捨てる

遙夏しま

捨てる

 28歳になった私はその日、ネイルをしに行く予定をやめ、その代わりにミニマリストになるため断捨離と書かれた本を数冊買い込んだ。彼氏と会う約束もキャンセルして休日中、家にこもって本を読み込み、次の週から一人暮らしの部屋に溜め込んでいたあらゆるものを捨て始めた。


 ものを捨てようと思ったきっかけは特にない。


 なんとなく気分的に日々の生活が鬱陶しくなってきて、それが数年続いていたので打破したくなった。たまたまミニマリストとかそういうワードをよく耳にして、本屋さんで目についたのでやってみようと思った。それだけである。


 大学を卒業して就職してから毎日がだいたい同じルーティンだった。とはいえ時間に余裕があるわけもなく、プライベートを充実させるのに週末の42時間だけでは全然、足りず。月給18万円の手取りもその不足感に拍車をかけ、なんとなくずっとギリギリな、そして変わらない日々が続いていることに最近、耐えられなくなってきた。


 それでなんとなく捨てようと思ったのである。


 なんでも。

 あらゆるものを。


 もともと掃除や片付けが面倒くさい人間で部屋も散らかり放題だった。だから半分ゴミ屋敷で人も呼べない状態が続いていた。スマホでその現場写真を撮ったあと、大きなゴミ袋を30枚買ってきて、大きく息を吸って吐き、そして目に付いたものを片端から捨てていった。私はもともと何かを手放すのが得意ではないのだが、なぜか今は次々と捨てることができた。手始めにソファまわりにあったコンビニのゴミを捨て、次に小さなデスクを埋め尽くしていた小物類をいっせいに捨てた。


 あらかじめ参考書にリストアップされた、これさえあれば大丈夫といったアイテムをスマホに箇条書きしておいて、それ以外はどんどんと捨てていった。最初は捨てて良いのだろうかと多少どきどきしていた心臓も、額に汗かく頃になるとかえって心地よさを感じさせ、最終的には何を捨てても平然と脈打つようになった。


 私は片端から捨てる。


 アクセサリー。

 ひとつあれば十分。捨てる。


 洋服。

 そこまで見ている人はいない。最低限残してまた買えばいい。捨てる。


 ボールペン。

 1本あればじゅうぶん。捨てる。


 靴。

 仕事用とスニーカーの2足だけ。ドレス用はレンタル。捨てる。


 スーツケース。

 レンタルがある。捨てる。


 食器。

 1セットあればいい。客用は不要。捨てる。


 調理器具。

 いつも使う鍋とフライパン以外はどうせ使わない。捨てる。


 本、マンガ。

 読んだら捨てる。読んでないものは今後も読まない。捨てる。


 雑誌。

 読み返さない。欲しいなら電子版を買う。捨てる。


 メイク道具。

 いつも使う定番品以外いらない。捨てる。


 ヘアスプレー。

 シンプルにくしでとかしてゴムでまとめればいい。不要。捨てる。


 贈りものの写真立て。

 十分使った。捨てる。


 スポーツ用品。

 パジャマと兼用のTシャツ、短パンだけ残す。あとはいらない。捨てる。


 家電。

 色とりどりの多機能家電はいらない。鍋とフライパンでたいがい作れる。捨てる。


 掃除機。

 ほうきでじゅうぶん。捨てる。


 時計。

 携帯でわかる。捨てる。


 デジタル一眼カメラ。

 携帯で撮れる。捨てる。


 ソファ。

 床座で十分。捨てる。


 ベッド。

 布団のほうが場所もとらない。捨てる。


 年賀状。

 スマホに住所をひかえる。以後はメールかSNSで挨拶。捨てる。


 会社関係の書類。

 なくしてもなんだかんだ再発行される。謝ればいい。捨てる。


 デスク。

 ローテーブルがあればじゅうぶん。捨てる。


 下着類。

 5日分あれば洗濯してじゅうぶん足りる。あとはいらない。捨てる。


 卒業アルバム。

 写真を撮って電子化する。本である必要なし。捨てる。


 私は大汗をかきながらゴミをまとめ、毎週末を片付けと掃除に費やした。一ヶ月が経ち、ゴミ袋を買い足す必要が出たタイミングで、ふと部屋を見渡す。部屋は自分が住んでいた場所じゃないみたいにすっきりしていた。


 ものはそれでも部屋にまだあった。

 電子レンジ、冷蔵庫、洗濯機にテレビ。

 クローゼットにはカバン類がたくさん残っていた。


 次の週、私はテレビを捨てた。スマホで見ればいいのだ。カバンも仕事に使うものと買い物用の折りたたみエコバッグ以外は捨てた。そんな大層な場所へ出掛けることもない。必要なら買うか、借りればいい。


