他人事じゃない 昔の京都にいるわたし

樹 亜希 (いつき あき)

信じられない!! けど、ほんとなんだ。

 夏の終わりのある日、しつこい暑さは毎年のこと、私はローズピンクに染めあげた髪を三つ編みにしながら、昼間の木屋町通りを黒い五センチヒールの靴を履いて歩道を走っていた。

 コットン・キャンディの開店時間は昼の一時から。

 午前中に弟の為にお弁当を作っていたら時間がなくなってしまった。

「ああ、もう間に合わないかも知れないわ」

 箕輪麻衣、メイド喫茶での名前はミワ。

 名字がみのわなのでみんなからみわちゃんと呼ばれていたので、メイドの時の名前はミワにした。すっかり板についたメイドの仕事も一年が過ぎようとしている。

 弟は高校でラグビー部に入っていて、最後の大会にすべてを掛けていた。姉としては弟の為にできることは、洗濯とお弁当と作ることくらいしかない。

 母が病気でこの世を去ってからもう五年が過ぎた。

 父は単身赴任で、家の中には弟と私の二人だけ、もう慣れたつもりでも大学生活とアルバイト・家事の三役は結構辛いものだ。

 メイド喫茶は友人のモモちゃん、北山萠々香が誘ってくれた。

 元々癒やし系とか、そういうことには興味がなかったし、オタク系の男の人とふれあうこともどちらかと言うと、嫌悪感が先立った。

 しかし、父は生活費を振り込んでくれるが、母のいない心を埋めるには何か打ち込むことがあった方がいいと思ったので、人とふれあうこのメイド喫茶を選んだ。

 女性のお客さま、もとい、ご主人様たちも多くて、京都という土地柄もあり、修学旅行の学生さんたちと仲良くして、時間を過ごすことは悪いことではなかった。



「ふう、暑いな。いつまで……」

 思わず声に出した麻衣だったが、歩道の信号が青に変わると道路脇に止められた駐車車両から一歩踏み出すと、どこからか危ない!! という叫び声が聞こえた。

 誰だろう? どこかで……。と麻衣が思った時には左から信号を無視してきた白いバンに、からだをもって行かれた。麻衣の細い姿が宙を舞う。

「私、悪くないよね……」

 痛みも苦しみも何も感じない。けれど、どんどん薄れていく意識。麻衣はここで自分が死を迎えることなど全く予想などしていない。

 すべての感覚が奪われる、声を出すこともできないし自分の意思など体には伝達されない。これが死というものなの? 麻衣は全く無になった。


 きっと夢だ。

 私はこんなところで死んだりしないし、今日も元気にコットン・キャンディでメイド仲間とご主人様たちと会話や写真の撮影をしているはずだ。カフェ・アートだって練習してずいぶん上達したのに。

 麻衣はいつしか、同僚のモモちゃんが店の外でチラシを配りお客様を探していた。私も一緒に、早く制服に着替えなければと急ぐ気持ちはあってそれは叶わない。

 手を伸ばそうと頭では思うが胸が苦しくて声も出せない。

 流れる川を逆光の光が差す方へと自分の体は上空へと引き寄せられる。

 光ある方へ。みんな、私はここでさようならなのねと麻衣は弱く感じる。


「おぬし、まだ目を覚まさぬのか?」ほころびのある布団の上に寝かされている麻衣の横顔に向かって声を掛ける。

「総司、もう構うな。しばしそのままにしておけ」

 長い黒髪を高い位置に結んだ細面の男性は膝を立てて立ち上がった。長い剣を持って右脇に差し込んだ。どうやら気になってしょうがない様子だった。麻衣のことを担いでここまで運んで来たのだから。

 蒼いダンダラ染めの隊服を翻して先に部屋の外へ出た。

 男の名は土方歳三、強面の厳つい顔をして廊下を急ぐ。米を運ぶ荷台に危うく曳かれそうになった麻衣麻衣をとっさに駆けだし引きずり出したのが近藤隊長。三人は京都の街を歩いている時に、麻衣を含む事故に遭遇した。

 小さくうなずいて沖田総司は土方について、先を急いだ。一瞬だけ振り返ると心配そうな顔をした。その視線のさきには麻衣が寝かされていた。


 1860年代の京都、いわゆる幕末の世界に何の因果か麻衣は車にはねられたあと、タイムスリップしてしまった麻衣は混濁する意識の中をさまよっていた。


 麻衣が消えた現代の京都は白いバンの運転手と事故を目撃したバーに酒を配達する男性により救急車が呼ばれていて、そこには意識不明の麻衣がいた。

 病院の集中治療室に運ばれて、手術をされた麻衣は眠り続ける。頭部に受けたけがにより頭蓋骨陥没出血を起こしていた。弟の義朗は何も知らずにラグビーの試合をしていたが、後で姉の事故を聞くと病院に駆けつけて唖然として立ち尽くしていた。優勝杯をただ見せたかった。ナンバーエイトの義朗は東京の大学からスカウトされていたことを内緒にしていた。優勝が決まったら一番に姉の麻衣に言うつもりだったのに。

「だから、メイド喫茶のバイトなんか行くなって言ったじゃないか……」

 義朗は一人、立ち尽くしていた。単身赴任中の父は飛行機のチケットがとれたらすぐに駆けつけるだろう。

 美しい赤く染めた長い髪は切られてしまったのだろうか、白い包帯のなかか

赤黒く鼻から右半分の顔が腫れ上がっている。もう二度と目を開けないような気がしていた。義朗は心の中で叫んだ、

「姉さん、起きてくれよ」



義朗!

