金木犀

コトノハーモニー

金木犀

 図書館を出ると、沈みかけた太陽が桂を明るく照らした。

 十月に入って少し冷たくなった風が、学ランの開いたえり元から入りこんできた。

 思わず首をすくめて、中庭のすみにある自動販売機にむかった。ふと、甘い香りが鼻をくすぐって桂は顔をあげた。甘い香りは中庭の中央に植えられた樹木からしているらしい。

(そういえば、今日来た時もなんか甘い匂いしてたな)

 よく見ると昨日まで覚えのない、橙色の花が咲いているようだった。そのそばに見慣れた姿を見つけた。

(今日もいるのか)

 赤く染まる中庭で本のページをめくる女子高生。思わず足を止めてその姿を見つめた。

 桂が吹奏楽部を退部して高校受験に備える周りにつられるように、図書館で勉強するようになってからほとんど毎日見かけていた。

(しかも毎日あそこにいる)

 市立図書館の中庭の中央にあるベンチ。夕方になると、彼女は決まってそこに座っていた。読書をしていたり、ピクニックみたいに何かしら持ちこんでは、飲んだり食べたりしている。なにか用事があって図書館まで足を運んでいる、というわけではなさそうだ。

 趣のあるレンガ造りの建物。季節の花が咲く中庭にはいくつかのベンチが設置されている。確かに休日は家族連れでよくにぎわっているのを目にする。

(それにしたって、毎日毎日あんなとこでなにしてんだろう)

 見つめていると少女が顔を上げた。あ、と思う間もなく目があった。不思議そうな彼女に、ぎこちなく会釈をして視線をそらした。

(まさか目が合うとは思わなかった)