 部屋がすっきりすると不思議と心が落ち着いた。

 自分の部屋にいるときに感じる原因のわからない焦燥感が減り、自分がたしかに自分の足で立ち、自分の手で生活を成り立たせている実感が芽生えた。


 それは私が社会人になってから、初めて心を安定させた瞬間だった。


 ものを捨てだしてから仕事もシンプルに回るようになった。「これは私にとって必要か(捨ててもよいか)」と何ごとにつけても考えるようになったからだ。まず無駄な残業が減った。定時で帰れる日が多くなり、家に帰ってゆっくりと自分の時間をもつことができた。私は夕飯を終えてお風呂に入ると、テレビもソファもない部屋に布団をひいて、その上に座る。そしてゆっくりと本を読んだ。欲しい本を一冊だけ買い、読み終わるとすぐに捨てるか売った。


 一人暮らしの栄養管理の本を読み、最低限の買い物ですぐにできるシンプルな料理を実践するようになった。そうすると三段の冷蔵庫は一人暮らしの自分には大き過ぎることがわかった。同棲を始める友人に買い取ってもらい、そのお金で一段だけの小さな冷蔵庫を買った。


 次にミニマリストのお金のやりくりの本を読んだ。すると月18万円ではまったく足りないと思っていた収入が実は自分のやりくりで黒字に転じることがわかった。


 私はスマホの家計簿アプリをダウンロードし、銀行口座と連動させた。自動家計簿をつけ、自分のお金の流れを把握した。週末、無闇に外出するせいで買い物と外食で数万円ものお金を無駄にしていたことがわかった。月額1000円の映画見放題サービスへ入会し、友人と宅飲みをしながら週末映画を観て過ごすことを習慣にしたところ、週末の出費は月1万円を超えることがなくなった。


 月の貯金額が1万円、2万円、3万円と毎月、増えていった。


 私服が簡素になり、外食への付き合いが悪くなると、一部の友人は私に皮肉めいたことを言うようになった。「あなたの自由だとは思うけど、その生活はみすぼらしいわよ」とか「まぁ別に良いけど、不満の多そうな暮らしね」とか。人によっては「貧相」だとか「貧乏」といった直接的な言葉を投げかけてくる者もいた。

 私はたしかに簡素な服装をしていたが、身なりの清潔さは強く心がけてはいたし、むしろものを捨ててから、かえって部屋の掃除がいきとどき、とてもきれいな暮らしができていた。貯金も前より貯まっていた。お門違いな意見だった。


 私は最初のうちこそ、彼女たちに「まぁ私は好きでやっているから」とか「人によってはそう思うのかもしれないね」など言葉を返していたが、彼女たちの反応は変わることはなかった。結局、そういう付き合いに気を揉み続けるのもバカらしくなってきた頃、人間関係の整理整頓という本を読んで納得し、そういう人間関係とはもともと疎遠でしかるべきだったのだと、縁を遠くすることにした。しばらく会わない期間が続いたあと、私は携帯の連絡先から彼女らを消し着信拒否にした。なんの文句もなかったし、なんの問題も起きなかった。


 仲のいい何人かの友達は、私の暮らし方が変わっても相変わらず親しく接してくれていたし、むしろ敬遠したいと心の奥底で考えていた人間が減り、私の心は今までにないくらい快適になった。人間関係の整理整頓がこんなにも良いものだとは思いもしなかった。早くやっていればよかった。


 そう思った私は3年ほど前から付き合っていた彼と別れた。もはや最近は連絡をとるのも惰性となっていたが、結婚を考えると何も言えなかった。彼に結婚をする気はなさそうだった。結婚に関する話が出るとそそくさと話題を変えた。将来の話をすることを嫌がった。結局、そういうことなのだろうと思うとせいせいした。私は携帯の連絡先から彼を消し、着信拒否にいれた。何も問題は起きなかった。


 しばらくして部屋のスペースが余っていることに気がついた私は2Kの部屋からワンルームの部屋に越した。古い物件だったが駅に近く、DIYを行なってよくて、何より月の家賃が2万円も安くなるのが魅力だった。引っ越し代は家賃の差し引き2ヶ月分で元が取れた。


 引っ越しに際して私は洗濯機を捨てた。引っ越した先の部屋には洗濯機の設置場所がなかったのだ。また通り向かいにコインランドリーもあった。平日はスーツで休日も家にいることが多い私には洗濯機よりもコインランドリーの方が性に合っていると思った。


 家がシンプルになると週末の映画に集中でき、楽しくなってきたので今まで見ていた11インチの古いノートパソコンを売って、貯金を少し使って高性能な無線プロジェクターを買った。部屋の壁に映して、大画面で映画を観た。仲の良い友人はとても喜んでくれた。もちろん私も楽しんだ。


