第11話
北川と別れた私は、鈍行列車を使って帰ることにした。少しでも長く、彼女と過ごした時間の余韻を楽しんでいたかったからだ。ホームに着くと、酔いつぶれているのか、ベンチを二席分使って、小さく横たわっている若者がいた。私は彼から距離を取って他のベンチに座り、列車が来るのを待っていた。アナウンスが入る。私は腰を上げ、所々欠けている黄色い線の内側に並ぶ。列車が到着し、扉が開くと、中から温い空気が私を迎え入れた。車両の中は、間隔を空けて座れるくらいには空いていた。よさそうなスペースを見つけて、どさっ、とそこに腰を掛けると、安心感からか、私は急に眠くなった。柄にもなく早起きをしたせいもあるのだろう。このまま寝入ってしまっても構わない。私は、扉が自動で閉まる音、駅員が鳴らす笛の音などを目を閉じながら聞いていた。列車が走りだし、体が慣性を持つ瞬間の、ぐらっとする感覚を不快に感じながらも、私は微睡の中へと落ちていった。
アパートの部屋に戻ると、相変わらず煙草臭い室内には、ペットボトルや缶のごみが散らかっていた。まだ夜まで時間がある。誰と過ごす予定もないし、クリスマスに大掃除をするのもいいだろう。年末はどうせ実家にまた帰って、このタイミングを逃したら機会をなくす。私はダウンジャケットを脱ぎかけたが、掃除に必要なものの買い出しに行くために、再び着なおして外へ出た。
再度部屋に戻ってきて、電気を点けると、さっきは暗くて見えなかった埃も沢山見えた。私はダウンをハンガーにかけ、早速掃除へと取り掛かった。久しぶりに湧いた、何かをやらなくては、という気持ちに勢いがあるうちに、片付けてしまう必要があった。まずは、分別しながら、ゴミ袋に缶類、瓶類、ペットボトル類を入れていく。初めて飲んだ銘柄のビールは、その後も何度か買っていたようで、いくつも同じ種類の缶が見つかった。その他にも、歴代の恋人とも言うべき、私の孤独を埋めた酒のゴミが、次から次へと出てきた。スナック菓子の袋や、よくわからないプラゴミも出てきたが、圧倒的に多いのはやはり酒の空いたゴミであった。床が見えてきて、いつ買ったかも覚えていないハードカバーの小説も見つかった。小説を机の上に置こうとしたのだが、机には灰皿と化したゴミが所狭しと並べてあり、小説一冊置くスペースもなかった。私は諦めて、とりあえずそれを椅子の上に置いた。袋がいっぱいになってきたところで、口を縛って玄関の方へ持っていく。廊下にあるキッチンにも、煙草の吸殻やごみが散らかっているのを見て、私の中で燃えていた炎の勢いが弱くなるのを感じる。
私は一度休憩をするために、ごちゃごちゃとしたキッチンの中から一瞬で潰れていない箱を見つけて、その中から一本の煙草を取り出す。パッケージの高級感に惹かれて買ったピース・ライトは、芳醇な甘い香りと上質な旨味が程よいバランスで調和し、軽いキック感が心地よく、あっという間に吸い終わった。私は続けざまにもう一本取り出し、火を点ける。母は、私が煙草を吸っているのをよく思っていない。実家に帰省したら、暫くは我慢する必要があるだろう。フィルターにまで火が達する、すんでのところで私は火を消した。蛇口を捻って、一筋の水流から直接水を飲む。コップを洗うことが面倒になり、綺麗なコップがなくなってから、しばしば私はそうやって水を飲んでいた。じゅじゅ、と、空気も大量に飲み込み、私の腹が膨れる。私は新しいゴミ袋を手に取って、掃除を再開した。
元々、そんなに物が多くない部屋は、ごみを片付けるだけで随分すっきりとした。一番難儀したのは、煙草の吸殻の入ったゴミであった。最初は丁寧に、袋の中で容器を逆さまにして振り吸殻を全部出し、さらに水で濯いで中まで綺麗にしていたのだが、三つめの缶での作業を終えたところで途端にやる気をなくした私は、結局それらを可燃ごみとしてまとめて出すことにした。流石に瓶までそうするのは気が引けたので除外したが、瓶を洗っている間、私は過去の自分に腹を立てていた。一人暮らしを始めてから一回も使ったことのない掃除機をロッカーから引っ張り出してきて、勢いよくかける。本体の方でぐるぐると中身が高速回転している。最新のサイクロン式掃除機は、部屋に落ちているスナック菓子のカスや髪の毛をよく吸った。掃除機をかけながら、黄ばんだシャツや伸び切ったパンツを拾い上げ、洗濯物カゴに放り投げていく。背中にじっとりと汗をかき、ひと段落をしたところで私は窓を開けた。空風がぶわっと室内に流れ込む。