 こちらから見つめていただけに、そわそわと居心地の悪い気持ちになる。さっさと飲み物を買って引きかえそうと、自販機の前に来たときだった。

「ねえねえ」

 突然かけられた声にびっくりして、桂は振りかえった。そこに立っていたのは、先ほど目が合った女子高生その人であった。

「あ、ごめんね、驚かせちゃった?」

「いえ、大丈夫です……」

「ならよかった。それよりさっき、目、合ったよね?」

 まさか直球で聞かれるとは思わず、桂は戸惑いながらうなずいた。すると、彼女の顔がぱっと明るくなった。

「やっぱり! 君、いつも図書館来てるよね。勉強? 受験生?」

 彼女が首をかしげると、胸まである長い髪がさらりと流れた。

「そうです。あの、あなたも毎日ここにいますよね」

「そうなの。あたしは川崎衣緒。衣服の衣に、鼻緒の緒で衣緒。高一だから、先輩だね」

「おれ、……じゃなくて、田中桂です」

 つられるように自己紹介をした。なんのつながりも関係もない女子を前に自己紹介をしているなんて、変な気分だった。

「けいくん、か。どんな字を書くの?」

 のぞきこむように聞かれて、思わず後ずさった。

「木へんの“かつら”っていう字で、けい、です」

「いいね、素敵な名前だね」

 確かめるように何度かつぶやいて、彼女はにっこり笑った。桂はといえば、同年代の女子にそんなことを言われたのは初めてで気恥ずかしくなった。

「じゃあ、桂くん。また明日の夕暮れに」

 ひらりと手を振ると、衣緒は背中をむけて歩きだした。

 いつのまにか太陽は沈んでしまっていた。燃えるような色を失って、あたりには静かに夜の気配が満ちはじめている。

「明日……?」

 去っていく背中を見つめながら。桂は一人つぶやいた。


     *       *       *


 翌日。

 桂が図書館に来たときには、まだ中庭に衣緒の姿はなかった。

 昨日のはなんだったんだろう、と思いつつ館内に足を踏みいれた。と、掲示板にはられたポスターに目がいった。

『白山高校吹奏楽部 定期演奏会のお知らせ』

 その文字を見た瞬間、夏のコンクールの白山高校の演奏が一気によみがえってきた。思わず立ち止まっていると、声をかけられた。

「やあ、田中くん。今日も自習室かい?」

 慌ててポスターから目を離す。

「そうです……ええと、川崎さん」

「覚えてくれたんだ、ありがとう」

 川崎が人懐っこい笑顔を浮かべた。彼はこの図書館で司書をしていた。

「このあいだ教えてくれた本、わかりやすかったです。おれ、天体とかほんとわからなくて」

「本当? それはよかった。ぼくの知ってる子も、わかりやすいって太鼓判押してたんだ、あれ」

「また本探すときは、川崎さんに相談します」

「光栄だなぁ。いつでも声をかけてよ」

 ますます笑みを深める川崎に、礼を言って歩きだそうとしたときだった。

「そういえば、田中くんはこれに興味あるのかい?」

 川崎が定期演奏会のポスターを指差す。

「え、いや、そんなことないです……」

「あれ、そうなの? ぼく、白山高校の卒業生なんだよね」

 川崎の言葉に、桂は目を丸くした。

「そうなんですか」

 懐かしそうに目を細めて、大事なものに触れるみたいにそっとポスターを指先でなぞる。

「そうなんだ。まあ、予定が空いてるなら行ってみるといいよ。なかなか聴きごたえあるから」

 じゃあね、と一階の閲覧コーナーに入っていく川崎を見送る。知ってる、という言葉は川崎の姿が見えなくなっても出てこなかった。


 ――楽しいだけじゃ意味がないでしょ!

 唐突に耳元でよみがえった声に、桂ははっとした。

 問題集はさっきから一問も進んでいなかった。ずっと、ぼーっとしていたらしい。深いため息をついて、ペンを転がした。

 今日はずっとこんな調子だった。もともと勉強がそんなに得意でないが、いつにも増して集中力が続かない。その原因に見当はついていた。ただ、ついているからと言って桂にはどうすることもできない。

(そうだ。だって、おれはあいつとは違う)

 もう一度ため息をついて、窓の外に視線をやる。赤く染まった中庭に、昨日のことを思い出した。一瞬ためらったが、どうせこのまま勉強を続けても意味がないと、桂は中庭にむかった。

 衣緒は約束通り中庭にいた。

「やあやあ桂くん、こんにちは。今日も勉強?」

「はい、まあ。川崎さんは……」

「それ」

 衣緒が指を突きつけて、桂の声をさえぎった。

「あたし、衣緒って呼ばれる方が好きなんだよね」

「え?」

 桂の戸惑いなど気にもしないで、衣緒がぐいっと距離を縮めてくる。

「だからね、名前で呼んでね」

「いや、でも、それはさすがに……」

 衣緒が指を突きつけて桂の声をさえぎった。

「その名字で呼ばれたくないんだ」

 すごむように言われれば、うなずくほかに選択肢はなかった。

「ええと、じゃあ、衣緒さん」

 尻すぼみになったが、そう呼べば満足そうに彼女は笑った。

「あと、そんな敬語じゃなくていいからね。じゃあ、そこ座って」

 うながされるままにベンチに腰かけると、衣緒も少し間を空けて隣に座った。

「いっしょにお茶にしよう」

 カバンから魔法瓶と紙コップを取りだして衣緒が笑った。

 彼女が準備をしている間、することのない桂は甘い香りを放つ背後を振りかえった。橙色の小さな花があふれんばかりのかたまりになって咲いていた。ふと、小さな星みたいだな、と思った。

「この木、匂いすごいですよね」

「あ、気になるかな? 離れる?」

「いや、大丈夫」

 そう言うと、目に見えて衣緒がほっと安心した。

「それ、金木犀っていうのよ。知ってた?」

 はい、と渡された紙コップを受け取って礼を言う。

「聞いたことくらいは……」

 花の名前なんて、桜とかひまわりくらいしかわからない。

 桂は手渡された紙コップに視線を落とした。琥珀色の液体が揺れる紙コップは温かく、冷えはじめた指先にじんわりと熱が移っていく。ふわりと湯気とともに立ち上ったのは、さわやかな柚子の香りだった。

