心臓のコヒーレンシー
遙夏しま
心臓のコヒーレンシー
友人が珍しくコーヒーレッスンのセミナーに行こうと誘ってきた。最近、ハンドドリップをはじめた私は二つ返事で承諾して、彼女に着いていったところ、到着した会場ではメンタルケアのセミナーが始まろうとしていた。
「女性のためのメンタルケア?」会場看板に書かれた文字をみて、口をぽかんと開けている私に「どうかしたの?」と聞く友人。平然としている。悪びれた様子もまったくない。こんな嘘をつく人だったっけと半分あきれて「なにこれ? なんでコーヒーセミナーがメンタルセミナーに?」と聞いてみると、「え?」と短く声を出した彼女は、急に決まりが悪そうに笑った。
「ごめんなさい。コーヒーと間違えてたのね」
「へ?」
「コーヒーじゃないの。コヒーレンス」
「コヒー……なに?」
「コヒー・レ・ン・ス」
「レンス?」
「うん、コーヒーレッスンじゃないの」
普段どおりの穏やかで小さな声。よかったいつもどおりのようだ。私に返答する友人は申し訳なさそうな表情でこちらをみる。「ごめんなさい。まさかコーヒーと聞き間違えてるなんて……。ごめん」と彼女は座ったまま頭を下げる。パイプ椅子がきしきしと音をたてる。私は慌てて「ちがうちがう。謝らないで」という。自分で言ってて、なにが違うのかはよくわからない。
入り口でもらったパンフレットを開いて、友人はコヒーレンスについて説明をしてくれる。コヒーレンスとは「恒常性」という意味らしい。一定さとでも言えばわかりやすいだろうか。今回のセミナーはメンタルケアの一環として、心拍のコヒーレンスの概念を知り、呼吸法や瞑想法を取り入れながら、自律神経系を整えたり、ストレスを緩和させたりする方法を学ぶものらしい。
「心臓のコヒーレンシーを向上させるセミナーなの」と友人が穏やかにいうのを、「そうなんだぁ」と間抜けな笑顔で聞き、相槌をかえす。コヒーレンスとやらの意味はわかったけれど、なぜそんなよくわからないものを彼女が求めて、わざわざセミナーまで聞きにきているのか。肝心のところがわからず、しかし直接聞くこともできず、もうセミナーは開始のアナウンスをはじめており、私は観念して二時間半を友人のためだけに使うことにする。
部屋が暗くなると、フランスで臨床心理を学んでいたとかいう背の高い女性講師(日本人だ)が壇上にあがった。グラフだとかこぎれいな風景写真だとかをつかって説明を始める。ごく小さな音でBGMすら流れている。雨上がりの草原で中世の琴を弾くような繊細な音楽が流れる。
友人はB5サイズのノートに熱心にメモをしている。私はそのとなりで落ち着かない気持ちになっている。集中しているふりをして、パンフレットと、スクリーンと、壇上の背の高い女性講師と、友人とを交互に見る。
「私たちが心の安定を感じる時には、心拍変動のリズムが正弦波に近い一定のリズムを刻んでいます。これを心臓のコヒーレンス状態といいます」
「コヒーレンスとは英語です。日本語では恒常性を意味します。もともとは物理学などでグラフのうにょうにょ、ありますよね。びよんびよんといったほうがいいかしら。ジグザグ?」
講師がおっとりとした仕草でわざと手を上下に動かす。おどけているのだ。会場にくすくすと上品な笑いが起こる。友人もまったく同じように笑う。私は態度にあらわれないようにして鳥肌を立てる。友人が会場中に増殖しているのかと思ったのだ。さすがにそれは怖い。同質の群れを私は昔から虫みたいで気持ち悪いと感じてしまう。
女性講師はかなりゆったりとした口調で喋る。四十代前半だろうか。年齢の割には老いた声質。おばあちゃんみたいな。意図的にそういった声質で、遅めに喋っているのだろう。メンタルケアセミナーだから。ここには急かされたりするのが極端に嫌いな――いや嫌いどころか急かされることを、ナイフで脇の下を突き刺されるのと同じくらい苦痛に感じる――人々が集まっているだろうから。包みこむように喋りましょうだとか、ふだんからそういった類のビジネストレーニングを積んでいるんだろうと思う。
でも私にはやけに老いた声の講師が魚の骨を喉につっかえさせながら、慎重に喋っているようにしか思えない。熱心に聞いている友人には悪いが、講師の口調の遅さに苛立ちすら覚える。声ってのもある種の鍵なんだろうなと思う。あるコミュニティがもつ固く閉じた警戒の扉。それを声によって開けるのだ。ひらけゴマ。くすくす。不思議なものである。
「反対に心臓の拍動が一定のリズムを崩している状態、これは
ん? 悲しいのはロミオとジュリエットだっけ?
