おとなりさん
おとなりさん 1/1
テレビをつけると、ニュース番組が映った。殺人事件についてらしい。現場はここからそう離れていない。
気が滅入り、テレビを消した。嫌なニュースが多すぎる。俺は東京の喧騒を離れ、平穏を求め、田舎にやってきたのだった。
山と海以外はほとんど何もないこの町を、俺は気に入った。心が洗われるとはこういうことを言うのかと思った。東京ではプログラマーとして収入を得ていたが、その気になればオンラインで仕事のすべてをまかなうことも可能で、そうであればわざわざ人とストレスに揉まれる都会で暮らす必要などなかった。
もしも食いっぱぐれるようなことがあれば、その時は畑でも耕したらいい。
引っ越してきた初日の夜は、荷解きもそこそこに俺は布団に潜り込んだ。いつ振りかわからないくらいぐっすりと眠れたのを覚えている。
「作りすぎちゃったので、どうぞ」
俺の部屋の玄関口に立ち、まだ温かそうな鍋を差し出してくる女性は、隣の部屋に住む佐竹だと名乗った。俺は近所に挨拶まわりすらしていないし、そもそもするつもりもなかった。
佐竹さんは肉じゃがの入った鍋を持ったままにっこりと笑っている。年齢は三十代後半と言ったところか。これといって特徴のない顔だ。手がやけに骨ばっていることだけ印象的だった。
「はあ、じゃあ、ありがたくいただきます」
「一人暮らしなんでしょう? 外食ばかりしていたら栄養偏っちゃうし。鍋を返すのはいつでも大丈夫だから、お気遣いなくね。ドアの前にでも置いておいて」
最後まで笑みを絶やすことなく、佐竹さんは帰っていった。
おすそわけなんて現代の都会ではおよそ考えられないことだが、この町では普通のことなのだろうか。
悩んだ末に肉じゃがを食べた。やや薄味だったが、俺好みの味だった。
家にいてひとりで仕事をしていると、どうしても生活リズムが不規則になる。パソコンに向かって作業をするうちに、いつの間にか夜中になっていたりする。
これでは東京にいた頃とさして変わらない。明るいうちに活動し、健康的な一日を過ごし、日付をまたがないうちに眠ることを心がけようと思った。
その気になればできるものである。
いつも納期に追われていたのが嘘のようだ。夕方には仕事を片付け、俺はテレビをつけた。またこの近くでの殺人事件のニュースだ。ため息が思わず漏れ、すぐに違うチャンネルに変えた。日本人がメジャーリーグで活躍しているという。スポーツニュースでも観ながら、晩酌するか。
缶ビールを取りに立ち上がったとき、インターホンが鳴った。
「佐竹です。作りすぎちゃったので持ってきました」
先日と全く同じ服装と笑顔で鍋を抱えた佐竹さんが立っていた。俺は相手を確認せずにドアを開けたことを後悔した。
「そんな、悪いですよ」
できる限り笑顔で言おうとしたが、頬が強張ってぎこちなくなったのが自分でもわかった。
「遠慮なんてしないで。余っても捨てちゃうだけなんだから」
鍋からは肉じゃがが覗いている。
「いや、でも今、もうご飯食べちゃったんですよ」
俺は無意識に嘘をついていた。
「嘘だ」瞬時に佐竹さんの笑顔が消えた。「まだ夕飯には早いし、それに、なんのにおいもしないじゃない」
「あの……えっと、外で食べて来たんですよ。さっき」
「嘘だ。あなたは今日家を出ていない」
強い語気で断言された。実際その通りだった。真顔の佐竹さんは五歳ほど老けて見えた。骨ばった手にくっきりと血管が浮かんでいる。
無言の時間がやけに長く感じられた。佐竹さんの三白眼気味の目は、まっすぐに俺を射抜いていた。圧力に耐えきれず、俺は視線を足元に向けた。佐竹さんは裸足だった。もう、ほとんど限界だった。
「いやあ、そうだったっけなあ、ぼんやりしてて……じゃあ今日も、ありがたく……」などと曖昧な言葉を並べながら、鍋を受け取らざるを得なかった。背中に嫌な汗が流れていた。
「ごめんなさいね、怖い顔しちゃって。遠慮なんてしなくていいのよ」
元の笑顔に戻った佐竹さんが帰っていった。
都会とはまた違った形で、この町にも人付き合いのストレスがあるのか。俺は平穏を求めてやってきたというのに。
でも、まあ、二人殺したら、三人でも一緒か。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます