夜の海に漕ぎ出す

中村ハル

夜の海に漕ぎ出す

 波の音が聞こえた。

 コンクリートに跳ね返って、ちゃぷり、と分かりやすい水音をたてたのは、暗い水だ。

 東京の埠頭は、横浜や他の土地のそれと違って、開放感に乏しい。もっとも、そう思うのは、空が濃紺に閉ざされている所為かもしれない。

 ぼんやりとした細い月を貼り付けている夜空を見上げて、鈴木はほっと息を吐き出す。澄んだ空気の中に、呼吸の形が白く浮き上がり、溶けていく。ぶるりと身を震わせて、今さらのようにコートの襟を掻き合わせた。マフラーをしてくるのを忘れたようだ。

「荷物に入れたかな」

 片手に提げたボストンバックを見下ろして、首を傾げる。出かけにばたばたと慌てた所為で、何を詰めたのか碌に覚えていないが、気に入りのマフラーを首に巻くのは望めなそうだ。飼い猫が満足げな顔で、アルパカで編まれた塊の上に座り込んでいる映像が、朧げに見えた気がした。

 それにしても、遮る物のない海の風は、こうも寒いものだろうか。

 普段、海になど興味もない鈴木にとって、これが冬の水辺の通常なのか、今日が特別に寒いのかは判断がつかない。早く温まりたい、と見上げた視線の先には、明るく暖かそうな照明に彩られた大きな客船が揺れていた。

 コートの内ポケットを探って、チケットを確認する。やけに豪華な乗船券には、今日の日付と時刻が印刷されていた。埠頭の時計を確認すると、あと5分ほどで乗船開始だ。白い照明で目立つように照らし出された客船ターミナルには、ちらほらと人々が集まり始めている。

 ターミナルホールに着くころには、ちょうど乗船が始まるだろう。鈴木は爪先をくるりと回して、ターミナルに向かって無機質なコンクリートの道を歩き始めた。

 ふと気づけば、反響するように足音が二重になっている。何気なく首を巡らせて、鈴木はぎくりと肩を揺らした。

 鈴木の少し後ろを、誰かが着いてくる。そう思ったが、すぐに口元に苦笑が昇った。自分と同じ、乗船客だろう。

 警戒した鈴木に気づいたのか、それとも苦笑を挨拶と読み違えたのか、男は少し目元を和らげ鈴木を見返した。

「こんばんは」

 かけられた声は深く静かで、心地よい。挨拶を返して、鈴木は自分の身体を気まずげに見下ろした。

 船旅など初めての鈴木は、寛ぎやすい服装に着慣れたコートを羽織っただけだ。だが、やや大股にこちらに近づいてくる男は、洒落たフード付きの黒く丈の長いコートの下に、スタイリッシュなスーツを着ている。

「ドレスコードとか、あったんですか」

 乗船チケットを確認しようとしたが、暗くてよく見えない。慌てて尋ねた鈴木を安心させるように、男は大袈裟な身振りで手を振ってみせた。

「俺は仕事で」

 ほら、と片手で広げたコートの下のスーツの襟元に、ちかりと光を撥ねたのは小さなバッジだ。どこかの企業に属しているのだろう。

「大変ですね。こんな時間まで」

 慌てた所為で火照った顔を誤魔化すように、鈴木は平素にない気安さで、男に話しかけた。

「その分、明日の朝は遅いので」

「それは羨ましい」

「ですが、貴方だって、船旅でしょう」

 目を細めた男は、ポケットに手を突っ込んだ姿すら、この埠頭の夜によく似合っていた。

「……ああ、ええ、そうです。船旅だ。明日は仕事に行かなくていいんだった」

「お疲れみたいですから、ゆっくりと休んでください」

「ありがとうございます」

 微笑んだ鈴木の口が、何か言い淀んで、ぼんやりと開いた。

「休みだっけ……」

 手にした乗船チケットをじっと見つめる。そこには確かに今日の日付が記されているが、一体いつこの旅を計画したのか、さっぱり思い出せない。

 ターミナルの入り口は、一体どこから現れたのか、今まで閑散としていた埠頭のあちらこちらから集まってきた人々で華やいでいた。確かに、どの姿も、鈴木と大差のないカジュアルな出で立ちだ。けれど、一つだけ。

「あれ、この船、どこまで行くんですっけ」

 間の抜けた質問が口を突いて出て、鈴木は再びせり上がってきた焦燥を逃がすように男を見た。

 ターミナルを目指して歩く人々は、誰も彼もが大きなスーツケースを手にしている。小さな手提げのボストンバックひとつなのは、鈴木だけだ。

 ターミナルに横付けされた客船も大きく豪華で、これから幾日もかけて海を渡っていくのが、容易に想像できる。だとしたら、到底、鈴木の手にした荷物では事足らないのは目に見えている。

