オレンジルームの伝令

オレンジルームの伝令 1/1

 顔からパックを剥がし、捨てた。ベッドに腰掛けて手帳を開く。天井の蛍光灯は消えていて、枕元のスタンドライトのほのかな光だけが手元を照らしている。

 時間に余裕はありそうだ。うまくいけば、しばらくは働かなくても済む。わたしは明日やるべきことを二三書き込んだ。汚い字だった。手帳を閉じ、バッグに放り込む。スタンドライトは点けたままベッドに潜り込んだ。


 コール音で目を覚ました。電話に出るよりも先に、時間を確認する。まだ日の出前だ。カーテン越しの窓の外は真っ暗だった。起きる時間ではない。


「はい。え? もう一度お願いします。オレンジルームから人が来る?」まるでエンジンのかからない脳みそを、必死に動かそうとする。「いつですか? え、今日ですか? そんな、いくらなんでも急な」

 電話は切れていた。要件だけ告げられ、疑問は許されなかった。


 オレンジルームが動くならば、予定はすべて御破算である。理解はできたが、実感が湧かなかった。わたしはベランダに出て、セブンスターに火を点ける。煙が目にしみた。

 新宿方面で花火が上がるのが見えた。さっきの話はどうやら本当らしい。疑ってはいなかったけれど。あるいは冗談であるならば、そのほうがよかった。


 再び電話が鳴った。

「はい。ええ。わかっています。でも、本当にわたしなんですか? あ、いや、はい。大丈夫です。ええ。ええ。はい」

 電話は切れていた。せっかちで無駄を嫌うオレンジルーム。わたしはまだ長いセブンスターを、灰皿代わりの空き缶に押し込んだ。


 部屋に引き上げ、蛍光灯を点ける。お湯を沸かし、マグカップにインスタントのコーヒーをいれる。こんなことをしている場合ではないのだが、朝は決まった通りに動かないと気持ちが悪いのだ。

 パジャマを脱ぎ、スーツに着替えた。スカートよりもパンツのほうがいいだろう。時計はどこに置いてあったっけ。腕時計をする習慣がないのだ。しかし今日ばかりはそうもいかない。タンスの引き出しを泥棒さながら順に開けていくと、果たして時計は見つかった。クォーツの電池が切れていた。思わず舌打ちが出る。

 空腹を覚えたが、さすがにトーストが焼けるのは待てない。バッグの中身をすべてひっくり返し、手帳を探す。赤い革のカバーのそれはどこにもなかった。予想通りだ。あるわけがない。

 

 マグカップを右手に、再び窓の外を見た。夜が明けようとしていた。花火はもう上がらなかった。せっかちなオレンジルーム。メイクをする時間がなかったが、わたしは自分の顔がそれを大して必要としないことを知っている。

 電話が鳴った。

「はい。今から家を出ます。ええ。なるべく早くそちらへ。ええ。はい。視力は問題ありません。ええ。ええ。はい」

 スタンドライトが点いていないのを見て、わたしはたぶんもうここへは帰ってこないのだろう、とぼんやり思った。

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