私はそのままキッチンへと移動し、コーヒーを淹れ始める。藍色の地に白色でPeaceと書かれ、金の鳩が描かれている箱と、安っぽいライターをポケットの中に入れ、スマホを弄りながらコーヒーが出来上がるのを待つ。ネットニュースの見出しは、新型の感染症に関連する話題ばかりだった。国内で昨日、新たに七千四百人もの新規感染者が確認され、年末年始の医療崩壊が危ぶまれるとの専門家の指摘が注目されている。国と地方の杜撰な行政に不満を持つ人たちが、ニュースのコメント欄で荒れ狂っていた。なかには、仕事がなくなり、一か月後に大学受験を控える娘の教育費の概算に頭を抱えているという男性のコメントがあり、多くの支持が集まっていた。それに対する返信には、私も同じような境遇で不安です、といった好意的なものもあれば、計画性のない馬鹿の自業自得、といった心無いものもあった。私は鬱々として、スマホを片付いたキッチンに置くと、熱々のコーヒーを持ってベランダへと出た。
外側から窓を閉め、室外機の上にマグカップを置く。ポケットから煙草を取り出し、最後の一本を口に咥える。カチ、カチと何回かライターを引き、弱々しい火を点ける。ライターを持っている手とは反対の手で風防を作らないと、か弱い火はすぐに消えてしまう。私はそんな火に諭されたように、クールスモーキングでピースを愉しむ。バニラのような甘い香りが鼻腔をつく。こうしてゆったりと煙草を吸っていると、昨晩初めて吸ったマリファナを思い出す。やはり、あれは現実だった。私は慎重にコーヒーを飲む。露出している肌は寒風に晒され、熱と潤いを奪われていくが、反対に体の内側はぽかぽかと温かく、ニコチンとカフェインが浸透していくのだった。
部屋に戻った私は、いよいよ最後の掃除へと取り掛かる。薄手のビニール手袋を装着し、ユニットバスへ行く。黒カビだらけのカーテンを開けると、元の色がわからなくなるくらい、ピンク色の汚れが浴槽を覆いつくすようにして広がっている。私は逃げるようにして、今度はトイレの便座を開く。うわっ、と私は思わず声を出す。水が溜まっているところに向かって、黒いカビが根っこのように走っている。便座の裏側は跳ね返った尿がカピカピに乾き、色が凝縮されてオレンジ色になっている。私は意を決して、「水に流せる トイレぴかぴかウェットシート」を使って便器全体を拭き始めた。ユニットバスは本当に手強かった。床には髪の毛と陰毛が散らばり、洗面台も浴槽の中も、全体的にぬるぬるとして気持ちが悪かった。それでも、マスクをして何とか掃除を終えた私は手袋を外して、ゴミ袋の中で塊になっている毛や埃が塊の上に置き、そのままぎゅーっ、と力をかけて圧縮した。カップラーメンではなく、今日は久々に自炊をしよう。私は品揃えが豊富な、最寄りのスーパーへ行くことにした。
買い出しを終えた私が部屋に戻ってくると、そこは誰か別の人の部屋のように思えた。クリーム色の綺麗な床が見え、手を洗いに洗面台に向かうと、光沢のある陶器がピカピカと輝いている。私は狐に摘ままれた様な気持ちになりながら、椅子に腰掛ける。買ってきたものを放り投げて、私はポケットから真新しいパッケージのアメリカンスピリットを取り出す。黄色のパッケージの外箱からフィルムを剥がし、中の紙を除けて一本取り出す。流れるように吸い始めた私は、スーパーの袋に目を向ける。だらしなく開いた口からは、デカ盛りと書かれたしょうゆ味のカップラーメンと500㎖の缶ビール、2ℓの烏龍茶が覗いていた。