影の森―水たまりの空―
怜
影の森―水たまりの空―
とある世界の、とある片隅に不思議な森がありました。
植物も水も豊富。昼間はたくさんの生きものたちがにぎやかに駆けまわり、太陽が沈むと夜行性動物たちが密やかな声でおしゃべりを始める。森では争い事や事件は起きず、みんなが平和な毎日を送っていました。
ごく普通のどこにでもある森じゃないか。あなたは今、そう思ったことでしょう。
木々が生い茂り多種多様な生物が生息していて自然豊か。これらは確かに、他の森と同じでしょう。
たった一つの特徴を除いては。
その森には、色がありません。もう少し詳しく説明すると、森そのものが真っ黒なのです。いつの頃から黒いのか。初めからなのか。もしくはごく最近になって黒くなったのか。森から目と鼻の先にある街の住民に聞いても、誰一人として答えを持っている者はいません。
わかるのは、陽の光が差しても、月が出ていても、森が黒いのは変わらないということ。生息する生きものも、みんなそろって黒い姿をしているということだけです。
どれだけ月日が経っても、どれだけ歩を進めても真っ黒な森。臆病な子どもや女性はただひたすらに恐れ、度胸のある男たちは探検へ出かけます。足を踏み入れた者が、そのまま行方知らずになってしまうことも少なくありません。
不思議な森のことを、人間たちは「影の森」と呼び、恐れと好奇の入り混じった視線を送り続けています。
* * *
闇の中で、なにか白いものがうごめいた。
ボクの羽だ。自分のからだの一部なのに、時々ボクはボクがもつ白色を見ていると目がチカチカ痛くなってくる。
まわりがボクとは正反対の色をしているせいだ。
夜の森はとても静か。空には月が姿を見せている。時々、ここを通りかかるウサギの目と同じ形だ。だけど色の方はボクと少しだけ似ていた。立場、というものもよく似ている。
月は、あの空の上で一人ぼっちで浮かんでる。まわりをたくさんの星がとりかこんでいるけれど、月には近づけない。強い明るさに飲みこまれて、自分が見えなくなってしまうから。だから月はいつも一人ぼっちなんだ。
ボクは暗闇に目を凝らし、近くに気配がないか探った。
この森は変わっている。色が一つしかない。地面も、
嵐の時の空みたいな、黒色。真っ白なボクとは正反対の色。
朝も昼も夜も、春も夏も秋だって、森は色を変えない。ずっと同じ、黒だけの世界。ずっと同じ、閉ざされた世界。
冬だけはちょっと違う。黒い森に、白い雪が降る。黒い木の葉に雪が積もると、まるでそこにボクがいるみたいに見えてくる。雪はぜんぶの木に積もるから、ぜんぶの木にボクかボクと同じ色をした仲間がいるようで、少しだけ安心できる。寒くて凍えそうになっても、ボクは冬がいちばん好きだ。
森ではボク以外の鳥や、他の生きものがたくさん暮らしている。
昼間はいつだってにぎやかだ。みんなはおそろいの黒いからだをせわしなく動かし、木の実を食べたり遊んだり、思い思いに過ごしている。
時々、ボクの住処に近づいて来て話しかけてくれる仲間もいるけれど、それはボクの羽の色が珍しいからで、ボクを好いてくれているからじゃない。ほとんどの仲間が、ボクの白色をこわがって離れていった。自分たちとは違う姿をしたボクのことを、みんなは「変なの」と呼んでからかう。
でも、悪口を言われるだけならまだましだ。森に住むものの中には、弱いものいじめが好きなやつもいて、そいつらはボクを見かけると決まって鋭い爪や牙、くちばしを向けてくる。からだが大きな動物に攻撃されると、小さなボクは逃げるのがやっとだ。何度か痛い目に遭って、ボクの羽はぼろぼろになってしまった。からだもこころも、何日休んでもくたくたのまま。
きっと、もう空を飛ぶことはできない。
それどころか、ここで生きていくのも難しい。
空から冷たい水がたくさん降っている、ある夜。いつもよりさらに真っ暗な森の中をさまよっていた時、ボクはいいものを見つけた。人間が使う、鳥かごという道具だ。
草原の上で転がっているそれは、元々はボクと同じ色をしていたらしいけれど、あちこち古びていて森の色に染まりつつある。
鳥かごの話は小さな頃、お母さんから聞いたことがあった。人間は、ボクらのような鳥を捕まえた時、狭い場所に閉じこめて外へ出さないようにするのだと。
なんてこわい話だろう。震えていたら、お母さんは優しく寄り添って教えてくれた。「外へ出さないようにするのは、嫌なものや怖いものから守るためでもあるのよ。大切だからこそ、閉じこめておくの」と。
だからボクは、鳥かごの中で暮らすことにした。ボクはボクを守ろうと決めた。
必要なものを運びこみ、最後の仕上げにくちばしを使ってとびらを閉める時、皮肉屋のサルたちがボクをばかにする時の鳴き声みたいなかん高い音がした。毎日かかさず聞いていたその音は、三日に一度、こっそりと食べものを探しに行く時にだけするようになった。せいせいした気分だ。
ボクは鳥かごの中で、真っ黒な森や空を一日中ながめた。
毎日ながめている内に、黒しかないと思っていた森にも少しだけ別の色があることに気がついた。
陽の光や月の光が葉っぱを照らすと、そこだけボクの色に染まる。雨に濡れたキツネの毛は黒でも白でもない色。水たまりには空の色を見た。まるで地面にも空があるみたいで、嬉しくなったボクは近くにあった水たまりの中で羽をはばたかせた。
その夜、青い空を飛ぶ夢を見た。飛べたことより、黒い色がどこにも見あたらなかったことの方がボクはよっぽど嬉しかったのかもしれない。目が覚めて、住処の奥にいつもの色を見つけた瞬間、空から地面へまっさかさまに落ちていく気分になったから。
しばらく、冷たい雨の日が続いた。鳥かごの中に水がたまって、ためこんでいた食料がだいなしになってしまった。ボクは雨に打たれながらそうじをする羽目になった。
雨が上がって、きれいな夕焼け空をながめながら一息つく。明日は晴れそうだ。
赤色が森の色へ変わり始めた時、足音を聞いた。
誰かいる。ボクよりも大きな動物だ。
草をふむ音は、だんだんとこっちに近づいてくる。
からだがピリピリして、逃げなきゃと思う。
でも考え直す。ここにいれば安全だ。どんなに力の強いやつが来ても、この鳥かごの中にまでは入って来られない。頑丈に作られているから、壊される心配もない。
ボクは足音の正体が目の前まで来るのを待った。
そして、キミに出会ったんだ。
* * *
ボクの前に現れたのは、人間だった。なにか手に持っている。
「鳥かごだ」
名前のわからない道具をボクの方へ近づけて、その人間は言った。太陽みたいにまぶしくて、目が痛い。
「ああ、ごめん。驚いたよね」
びっくりして動きまわっていたら、急に元の明るさに戻った。
人間はボクがおとなしくなって、ほっとしたみたいだ。かごの隙間から、なにか入ってくる。細くて長い、指だ。食べものと勘違いしてくちばしでつついたら、すぐに引っこんだ。お腹が空いていたボクは、かなしくなった。
「昼間の残りだけど、食べる?」
またなにか、かごの中に入ってきた。近づいて確認する。今度は食べものらしい。
食べてもいいのかな。まよっていたら、人間が「どうぞ」と言った。意味はわからなかったけど、空腹に負けたボクはそれを食べた。どうやら人間が食べるものだったらしく、とても変わった味をしていた。木の皮みたいにカサカサしていて、でも食べた途端リスのしっぽみたいにふわふわとやわらかくなった。
ボクが食事をしている様子を、二つの目がじっと見ていた。
こんなに近くで人間を見たのは初めてだった。まだ遠くまで飛べた頃、森の中を移動している最中に見かけたことなら何度かあった。ボクに気がつき、他の鳥たちとは違うと分かると人間たちはこぞってボクを捕まえようとした。追いかけまわされた記憶は、悪い夢になって今でもボクを緊張させる。
人間はこわい存在だと知ってはいたけれど、今ボクのそばにいるこの人は、なんだかこわくない。
ボクも、食べながら相手を観察した。
からだが大きいから、子どもではないようだ。でもおとなにしては年をとっていない。なのに、頭の毛はボクと同じ色をしている。顔がしわくちゃになった人間は、頭の先が白くなるものだと聞いたことがある。この人はしわくちゃになっていないのに、どうしてボクと同じ色を持っているんだろう。
人間の目は、森と同じ色をしていた。二つの瞳に白い鳥の影がうつっている。この人の目の中に、ボクがいる。それと、ボクの他にもう一羽。いや、きっとどっちもボクなんだ。ここにはボクの他に白い鳥はいないから。
「きれいな羽。雪みたいだ」
……きれい? それはボクのこと?