 ふう、と息を吹きかけて一口飲んでみた。

「うまい」

 思わず口をついて出た感想に、衣緒が顔をほころばせた。

「衣緒さん特製の柚子はちみつです」

 彼女もまた一口飲んで、上出来とつぶやいた。

 甘酸っぱい柚子はちみつは、体の中からぽかぽかと温かくなっていく。あっという間に飲み終わると、衣緒がまた魔法瓶から注いでくれた。

「衣緒さんは金木犀が好きなの?」

 赤く大きな太陽が建物の間に沈みはじめた。夕日に目を細めていた衣緒が、桂にむきなおった。

「うん、そう。金木犀が好き。ここが好き、ここから見える景色が好き」

 まっすぐ視線をそらさず、言いきった。桂が目を細めたのは、夕日のせいだけではなかった。そんな風になんのためらいもなく、好きと口に出せるのはどんな気持ちなんだろうかと思う。

「金木犀は今のあたしにぴったりだなって」

 沈んでいく太陽みたいに静かに落とされた言葉に、思わず衣緒を見た。そこには金木犀ではない、どこか遠くに想いを馳せる横顔があった。

 しかし、それも一瞬のことで、すぐに笑顔で桂を見た。

「ねえねえ、また明日もここでね」


     *       *       *


 次の日は、桂が図書館に来たときには、すでに衣緒が中庭にいた。

 また後でね、と見送られて自習室へと足をむける。入口にはってあるポスターにどうしても目がいってしまうのは、もうあきらめた。

 仕方がないのだ。あんな演奏を聴けば、吹奏楽部員なら誰だって心揺さぶられるだろう。それだけだ。そう言い聞かせてポスターから離れる。

(だいたい、途中で退部したおれには、なにも関係ない)

 そんな風に考えてみても、白山高校の演奏とあの声が、ふとした瞬間に思い出された。

 結局、今日もろくに集中できないまま、桂は自習室を後にした。

 赤く染まった中庭に出ると、夕暮れの冷たい風が頬をなでた。

「そろそろ寒いな」

 首をすくめて歩きだす。吹く風が冷たく落ち葉をさらうようになるのも時間の問題だろう。まるで冬に駆け足で追いかけられている気持ちになって、桂は顔をしかめた。

 中庭を見回せば、衣緒がもはや定位置と言える場所で本を読んでいた。近づいて声をかけると、彼女はすぐさまお茶の準備を始めた。

「今日はちょっと冷えるねえ。はいどうぞ」

 受け取った紙コップには、黄色と橙色の間の色みたいなとろりとしたスープが、なみなみとつがれていた。

 今日はなんだろう、と少しわくわくしながら口をつける。

「……かぼちゃ?」

「正解。もっと言うなら、かぼちゃとにんじんのポタージュね」

 温かくまろやかな甘さに、桂はほっと息をついた。

「そういえば、桂くんはうちの高校に興味があるの?」

 その言葉に目をまたたかせて彼女を見た。それから、彼女のまとう制服にピンときた。

「衣緒さんの学校って白山高校?」

「そうだよ。ずっとポスター見てたでしょ。もしかしてうちに進学希望?」

 うきうきと目を輝かせる彼女に、ばつが悪くなって頬をかいた。

「まさか。おれの頭で白山なんて無謀もいいとこです。ポスター見てたのは、その」

「見てたのは?」

「おれが吹奏楽部だったからで……」

 うまいごまかし方が思い浮かばず、正直に本当のことを答える。

「へえ、吹奏楽部! すごいねえ。なんの楽器やってたの?」

「ホルンです。でも吹奏楽部っていっても別に大したことなくて、うちは強豪でもなんでもないし」

 白山高校のような、コンクールで全国に行くような強豪校ではない。本気で全国を目標に掲げるような学校とはわけが違うのだ。だから、みんなで楽しくやる部活も、間違いでない。

