第10話
彼女は、私の申し出を断り、結局全額出してくれた。そして、
「いいのよ、私が誘ったお店だし。すごく楽しかったわ。私ね、何度か他の人とこのお店に来たことあるけど、三杯目を頼んだのはあなたが初めてよ」と言うのであった。ホテルまでの道のりは、新幹線の車窓から見る景色のように、ものすごいスピードで流れていき、あっという間に感じられた。彼女が予約してくれていたホテルは、エントランスに大きなクリスマスツリーが置かれていて、電飾の代わりに生花が飾り付けられていた。全体的に優雅で控えめな雰囲気のなかで、そのツリーが一際強調されていた。ゆったりとした曲調のクラシックがかかっており、彼女はそのテンポに合わせるように歩いていた。
「すごいな、随分高級そうだ。いくらだった?」
「あなたがお金のことを気にする必要はないわ」
「そういうわけにはいかない。流石にここの料金は出す」
「律儀ね、じゃあチェックアウト時にお願いするわ。」彼女は鍵を受け取り、エレベーターへと進む。明日の朝食はビュッフェよ、早起きして楽しみましょう。彼女はエレベーターが一階に近づいていることを知らせる電光掲示板を見ながらそう言った。
部屋につくと、玄関からすでに大きなベッドが見え隠れしていた。そのさらに奥には雪に彩られた夜景が広がっており、それを緩りと望めるチェアとテーブルがあった。テーブルの上には灰皿があったが、部屋からは煙草の匂いも、それを掻き消す強烈な芳香剤の匂いもしなかった。
「こんなにいいところだとは思っていなかったわ」彼女は部屋の奥へと進み、夜景が見える窓の淵に手をかけて言う。
「本当に綺麗だ。それに、すごく静かで」私は彼女の横に立って、彼女と同じ景色を見て言う。
「こんなに静かだと、今世界にいるのは私とあなたの二人だけになってしまったような錯覚をする」
「あるいは、本当に俺たち二人だけになってしまったのかもしれない」私達二人は互いを見つめ合う。
「ロマンチックな雰囲気になるには、まだもう少しだけ早いかな」彼女はさらっと私の視線を躱すと、クローゼットに向かってコートを脱ぎながら向かった。私もそれに続いて、ダウンジャケットを脱いで、ひとまず背の低いチェアの背もたれに掛ける。
「ねえ、バスルームを見に行ってみない?それとも、あとで一緒に入る時までとっておく?」
「なんで一緒に入ることが前提なんだよ」
「そう、あなた、お風呂は別々に入る派なのね」私は彼女の冗談に付き合う気がない、とでもいう風に、素っ気なく
「ほら、見に行かないのか」と言い放ち、ベッドルームを出てバスルームへと向かった。彼女が後ろからついてきていることを確認し、二人でドアの前に立つ。壁と同じように真っ白なドアを開けると、左手にトイレと洗面台、右側に広々としたバスがあった。その間はガラスの壁で仕切られており、私はなんとなく恥ずかしい気持ちになった。
「なんか、高級ホテルのバス、って感じがする」彼女は素直な感想を述べる。
「ここまで広いトイレだと、逆に落ち着かないな」
「あなたがシャワーを浴びている時、トイレに行きたくなったらその時は仕方ないわよね」
私達は満足して、また景色の見える窓際に戻った。彼女は、なんだか疲れたな、と言ってふかふかのチェアに腰を掛ける。私は一度彼女の傍を離れ、部屋に備え付けのインスタントコーヒーを二人分淹れる。
「ありがとう。いい香りね」
「砂糖とかはどうする?」
「ミルクだけでいいわ」私は、ミルクを一つ手に取り、ティースプーンと一緒にソーサーに乗せる。慎重に運び、テーブルの上に二つ並べた。
「助かるわ。丁度、食後のコーヒーを飲みたかったところなの」彼女はミルクを入れる前に、スプーンでコーヒーをくるくるとかき混ぜる。コーヒーの中心にうっすらと渦ができると、彼女はスプーンを抜いて、そこにミルクをゆっくりと入れる。