「そうだよ。とてもきれいだ。僕の髪よりもね」
驚いた。この人は、ボクの言葉がわかるみたいだ。
キミはどこから来たの? ボクは人間に問いかけた。
「街から。この森の一番近くにある、あの街さ」
ここへはなにをしに来たの?
「別になにも。森に用はないんだ。僕はこの森を抜けた先にある街に行きたいだけ。街を出るには、どうしてもここを通って行かなければいけないからね」
その街になにをしに行くの? ボクはさらに問いかけた。誰かと話すのは久し振りだったから、嬉しくなってしまったんだ。
「さあ……、それは僕にもよくわからない」
わからないって、どういうことだろう。
人間のすることは、いつもよくわからない。それはボクが鳥だからなのかもしれないけれど、実は人間たちもよくわかっていないのかもしれない。
「質問するのが好きな鳥くんだね」
くすくす。笑い声、というものを聞いた。
「僕の名前はヨル。きみの名前は?」
名前……? ボクの? そんなもの、あったっけ。
長らく誰にも呼ばれずにいたから、名前なんて忘れてしまっていた。
「名前がないなら、僕がつけてあげる。白い羽がきれいだから……」
ヨルは、かごの近くに座ってだまりこんだ。気がつくと、あたりは真っ暗になっていた。夜更かしな動物たちが、ヨルが持ってきた光を遠巻きにながめて、ひそひそ話をしている。みんな、人間が珍しくてしょうがないんだ。気になりはしても、あぶないから近づいてはいけない。おとなになる前に、みんなお母さんやお父さんからそうやって教わる。
ボクもそうだった。お母さんから色んなことを教わって、たくさんのことを学んだ。人間のことも、少しなら知っている。お母さんのお父さんは昔、人間と一緒に暮らしていたことがあって、その時の話を幼かったお母さんによく話してくれたらしい。だから人間のこわいところもいいところも、ボクはいくつか知っているんだ。人間の気持ちは、すぐに変わってしまうということも。
ボクのおじいさんを飼っていた人間は小さな女の子だった。歌が上手で、いつも一緒に遊んでくれるとても優しい子だった。けれど、おじいさんがおとなになると女の子は別の小鳥をつれてきて、いつの間にかその小鳥とばかり遊ぶようになった。鳥かごは二つあったのに、おじいさんの鳥かごだけいつも汚れていて、とびらも閉じたまま。そんな日が何日も続いた。おなかが空いてこまったおじいさんはくちばしでとびらを開けて、自分から女の子の元を離れた。さみしくて、かなしくて、でも帰り道はわからない。そうして飛んでいる内に、この森へ迷いこんでいたらしい。
小鳥だった頃、眠る時にお母さんがよく聞かせてくれた話だった。
女の子は、どうしておじいさんと遊んでくれなくなったんだろう。考えてもよくわからなかった。さみしいということさえ、ボクはどんなものか知らない。「おとなになったら、きっとわかるわ」お母さんはそう言っていたけれど、ほんとうかな。
「決めた。アルブスにしよう。昔の人たちが使っていた言葉で〝白〟という意味なんだ。真っ白なきみによく似合う名前だと思う」
ヨルの楽しそうな声がして、ハッとする。ボクはお母さんと暮らしていた巣穴から、鳥かごの中に戻って来ていた。
「きみは今からアルブスだ」
アルブス。それがボクの名前?