「桂くんのとこの吹奏楽は引退早いんだね」

 ふいによみがえりそうになった声を、かき消すように桂は口を開いた。

「おれは受験勉強のために、早めに退部したから」

 いつのまにか早くなっていた鼓動を落ちつけようと、スープを口に含む。

「あ、そうなんだ。まあ受験は大切だもんね。どうせなら頑張って勉強してうちに来たら?」

「いや、だから無理だって」

 温かいスープがじんわりと冷えた体に染み渡る。特に追及してこない衣緒に、ほっと息をついた。

「そう言う衣緒さんは、なんの部活に入ってるの?」

「ふふん、帰宅部です」

「それって胸を張って言うことじゃないような……」

 思ったままを口にすれば、衣緒がむっとした。

「いいの、そのかわりに成績優秀な優等生だから。そうだ、わかんないとこがあったら、先輩が教えてあげるよ。だから」

 太陽が沈んだ中庭で、声を落として彼女が続けた。

「明日も来てね」


 そんな風に、勉強の合間、日が暮れる時間に衣緒と会うようになった。

 ほんの十分や十五分くらいのことだった。他愛のない話をしたり、宣言通り勉強をみてもらったり。それでも桂にとって、良い気分転換になっていた。

 なにより、少しずつ交わされる会話は心地良いものだった。


     *       *       *


 土曜日の夕暮れの中庭は、いつもよりにぎやかだった。とはいえ、その大半は図書館からの帰路につく人の姿がほとんどだ。

 さて、彼女はいるだろうか、と視線を巡らせようとしたところで、ここ数日で聞きなれた声に名前を呼ばれた。

「こんにちは、桂くん」

 すでに定位置となったベンチの上で、今日もお茶会が開かれる。

「本日は特製はちみつジンジャーレモンです」

 得意げに渡された紙コップの中には、とけだしたような金色が揺れていた。これまた寒さ対策の飲み物だ。彼女が差しだしてくれる飲み物は、いつもそうだった。

 一度、そんなに寒いなら中で本を読めばいいのに、と言ったことがあった。衣緒は困ったように笑って「外から見てるくらいがちょうどいいんだよ」と桂にはわからないことを言っていた。

(もしかして、図書館が嫌いだったりするのか……?)

 よくわからないな、と思いながら、マグカップに口をつけた。うまい、とこぼせば衣緒が満足そうに笑った。

「衣緒さんは、今日も読書?」

 うなずきながら見せてくれた本は、読もうと思う気もおきないくらい分厚かった。

「よくそんな本読めますね。おれなら一ページ目で寝る自信しかない」

「桂くんはもう少し本を読んだ方がいいよ」

「もっと字が少なければチャレンジするけど……」

 本心を告げれば、おかしそうに笑った。

「衣緒さんは、本当に読書好きだよね。おもしろい?」

「おもしろいよ、知らないことがいっぱいだし、なにより本を読んでいる間は、ここじゃない場所に行けるでしょ」

 衣緒の言葉をかみくだこうとするが、いまいち意味がわからない。

「つまり、衣緒さんはどっかに行きたいってこと?」

「そうだなぁ……。ここじゃないどこか遠い場所。どこでもいいんだ、どこか誰も知らない場所に行きたい」

 そう言って、衣緒は金木犀を見上げた。その横顔が切実そうで、桂はなんと声をかけたらいいのかわからなかった。やさしく吹いた風が、二人を甘い香りで包む。

「そう、木星とか。いいね、木星。うん、木星に行きたいな」

 木星という単語に、桂は少々面食らった。

(木星って、あの惑星のか? なんでまた、唐突に……)