張り切って買い物に出た私であったが、その道中やスーパーですれ違うカップル達に対して俄かに怒りが湧き、彼女たちに復讐をするつもりで手料理からは一番程遠いものを買ってきたのだった。気分は幾分か晴れたものの、まともに料理すらできないのか、という落胆と失望の声に私は魘された。まだ半分ばかり残っている煙草を、掃除している時に見つけたアルミの灰皿に擦りつけて、私はビールを冷蔵庫にしまうこともなくベッドに直行して不貞寝した。シングルサイズの小さなベッドに敷かれたマットレスは、一日使わなかっただけでバネが固くなっているように感じられ、私を拒むようにして跳ね返した。列車で寝ていたこともあり、すぐには眠くならないかと思ったが、そう考えている内に、いつの間にか私は寝入ってしまっているようだった。
一体どのくらいの間寝ていたのだろう。目を開けて時計を確認すると、時刻は午後九時となっている。私は気怠い体を起こし、床に転がっているレジ袋の中からカップラーメンを取り出しキッチンに持っていく。ケトルで湯を沸かしている間、もう一度部屋に戻り、レジ袋の中からビールと烏龍茶を取り出す。冷蔵庫を開け、ビールをしまった後、きりきり、と音をさせて烏龍茶のキャップを開ける。そのまま口をつけ勢いよく飲み、エアコンで乾燥した喉を潤す。綺麗な部屋を見渡し、なぜ今日の自分はあんなにやる気に満ち溢れていたのだろうかと訝しく思う。烏龍茶をもう一度飲み、キャップを閉めてキッチンへと向かう。ケトルの中でぐつぐつとお湯が煮え滾っている。カップラーメンを作ることに関しては、私はプロフェッショナル級だった。お湯を注いだ麺を、既定の時間よりも三十秒早く開けて混ぜる。仕上げの香味油をかけた香り立つしょうゆラーメンを、私は流し台の前で立ったまま啜った。瞬く間に完食した私は、スープを一口分だけ残し、流しに捨ててしまう。部屋に戻った私は、煙草を嗜み、烏龍茶で口に残った油を流すのであった。
すると、その時である。私のスマホがけたたましく鳴る。億劫な気持ちになりつつ、手に取って画面を確認してみると、「智樹」と出ている。クリスマスに一体何の用だろうか。彼女と飲んでいて、悪ノリで電話をかけてきているのだろうか。そのようなことを考え、より気が進まなくなったが、数回コールが続いた後、彼の諦めの悪さに渋々と私は電話に出た。
「もしもし、智樹?どうした」ふーっ、と私は煙を吐く。
「なあ、今から言うこと、俺もまだよくわかってないことなんだけどさ」彼の声は震えている。
「酔ってるのか、様子が変だぞ」私は鼻から煙を出しつつ笑う。
「詩織が、詩織がな」彼の声は一層震える。まるで彼の後ろに銃を持った猟奇的な犯罪者がいて、無理矢理彼に話をさせているようだった。
「詩織がなに?どうした?」彼の口から詩織という名前が出てくることに、私は少し苛つく。早く電話を切りたかった。
「詩織が、死んだ」
「…は?」私の背中に、ひんやりとした気配が触れる。煙草の先で長くなっていた灰がぽろりと崩れ、黒色のパーカーの上に落ちる。
「詩織が、自殺しちまったんだよ」彼の声の震えは最高潮に達し、電話の向こうで泣いているようだった。
「詩織が、死んだ?」私は気持ちを落ち着けるために煙草を吸う。だが、心拍数はどんどん上がっていき、烏龍茶を飲んでも飲んでも喉の渇きは癒えない。
「詳しいことはわからないけど、華音から俺、今日聞かされたんだ。詩織がアパートで自殺して、明後日通夜があるって」私は煙草の火を消し、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ぷしゅっ、と開けると、生温い泡が溢れる。
「明後日、詩織の通夜が?」ビールを一気に半分ほど飲み干し、智樹の話を待つ。
「お前、帰ってくるだろ?通夜、あいつの実家の近くでやるっていうから」
「…詳細が決まったら、教えてくれ」
「わかったよ、多分華音からまた連絡が来るから、そうしたらお前にも伝えるよ」彼はわなわなと唇を震わせ、銃を突き付けてくる犯人によって喋らされていた。