「こうするとね、落ちていくミルクが、綺麗な円を描きながら、段々とコーヒーに沈んでいくの」彼女は、まだミルクが疎らに混ざりきっていないコーヒーを大事そうに飲む。
「美味しい。あなた、バリスタになったら?」
「ただのインスタントコーヒーだよ」
「あなたが淹れると、すごく美味しい」彼女がそう言うので私も飲んでみたが、特別美味しいと感じるようなところはなく、ごく普通のインスタントコーヒーの味がした。
「ねえ、さっきの話に戻るのだけど」
「さっき、っていつの話?」
「私に誘惑の声が聞こえていた、という時の話」ああ、その話ね。私はコーヒーカップを置いて、彼女の方を見る。
「あなたは私のこと、頭のおかしい人、だと思う?それか、精神を病んでしまった人」
「いや、別にそうは思わないよ。俺にその声は聞こえたことはないけど、なんとなく気持ちはわかる。破滅願望、っていうのかな。時折、無性に死にたくなることがあったから」
「あなたはそう言ってくれると思った」
「それって褒め言葉?」私はそう言って外の景色を見やる。
「死にたい、というか、消えたい、に近いかな。俺が死ぬと、きっと親は悲しむ。俺のことを友達だと思ってくれているやつは、あいつの分まで生きてやろう、って言って、多分葬式で泣く。そういうのは嫌だったんだ。別に俺は、親の幸せのためでも、友達の人生観のために生きているわけではない。なのに、死んだときのことを想像すると、どうしてもそういうことがちらつく」
「だから、最初からこの世にいなかったらよかったのに、そう思って、消えたくなった」
「ああ。別に明確にこの世に絶望しているわけじゃない。親のことは、まあ普通に好きだし、友達と遊んでいた時の記憶は、俺にとって大事なものであることに間違いはない。だけど、わけもなく、何かの発作みたいに不意に消えたくなった。あるいは、俺以外の全てが消えてなくなってしまえばいいと願った。なんていうか、全部を気持ち悪く感じてしまう時があったんだ。下品なドッキリを仕掛けるバラエティ番組も、コンビニの喫煙所でスマホを弄りながら煙草を吸うサラリーマンも、ぐでんぐでんに酔って女子と肩を組んで写真を撮る友達も、目に入るものすべてを忌む自分自身でさえも」
「今のあなただったら、せめて私だけは消さずに残してくれる?」彼女は私の手を取り、両手で包み込んだ。彼女の手はやはりひんやりとしていて、気持ちよかった。
「きっと残すよ。俺は二分の一の自分を消して、半分同士の俺と君で、一になる」
「嬉しい」彼女は包んでいた私の左手を上向きにし、少し汗ばんだ手のひらに口づけをした。
「そうだ、お風呂にお湯を張ってくるわ」彼女は思い出したかのように、バスルームへと向かった。
私は、ダウンの内ポケットからライターと煙草を取り出す。箱から一本取り出し、口に咥えたところで、彼女が戻ってきた。彼女は、アッシュグレーのタートルネックニットに、白色のリブスカートを合わせている。ニットがだぼっとしている分、スカートがきゅっと締まっていて、脚のラインが綺麗だった。私はこの部屋に入るまで、彼女のことをほとんど見ていなかったことに気がついた。同時に、彼女が夏に着ていたレースの黒いワンピース姿を思い返していた。
「一服する前に、渡したいものがあるの」彼女はチェアに腰掛け、脇に置いていたバッグを膝の上に乗せる。私は咥えていた煙草を置き、手に持っていたライターをその横に添える。
「メリークリスマス。開けてみて」彼女はティッシュボックスくらいの大きさの包みを取り出す。綺麗な赤い外箱で、仰々しいラッピングはされていない。私はそっと蓋に手をかけ、ゆっくりと開ける。