 衣緒の視線の先の金木犀を見て、まさかと思った。

「なんですか、それ。親父ギャグかなにかですか」

 思わず、思ったことをそのまま口にしてしまった。すると、衣緒がむっと頬をふくらませた。

「ちがいますー、あたしはいつでも本気ですー」

 そちらの方がどうかと思ったが、さすがに口にはしなかった。

 しかし、先ほどまでの沈みこんだ空気は、どこかに消えていた。いいじゃない木星、と不服そうに言う彼女に、さっきまでの影はない。その様子に、桂も口の中で木星、とつぶやいた。

「なになに、やっぱり桂くんも木星に行きたい?」

「ちがいます、そうじゃなくて。えっと、木星っていう組曲があるんだけど」

「あ、知ってる。歌になってるやつでしょ」

「まあ、それの元になったやつ。おれが最後に演奏した曲だなって」

 忘れられない曲だ。コンクールの自由曲がそうだった。地区大会までで終わった夏。そのあと高校の部で聞いた、白山高校の自由曲もまた同じだった。その演奏がずっと耳に残ってはなれない。

「まあ、それだけで、別になんでもないんだけど」

「桂くんはさ、なんていうか、ううん……」

 あごに手を当てて、衣緒が考える仕草をする。なんだろうかと彼女を見つめる。

「後ろむきというか、ええと……そう、卑屈! なんで吹奏楽の話をするとき、いつも卑屈っぽいの?」

「卑屈……衣緒さんってデリカシーないって言われない?」

「失礼な!」

 失礼なのはどっちだ、と心の中で反論する。

「桂くんはさ、途中で退部しちゃったのが後ろめたいの?」

 首を振って否定する。そういうわけではない。同じように受験勉強を理由に、コンクール後に退部する部員はいた。

「じゃあさ、別に胸張れなんて言わないけど、普通に吹奏楽やってたって話せばいいじゃん」

「それはだって、本気でやってるやつに失礼じゃないですか」

 ――楽しいだけじゃ意味がないでしょ!

 耳元で声が響く。

 本気で吹奏楽部をやっていた人間を知っている。良くて県大会止まりの学校で、本当に全国大会を目指していた部員が一人いた。

 あの子はほかとは違うから。

 実際、実力も頭一つ抜きんでていた彼女を、周りは好奇の目で見ていた。桂もまた、その中の一人だった。

「ずっと本気で練習してたの、知ってたんです。でも、本当はなにもわかってなかった」

 衣緒は静かに桂の話を聞いていた。

「夏の地区大会が銀賞で終わって、まあ、だいたいいつもそんな感じだし、楽しかったしよかったよな、ってみんなで話してたんです。そしたら、そいつが初めて声を荒らげて、楽しいだけじゃ意味がないって言ったんです」

 沈みはじめた太陽が、二人を赤く照らしだす。

 何を言っているんだと思う反面、今さら口は止まらなかった。

「おれ、そのときに初めて、本当の意味でそいつが全国目指してたんだって理解して……。なんか本とかでよくある、頭を殴られたみたいな衝撃っていうか。そのあと、白山高校の演奏を聴いたんです。自由曲は同じ木星で、でも全然違う曲だった。あんな風に……」