「ああ。わかった…知らせてくれてありがとな。…じゃあ、切るぞ」
「俺もまだ信じられないんだよぅ、こんなことってあるのか。お前もさ、この前会った時見ただろ?あんなに楽しそうだった詩織をさ、詩織がさ、なあ、どうすればいいんだよ俺」
頭に血が上っていく。うざったい。アドレナリンが分泌され、自分自身が攻撃的になっていくことがわかる。鬱陶しい。手に持っているスマホを壁に向かって投げつけ、吠えたい。気持が悪い。彼の声が遠のく。ケトルで沸かされる熱湯のように、身体中の体液が滾る。
「黙れ‼」
私は興奮していた。自分の声とは思えないほどの怒号を彼にぶつける。残りのビールを一息に飲み切り、アルコールで委縮した脳で思いついたありったけの言葉で彼を謗る。
「智樹は何も知らないだろ!彼女がお前や華音に失望した時に見せる顔も!嫋やかな口から語られる恐怖と切望も!彼女が大切にしている物語の美しささえも!お前は何も知らない!」何も返答はないが、私はなおも続ける。
「お前如きの下劣な畜生が、詩織の名前を軽々しく口にするな!お前が詩織と一言口にする度に、詩織は消耗されていくんだ!お前か!お前だったんだな!詩織を殺したのは!」私はもう何が何だかわからなかった。電話がとっくに切れていることに気がつかないまま、私はスマホを耳に当てて獣のように荒く呼吸をしていた。手に持っていた空き缶はぺしゃんこに潰れ、私の手は震えていた。ようやくスマホと空き缶から手を離した私は、強烈な吐き気に襲われて、目に入ったレジ袋の中に先ほど食べたカップラーメンと、今しがた飲んだばかりのビールと烏龍茶を全て吐き出した。ぼとぼと、がさがさ、と大きな音を立てながら、たちまちレジ袋は重くなっていく。黄土色の、酸味の強いシェイクが袋の中に溜まっていく。
私は、吐瀉物の入った、どちゃ、と重たい袋を、中身をこぼさないようにして床に置いた。そして、悄然としながら、その中へ手を差し入れた。手を浸すと、心地よい温度が私の心をリラックスさせた。私の中に先ほどまであり、本来私の血肉になるはずのものだったそれは、私の外にあるもののなかで最も私に近い存在の一つだった。私がまだ気がついていない、私自身の隠れた一面が、そのなかに眠っているような気がした。北川の言う、あちら側の世界への入口の周辺に漂う香りが、そこから匂ってくるような気がした。詩織の艶かしい舌使いの断片が、その手触りから感じられるような気がした。私は、今まで過ごしてきたかけがえのない記憶を辿るようにして、自分の吐瀉物を弄んでいた。
全てを終え、手を洗い終わった後も、私の手には先ほどまでのぐちゃぐちゃとした感触が残っていた。私は煙草を吸う気にもなれず、ベッドの上に仰向けに寝転がったが、興奮のせいで微塵も眠くなかった。私は寝ることを諦め、シャワーを浴びることにした。
掃除をしたばかりのユニットバスでシャワーを浴びていると、相変わらず肘が壁にごんごん、と当たった。お湯の出も悪く、不定期に冷水に変わる。残り少ない洗顔料がなかなか一回分出ないことにも焦れる。私は最後に、念入りにうがいをしてから、短いシャワーを終えた。体を拭いている時も、ドライヤーで髪を乾かしているときも、詩織のことが頭から離れなかった。部屋に戻った私は、残りの烏龍茶を飲み干し、ペットボトルを部屋の隅に放り投げる。シャワーを浴びている間に、メッセージと着信の通知が来ていたが、誰からのものなのかすら確認することなく、私はスマホの電源を落とす。綺麗になった部屋と、あの夜過ごした彼女の部屋とを重ねる。