「私にはもう必要のなくなったものだから」彼女はそう言って、私の反応を伺っている。蓋を完全に開け、中を見てみると、その中には、なにやら苔のようなものが袋に詰められているもの、RAWと書かれた、付箋くらいの大きさのものが二種類、円柱形の缶が一つ入っている。
「なにこれ、一体」薄々勘づいていた私の喉は乾き、声が掠れる。
「あなたの想像するところよ」
「ちょっと待ってくれ、こんなもの受け取れない」私は箱の蓋を閉じ、そのまま彼女の方に押し返す。
「どうして?趣味に合わなかった?」
「趣味とかそんな話じゃない。こんなの犯罪じゃないか」
「じゃああなたの右手の方に置かれているそれはなに?」私は視線を落とす。青いパッケージのアメリカンスピリットと、オレンジ色の百円ライターが並んでいる。そして、胃の中にあるごちゃ混ぜのカクテルを思い、自分の呼気に含まれる熱に意識が向く。
「それとこれとは次元が違う」私の目は泳ぐ。
「どう違うの?」
「地元に帰れば、みんな平気な顔をしてお酒を飲んでる。煙草だって吸ってる。でも」
「でも大麻はみんなやっていない。本当にそう?あなたが知らないだけで、智樹君もやっているんじゃない?それに、みんながやっていればあなたもやっていいことになるの?それがあなたの言う、次元、という言葉が意味するところ?」
「そんな矢継ぎ早に聞かないでくれ、今少し戸惑っているんだ」私が呼吸を落ち着けていると、彼女は箱の蓋を開け、中身を一つずつ取り出していく。基本の色は銀で、中が見えるように前面だけが透明になっている袋に入った、苔のようなもの。NIVEAクリームの青缶を三段重ねて、一段毎に色を変えて全体としてフランス国旗を模したように塗られた鮮やかな缶。油取り紙のようなサイズのものと、板ガムのようなサイズで扇形の、RAWと書かれた巻紙。
「確かに、法を犯している」彼女は箱の蓋を閉め、両手で箱を撫でながら言う。
「でも、法律なんて関係ないわ。あなたと私しかいない、この狭い部屋の中では」確かにそうかもしれない。私は彼女の華奢な手をずっと見つめている。
「大丈夫よ、大麻はあなたが認識しているほど危ないものじゃない。その代わり、あなたが思うほど素晴らしいものでもないけれど」私は大麻の入った袋を手に取る。袋の開け口の部分はチャックが付いていて、シールが貼られている。裏面を返すと、なにやら英語で沢山書いてある。真面目に英語を勉強しておくんだった。私は袋をテーブルの上に戻す。
「依存性とか、大丈夫なのか」今度は缶を手に取ってみる。そこまで重くはなく、缶の一番上にはレバーのような、取手が付いている。手動の鉛筆削りのような具合である。
「ないことはないけど、お酒や煙草に比べたらずっと少ないわ。実際、かつての使用者である私は、それをあなたに譲り渡せるくらいには自制できている」私は缶をテーブルの上に戻す。呼吸は落ち着いてきている。
「使うとどうなるんだ。ハイになったり、幻覚を見たりするのか」私は巻紙を手に取る。中を開くと、本当の油取り紙のように、薄茶色っぽい薄い紙が、一枚ずつ取り出せるようにピラピラと浮いている。
「それは覚せい剤の効能ね。大麻はむしろ穏やかな気分になるの。幻覚を見る、ということも、例としては存在するらしいけど、滅多にない」私は巻紙をテーブルの上に戻し、彼女に視線を移す。
「なんで俺に勧める?」
「あなたにも、半分になる感覚を少しでも味わってみてほしいの」
「これを使えば、その感覚が味わえるのか?」
「実際のセックスに対して、マスターベーションくらいの位置づけかしら」
「ほとんど別物じゃないか」私はまたもマスターベーションで例える彼女が可笑しくて笑った。