麻衣は叫んで目を覚ました。


 目を覚ます気配、少しだけ麻衣は手の指を握った。動く、私は生きているのか、据えたような畳の香りがする。更に脚の指に力を入れるとうっすらと目を開ける。ほうじ茶と土の香りが混じったような、田舎のお墓参りに行った宇治の小道と同じだ。

 現世の義朗の叫びが麻衣を呼び覚ました。

 だが麻衣の体は幕末にあった。

「おお、目を覚ましたのか、異国の人。日本語が話せるのだな」

「総司、やめておけ。目を覚ましたばかりではないか。そっとしてやれ」

 麻衣の視線の先にはダンダラ染めの隊服に縦縞の袴の男性二人が、仁王立ちで自分の様子を見ていた。


麻衣は小さく頷いた。

 よく目にする交通事故にありがちなことかも知れないが、とても頭が痛む。死後の世界に紛れ込んでしまった。これは夢で幕末の時代にいる夢を見ているだけでもう死んでしまったのね、私は、と思うと無性に悲しかった。

 目の前のダンダラ染めの隊服を着ている二人は歴史上の人たちではないのか、自分がイメージする新撰組のメンバーだと思われる。変なコスプレイヤーでもないし、ドラマの撮影でもなさそうだ。ここは本当に幕末の京都。


「総司、やめておけ。怖がって泣いておる。男の名前を呼んでおった。そいつを探してやれ。河田屋の前に行って聞いてみよう。おなごのことはお多恵に任せよ」

「そうですね、見回りの交代の時間でござるな。近藤さんにまた睨まれまする」

 そんな会話をして、二人は顔を見合わせて部屋を出て行った。

 麻衣は両肘の痛みと腰のあたりに焼けるような痛みを感じていた。体を起こすと部屋の周りを見回した。六畳くらいだろうか、廊下の向こうには庭が見える。土の匂いはそこからするようだった。小さな床の間のような場所には小さなひなげしの花が生けてあった。

 廊下の隙間からこちらをのぞき込んだ自分よりも年の若い女性が声を掛けた。

「お加減はどうどす?」

「あ、あなたが。助けてくださったのですか。私はどこで、どうなったのです?」

「覚えてはらへんの? ここが京都やってことは分かる?」

「ええ、なんとなく」

 そう、多分このあたりは新撰組の屯所が点在する壬生あたりだろうとおもわれた。麻衣は大学三年生だった。勉強が得意とまではいかないまでも有名私立大学に通っていた。それなりに歴史の勉強はしてきたつもりだったが、実際の江戸末期、幕末の世界に飛び込むことはにわかに信じがたいが今の現状を受け入れるしかない。


「私はお多恵といいます、先ほどのお二人は新撰組の方であなたが米を運ぶ車に巻き込まれていたのを助けてここへ運ばれました。有名な天外先生というお医者さんにみせたのも近藤さんどす。世間では人斬りとか鬼やとか呼ばれていますが、本当は捨てられた猫を拾ってきはるし、子供に剣術や勉学を教えるほどの優しいお人。尊敬しています」

 お多恵さんは頬を赤くして、彼を思う。きっと彼女は近藤さんのことが好きなんだろうと思う。でも彼は死んでしまう運命なのだ。

「ありがとうございます。次に会ったらお礼を言いますね」

「あなたは異国の方では? 赤い髪で洋装やし。どこから?」

「ああ、オランダ商館で仕事をしていましたが。少し前に京都に来ました。日本人です」

 麻衣は嘘をついた。そうでも言わないとこんな服装で赤みのあるカラーリングをしていたら、この時代は誰でもそう思うに決まっている。

「天外先生呼んできますわ、一人でも大丈夫やね? どこにもいかんといてくださいねえ。私、近藤さんに叱られますよって」

 柔らかい日本髪を結ったお多恵さんは京都弁で優しく話しながら、廊下へ出た。

「あの、今は何年ですか?」

 麻衣は覚悟を決めてお多恵さんに尋ねた。

「へえ? 変なことを。なんで? 忘れてしもたん? 文久三年の次の次どすえ。コロコロ変わりますよってなんだっけ元治とか」


 本当にマジの江戸。違った意味で頭が混乱した。令和の時代から幕末の日本へ私は迷い込んだ。じっと手のひらを見た。涙がぽつんと落ちる。帰りたい、それとも本当に死んだら良かった、いや、もう死んでいるのかも。

 麻衣の絶望が消えることは、今はなかった。帰りたい、帰れない。麻衣は伝う涙を押さえることもできずに、手を握り落ちる涙をみていた。

 

 にゃー。

 寝かされた布団の脇を三毛猫がすり寄ってきた。

 近藤さんが助けた猫だろうか、クビに小さい鈴が付けられていた。麻衣は猫の顔を見ると無残にも左目は病気か怪我で潰れて、片方の耳も少し欠けていた。

 かわいそうに、こんなに小さいのに。

 麻衣が手を伸ばして小さな猫の額に手を伸ばして撫でてやると、ますます体を寄せてきた。布団の上に乗ってじっと麻衣の顔を見る。

「おまえはどうしてこんなことになったの?」

 かわいそうにと額や背中を撫でてやると嬉しそうに猫は目を閉じた。そして次の瞬間再び目を開けて麻衣を見た。黒い二つの瞳で……。

「あれ? おまえ、目を怪我していたのでは」

 先っぽが欠けていたはずの耳もちゃんと揃っているではないか。麻衣は自分の手を見る。何も変らない、細長い指にいつものリングがあるだけ。

(私の中で何かが……)