彼女は、あの無機質な部屋でどのようにして死んだのだろうか。誰が一番最初に発見したのだろうか。もしかしたら、彼女はもうずっと前に死んでいて、最近になって偶々見つかったのかもしれない。私と熱く求め合った彼女は、本当にいなくなってしまったのだ。私は、彼女が死んだと聞いて真っ先に湧いた感情は怒りであったが、今の私を掌握しているものは羨望であることに気がついた。恋焦がれるような、もどかしい気持ちも同時に抱いている。それでいながら、ひどく残念に思うような、恨めしいような心持も混ざっている。一言で表すなら、「ずるい」。私は彼女のことを、「ずるい」人だと思った。彼女が死に際に感じていた、彼女なりの“ほんとうにたいせつなこと”を、私に教えてほしかった。形而上的なものだとしても、言葉で表現するという行為自体が相応しくないものだとしても、彼女がこれから生きるはずだった全ての時間をかけて、私には、私にだけは教えてほしかった。
あるいは、彼女は、“ほんとうにたいせつなこと”を理解するのは、一生をかけても無理だと悟ったのかもしれない。聡明な彼女のことだ。本棚に並んだ点と点とを結び、一つの絵を描いたことだろう。そしてそれは彼女に、君の生には何の意味もない。どうせ今夜また、君は入れ替わるのだから。そう教えたのかもしれない。それでも、彼女自身が彼女に意味を見出さなくても、私にとっては違った。彼女が、日が沈む度に殺され、昇る度に別人になっていたとしても、あの夜の彼女だけは違った。あの夜の詩織は、私と彼女の間で費やされた時間によって、かけがえのない存在になっていたのだ。そう簡単に殺されてよいはずはなかた。私は、この世に落ちてから何千回も生まれ変わった彼女の中から、たった一人の彼女を愛した。たった一人の彼女は、色のない部屋で殺された。
考えてみれば、私の愛した彼女は既に死んでいた。あの夜が明けた日、彼女は既に部屋にいなかった。あの日以降も、彼女は周囲の人々をうまく騙し、平和に生きていたのかもしれないが、それは私が愛した彼女をよく模したレプリカである。昔、飼っていたグッピーのことを思い出す。水槽の中で懸命に泳ぐグッピーの中で、私の目を引く、オレンジ色が際立って濃いグッピーがいた。私はそれを、オランジーナと名付けて特に可愛がっていたが、いつ聞いてみても、私以外の家族の者は誰一人としてオランジーナを見つけることができなかった。ある日、オランジーナが腹を上にして水槽の底に沈んでいるのを私が発見した。私は咽び泣き、それがいかに悲劇かを両親に訴えた。だが、彼らは、グッピーならまだ沢山いるじゃない、と私の話を聞こうともしなかった。それから半年ほど過ぎた時、大規模な台風が来て我が家は停電した。電気が復旧しても、水槽の中のヒーターやポンプがうまく作動せず、突然のことに家族が慌てている内に、水槽の中のグッピーは一匹残らず死んでしまった。冬の寒い日だった。緑のぬめりがふわふわと舞う冷たい淡水の中で、グッピーは死んでいた。
因みに、オランジーナという名前は、ふざけた私が適当につけた名前であったが、奇しくもオランジーナが死んで数年後、同じ名前の炭酸飲料が爆発的にヒットした。しかし、ジュースの方のオランジーナを買ってきた母に、私が「ありがとう、オランジーナのこと、覚えていたんだね」と言うと、母は「あんた、これ飲みたがってたもんね」とだけ返し、グッピーのことは全く思い出す素振りも見せなかった。それに私は、一度も母に向かって、新発売のオランジーナを買ってきてほしいなどとは言ったことがなかった。
そんなことを回想していると、私は目の前の全てがどうでもよくなっていく幻想に墜ちていくことに気がついた。煙草も、酒も、友人も、愛する人も、無味乾燥なものへと変化していく。大きな時間的感覚から物事を言ってしまうと、私の生など一瞬である。私が若い時に自殺をしようが、天寿を全うしようが、地球からすれば誤差の範囲内だ。同様に、広い空間的感覚から俯瞰して語ってしまうと、私の生などノイズである。どこに行って何を思い、誰と何をしようが、宇宙からすれば点ですらない。北川が言う、あちら側の世界だけが救いなのかもしれない。私は冷めたフリをしながら、興奮して高まる鼓動を感じずにはいられなかった。あちら側の世界に行きたい。いや、行かなくてはならない。そこに行けば、半分になった北川も、あの時愛した詩織もいるかもしれない。例えいなかったとしても、そこは、ここよりひどい場所である可能性はない。色がなくて、匂いもしなくて、真っ暗で、無音で、乾燥した、こんな気色悪い世界より、ひどいわけがない。