「それでも、興味はない?あなた、私と一つになってくれるんでしょう?」彼女はそう言うとやおら立ち上がり、そろそろシャワーを浴びてくるわ、とベッドの上のタオルを手に取った。
「ゆっくり入ってきて構わない。色々考えていたい」
「それじゃお言葉に甘えて。久しぶりに足を伸ばしてお湯につかれる」彼女は鼻歌を歌いながら、バスルームへと消えていった。私はテーブルの上に並べられた彼女のクリスマスプレゼントを見て、深いため息をつくのであった。
「あーあ、このまま夜が明けなかったらよかったのに」詩織が横で駄々をこねるようにして言う。
「夜が明けたら、詩織は別の人になってしまうから」
「余裕そうに言うけど、君は悲しくないの?こーんなに熱い夜を過ごした私が、いなくなっちゃうんだよ」
「大丈夫だよ。今夜は君のことをずっと抱きしめて寝るから、君が誰かに殺されることはない。俺が追い返すよ」私は彼女の方に身体を向け、右腕を彼女に回す。
「絶対?」彼女は私の右腕を両手でか細く掴む。
「絶対」私は彼女の頭の下にある左腕を肘から曲げ、彼女の二の腕に触れる。
「ねえ、時々でいいから、私のことを思い出してね」彼女は潤んだ瞳を私に向ける。
「もちろん。電話もするよ」
「ううん、そこまでしてくれなくていい。ただ、ふとした時に思い出してほしい。季節の変わり目に弱くて、すぐに風邪を引いてしまう私のことを」彼女はそう言って、わざとらしく咳をする。
「思い出すよ。今度帰省するときはきっと冬だから、詩織が風邪をひかないように、マフラーをプレゼントする」彼女は私に身体を向け、二人で抱き合う格好になる。暫くの間、私達はただ抱き合い、心を通わせようとしていた。沈黙が続く。
「もう寝ようか、おやすみ」そう言って、私は彼女の額にキスをした。彼女は何も答えなかった。
「いい夢を。おやすみ」私は彼女をぎゅっと抱きしめながらもう一度言った。
彼女はまた咳をしたが、今は季節の変わり目ではなかった。
「私、馬鹿だった」とうとう彼女が言った。
「ごめんなさい。幸せになってね」彼女はそう言って、私の鎖骨にある黒子にキスをした。
シャワーから上がった彼女は、長くて綺麗な黒髪をタオルで抑えるようにして拭きながら、白いバスローブを纏っていた。
「早かった?」メイクを落とした彼女は、少し幼く見えた。花のような香りが漂わせながら、彼女はドレッサーの前に座る。
「いや、十分だ」
「どんなことを考えていたの?」彼女は鏡越しに私を見る。一瞬、いつかの情景と重なったが、私は怯むことなく、彼女と目を合わせる。
「この世で、たった一人の、ある女性のこと」
「私だったら、どんなに嬉しいことかしらね」彼女はドライヤーを点け、ぶおーっと大きな音を立てて髪を乾かし始める。私はバスが冷めぬ内に、と思い、ベッドの上のタオルとバスローブを持って、ベッドルームを出た。
扉を開けると、温かく湿った空気が体の表面を包んだ。彼女から微妙に香った花の匂いが強く残っていて、足ふきマットが少し濡れていた。私は籠にタオル類を入れ、雑に衣服を脱ぎ捨てる。バスルームへと行くための、もう一枚の重たいガラス扉を開け、濡れた床に足をついた。シャワーを出し、手に当てて温度を確かめる。いつも浴びているのよりも少しぬるいが、構わず全身を濡らす。指の腹で頭皮をマッサージする。シャンプーをしながら、身体を洗いながら、洗顔をしながら、私はシャワーを浴び終わったときのことを考えていた。部屋に戻ったら、彼女はもう一度大麻を勧めるのだろうか。それとも、あなたには早かったわね、そう言ってなかったことにするのだろうか。私自身、彼女の行動に対してどう返すのだろうか。大きな湯船につかり、重たくなる頭をお湯に沈めた。顔を水面から出し、手で顔の水気を切ると、その拍子に自分の手から彼女と同じ匂いがすることに気がついた。私は暫くその匂いを嗅ぎながら体を温め、そろそろ彼女の髪が乾くころだろう、という時を見計らって湯船から上がった。