翌日から、麻衣はお多恵さんとともに、壬生の新撰組の屯所で下働きをして暮らすことになった。目が潰れていた猫の名はハルだった。少し元気になったとはいえ、麻衣は痛む節々と猫の怪我を治してしまった自分の手を不思議に思っていた。

「おい、ハルおまえの目はどうしてこうもきれいに治ったのかの?」

 近藤は、相好を崩してハルと庭で遊んでいた。

 隣では伊東が半身を脱いで、剣の素振りをしていた。

「近藤さん、あの異人のような女も拾ってきたのですか? 物好きですね。あんな女は遊郭にでも売れば金になりますぜ」

 伊東は髪をまとめることもせずに、ルーズなタイプで物事に執着しなかった。年齢は総司よりも少し上だと麻衣は思っていた。自分は厄介もののようだった。遊郭に売られてしまうのあろうかと不安になった、あんなところ入ったら最後抜けることはできない。

「なに? あの子はいずれオランダ商館へ帰るだろう、それまでは無茶なことをしてはいけない。めったなことを口にするな」

 近藤が伊東を睨むとまた素振りを続けた。

 

 助けられてから二日が経過していた。幕末に転生してわずか二日、麻衣は思う。一度死んだのだろうか、現世では自分の体はあるのだろうか。それともこの時代で歳を重ねて死んでいくのだろうか。思ってもしょうがないこと。傷は自分では治すことができない。あくまでも対、相手にしかヒーリングはできないようだった。自分の能力は転生と引き換えに与えられたものだった。


 麻衣はお多恵さんとは仲良くなった、彼女はまだ十五歳なのにとてもしっかりしていた。戦で両親を亡くしたことで、新撰組の下働きをするために拾われたそうで、小学生くらいの男の子たちも数名いた。みな、剣術や学問を教えてもらい食事にも困らないが、いずれは新撰組のセカンドメンバーとなるのだろう。

 彼女以外にも、近所の奥さんたちが数名飯炊きや、洗濯などを現代で言うアルバイトでやっていた。京都では人斬り集団の新撰組は好かれている存在でないことは確かだった。


 そんな夜に、御所近くの米屋に放火されて数名が近藤の名で深夜にかかわらず黒い隊衣を慌てて着ると走り出した。

 翌朝には衣服や髪を焼いたもの、やけどを負ったものなどが広間に座り込んでいた。その事件から例の池田屋事件へと繋がっていくことになることを知るほどまでは麻衣は歴史には詳しくなかった。

 そう、この日で麻衣が幕末へタイムスリップして四日目が過ぎていた。天外先生とお弟子さんが呼ばれて手当をする中、土方が逃げる相手に襲われて顔にかすり傷を負っていた。

「土方さん、お顔に」

「情けない、麻衣よ、もう言ってくれるな。新撰組ともあろうものが」

「夜ですし、目が慣れていませんから、しょうがないです。いくら新撰組でも同じ人間です。動かないでください。麻衣はきれいな水で顔の傷をふくときれいに傷口が消えてしまった。麻衣は驚き自分の手をサッと引っ込めた。

 麻衣は自分でもその特殊な能力に気がついていた。それ以外にやけどのきつい隊員のところへと向かった。目を覆うような酷いやけどではなかったが、刀傷は天外先生と弟子の二名が縫合をしていた。

「はい。大丈夫です。ですがもう、無理はしないでくださいね」

 麻衣は土方に笑いかけた。

 鬼の形相の土方にふっと笑顔が浮かんだ。天から舞い降りたような麻衣は

若者の中ではアイドルだった。まるでメイド喫茶にいるかのような気持ちになる。自分がみんなを笑顔にしている。こんな血みどろの男たちを。だが、この人たちは徳川幕府の終焉とともにいなくなると言うことだけは分かっていた。


「おい、土方、先ほどのかすり傷は?」

 すれ違いざまに近藤が問いかけた。

「ええ? なんですか」

「おぬし、頬を少し……。まあよい、先ほど捉えた下手人二名は町人ではないかも知れぬ、おぬしと総司で取り調べを頼んでも良いか?」

「了解いたした。顔はもう痛みがござらん」

 近藤は広間にいる麻衣の姿を目で追った。見たことのない洋装に派手な赤い髪の女は日本人の顔にしては美し過ぎる。まさか異国のスパイなのではないだろうか。麻衣が来てから猫の怪我も治ってしまう、先ほどの土方の顔も確かにかすり傷ではあったが確かに斬られたもの。麻衣が水で絞った布を当てただけで、薄い筋を残しただけで治っているのを見ていた。

 今もやけどの酷いものばかり、麻衣は繰り返しお多恵と手当をしているが、氷で冷やしているだけなのにうめき声を出すものの顔には安堵の表情が浮かんでいた。

「おかしい、何かおかしい。あの娘は何者なんだ」

 近藤は自分が街で助けた時の気持ちを思いだしていた。いつも色町で遊ぶ遊女たちの中では恐れられていたが、麻衣といると戦闘意識が真っ白になってしまう。意識的に避けているが、どうしても声を欠けたくなる。