 プロジェクターが気に入った私は、せっかくなのでSNSで自分の部屋を公開しよう思い投稿した。すると「オシャレなミニマリストの暮らし」といった名目で、小さな雑誌の取材さえきた。


 ものを捨て始めて明らかに私の生活は変わっていった。


 一年が経つ頃、私は職場では以前とちがう人間としてあつかわれていた。よく言えば仕事の遂行能力が高く定時で帰れる人、そして悪く言えば自分の責任以外には首を突っ込まない冷たい人。昔とは内容がほぼ逆の評価になった。

 同僚からは嫌われた。そして上司からはとても好かれた。いい意味で吹っ切れてずいぶんと人が変わったようだねと上司に言われた。


 雑誌の取材がきて以来、写真と文章をセットにした簡単な原稿依頼が個人宛にくるようになった。ミニマリストの部屋紹介に関する情報を欲しがる出版社からだった。会社は副業OKなので私は受けてやるようになった。月に一回か、二回。値段は多くても3万円くらいと生活するには不十分な金額だったが、平日の夜に無理なくやれる範囲であったし、よいお金の足しになるので受けた。


 その頃になると意識して貯めたわけではないが、ゼロ円だった私の銀行口座の残高が100万円を超えようとしていた。


 このペースで暮らしていけば30代で分譲マンションを買うこともできそうだった。しかし正直にいって私は分譲マンションに興味がなかった。今のワンルームで十分だった。そして他に欲しいものもなかった。だから無理せず現金を持っておこうと思った。いざというときのために、自分が何かをどうしても欲しくなったときのために。そしてさらに正直な気持ちをいえば、この現金が何かの拍子に消えてしまったり、盗まれてしまっても、私はたぶん、怒ることもなければ悲しむこともないのだろうなとうっすら感じていた。


 理由はわからない。

 でも事実は事実として、そういう気持ちになっていた。


 ものを捨てる生活はペースこそ落ちたものの、少しずつ進展していった。ある時、電子レンジがいらないと感じて捨てた。最初は不便に感じたが、結局、困らなかった。ちゃぶ台に使っていたローテーブルも捨てた。スマホでほとんどのことが完結するので、机でやることなどほとんどないことに気がついたのだ。私の部屋は畳まれた布団とプロジェクター、小さな冷蔵庫と、備え付けのキッチンがあるとてもシンプルなものとなった。クローゼットには仕事着と部屋着と私服、少しの文具、掃除具、生活用品のストックが少量あるだけだ。


 仕事で昇級した。いそがしくなって帰る時間が少し遅くなるようになった。それでも残業は30分以内で収められていた。しかし給料は大きく上がり25万円となった。部署の業績がよかったのでボーナスもつくようになった。お金に余裕ができたので、必要なときは外食し時間を確保するようになった。家では相変わらず必要な本を一冊買い、読み終わると売るか、捨てた。でもその読書ペースは始めた頃よりも3倍くらいに早くなっていた。私は月に12、3冊の本を読んだ。


 よく映画を観た友人とは、ここのところしばらく会わなくなっていた。映画を観ること自体が減ってきた。半年近く観ていないかもしれない。正直、映画は潮時かなと思った。映画見放題のサービスを解約し、プロジェクターをフリマアプリで半額で売ることにした。プロジェクターはすぐに買い手がついた。ただ、引っ越しの段取りがあるから、プロジェクターの引き取りは再来週にしてくれとのことになった。私はそれに了承した。


 私はプロジェクターを引き渡す前に、久しぶりに友人と映画を観ようと考えた。そのあと売ってしまうが、それはそれ。私の事情である。週末にお互いの近況でも話しながら、久々にゆっくりと映画を観る。それもいいなと考えた。友人が好きそうな映画を頭のなかでピックアップしながら、スマホの連絡先を立ち上げ、電話番号を押した。すると携帯はツーツーという音を出しただけで繋がらなかった。何度掛け直しても同じだった。メッセンジャーで連絡を取ろうとした、しかし友達は連絡先からいなくなっていた。私が残した数名の友人達、すべてがそのようになっていた。


 私はなんとなく事情を察して、部屋の壁にもたれかかった。


 そうか整理整頓されたんだと考えた。私はもう疎遠な存在になったから。たしかにしばらく会っていなかった。友達とこんなに会わなかった時は今までなかった。私も仕事で昇級して今までと状況が変わっていた、たぶん、友人たちも色々と状況が変わったのだろう。そういうタイミングの年齢だから。仕方ないのだ。

 私はふと今まで整理整頓してきた人々の顔を思い出した。私にみすぼらしいと言った友人や、惰性で付き合ってきた彼氏を思いだした。


 大きく息を吸って、そして吐いた。


 そうして自分が友達のことについて「仕方ない」とだけ考えて、まったくもって悲しんでいない事実に気がつき、大きくショックを受けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

捨てる 遙夏しま @mhige

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