「そうだよ。気に入らなかった?」
気に入った。ボクが答えたら、ヨルは嬉しそうに笑った。ちらちらと、暗闇の中でヨルの白い髪が光っていた。星がまばたきをするのとよく似ているなとボクは思った。
初めてできた友だちにすてきな名前をもらった夜の思い出は、ボクの宝物だ。
今まで好きになれなかった自分の色を、ちょっとだけ好きになれた、特別な瞬間だったから。
* * *
ヨルは空が明るくなっても鳥かごのそばにいた。大きなイモムシみたいな荷物の中から食べものを取り出して、朝ごはんを食べていた。ボクにも少しわけてくれた。やっぱりおかしな味。森の木の実の方が美味しいよと教えたら、ヨルは「そうかもしれないね」と笑っていた。
その日は一日中ヨルとおしゃべりをして過ごした。
ボクは色々なことを話した。この森のこと、お母さんのこと、自分の白い色のこと、鳥かごのこと。おじいさんの話もした。ヨルはどこかへ行ったり嫌がったりせずにボクの話を聞いてくれた。
ヨルも色々な話を聞かせてくれた。
生まれた時からボクと同じ色をしていたこと。動物と話ができると言って、おとなたちに怒られたこと。巣から落ちてお母さんを呼んでいた小鳥を助けたら、お礼にミミズをどっさりもらってこまったこと。白い髪、そして動物と話ができるせいで、他の人間たちからこわがられていること。みんなと違うのが嫌になって、一人で街を飛び出して来たこと……。
ヨルの話はたくさんあって、ボクの知らない人間や道具もたくさん出てきた。わからないことがある度に、ボクは「それはなに?」と質問した。ヨルは一つ一つを鳥のボクにもわかるように説明してくれた。
ねえ。さみしいって、どんなもの?
太陽がかくれて月が顔をのぞかせ始めた時、ボクはもの知りな友だちにたずねた。
低くて不思議なうなり声がする。ヨルの声だ。なんだか、とてもこまっているみたい。ボクの質問のせいかな。
「そうだな……。お母さんから離れた時、アルブスはまずなにを考えた?」
休む場所と食べものを探さなきゃって思った。
「お母さんのところに帰りたいと思ったことはある?」
ないよ。ボクは一人になってすぐの頃を思い出しながら答えた。
ヨルはまたおかしなうなり声を出してこまっている。
さみしいって、そんなにむずかしいものなんだ。なんでも知っているヨルをこんなにこまらせてしまうくらいに。
「じゃあ、僕が今すぐここからいなくなろうとしたら、どう思う?」
ためしにやってみようかと言って、ヨルは大きなイモムシを持って歩き出した。
どこへ行くの? 話しかけても答えないで歩いて行ってしまう。ヨルの姿が木々の奥に消えて見えなくなると、ボクは落ち着かなくなった。かごの中を行ったり来たり。くちばしで鳥かごのカギを開けようとしていたら、ヨルが戻って来た。
「僕がいなくなった時、どんなことを思った?」
どうしてなにも言わずに行ってしまうんだろう。まだ話したいことがあるのに、もう話せなくなってしまうのかな。ここを出て、追いかけようかな。
不安で落ち着かなかった気持ちを伝えたら、ヨルは満足そうに頭を揺らした。
「アルブスが一人きりになって思ったこと、それがさみしいというものだよ。誰かと一緒にいたいのに離れなくてはいけなくなった時、さみしくなるんだ。人間も動物も、みんな同じさ」
ヨルは今まで通り、鳥かごのそばに座って教えてくれた。
「だからねアルブス。一人ぼっちは、さみしいんだ」
ボクは、おじいさんがどうして森へ来たのか、やっとわかった気がした。
空に一人ぼっちで浮かんでる月も、さみしいのかな。
* * *
「朝になったら、森を離れるよ」
眠たくなってきた頃、ヨルが言った。ボクはなにも答えなかった。楽しかった今日一日のことを思い出していた。
「さみしいと思うなら、一緒に来るかい」
行かない、とボクは言った。「どうして?」とヨルが聞いてきた。ボクは、ぼろぼろになってしまった羽を広げて見せて、こんなからだじゃどこにも行けないよと答えた。鳥かごの中にヨルの指が入ってきて、傷ついたボクの羽を優しくなでてくれた。
「かごの外へ出ておいでよ。ずっと一人きりでいても、さみしいだけじゃないか」