 あんな風に演奏ができたら、どんなにいいだろうかと、そう思った。

 今もまだ鮮明に響く音楽。

 しかし釘を刺すように、あの声がよみがえる。全国を目指す彼女を心のどこかでバカにしていた自分が、今度は強豪校のような演奏がしたいと思うなんて、虫がいい話だと思う。

「つまり、桂くんは吹奏楽が好きなんでしょ?」

 ずっと静かに話を聞いていた衣緒が、ようやく口を開いた。

「衣緒さん、人の話ちゃんと聞いてましたか」

「聞いてたよ、失礼だな。そんな風にグルグル考えるのは好きだからだよ。絶対そう」

 衣緒の勢いにおされて、はあ、と力のない返事をした。

「桂くんは、その子に後ろめたいだけでしょ?」

「後ろめたい……そうですね、たぶんそう」

 衣緒は小さく笑みを浮かべると、ベンチから立ち上がった。一歩、二歩と沈む間際の太陽にむかって歩いた。

「あたしはずっと、部活に入ってないからさ」

「ずっとって、中学も?」

「うん、そう。中学からずっと図書館に通ってたから」

 その言葉に桂は目を丸くした。

「だから、あたしにはずっと同じ部活で頑張ってるってだけで、すごいと思うけどな」

 衣緒が夕日を背に振りかえって、優しく言った。目を細めて彼女を見る。

 これはもしかして、なぐさめられているんだろうか。そう自覚した途端、一気に頬が熱をもった。慌てて袖口で口元を隠す。

「その子とは、まあ機会があれば話してみたらいいし」

 そう言いながら衣緒が近づいてくる。夕日が赤くなった顔を隠していてくれることを、切実に祈った。

「それはそれとしてさ、今度は本気で全国目指してみればいいじゃん。わざわざ自分から好きなもの手離すなんてバカバカしいよ」

 そう言って笑う衣緒の後ろ、まだ夕焼けがわずかに残った空に一番星が輝いている。

 深く、息を吸ってみた。肺を満たす甘い空気には、すでに冬の気配が混ざっていた。


     *       *       *


 翌日の日曜日は、朝から雨だった。

 なんとなくそういう気分になって、桂は雨の中、図書館までやってきていた。

 二時間ほど理科の問題集に向き合っていたが、集中力が切れて閲覧コーナーまで逃げてきた。それでも、昨日までのように演奏や声に邪魔されるようなことはなかった。

(衣緒さんにお礼言わなきゃな……)

 特に目的もなく、書架を見て回る。と、返却された本を棚に戻している川崎を見つけた。

「こんにちは、川崎さん」

「ああ、田中くん」

 川崎が棚から顔をあげて、笑顔であいさつを返してくる。

「今日もなにか探してるのかい?」

 持っていた本をすべて戻し終えた川崎が、桂のそばまでやってきた。彼の言葉に、先ほどまでにらみつけていた理科の問題集を思い出した。

「ええと、じゃあ、わかりやすい電気の本ってありますか? 電流とか電圧とかそういうの」

 それなら、と案内される後ろについて行く。やって来た児童書のコーナーは、桂にはなんとなく気恥ずかしい気持ちになる場所だ。とはいえ、一般書より児童書の方がわかりやすいのは、前回の天体の本で体験ずみだ。

 化学の本が並ぶ書架を探す川崎と反対側の書架に目をやった。植物の本がずらりと並んでいる。適当にその中の一冊を手に取って、ぱらぱらとページをめくった。

 最近聞いたばかりの、見覚えのある花を見つけた。開いたページにある、橙色の花から甘い香りがするような気がした。

 金木犀。

 そう書かれたページに目を通す。育て方、開花時期などがわかりやすく載っていた。

(へえ、銀木犀なんてのもあるのか)

 そういえば、と桂は衣緒の言葉を思い出した。

――金木犀は今のあたしにぴったりだなって思ったんだ

 あれはどういう意味だったのだろう。声をかけられる雰囲気ではなかったし、そのあとすぐに別れたので、そのまま忘れてしまっていた。

(花言葉もあるのか。なになに、謙虚、陶酔、高潔と……)

 今度聞いてみてもいいものか、と考えながらも目は字を追っているときだった。

「はい、このあたりがわかりやすいと思うよ」

 唐突に差しだされた本にびっくりして、思わず開いていた本を閉じた。

「あ、ありがとうございます」

「その本も借りていくかい?」

「いや、これはいいです」

 慌てて本を書架に戻した。自習室に持ちこむために、貸出処理をしてもらってから閲覧コーナーを後にする。その途中で窓から見えた中庭に衣緒の姿を見つけた。

(こんなに早い時間にいるなんて珍しい)

 本をかばんにしまいながら、足は自然と中庭へとむいた。

(どうせもうすぐ昼だし、昼飯も食べなきゃだし、休憩だ休憩)

 そんな言い訳を頭の中で並び立てていると、ふと一つの疑問が浮かんだ。

(なんで、衣緒さんはおれに良くしてくれるんだろう)

 それは今さらと言えば今さらな疑問だ。二人は特に同じ中学校の先輩と後輩というわけではない。

 彼女が差しだしてくれる飲み物はおいしい。勉強も教えてくれる。いったいなにが彼女にそこまでさせるのだろう。

 ううん、と考えて思い至った一つの可能性に、桂は慌てて首をふった。

(いやいや、ない。それはない。逆ならともかく、衣緒さんがおれを、なんてない……って逆もないけどな!)