体を拭き、私は全裸のまま洗面台に向かう。コップを見ると、既に一度使われた歯ブラシが入っていて、凹んだ小さい歯磨き粉のチューブがその横に置かれていた。私はそのすぐ傍にあった新しいハミガキセットの封を切り、歯磨き粉をつけ口に咥える。鏡を見ながら丁寧に歯を磨く。泡立ちが悪い歯磨き粉は、そこそこ私の頭をスッキリとさせてくれた。舌を磨く時に、不意に嘔吐いてしまったが、私は実際に吐くまでには至らず、彼女と同じバスローブを着て先ほどの部屋へと戻った。
「バスローブ、案外似合うわね」彼女は、私が座っていた方のチェアに移動していた。テーブルの上には、さっきと同じ状態でプレゼントが広がっている。
「言い損ねていたけど、君も似合ってるよ」私はドレッサーの前に座り、ドライヤーを手に取る。
「結構長いこと入っていたようだけど、決めたの?」私はそれに答えず、髪を乾かし始める。彼女は鏡越しに私を覗き込む。私の次の一言を健気に待っている。
「ああ」私はドライヤーのスイッチを切り、彼女のもとへと移動する。彼女が私のいたところに座っているので、自然とさっきとは反対側のチェアに腰を掛ける。
「…教えてくれ。どうやって吸うんだ?」彼女は嬉しそうに説明を始めた。「言っておくが、この一回きりにするつもりだ」私の言い訳を、彼女は「はいはい」と軽くあしらう。
「じゃあ、私も一回だけしか説明しないわ。いい?この袋に入っているのが大麻。でもこのままだと燃焼にムラができてしまうから、このグラインダーという器具を使って粉末状にするの」彼女はフランス国旗の三色で塗られた感を手に持って、一番上、青い段をくるくる回し、真ん中の白い段と分ける。
「一段目を開けてるとほら、とげとげしてるでしょ?ここに、大麻を入れて、また一段目をつけて、取っ手を回して砕いていくの」彼女は慣れた手つきで袋から、一口サイズのブロッコリーのようにまとまった塊を取り出し、軽くほぐしてからグラインダーの二段目に置いて蓋をする。
「これでセット完了。回してみる?」私は彼女からグラインダーを受け取り、落とさぬように慎重に持った。恐る恐る取手に手をかけ、力を入れる。ゴリゴリとした感触が手に伝わり、休み時間に鉛筆を削っていたセンター試験を思い出した。
「これどのくらい回してればいいんだ?」
「そのうち削るときの抵抗がなくなるから、それまでね」彼女の言う通り、取手を回しても手応えがなくなった。私は彼女にグラインダーを返す。彼女は、今度は一番下の赤い段を回し、二段目と分裂させ、カンカンと軽く白い段に残ったものを叩いて落とした。そして、赤い段を私の方に傾けて中を見せる。黄緑色の、ポロポロとした粉が溜まっていた。彼女はそれをテーブルに置き、今度は小さいほうの巻紙を手に取る。
「なあ、なんでサイズの違う巻紙が二種類あるんだ?」
「この小さいほうは、クラッチっていうの。巻紙は大きいほうだけね」彼女は扇形の包みから、しゅっ、と一枚の厚紙を取り出す。標準的なサイズの付箋くらいの大きさで、形もよく似た長方形である。短い方の辺の片側を、彼女は三回ほど蛇腹折りして、反対側の折り目を付けていないところを、テーブルの角を使って丸みをつける。そして、蛇腹折りがされているところを畳んで、丸みをつけた方に向かってタイトに巻いていく。
「クラッチ?っていうのはなにに使うんだ?」
「煙草で言うところのフィルターね。吸引した時に草自体を吸わないようにするの。これがあるとロール全体が安定して持ちやすくなるし、巻く時にもやりやすくなるわ」彼女は出来上がったクラッチをテーブルに置き、巻紙を手に取る。