私は、愛用している黒い革製の長財布を開ける。そして、カード入れの後ろにポツンと一枚だけ入っている、錆びた十円玉を取り出す。手に持つと、詩織と過ごした夜の時のように、私の股間はみるみるうちに大きくなった。亀頭の先から出るカウパー液がパンツの内側をぬるぬると濡らすのを感じる。会陰の奥が疼き、直腸が蠕動する。乳首が固く勃起し、自然と意識が向かう。手足が甘く痺れて、十円玉を持つ手が震える。駄目だ、これ以上は。そう思うほどに、背徳感が私の耳を舐め、罪悪感が内腿を擽った。気持ちよさで頭がどうにかなりそうだった。息を吸う度に、多幸感が押し寄せてくる。息を吐く度に、意識が薄れ、陰鬱とした感情の波が引いていく。二つの世界が駆け引きをする、潮騒の音が聞こえる。私は、恍惚とした表情で、親指に十円玉を乗せる。精液が、管をせり上がってくるのを、肛門括約筋が寸前のところで耐えている。そのせいで、ひくひくと収縮する動きが前立腺を刺激し、得も言われぬ快感が襲ってくる。下半身から、びしゃびしゃと体液が滲み出てはこぼれていくような感覚。頭は真っ白になり、もう何も考えられなかった。
我慢の限界を迎えた私は、六畳間の狭い部屋、低い天井に向かって、十円玉を弾いた。
ここは夢の中である。私は今、夢を見ている。
「来てくれたのね」彼女は笑っている。私は縋るような思いで、声を絞り出す。
――いったいどのくらい待てば、また逢いに来る
「そっか、あなただったんだ」彼女の長い睫毛がそよそよと揺れる。
――百年も待てば、十分かな
私の声は掠れてしまって、ほとんど声として喉から出ない。彼女は淑やかな瞳を閉じる。
「それじゃ、お願い」私は彼女の首にゆっくりと手を伸ばし、両手で優しく包み込むと、徐に力を入れた。
翌日、夜が明ける前に私は目を覚ました。時刻は四時二十分。窓の外はまだ暗かった。私は眠い目をこすりながら、部屋着の上からダウンジャケットを着て、コンビニで「銀しぐれ」という何の変哲もない便箋を買ってきた。ついでに買ったホットコーヒーを飲みながら家路につき、出る前に暖房をつけていた部屋に入る。コーヒーの入っていた紙コップを潰して捨てて、ダウンを脱いでベッドの上に置く。丁寧に手洗いうがいをした私は、綺麗になった机の上に、便箋とボールペンを置き、深く呼吸をした。落ち着くための煙草は、もう必要なかった。
私は、遺書を書くつもりでいた。
その遺書は、親でもなく、詩織や北川宛てでもなかった。この世界に生まれ落ちた証を残したいわけでもない。私は、私のために遺書を書こうと思っていたのだ。これは、世界でたった一人の、私という存在のためだけに書かれる遺書である。だが、私以外の誰かが読んでもいいように、その誰かが読んだ時に私の考えが伝わるように、丁寧に書こうと思った。私一人が想定される読み手ならば、そんな必要はない。私の支離滅裂な文章を読んで、「なんだこの駄文は」と丸めて捨てられても本来は構わない。しかし、それではあまりにも寂しい。これから書く遺書は、誰にも読ませるつもりのない秘密であると同時に、私と同じような悩みを持った者にだけは伝わる物語になる必要があった。小さい頃、友達と噂話を楽しんでいたことがある人なら誰でもわかるだろう。秘密はいつだって、曝露されるかもしれないという恐怖に怯える一方で、物語られることをどこかで望んでいるのである。
「私は、半分死んだの」
そう言っていた彼女は、瑞々しい葉のように、本当に綺麗だった。半分死んだ、と聞くと、生気がなくなり、見るからに亡霊のようになってしまった姿を連想しそうなものだが、彼女は違った。むしろ、誰かの魂のようなものを半分吸い上げてしまったのではないか、と錯覚するほど生き生きとして見えた。彼女の言う通り、半分の彼女が死んだというなら、その死んだ半分の彼女の魂のようなものが、逆に誰かの肉体へと入っていったのだろうか。魂や精神といったものは、脳内の化学反応で説明がつくらしいが、そういったものとは次元の違う世界を、彼女は羨望していた。