 そこまで考えて、図書館の扉を少々乱暴に開けて外に出た。

 ひんやりと冷気をまとった風が、熱を持った頬をなでた。雨はいつのまにか上がっていた。中天に昇った太陽が、雨上りの中庭を照らしている。

 いつもよりきらきらと輝いて見える景色に目を細めた。頭上に広がる高く澄んだ青空に、ほっと息をつく。相変わらず金木犀の下にいる彼女に足をむけた。

 そういえば、彼女と会うときはいつも夕暮れどきだった。たそがれどきにしか会わないなんて、まるで幽霊みたいだと思うと少しおかしくなった。

「こんにちは、衣緒さん」

 青い空の下、声をかけるのに心持ち緊張した。名前を呼ばれた衣緒は、珍しく驚いたように振りかえった。彼女といるときは、だいたい自分が驚かされる側なので、少し新鮮だった。

「桂くんか、びっくりした」

 本当に驚いたらしく、胸をなでおろす彼女に慌てて謝った。

「すみません、中から見えたから、ちょっと声かけようかなって」

「ううん、大丈夫、ごめんね」

 衣緒が苦笑して答えた。

「こんな早くからいるの珍しいですよね。なにか用事でもあったんですか?」

「用事という用事は特にないんだけど」

 彼女らしくなく歯切れの悪い様子に首をかしげる。

「なにもないなら、勉強教えてくれません? もうちょっと真面目に受験勉強しようと思って」

「勉強はいつでも真面目にしなよね。あ、もしかして、うちの学校来る気になった?」

「いや、それはちょっと断言できないけど」

 ええー、と彼女が残念そうな声を出した。桂からすれば、志望校のことを前向きに考えているだけで、昨日から大した進歩である。

「衣緒さん、昨日は……」

「衣緒ちゃん」

 桂の言葉をさえぎるように、背後から落ち着いた声が彼女の名前を呼んだ。その声に聞き覚えがあった。名前を呼ばれた本人は、桂の後ろを見たまま固まっていた。彼女の視線の先を振りかえると、案の定、そこに立っていたのは川崎だった。

「川崎さん」

「あれ、田中くんだ」

 気安く言葉を交わす二人に、衣緒が目を丸くした。

「知り合い?」

「利用者と図書館員の中だよ。そういう二人は、もしかして恋人同士?」

 おもしろそうに言う大地に、衣緒が勢いよく首を振った。

「ちがうちがう、大地くん変な勘違いしないでよね。桂くんは、未来の後輩です!」

 そこまで必死に否定されると、心に突き刺さるものがある。

「いや、後輩になるかどうかもわかりませんけど。衣緒さんと川崎さんは、あれそういえば名字が同じですね」

 そう聞けば、なぜか照れたように川崎が笑った。

「実はね、衣緒ちゃんとは……」

「大地くんは、あたしのお姉ちゃんの未来の旦那さんなんだ」

 大地の言葉をさえぎる衣緒の声は、まるでなにかを振り切るような力強さを持っていた。いつもと様子の違う姿に、桂は心の中で首をかしげた。

「籍はもう入れてるんだけどね、式はもう少し先なんだ」

「そうなんですか、おめでとうございます」

 照れくさそうに笑って川崎が礼を言う。その幸せそうな顔に桂の頬も自然とゆるんだ。

「だから衣緒さんとも……」

 仲良さそうなんですね、という言葉は続かなかった。川崎の背後に回った衣緒が、唐突に彼の背中をぐいぐいと押しだした。

「大地くん、お昼休憩でしょ。あたしたちもこれからお昼食べて勉強だから、早く行きなよ」

 どう見ても作り損ねた下手くそな笑顔と、なにかを耐えるような表情で背中を押す彼女に、桂の中で一本の線がつながった。さっき見たばかりの金木犀の花言葉を思い出す。謙虚、陶酔、高潔、真実、それからもう一つ。