 あの笑顔は何だ? なぜこんなにも心が穏やかになるのだろう。

「どうしました? 近藤さんぼんやりと……」

 永倉が声を掛けた。

「どうやら下手人が口を割ったようです」

「なにっ!?」 早すぎる、総司たちは拷問に掛けたのであろう。

 いつもの厳しい顔に変わった近藤は大広間をあとにした。麻衣に抱いている気持ちなど大きな志の中では米粒のようなもの。だが彼は死ぬ間際に麻衣のことを思い出すことになろうとはこのとき思っていなかった。



 風呂で麻衣と多恵が昨夜の残り湯で体を洗って着替えると、屯所の奥にある東屋から男の罵声とうめき声が聞こえてきた。

 麻衣が驚くとお多恵さんが麻衣の耳に手を当てた。

「何も聞いてない。いうたらあかんし、聞いてもあかん。ここで起こったことは外でいうたら命がないえ」

 それはいわゆる新撰組の闇。

 お多恵さんはそれを言おうとしたが、黙して語らなかった。麻衣は思う、彼らは自分が思うほどわかりやすい男ではない。現代の男たちとは全く違い、麻衣の知らない何かにつき動かされているようだった。

 下着はない江戸時代、腰巻きだけではスースーする。

 絣の着物に半幅の帯を着付けてもらうと、浴衣のようで麻衣は気持ちが良かった。だがもうすでに自分の期限が長くないことが分かる。指先の感覚がない。指先が時々透明になり消えてしまいそうになる。恐ろしい、自分はどうなってしまうのだろうか。

「はい。できあがり。ねえ、それ、麻衣さんが来ていた小さいきれいなやつ

、これは何?」

 ブラジャーとショーツのことだった。

「ああ、これはイギリスやアメリカの女性が身につける下着です」

 お多恵さんがこれを見ることはないだろう、もしかして長生きすればあるかも知れない。でも新撰組とともにいる以上、一緒に死んでしまうかも。自分と一緒に逃げることができたら。いや、違う。自分は二度目の死を迎えるだけ。お多恵さんを助けることはできない。彼女はきっと総司さんか近藤さんのことが好きなんだろうと思っていた。

 でも駄目、言いたいが言えない。沖田総司は早世するのだ。それも早い時期に彼はこの世を病で去る。助けることはできないし、やってみてもいいと麻衣は思う。だが歴史をかえることになるかも知れない。自分のヒーリングで彼を治すことが? いいのだろうか。歴史がかわると、どうなる?

 私が総司さんのことを好き? いや違う、麻衣はある人の笑顔がとっさに浮かんだ。麻衣はいつも自分のことを気に掛けてくれる年上の近藤のことが好きになっていた。現代にあんなに熱い男はいなかった。私を見る目の優しいことを知っている。現代にはなかった胸の奥が高鳴る、ドキドキするとかではない、何かこう、ざわついた感覚だ。

 お多恵さんや猫のハルと遊んでいる時の近藤さんを見ると胸が締め付けられるようだ。この人はいなくなる人なのに、あの腕に抱きしめて欲しいと思う気持ちが止められない。こんなにも強く男の人を思ったことはない。この歳になっても彼氏はできなかった。軟弱な男子たちを見ていても惹かれることはなかった。

 メイド喫茶に来るご主人様たちはみんな私をメイドのミワちゃんとしか、商品としか思っていない。でもこの人は……。本当の私を知っている。

 歴史上の人物としてのイメージとは全く違う、怖い人じゃない。本当はとても優しくて部下のことを大切に考えている大人の男。彼もこの先……。

 涙が出るけれど、この下着と白いブラウスに黒いスカートを込めぬかで力を込めて洗う。血液はなかなかとれない。ヘチマで洗うが生地がこすれるだけ。

この服をもう着ることはないかも知れないと思いながら力を込める。

「おい、どうした?」

 奥から出てきた総司がいつの間にかそばに立っていた。

「なぜ泣く? その服が汚れたことが悔しいのか? そんなもの、また買えばいいではないか。今度、オランダからの洋館のバザールがあるときに買って」

 麻衣は総司に抱きついた。

「そなた、何を」

「沖田さん、胸が悪いのではないですか。咳が止まらないのでしょう。お薬は飲んでいるのですか」

 総司は突然若い娘に抱きつかれてどうしていいのか分からずに立ち尽くしていた。麻衣は総司に抱きついて彼の胸に手を当てた。肺結核で死亡することは知っている。こうすれば少しでも長生きができるかも知れない。この人は死んで欲しくない。近藤はそれを、東屋の柱の陰から見ていた。お多恵も部屋の奥から同じくその光景を見ていた。

 いつまでも男女の思いはすれ違っていく。


「ごめんなさい、こんなことをして」

 麻衣は総司の胸に当てた手を外すと、総司からはなれて自分が着てきた洋服を洗濯の竿に干した。

「そなた、なぜそんなことを知っているのだ」月代に手を当てながら困惑した顔で麻衣に近寄った。

「天外先生がそんなことを……」総司は顔を少し赤くして俯いて言う。

「あの藪医者、そんなことを。大丈夫だ、子供の時に風邪をこじらせてしまったことがあったが、今はこの通り元気なのだ」

 足下に寄ってきたハルを抱き上げると、縁先から廊下に上がると母屋に向かって歩いて行った。


 麻衣は思う、あんなに背が高くきれいな顔立ちをしているのに、なぜ人を簡単に殺めてしまうことができるのだろう。この手を使えるのなら傷を癒やすため出なく、心の中を変えることができればいいのにと麻衣は手を見つめた。