遠くでゴロゴロという音がする。低くておなかに響く嫌な音。森に雨雲が近づいているらしい。
ボクは、もうすぐ雨が降るよとヨルに教えた。この近くにほら穴があることも。そこなら雨に濡れずに眠れる。ヨルにはたくさんのことを教わったから、そのお返しをしなくちゃと思った。
ヨルは荷物を持って「アルブスはどうするの」と聞いてきた。どうもしないよ、とボクは言う。雨に濡れるのなんてへっちゃら。もうなれっこだ。
大きなイモムシを地面に置いて、ヨルがいなくなる。さっきよりも大きくなった音を聞きながらうとうとしていたら、突然、鳥かごになにかが覆いかぶさってきた。ボクを嫌う仲間が襲いかかってきたのかと思ったら、ただの葉っぱだった。ヨルが森の中から見つけてきたようだ。
なにをしてるの? クマの手のように大きな葉っぱで鳥かごの屋根を覆っているヨルにたずねる。
「こうすれば、少しは雨風をしのげるんじゃないかと思って。きみは絶対にここから動きたくないみたいだから」
黒い葉っぱで屋根を覆われて、鳥かごの中はいつもよりさらに暗くなった。
「朝になったら、また会いに来るよ」
ヨルが行ってしまうと、ボクはまたさみしくなった。
ずっと一人きりでいても、さみしいだけ。ヨルはそう言っていた。でもボクには鳥かごから出て行く勇気がない。かごの外に出ても、また傷だらけになるだけだ。それなら、この真っ暗な森で一人きりでいる方がよっぽどいい。
ほんとうに、そうなのかな。
外を見ると、クモの糸みたいに細いものが降っているのが見えた。雨だ。パラパラ。雨が葉っぱにあたる音。からだが強い横風に吹かれて、寒くなってきた。秋を飛び越えて、冬が来てしまったようだ。
ボクは震えながら、朝なんてずっと来なければいいのにと思った。
その時。黒い森が、真っ白になった。
* * *
とてつもない音が森にこだました。古くなった木が倒れる音より、クマのいびきより大きな、聞いたことのない音。それは一瞬でしなくなって、真っ白に見えた森もまばたきをしたら元の暗闇に戻っていた。
今のはなんだったんだろう。
からだの奥にあるなにかが、落ち着きなく動いている。ボクもどうしたらいいのかわからなくて、かごの中を歩きまわった。
しばらくそうしていたら、足音が聞こえてきた。たくさんの動物たちがボクの鳥かごのそばを駆けて行く。かん高くて耳障りな声を上げて、逃げて行く。森の奥でなにかがあったみたいだ。
鳥かごの向こうに、白色がある。天気がいい日に空を流れて行く、雲のようなもの。雲の下には夕焼け空がある。変だな、今は夜のはずなのに。
風がおかしなにおいを運んで来た。これはなんのにおいだろう。嗅いだことがない。ヨルに聞いてみたらわかるかな。
「アルブス!」
昨日つけてもらったばかりの名前を呼ばれた。暗闇の中に光が見える。ヨルがこっちに向かって駆けて来ていた。
このにおいはなに? ボクはさっそく質問した。
「火事だよ、森の木に雷が落ちたんだ。動物たちの住処が火に焼かれている。だからみんな逃げているんだよ」
僕たちも逃げよう。ヨルは背中にイモムシをのせて言った。すると、鳥かごがいきなり宙に浮いた。ヨルの手が鳥かごを持ち上げているようだ。驚いて動けなくなっているボクにかまわず、ヨルは走り出した。かごが上と下に揺さぶられて、ボクは気分が悪くなりそうだった。
黒い動物たちと一緒になって、ヨルは坂道を駆け上がる。なんだか苦しそうだ。ボクの鳥かごなんて放っておけばいいのに。どうせ朝になったら離れ離れになってしまうんだから。
「あっ」
下の方から水の音がした。ヨルがなにか呟く。
ボクのからだがまた浮いた。今度はヨルに持ち上げられた時よりも高く、それから乱暴に、鳥かごは空を飛んで行く。
強い衝撃。ヨルが転んで、ボクは飛ばされて、それから地面に落ちたんだ。
目をまわしながら、なんとか立ち上がる。鳥かごは横になっていた。ボクが最初に見つけた時と同じ。ありったけの力で持ち上げたのに、また倒れてしまった。そして多分、二度と起き上がることはない。かごは泥沼の中に沈みかけているから。
アルブス。遠くでボクを呼ぶヨルの声がした。
「どこだい。返事をしてくれ」