 初恋――


 ああ、そうか、と心の中で納得した。

 彼女はここに本を読みに来ていたわけでも、ましてや桂に会いに来ていたわけでもなかった。きっと、遠くから彼を見るために来ていたのだろう。

 大地を追い払うことに成功した衣緒が、うつむいたまま黙りこんでしまった。

 なんと声をかけたらいいのだろうか。気の利いた言葉の一つも思い浮かばないまま、冷たい風が頬をなでていく。

 ふと、そういえば今日は甘い香りがしないことに気がついた。金木犀に視線を移せば、橙色の花はほとんど残っていなかった。

「散っちゃったね……」

 つぶやくように吐きだされた言葉に、衣緒に視線を戻した。彼女は、桂のように金木犀を見ていた。

「だれも、」

「はい」

「だれも、あたしたちの関係を知ってる人がいなければ、事実はどうあれ、どこにでもいるただの恋する女の子になれるんじゃないかって、そう思ったんだ……」

 小さく鼻をすする音が聞こえた。なにを言えばいいのかわからない自分が情けないやら悔しいやらで、桂は彼女の言葉にうなずくだけで精いっぱいだった。

 袖口で目元をこする彼女の表情はうつむいていて見えないが、その姿を見てはいけない気がして視線をそらした。

 ベンチのそば、木の根元に橙色の小さな花が散らばっている。こぼれたように地面に広がる金木犀がなんだか衣緒に重なって、知らず握りこむ拳に力が入った。

 二人の間を冬の気配を湛えた風が吹くだけで、まるで世界に二人っきりになったみたいな沈黙が落ちる。その時間が数秒だったのか、それとももっとずっと長かったのか。桂には一瞬にも思えたし、永遠に続くようにも思えた沈黙を破ったのも衣緒だった。

 おずおずと桂の方を見た衣緒の目は赤くなって痛々しかった。

「なんていうか、ごめんね、情けないとこ見せちゃったね」

 今にも泣きだしそうなくせに無理に笑う彼女に、ぐう、と喉の奥で唸る。彼女の手を取ると、外にむかって歩きだした。

 本当はどうするのが正しいのか桂にはわからなかった。それでも、いつまでも同じ場所でぐるぐるしていたって仕方がないと、自分に教えたのは彼女だ。

「け、桂くん、なに、どうしたの?」

「もうこの中庭にこだわる必要ないんですよね」

「う、そうだね……」

 背後でまた泣きだしそうな衣緒に、少しだけ苛立った。

 まさか本当に自分に気があるとは思っていなかった。とはいえ、まったく期待していなかったというと嘘になる。桂も立派に傷心中なのだ。

(泣きたいのはこっちだ、なんて口が裂けても言えない)

 優しくされて、勝手に舞い上がっていただけだ。それでも、悔しいものは悔しい。

「どっかで適当にお昼食べましょう。そのあと、約束通り勉強教えてください。おれを後輩にしてくれるんでしょう。そしたら、」

 振りかえって衣緒を見る。赤くなった目はうるんでいて、なんだかうさぎみたいだと思った。

「そしたら、いつか、おれがあなたを木星に連れてってあげます」

「……ほんと?」

 今の今まで泣きそうだったことを忘れて、ぽかんと桂を見つめる彼女に、してやったりと笑みを浮かべた。

「行きたいって言ったのは、そっちでしょ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

金木犀 コトノハーモニー @kotomoni_info

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