「着物はよく似合っておる。お多恵のものか?」

 振り返るとその声は近藤のものだった。

「はい、今朝の火事のお手伝いをしていたら汚れたので、今、こうして洗って干しました」

「本当は何者なのだ? 正直に言えば斬らずにおいてやる」

 近藤は麻衣を後ろから羽交い締めにして脇差しを抜いて麻衣の胸に当てた。

 麻衣はここで近藤に刺し殺された方が、このまま動乱の渦に巻き込まれるよりはいいと思って目を堅く閉じた。

「近藤様、私は同じ日本人です。新撰組の皆さんの敵ではありません、ただ」

「ただ?」

「私は遙か未来の日本から、来ました。信じられますか?」

「未来とは? 今よりも先ということなのか、明日のまた明日のその先……」

「はい、その数十年、数百年先の京都から来ました」

 麻衣は近藤の目をまっすぐに見ようと振り返った。

「なぜ、おまえが手を当てると、怪我が治る? あやかしではないのか? わしはおまえがあの日、米屋の車に曳かれたのではなく、天から降ってきたのを見たのだ」

 麻衣は近藤の手を強く握った。この人になら刺されてもいい。

「元の世界に戻れないなら、近藤様の手に架かって死んだ方がましです」

「麻衣どの? そんな簡単に死ぬなどというではない」

 近藤は脇差しを元に戻した。そして、一呼吸ついて言った。

「戦がなくなり、この世が平安になれば、わしと所帯を持ってくれないか?」

「ええっ!?」

 麻衣は近藤がそんなふうに自分のことを思っているとは思わなかった。

 私が近藤勇の妻になるなんて。でも麻衣の指先から手首までは近藤の腕の中にあるのに、麻衣には透き通って見えた。先ほど総司の胸の病気にパワーを使ってしまい自分の命を削ってしまったようだ。

「近藤さん、この手の先、もう見えないでしょう。私は消えてしまう」

「何をいう、ちゃんとここにあるではないか」

 近藤が言うように、麻衣の手は近藤に握られていた。どうやら自分にだけ自分のリミットが見えているのだ。

「駄目ですよ。未来から来た女なんて、気味が悪いでしょう。お多恵さんが良いのではないですか? 他にも近藤様にはふさわしい人が……」

「駄目なのか? 嫌いなのか、こんな顔は。それとも人斬りの血まみれの手は汚れていると、そなたも思うのか?」

「江戸に奥さんがおられますよね、おまけにたくさんのきれいな女の人が色街街であなたを待っています。私もその中の一人の女になれと?」

 麻衣は歴史上、近藤がプレイボーイであることは知っていた。英雄色を好むとはこのことだ。さすが、歴史は語るだと思った。

「何だ、そんなことか。色街街の女たちは皆、わしの女になれば箔がつくと思っているだけだ。だがそなたは違う、出会った時に……」

「いやです。私の指には指輪があるでしょう。あちらの世界では好きな人がいるのです」

 麻衣は嘘をついた。未練を残さない為に。

「許嫁か? 旦那がおるのか」

 近藤はしばらく考えると言い放った。

「まあ、そんな感じです」

「そうか、無理を言ったな……」

 近藤は麻衣から目線を外して遠くを見て言った。

「このあと騒がしくなるが、できればここにいてくれないか。お多恵とそなたがいると助かる」

「それは、どういう意味ですか?」

「言えぬ」

 いつもの怖い顔をして、近藤は麻衣を離したあとに、急ぎ脚で廊下を駆けて行った。



 近藤は再び走って戻ってくると、麻衣にもう一度尋ねた。

「京都にいる間だけの妻になってくれぬか」

「駄目なんです」 

 麻衣は驚いた、そこまで自分のことを……。

「総司が好きなのか?」

「私、もうすぐ消えてしまいます。いなくなる」

「そのときは、離さない。絶対に」

 麻衣は思う、あなたには大望がある。奥さんも子供もいるではないかと。

「総司さんのことは好きです、でもあなたの方が好きです。愛しています。でも私は」

「麻衣どの、これからはいつもそばにいてくれるか。もう、他の男の体に触れることは、ならぬ。その手の力をつかうでない」

 麻衣は約束などしない、男の嫉妬心などしらない。痛んでいる人がいればたとえ自分が消えてしまっても助けると言おうとした。

「できません」

「なら、やはりここで」近藤は刀に手をかけそうになった。

「斬りたければ、斬れば。一度は死んでいます。あなたはそんな人だとは思いませんでした。残念です」

 近藤はその手を着物の懐に入れて笑った。

「明日からは少し慌ただしい。お多恵と子供たちを頼んだ。時にそなたの歳は?」

「二十一歳です」

「そうか、総司とはお似合いじゃの。やつのことを頼む」


 麻衣はあっさりと自分のことを諦めた近藤の本意が分からなかった。なぜ沖田さんのことなど引き合いにだすのかも、もしかして先ほどのことを見ていたからこんな無茶なことを言い出したのではないかとも。

 今も昔も男は同じだ。女を自分のものにできないと簡単にぽいとそっぽをむく。そんな人を一瞬でも好きだと思った自分が哀しかった。私のことなど、はじめから見た目だけで遊女と同じように手に入れたかっただけ。だが麻衣はそう思うことで気持ちを近藤から遠ざけたかった。

 抱きしめられた時は後ろから刺し殺されると思いながらも、鍛えられた堅い腕と胸の厚さにまだ震えていた。




 麻衣は数日後に池田屋事件が起こることを知らなかった。

 攘夷派の志士たちを討ち取る戦いを前に近藤は自分の気持ちを麻衣に伝えたかったのだろう。もしかして何か、自分の身におこるかも知れない。男は大事な時に最期を考えることを知らなかった。