「初めてだと上手く巻けないと思うし、私がやっちゃってもいい?」
「見てるよ。頼む」
彼女は、若干透けるくらい薄い、クリーム色のペーパーを一枚取り出し、真ん中で谷折りをする。人差し指と中指の間にその折目を挟むようにして置き、グラインダーの赤い段に入っているネタを均等にペーパーの上に乗せていく。片側の端っこのスペースを少し空けているのは、クラッチを最後に置くためだろう。
「人に見られながらするのって、緊張するのね」彼女はクラッチを端に置き、それを起点に、挟んであるネタをペーパーの上から擦り合わせて纏める。ある程度ネタがまとまり、ペーパーにも癖がついたところで、クラッチの方から紙を中に巻き込んでいく。スーッと梳くようにして、クラッチ側から反対側にかけて優しく畳目をつける。末広がりのロールを、彼女は口元に運ぶ。テカテカとした糊代を舌先で濡らすと、くるりと最後の一巻きをして、綺麗なロールが出来上がった。彼女は、クラッチを下にしてテーブルにとんとんと軽く叩いて、ネタをクラッチ側に寄せる。先の方で余っている部分のペーパーをくりくりと捩って、
「はい、出来上がり。意外と綺麗に巻けたわ。基本的にはこの状態になったものをジョイントと言うわ」と言って私に差し出した。私はそれを受け取り、まじまじと色々な方向から凝視する。彼女の唾液でほんの少しだけ湿ったロールを鼻に近づけ、私は匂いを嗅いだ。
「青臭いな」
「匂いは割と好き嫌いが別れるわね。実を言うと、私はそこまで好きではないわ」私はジョイントをクラッチ側から咥える。アメリカンスピリットの横にあるライターを手に取り、徐に火を点けた。ジョイントの先が、じじ、と一気に燃焼する。私は普段煙草でそうしているように、一吸目を吹かし、ぱっと煙を吐く。色の濃い煙が顔の前に拡散する。一瞬にして、青臭さが強くなり、彼女が苦手だと言う理由がわかる。
「煙草よりも気持ち、少なく、ゆっくり吸うのが美味しく吸うコツよ」私は言われた通り、まずは緩慢に息を吐き出す。再びジョイントを咥えて吸引し、少しだけ口の中に煙をため、ジョイントを口から離し、ぽっ、と口を窄めて開ける。そのまま、ほーっ、とゆっくり息を吸い込む。重たいキック感が喉とその奥の気道に当たる。煙が肺にしっかりと吸着したことを確認し、また、ふーっ、とゆっくり息を吐き出す。自分の呼気の匂いを嗅ぐと、青臭さに混じって、香辛料のようなスパイシーな匂いを感じる。シナモンが近いかもしれない。辛い香りに混じって、懐かしい甘いような香りも仄かにする。私はその匂いの正体を確かめるように、もう一度悠々と吸引をする。口から煙を吐く時、口を何度か閉じて、口の中で滞留する香りを鼻に送る。悪くない匂いだ。今まで嗅いだことがないほど青臭いが、全体としてはそこまで嫌いになるほどでもない。ふーっ。すーっ。ぽっ。ほーっ。ふーっ、ぱふ、ぱふ。
ふーっ。すーっ。ぽっ。ほーっ。ふーっ、ぱふ、ぱふ。
「なあ、どこに行くんだ?」北川はバッグから巾着袋を取り出し、そのままバスルームの方へと歩いていく。
「女の子にはいろいろあるの」彼女は振り向きざまに答える。
「そうだよな、女の子にはいろいろあるよな」私はそんな日に会ってくれた彼女に心の中で感謝する。窓の外を見ると、深々と雪が降っている。サンタクロースが、この街に住む全ての人に平等にプレゼントをくれた。夜景として輝いている一つ一つの光の下には、今日という日を、最愛の人と過ごせることを、生きていることの喜びを祝福する命の灯が溢れている。素晴らしいことだ。素晴らしくて、なんと美しいことか。ふーっ。すーっ。ぽっ。ほーっ。ふーっ、ぱふ、ぱふ。