ボクはここだよ。答えると、上の方から白い頭がのぞいた。ボクたちはずいぶんと離れてしまったみたいだ。ヨルが腕を伸ばしても鳥かごまでは届かない。
「かごから出るんだ、アルブス。今ならまだ間に合う。早くとびらを開けて、外へ出て」
言われた通り、ボクはくちばしで鳥かごのカギを外しとびらを開けた。沈みかけているかごの上に立つ。羽の先が冷たい泥水に触れた時、初めてこわくなった。ボクはこのまま、鳥かごと一緒に沈んで行くのかな。
「こっちに飛んでおいでよ。僕がいる方へ」
できないよ。だって、ボクの羽はもうぼろぼろで、飛ぶ力なんて残っていないんだから。
「そんなことない、飛べるよ。ぼろぼろの羽でも、きみが力いっぱいにはばたけば、きっと飛べる。どこまでだって行けるよ。僕が行けないような高いところまでも。きみには白くてすてきな羽があるんだから」
届かないはずなのに、ヨルがボクの方へ手を伸ばす。長くて細い指。傷ついたボクをなでてくれた、優しい指。
ヨルの後ろに、夕焼けが見える。ゆらゆらと、風に吹かれた葉っぱのように揺れている。きれい。
だけど、あれはこわいものだ。たいせつな友だちが、そう教えてくれた。
助けに行かなきゃ。
足が鳥かごから離れた。からだが浮く。ぼろぼろで、ろくに手入れもしていなかった羽は、ボクが思う通りにちゃんと動いてくれた。地面に落ちる心配もなさそうだ。
ボクは、赤い色が広がる森の中へまっすぐに降りて行った。目印は、ボクと同じ白い色。
「きみなら飛べると思ったよ、アルブス」
肩にとまったボクへ笑いかけながらヨルは言った。「信じてた」って。
それからボクとヨルは、急いで森を抜け出した。道がわからないヨルの前をボクが飛んで案内した。小鳥の頃に一度お母さんと一緒に来たきりだったけれど、ちゃんと道は覚えていた。
森の前には黒い動物たちが集まっていた。みんな不安そうに、空へとのぼっていく白色を見上げている。子どものウサギが、お母さんとはぐれてしまって泣いていた。
まだ森の中に仲間たちがいる。
ボクは大好きな友だちの名前を呼んだ。
森にいる仲間たちを助けに行きたい。ボクがそう言うと、ヨルの黒い瞳が細くなった。
「わかった。でも、かならず戻って来てね。待ってるから」
ボクは真っ赤に染まった森へと飛びこんだ。
* * *
ゆっくりと、からだが揺れている。目を開けた先には、見たことのない景色が広がっていた。空の色はボクの色。まだ朝は始まったばかりらしい。まわりを観察してみる。黒い色はどこにもなかった。
「よく眠っていたね」
ヨルが歩くのをやめた。ボクのからだの揺れもおさまる。ヨルの肩の上で休ませてもらって、つかれたからだは元通りになった。
「きみが眠っている内に、僕がめざす街が見えてきたよ」
鮮やかな色をした草原の向こうに、街がある。ヨルの話では、そこではたくさんの人が色とりどりの色と一緒に暮らしているらしい。
「ねえ、ほんとうに行ってしまうの? あの街だったら今までより楽しく暮らせるのに」
街で一緒に暮らそう、とヨルは言ってくれたけれど、ボクはことわった。ヨルとおしゃべりするのは楽しい。だけど、ボクにはやってみたいことがある。ぼろぼろの羽でどこまで飛べるのか、ためしてみたいんだ。夢を話したら、ヨルは「かっこいいね」と笑ってくれた。
そうだヨル。ボクの名前、思い出したよ。
「名前? なんていうの?」
アサ。お母さんがつけてくれたんだ。
ボクは羽をくちばしで整えて、飛ぶ準備をした。
「アサか。とてもすてきな名前だね」
ありがとう、ヨル。
ボクのたいせつな友だち。
羽を広げて、ボクは飛ぶ。夢の中で飛んだ時より、高く。
空の上から地上を見下ろすと、ずっと遠くの方になつかしい色が見えた。
嵐の時の空の色。
ボクがこれから飛ぶ空は、水たまりの中に見たあの空と同じ色だ。やわらかそうな雲を見かける度に、ボクは影の森で出会った友だちのことを思い出すんだろう。ボクと同じ色を持った、たった一人の友だちのことを。
影の森―水たまりの空― 怜 @leo0615
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