 そして麻衣が幕末にいる最期の時になるということも知らずに……。

 お互いの思いは重なることはなかった。でも、気持ちだけは伝わったはず。


 翌朝から、近藤や沖田など主立った隊士たちは一応に難しい顔をしていた。口数も少なくて麻衣とお多恵は朝食を運んだあとにこの先どうしたらいいのだろうと思っていた。

 近藤がかまどで二回目のご飯を炊く二人に近寄ってきた。

「昼飯と夕飯はいらぬ。代わりに白の握り飯をたくさん用意してくれぬか。それができたら、おぬしらは、今日は天外先生のところで泊まるのだ。話はついておる。これができれば、すぐにむかえ。子供たちと、猫のハルも連れて行くこと。よいな」

 いつになく、ぴりぴりとした空気を纏い近藤は笑顔だけを貼り付けてダンダラの着物を翻して襟を抜いた。先ほどの一緒にならないかという言葉を口にした男と同一人物には見えなかった。

 ただならぬ事件が起こることを麻衣は想像した。ええと、もっと歴史を勉強しておけばよかった。元治元年、何がおこるの? 胸騒ぎがするが男たちを止めることはできないし、何を聞いても答えないだろう。麻衣はただの通りすがりの女で、歴史にも登場などしない。してはならない存在なのだ。


 お多恵と子供たちを連れて麻衣はハルを抱いて、屯所の外へ出ようとした。麻衣はいつもの広い庭の向こうにある大広間を見た。そこには近藤と総司が自分たちを見送るように、柔らかく微笑んで立っていた。もう二度と会えないのではないだろうか。そう思うのはとても不思議な感覚だったが自然と心はざわついたりしなかった。

 この二人が好きだ、歳が近い総司も、近藤も確かに人としての温かい気持ちを持っている。ただ他の人と信じるものが違うだけだ。

 麻衣は軽く頭を下げると大きな木の門を閉じた。

「ご苦労であった、また明日の朝にきてくれるか」

 山南という人が言い残すと、うちから木の閂をかけた。寂しそうな笑顔に麻衣は胸が痛くなった。


 お多恵はうつむき口数が少なかった。麻衣は尋ねた。

「ねえ、何が起こるの?」

「分からない」お多恵はため息をついて続けた。

「前に芹沢さんが粛清された時も、これと同じことがあったのえ。あ、いわんといて。絶対に、命がないえ」

「ええ? もっとたくさん人が……」

 麻衣はもうすでに芹沢鴨がいないから、新撰組の総長を近藤が務めていることに気がつくべきだった。このあとの事件はなに? 何度考えても思い出せない。でも攘夷派の志士と尊皇の新撰組が起こす事件で最大のものといえば。




 天外先生の屋敷で眠れぬ夜を数えていたときに、麻衣は思いついた。もしかしたら……。

 そう、池田屋事件ではないだろうか。麻衣はこの時代の時間の感覚がよく分からないが、天外先生の部屋にある時計をそっと見た。夜中の十二時を過ぎている頃だと思われた。

 忍び足で天外先生の部屋を出ると、廊下を歩き、着物ではなく元の洋服に袖を通した。一人で夜中に出歩くことは現代では普通でも、この物騒な時代に女一人で歩けるはずもないし、壬生の駐屯地に行くことも誰かと一緒でないと道順は怪しく今とは違うので難しいと思われた。

 お多恵さんと子供たちは眠っていたが、猫のハルはずっと起きて麻衣を見ていた。

「ハル、おまえが壬生まで連れてくれればいいのに」

 麻衣がハルの額を撫でると、哀しそうな目をして鼻をあげた。

「ごめんね、私は行かないと。あの人たちが……」


 裏口から麻衣がそっと抜け出そうとすると、いきなり肩を押さえる人がいる。

「一人で行こうと。麻衣さん、あんた、何者なのだ? 新撰組の旦那たちのことに関わったら命の保証がないことぐらい分かっているだろう」

「天外、先生……」

 麻衣が震える声で返事をすると暗闇の中の月明かりが、天外先生の姿を照らす。

今日は戦闘だと分かっているんだろう、だけど、鎖帷子を着込んでいるから大事にはならないと冷静な声で天外先生はいつの間にか、いつもの白い術衣をきて、医療道具の入った鞄を持っていた。