「お待たせ」彼女は巾着袋片手に部屋に戻ってくる。鼻を指で抑え、すん、すん、と息を吸っている。
「風邪か?今夜は冷えるもんな」
「バスルームがちょっと寒くて。ベッドに入って温まらない?」そうだな、温かいほうがずっといい。私は短くなったそれを灰皿にぐりぐりと押し付け、彼女と同じベッドに入る。枕が二個あるのに、ベッドは一つなんだな、これ。北川、俺と寝たかったの?いいよ、俺北川のこと、めっちゃ好きだし。というか、今日ですごく好きになった。お前は綺麗だよ。
「ありがとう。あなたの胸の中、温かい」そう?俺からしたら、お前の方が温かいよ。生きてる、って実感する。北川の鼓動が伝わってくるのが、すごく嬉しい。
「私にも聞こえてるよ、あなたの鼓動」そうだよな、俺も生きているんだ。なあ、北川、生きているって素晴らしいことだよ。そりゃ、辛いことだって沢山ある。耳を塞ぎたくなるようなニュースも。でも、でもさ。俺には北川がいる。それだけでいいんだ。
「なんだか、詩織さんに悪いわ」詩織?そうだね、詩織のことも好きだよ。あの日の詩織のことは絶対に忘れられない。だけど、今の俺は北川と一つになりたいんだ。今なら、俺も半分になれそうな気がする。
「ねえ、私達、幸せになれるよね」なれるに決まってるさ。出会ってばかりの今がこんなに幸せなんだもの。これから沢山の幸せが俺達を待っているんだ。どんなに辛くたって、お前が隣にいてくれるだけでいい。
「子どもは好き?」好きだよ。北川との間にもしできたら、多分俺は世界で一番の愛情をその子に注ぐよ。
「じゃあさ、つくっちゃおうか、私達の子ども」つくるって、今ここで?
「ええ。愛してくれるのよね、私のことも、二人の間の赤ちゃんも」そりゃ、愛すよ。え、でも、今ここで?
「そう。性の六時間って知ってる?そのためにこんな素敵なホテルをとったの」いや、でもまずいって、もし本当にできたら、いろいろと面倒なことになる。
「大丈夫よ、一回でなんてできっこない。あなたを揶揄って言ってるの」そんなものなのか?でも俺、ちょっと不安なんだけど。本当に平気よ。言ってなかったけど、私生理が重くて、ピル飲んでるの。だから、ね。なら最初から言ってくれよ、びっくりした。ごめんなさい、戸惑うあなたが可愛くて。わかった、いいけど、できれば早くやろう。さっきからなんか、すっごく眠いんだ。喉も滅茶苦茶に乾いて、ん、って、急にキスするなよ。えへへ、あなたが早くやれって急かすから。仕方のないやつだな、お前は。好きよ。俺も好きだ。愛しているわ。俺の方がずっと愛している。幸せ。幸せ。離れないで。離れないよ。離れない。
翌日、私は頗る快調に目を覚ました。ここ一年間に積み重なった全ての睡眠負債を一晩で返済したような、清々しい朝だった。スマホで時刻を確認すると、六時四十分だった。窓から差し込む朝日が、部屋全体を照らしていた。彼女はもう起きているらしく、窓際のチェアで本を読んでいる。ベッドからではタイトルまではわからないが、古びた外観の文庫本だった。テーブルの上には、昨日のプレゼントが元の箱に全て仕舞われており、昨晩の出来事は全て夢だったのではないかという錯覚に襲われた。彼女はむくりと体を起こした私に気がつき、ぱたん、と本を閉じた。
「おはよう、朝からなんの本を読んでいたんだ?」
「おはよ、なんでもないわ」彼女は本をバッグの中に仕舞うと、
「朝食に行きましょう。着替えて、顔洗ってきなさい」と言って、白い雪が精巧なガラス細工のように光を乱反射しているクリスマスの朝を眺めた。私はバスルームへと向かい、洗面台で顔を洗う。タオルで顔を拭き、ついでに歯も磨く。私は脱衣場に抜け殻のようにして落ちている自分の衣服に着替える。鏡を見て、ぷつぷつと伸びている髭を確認していると、彼女がバスルームの扉を開け、私に呼び掛けた。