 そもそもこのバックには、一体、何を詰め込んできたのだっけ。

 鈴木の脚が、緩やかに立ち止まる。

 白い光に浮かび上がったターミナルは、もうすぐ目と鼻の先だ。人々の賑わう声が、夜の中に立ち昇っていた。

「僕は……」

 立ち止まってしまった鈴木の呟きを、ゆっくりと、男が振り返る。

「どこに行くんだっけ」

 本当に、明日は休みだっただろうか。

「どうしてここにいるんだ」

 荷物の中に何を詰めたか覚えていないんじゃない。そもそも、荷造りをした記憶も、それどころか、旅行の計画を立てたことすら頭のどこにも残っていなかった。

 指先が、ポケットの中の乗船チケットを探り当てる。引っ張り出した舟券は、やけに美しく箔で飾られて、実用的とも思えない。自分はこれを、どこで手に入れたのだろう。

 困惑した眼差しで、鈴木は男に向き直る。答えがそこにあるとでもいうように。

 じっと鈴木を見遣る男のコートが、風に翻る。黒く大きく広がった裾が、鈴木の視界を遮った。

「君、荷物は?」

 両手をポケットに突っ込んだ立ち姿は、絵のように様になる。ひっそりと笑った目元は、柔らかなままだ。

「俺は、仕事だから」

 静かな声は、波の音と人々のざわめきの隙間を縫って、すとんと耳に滑り込む。

 ぼう、と夜空を震わせて、汽笛が鳴った。

「さあ、時間です。行きましょう」

 男は滑らかな仕草で、片手を鈴木に差し出した。誘われるように、鈴木の身体がぎしぎしと前に進む。

「行くって、どこに」

 頭のどこかが、何かを拒み、踏み出した左脚が空で彷徨う。

「船旅ですよ」

 そうでしょう、と優しい微笑みが男の顔に広がる。諭すように、宥めるみたいに。

 海に浮かんだ客船に人々が乗り込んでいくのを眺めながら、鈴木は必死で頭の中を探っていた。今朝、マフラーに陣取った猫の背を撫でていたのは覚えているが、それから仕事に出かけて。

「どうしたんだっけ」

 帰宅した記憶が、なかった。いつものように、仕事をこなし、デスクで同僚と他愛のない会話をしながら昼を食べて、午後の仕事にかかり、それから。

 ずくん、と胸の真ん中が痛んで、鈴木はコートの上からぎゅっと服を掴んだ。

「僕は」

 零れ落ちた声は、掠れて揺れていた。手にしたボストンバックがやけに軽いのは、中に何も入っていないからだ。

 途切れた記憶の向こうで、床に崩れ落ちた自分を外側から眺めていたのを、思い出す。

 バッグの中には、あの時に身体から溢れ落ちた鈴木の魂だけが詰まっているのだろう。

「僕は……」

 ターミナルの灯りに煌めく乗船チケットの行先は、鈴木には読むことのできない文字で記されている。

 華やいだ声が降り落ちる大きな客船を見上げて、鈴木は呟くように、言葉を零した。

「僕が乗るのは、あの船ではないんですね」

 視界の片隅で、男が頷くのが見える。緩やかに伸ばされた男の指が指し示す先には、小さな船が波間に浮かんでいた。

 あんな小さな船で、一体どこに漕ぎ出そうというのか。船べりには無造作に、オールが一本だけ投げ出されている。

「さあ、もう時間です」

 そう急かす男の声は、けれどどこか柔らかく、鈴木の逡巡を受け止めた。

「君は、乗客ではないんだな」

 ぽつりと問うた鈴木に、男はまた微笑むばかりだ。黒いコートのフードを緩やかにかぶると、その姿は闇のように黒く、夜のように優し気だった。

「行きましょう」

 伸ばされた手が、鈴木の背を押す。

 黒い水の上に揺れる頼りない船に片足をかけて、鈴木はふと、空を見上げた。

「猫が……僕の、猫を」

 アルパカのマフラーにうずくまって、帰りを待っているはずの温かな塊。

「約束しましょう。安全な場所に連れて行きます」

「寂しがるだろうな」

「貴方のマフラーも持っていきます。お気に入りなのでしょう、彼の」

 頷いた鈴木の目から、一粒だけ、涙が零れて、海に落ちた。それは煌めく粒となり、海の中に溶けて混じる。

 乗り込んだ小さな船は、波に合わせて、ゆったりと揺れた。ちゃぷん、と水の跳ねる音が夜に響く。

 男がオールを手に取り、岸壁を軽く着くと、船は夜の中に滑り出す。

 広く昏い海原に、小さな船が旅立ち、やがて月明かりに溶けて消えた。

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