「さあ、影をゆけば程なく壬生まで到着するだろう。その服装と赤い髪は目立ち過ぎる。これを」

 菅笠に藁の簔を渡された。

「ほら、急ぐんだ。血のにおいがするんだろう。あんたは本当はあやかしなのだろう」

「いいえ、遠い未来、信じないですよね。そこで事故に遭いここに飛ばされました。一度死んでいるのです」

「じゃあ、今のおまえさんはまやかしということか。じゃあ、聞くが、この先日本は江戸はどうなるのかい? 異国のものになってしまうとか」

 夜道を二人で歩きながら話す、いや、これを言ってもいいのだろうかと麻衣は思うが、天外先生ならいいかもしれない。

「誰にも言わないでくださいますか?」

「もういつ死んでもいい年寄りが誰に言う? 誰も信じないさ」

「私は百六十年くらい先から来てすべて知っています。哀しいですが、新撰組の皆さんは、やっていることはすべて無駄です。徳川慶喜は二条城で江戸幕府の終焉を宣言します」

「新しい時代が来るというのか?」

 天外先生はより小さい声で聞いた。

「はい、そういうことです。詳しくは言えないですが、そのあと近代日本となりますが、愚かにも外国と戦争をして日本は死にます」

 麻衣はより小さな声で力なく言った。第一次、第二次世界大戦のことを言うには時間がない。

「情けないのう。血を見ることしかできないのか」

「はい。愚かなことですが、私たちはその子孫になります」

「みんな、あんたみたいな能力があるのか?」

 麻衣は笑った。

「いいえ、今、たまたまです。でも私はあの力を使えば、この世界からも消えるようです。もう自分の腕は透明でこの先全身が透明になれば消え去るのでしょう」

 壬生の駐屯地はそぐそこだ。

「それでいいのかい?」

「一度、現世で死んでいます。何も怖くないです。それでも、新撰組の皆さんは無駄なことに命を掛けている。そんな人たちを放っておくことはできません」

 麻衣はあの三人が無事なのか、他のみんながどうなのかと気を揉んだ。何事もなければ、笑って済むのにという気持ちは届かないのに。


「さあ、行きましょう。先生。私が消えたあとのことはお願いします。誰にも言わないでください。オランダ商館に帰ったとでも……」

「そんなこと、言うでない。共に旦那たちを向かえよう」

 天外先生は壬生の駐屯地の横道から、土手の下から小さい溝を見つけてくぐり抜けた。麻衣もどうにか泥だらけになって必死でついて行った。


 あたりは少し空が白んできた。鳥の鳴き声が聞こえてくる木々の脇を天外と麻衣はすり抜けた。

 人影が動く中で、血みどろの戸板が庭に数枚散乱していた。

 麻衣が予想したとおりに戦闘があり、隊士たちが戻ったようだった。ひん曲がった刀や、脚絆、草履が散乱して血だらけのダンダラ染めの隊服は戦の激しさを示していた。

 息をのむ麻衣を天外は気遣った、

「わしは慣れておるが、麻衣さんは無理だろう。中に入れば……」

「行きます!」

 言うが早いか、麻衣は天外を置いて庭を見ることもなく廊下に上がり襖を開けた。そこに広がる惨状は麻衣の知る世界ではなかった。

「近藤さん、沖田さん!! どこですか」

 麻衣は二、三十人ほどの血だらけの隊士たちに向かって言うと、三人ほどが横になっている奥から、声がした。

「麻衣どの、なぜ来たのだ」

 近藤が立ち上がり、麻衣に駆け寄った。肩を掴んで部屋の外に追い出そうとするが、麻衣は逸らされた視線を絡め取った。

「ご無事でよかった、沖田さんはどこですか?」

「総司は、持病が……」

 部屋の隅では天外先生が刀傷に薬を付けた油紙を押し当て止血していた。額を横に切られた男にかけより、麻衣は手を当てる。細い息の人の顔は血だらけで誰だか分からない。その隣には藤堂さんが腕を押さえてうずくまっていた。更にその向こうに沖田さんがぐったりとして座り込んでいた。

 もう、この傷は治らない。でも少しでも痛みが治まるならと麻衣は手に気持ちを集中させた。

「しっかりして、生きてください」

 うっすらと目を開けると、

「まい、さん」と声を絞り出すように答えた。

 念が通じたようだ、なんとか命は繋がった。次は藤堂さんの指をと麻衣は彼の手を取り、強く念じた。この人は近藤さんの最も信頼する人。ドクドクと止まらない出血をなんとか止めようと強く握る。

「麻衣どの、もうよい。わしの親指はもうつながらない」

「いいえ、この左手がこの世を救います」

 麻衣は笑顔を作り、血まみれになりながらも藤堂の手首を握り念じた。強く鉄の匂いがしてむせかえる。だがそんなことは構っていられない。溢れる血液は少し止まってきたようだ。早く総司さんのところへ行かないと、麻衣は焦っていた。

「麻衣どの、もうやめるんだ。おぬし、自分がどうなっているのか分からんのだろう。これ以上、続けるとそなたが……」

 近藤が麻衣の肩を強く掴んだ。

 近藤には麻衣が消えるのが見えていた、初めて麻衣が幕末に舞い降りた時と同じように虹色にからだが染まることが。

「いいえ、総司さんは。総司さんを」

 麻衣は自分の呼吸がどんどん薄くなってきていることに気がついていた。一度は失ったこの命、彼らを助けることができれば、近藤さんが死ぬこともないかも知れない。尊皇の新撰組が存在すれば開国は遅れる。だが第二次世界大戦で敗戦することは避けられない。たとえそこだけなんとかしても、日本の過去をすべて覆すことなどできないのだから。

 紙のように白い顔をして刀にもたれて座りこんでいる、総司の元へ麻衣が行くと、

「麻衣どのにこんな情けない姿を見せたくないな」

 か細い声で強がりを言う総司に麻衣は笑顔で答えた。

「胸が苦しいのでしょう。お顔が真っ白ですよ」

 麻衣は水色が血に染まった隊服を脱がせると、鎖帷子を下ろした総司の胸に手を当てた。何度も何度も撫でると、そばにいた近藤は目を反らせた。

「近藤さん、私の手を取ってください。あなたの力が必要です」

 麻衣は右手を近藤に委ねた。

 膝を折り、麻衣の手を取る近藤は言った。

「こうすれば、いいのか」

「少しでも、総司さんの胸の病気が治りますように。私の力だけではもう駄目みたいです。私がどれくらいもつのか分からないですが」

 強く、更に強く麻衣は念じた。総司の胸は労咳でボロボロのはずだ。今、この時代の医学では助かることはない。だが近藤がこんなにかわいがっているのだから。総司を少しでも生かしてあげたいと思っていた。