「そろそろ準備はできた?」
「できてるけどさ、ノックくらいしろよな」
「あら、今更見られて恥ずかしいところでもあるの?」彼女は、さ、行くよ、と言ってキーをくるくると指で回しながら玄関へと向かう。
「あのさ、北川」私は彼女を呼び止める。
「何かしら?」彼女はすん、すん、と鼻を啜りながら、顔だけを扉から私に見せる。
「いや、何でもない」私は恥ずかしい気持ちになって、顔を紅潮させて彼女から目を逸らす。
「初々しいカップルみたいだわ」彼女は私を揶揄い、顔を引っ込める。私も彼女の後ろに続いて玄関へと向かった。
「ビュッフェなんて久しぶりだよ」
「どちらが沢山食べられるか、勝負する?」彼女は扉を開けながら振り向く。
「言ったな、何を賭ける?」
「自分の半分、なんてどう?」彼女は悪戯っぽく笑った。
チェックアウトをするためにエントランスで受付をすると、清潔な身なりをしたホテルマンは、ただルームキーを受け取るだけで、料金の支払いは求めてこなかった。
「なあ、どういうことだ?」
「私ってスマートでしょ?あなたも好きな人ができたら、これくらいしてあげなさい」彼女は、駅まで送るわ、と言ってスタスタと出口へ向かって歩き出す。
「ありがとな、今度は、俺がもてなすよ」彼女は足を止める。
「期待しないで待っているわ」私に背を向けたまま、彼女はそう言った。
結局、私は彼女のプレゼントを受け取らなかった。大体、何も包まれていない箱を小脇に抱えて持ち帰るのは怖くてたまらない。それに、確かに楽しい体験はできたが(彼女はそれをトリップと呼ぶことを私に教えてくれた)、ともかく、もう十分であった。非合法なものを持っている、となれば、私の挙動はひどく不審なものになるだろう。職務質問を帰りでされたら、そう考えて、私は彼女の有難い、有難迷惑なプレゼントを丁重にお返しした。
「まあいいわ。それで、なんとなく私の気持ちがわかった?」
「北川が言うような感覚かはわからないけど、不思議な気持ちになったのは間違いない。五感が研ぎ澄まされて、なのに自分と世界の輪郭がぼやけていって。心の底から、目に映る世界を愛おしい、って思った」もしかしたら、あの時、私はあちら側の世界への入口のすぐ傍にいたのではないか、そんな気がした。
「それなら、もういいの」彼女はバッグを肩から下げて軽やかに歩く。
「北川と会えて、本当によかったよ」
「私も。もっと、私が早くこうなれればよかった」彼女は口をきゅっと結ぶ。駅はもう近い。
「過去を悔やんだって仕方ないさ。これから、その分余計に、楽しい思い出をつくればいい」
「トリップして、少し考え方が変わったんじゃない?」彼女は私の返答に、満更でもないような表情をする。駅前広場のクリスマスツリーは、昼間、電飾がまだ点灯していない時のほうが美しく見えた。
「それじゃ、体に気をつけて。もしかしたら年末年始、また会えるかもな」
「あなたこそ元気でね。ええ。連絡、待っているわ」私と彼女は軽い抱擁を交わす。
「本当に気を付けろよな、風邪、悪化しないようにさ」彼女は一瞬怪訝な顔をしたが、鼻をちょいと触ると、すぐに意味を理解したように、
「ありがとう、気を付けるわ」そう言って笑った。彼女は、こんなにも沢山笑う子だったのか。私は彼女の儚い笑顔を目に焼き付けるようにして見ながら、手を振って駅構内へと入っていった。雑多な人ごみの中、彼女の色白で冷たい手が、いつまでもひらひらと蝶のように舞っていた。
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