太ももから、斉藤は目をそらした。
「文化祭、井上から誘われたらしいね」
声が上擦っていないか、気にする余裕は斉藤にはなかった。そして、やっぱり声は上擦っていた。
文化祭を男女で巡るというのは、要するに校内の公認カップルだとお墨付きをもらってまわるようなものなのだ。
「うわ。斉藤の耳にも入ってんの、それ。みんなに言われるんだけど」
「え、違うの?」
「いや、違わないんだけどさ……うん。誘われた」斉藤が下唇をぎゅっと噛みしめたことに本橋は気づかない。「でも、わたしと井上が付き合ってるとかいう話になってるのは、まじで意味わかんない。まったくのデマだから」
「……そうなんだ」
「そうだよー。なんでそんな話になったのか、さっぱり。仲はいいと思うけど。男として好きとかじゃないし、むしろわたし、ああいう爽やか王子系より、ワイルド系のが好きだしなー」
「ワイルドか」
少し俯いて、斉藤は右腕に力を入れた。逆の手で、力を入れた二の腕を触ってみる。ぜんぜんワイルドではなかった。
「なに、斉藤、もしかして気になる?」
本橋が腰をぐっとかがめて、斉藤の顔を覗き込んだ。
「……本橋さん、近い。距離感バグってる」
「目悪いんだから、仕方ないじゃん」本橋の指が、斉藤の頬に触れた。「斉藤って、ほんと肌綺麗だよねー。色白いし。羨ましい」
本橋の茶色がかった瞳はまっすぐに斉藤を捉えていた。斉藤は変な汗をかいていて、目線を上げることができない。
「……別に、そんなことないよ」
「そうかー? 井上も、斉藤みたいな子意外と好きかもよー」
本橋が屈託なく笑った。斉藤は、自分のスカートに、また掌の汗をごしごしとこすった。
おとなりさん(仮題) 吉沢春 @ggssssmm
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