「ごめんなさい。幸せになってね」
そう言っていた彼女は、可憐な花のように、実に幼気だった。彼女との約束を果たしたかったが、私にはその自信がなかった。どんなに憂鬱なときでも、この醜い世界のどこかで、彼女もまた生きている、と思うと、私はどんな夜だって乗り越えることができた。私の愛した彼女はいなくても、彼女の外見を完璧に真似た存在、というだけでも、十分であった。勿論、私はずっと、私の愛した彼女に会いたかったし、私の愛した彼女が生きている世界にいたかった。だが、それが適わなくても、彼女と交わった私から微かにする柚子の残り香が、私を幸せにさせた。
誰かに向けたものにするつもりがなくても、ペンを構えて様々なことを思い返すと頭に浮かぶのはやはり二人のことであることに、私は一人笑ってしまった。私は気を取り直して、遺書の構成をどうしようか再び考え直す。大学に入ってから今日に至るまでのことを、独白するようにつらつらと書けばよいのだろうか。なにぶん遺書を認めるのは初めてのことで、勝手がわからない。とりあえず、考えているだけでは始まらないと思い、私はペンを動かした。
「これは遺書である。これを読んでいるということは、私はもうこの世にいないだろう。」
流石にナンセンスである。こんな書き出しから始まるなんて、荒廃した世界が舞台のアメリカドラマの見過ぎである。私は紙をくしゃっ、と丸めて、遠くにあるゴミ箱に向かって投げる。内側の壁にぶつかり、丸めた紙は綺麗に入っていく。私はボールペンを何回かノックした後、再び書き出す。
「これは、全て私の主観をもとにして書かれたものであり、その客観性及び」
私は馬鹿馬鹿しくなって紙を切り離し、また丸めて捨てる。今度はゴミ箱から大きく逸れ、壁とゴミ箱の間に入ってしまった。遺書に書かれている内容が主観的なのは当然であり、今更書く必要などない。それに、このように堅苦しい前書きから始まる遺書なんぞ、誰かが見つけてくれたとしてもきっと読み進めるわけがない。駄文以前の問題である。そこまで考えて、私はふとしたことを思いつき、不安に駆られる。
そもそも、人の遺書など、興味津々に読み進めるものだろうか。人気の芸能人や著名な文豪のものならまだしも、私は名も知れぬ一人の学生である。以前、高校生が凄惨な事件を起こした後に自殺するというニュースが世間を賑わせたことがある。その高校生は、いわゆる「エリート」の家系に生まれ育ち、成績優秀な子だった。事件を起こす前に用意されていた遺書も、嫌味なくらい淡々と、理知的に書かれていたのだが、それが一層事件の残虐性を増幅させていた。遺書は各メディアで公開され、彼はいち学生であったが、文字通り殺人的なカリスマ性で、特定の界隈で神格化されているほどであった。
しかし、生憎私は「エリート」というような環境で育ったわけでもないし、成績も、優秀だと自ら言って胸を張れるほどのものでもない。かといって、何か事件を起こしてやろうというような気も起きない。殺したいほど憎い人など、そういないものである。そのような私が書いた遺書など、私以外の読み手を想定するだけ無駄なのではないか。
こうして書きあぐねていると、そのうち遺書を書こうという気持ちすら翻意してしまいそうなものである。そこで私は、とりあえず便箋を脇に置き、書き終わった遺書を入れる予定の封筒に、筆ペンで「遺書」と書くことにした。筆ペンのキャップをきゅぽっ、と外したその刹那、稲妻のように劇烈な悪巧みが私の脳裏をよぎる。私は荒くなる呼吸を落ち着けながら、徐に筆先を紙に置いた。
青春革命 村川淳 @Jun_Murakawa
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