「やめるんだ、麻衣どの。もう無理だ。そなたを失いたくない」

 麻衣は薄れ始めた自分の腕と腰から下は自分でも見える。近藤さんからも見えるんだと思い始めたが、そんなこともうどうでもよかった。

 この時代で誰かの役に立てたのなら、幸せな時間を過ごせてよかったと思えた。

 近藤が麻衣と総司を強く抱きしめた時に、麻衣の姿は虹色に染まり透明になり、総司が声を上げると同時に、朝露のように、消えた。


「近藤さん? 麻衣どのが!!」

「総司、何も言うな。麻衣は、いない。はじめからあの子はいなかった。それでいいだろう。忘れよう。もう二度と口にするな」


 近藤は総司の肩を叩いて庭に出た。

 誰も近藤に近寄る者はいない、あけ始めた青空を仰いだ。

「麻衣。また会える、きっと会える。愛しているのはそなただけだ」


「姉ちゃん、車には気をつけてよ」

「うん、分かってる。でもそう言うなら、車で送ってくれればいいじゃない」

 麻衣は今日もメイド喫茶に行く為にピンク色のエクステを自毛に付けていた。現代の日本は今日も、新しい生活様式を守りながら日々を重ねていた。


 弟の義朗は高校を卒業する前の春休みに自動車の免許を取って中古の車を乗り大学へ行くまでの時間を過ごしていた。

 ラグビーで推薦された大学には練習の為に何度か行っていたが、それ以外はバイトをするでもなく暇らしく過ごしていた。


 麻衣はあの事故のあと、集中治療室で意識がないまま五日生死の境をさまよっていた。義朗と麻衣の父が心配するなか眠り続けていた麻衣は、幕末の世界で違う意味で戦っていたのだ。

 麻衣は目覚めた時に、あのことは夢だと思うようになった。本当に自分が新撰組のみんなと一緒に過ごしていただなんてにわかに信じがたいが、確かに触れたあの人たちのことを死ぬまで忘れない。近藤さんと沖田さんは結局死んでしまっているし、あのときの彼らは歴史上何も変わらない。逆に新撰組のメンバーで生存していた人はわずかだと、目覚めたあと、歴史を勉強して涙を流した。




 麻衣は今日もメイド喫茶でミワとしてご主人様を待つ。

 未知の感染症がはびこり日本、世界は一変した。京都も人の姿はまばらだ。そもそもあんなに外国人観光客や、膨れ上がった人並みが京都にはふさわしくなかったのかも知れないと麻衣は思っていた。

 修学旅行の生徒さんたちも前ほど多くない、すっかりと店は閑散としてしまい寂しいものだ。でもあと一年就活を始めるまでは、メイド喫茶でバイトをすると決めていた。入院していた間にはみんなを心配させてしまい、悪かったと思うと同時に誰よりも長生きして近藤さんや沖田さんの分まで生きてやると思うようになった。

 そして、この京都のことをいつまでも好きでいたいと思いながら町並みを見るようになった。彼らの分まで……。


 遙か昔、二条城で、祇園で、高瀬川の流れを近藤さんは見ていたのかなとぼんやりと思うことが多くなった。総司さんと近藤さんの二人が同じこの空間を歩いていただなんて。

 あの事故のあと、麻衣は少し自分の中であの顔が離れないことに強い痛みを感じていた。心が痛い。近藤さんに会いたい。確かにあのとき、重ねた手は本物だった。お互いに気持ちが繋がっていると思っていたし、あのとき最後に私を離さぬように掴んでくれた手。あの短い時間に愛してしまったなんて、私はどうしてしまったのだろう。今も、あの近藤さんの笑顔が頭から離れない。




「お帰りなさい、ご主人様」

 麻衣が友人のモモちゃんと共に振り返るとそこにスーツ姿の男性が二人立っていた。

「京都にもメイド喫茶があると聞いてね、珍しいじゃないかと、後輩を連れてきたっていうわけ。チャージはいくら?」

「これがメニューになっています」

 麻衣は笑顔で二人を席に案内する時に顔を見たとき、心臓が止まりそうになった。

「ミワちゃん、髪の色変えたの? 前はもっと赤かっただろう」

「いいえ……」

 その二人、近藤さんと総司さんにそっくりなんだって。

 これも夢? そう、きっと夢なんだ。麻衣はモモちゃんにそのテーブルに着いてくれるように頼むと自分は他のご主人様、中学生のテーブルに着くことにした。


 でも、あのサラリーマンの二人は、麻衣のことをずっと見ていた。

 彼らがあの二人の生まれ変わりであるとか、時空を超えて現代にやってきたのか、誰も知らない。


 麻衣はカウンターの向こうで泣きながら崩れたメイクを直すと、中学生のテーブルでイチゴパフェに、プリンをトレイにつんで運んで行く。あまりにもあの二人にそっくりな顔の男性に麻衣は思わず涙が溢れて止めようがなかった。

「お姉さん、一緒に写真撮ってもいいですか?」中学生の男女と楽しく会話する間も、麻衣はあの二人の視線を感じていた。


「近藤さん……」

 それは言えないし、言わない。

 だが京都はあやかしの街。いつでもどこでも不思議なことで溢れている。

 そして、麻衣の中で愛は終わっていなかった。




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 他人事じゃない 昔の京都にいるわたし 樹 亜希 (いつき あき) @takoyan

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