何考えてるんだろう。私は。
友人は無表情でノートに「カオス」と書き、ぐるりと丸く囲んで強調する。丸のそばに「強い不安」とメモをする。集中しているのだ。
セミナー開始から三十分。私は会場に入って以来、かねてから用意していた結論を頭のなかで呟く。
私には必要ない気がする。
そうすると妙にそわそわしてきて、時間を無駄にしている気持ちが強くなる。こないだネットで見つけた、谷根千にある昔ながらの喫茶店に行きたい。そこのカウンターでドリップされるコーヒーを見ながら、甘いものでもつまみたい。友人が自分と同じようにパンフレットをぱらぱらしていようものなら、すぐさま誘い出すのに。残念ながら彼女はこのセミナーが大ハマりらしい。まいった。
セミナーの先生が、人は少し混沌なくらいが通常状態なので、安心してくださいという。「そうなんだ」と友人が小さな声でひとりごとをいう。集中している。彼女が「そうなんだ」なんてひとりごとをいうのを私は初めて聞いた。
でも「心臓が混沌としている状態を安心してください」という言葉のどこに安心して良いのか、私には皆目見当がつかなかった。本当にさっぱりわからなかった。混沌は不安じゃなかったのか。不安を安心したら、いったいそれはどんな状態なんだ。どんどん意味がわからなくなってくるし、セミナー費用の七千五百円を女性講師がなにに使っているのかすら気になりはじめた。
でも隣の友人は私の落ち着かない気持ちになどまったく気がつかず「そうなんだ」のあとに、なんと胸に手を当てて顔をほころばせていた。セミナーのあとは昼から飲めるところに行けないかなと私は考える。テラスでシャンパンとか。最高だな。
大学時代に知り合ってもう十数年来のこの友人には夫がいる。子供もふたりいる。今どき珍しく夫の収入だけで都心部3LDKのマンションに暮らし、専業主婦をしている。電車で一時間くらいのところに両親がいて、平日の昼間のうち、三日は実家に帰っているらしい。夫の両親が悩みの種とぼやいてはいるが、その内容も孫へたくさん服を買ってしまうだとか、甘いものを与えるのに歯磨きはやらないだとか、私が聞いている限りは至極平和な世界の、平和な困りごとのように聞こえた。
私は結婚していない。結婚願望があるとかないとかあまり深く考えずに過ごしてきて、気がつけば三十代に入り、そういった話が急に遠のいた。別にいいやと思った。それだけだ。過去に三人ばかり付き合った男性はいたが、どれも一年と続かなかった。いい男だなと思って、好きだなと思って、それで気がつくと嫌なやつだなと思って、それで終わった。悲しいと思って泣いたりしたけれど、それは私にとって「悲しい」を「思い出」に変える手続きみたいなものだった。役所と変わりない。
恋愛と結婚は私の人生の脇役だ。昔から身近な世間のジャーナリズムに興味があり、あちこち編集会社にメールを送っては、地方政治の不正だとか、街の片隅にある貧困問題だとかを取り上げて、週刊誌やウェブメディアに寄稿してきた。それが生きがいといえば生きがいだった。世の中には知らしめるべき重篤な欠陥がある。そこに私の生活の動機があった。
もちろん寄稿だけでは食べていけない。残念ながら私の使命感は経済的な循環とは相性がよくないらしい。だから身入りの良さそうな書き仕事があれば、内容は問わず受けている。占い師へインタビューしたり、都内にできた台湾茶のカフェへ試飲に行ったり、賃貸よりマイホームを買うべき理由をうんぬんと書いたり、遠征してきたヨーロッパサーカス団の裏舞台を取材したりしながら、なんとか細々と稼ぎ、生き続けている状態だ。
この状況をフリーライターといえば世間的な体裁はきれいになるが、自身の自己満足的ジャーナリズムのために日々、食い扶持を探すハイエナみたいな生き方が、きれいなわけなかろうと私は思っている。自分の正義を執行するために来年、自分がどうなっているかもわからないのだ。親もこんな私のことをほとんど見放している。体裁など整っているわけがないし、不安は日々、格闘すべき
そんな人間がメンタルケアなんて、いったい世の中どうなってるんだろうと思う。癒してる場合じゃない。私はこのあとシャンパンを飲んで、日頃の憂さを晴らして、月曜からは介護現場で起こる暴力について、体験者の証言をあますことなく聞き出したいのだから。昨年からアポイント交渉をし続けて、やっとめぐってきたチャンスなのだ。
「ところで、今日は子供は大丈夫なの?」と友人に聞く。友人は「うん、もう下の子も三歳だし、明日まで私の実家でみてくれるの」と笑顔でいう。守られている、と私は思う。半年前に取材した孤独死現場を思い出す。そのあまりにも
ねえコヒーレンス王子と私は考える。
君はカオスに恋などできる立場なの?
同時に目の前の彼女を見て、いったいなんなのだろうと思う。なんなのだろう。彼女の心臓のコヒーレンシーを奪う敵は。私のような微妙に距離のある友人としか共有できないであろうセミナーを必要とする理由は。彼女は私からすればあきらかに多くの人間から守られている。でもその柔らかな包みの内側で彼女は闘っているのだ。
セミナーのトイレ休憩案内が始まったところで、友人にシャンパンランチを提案する。六本木と乃木坂のあいだにある通り沿いのブラッスリー(昼間はカフェランチを提供している)を予約して、木陰のテラス席でバケットやチーズをつまみながら、シャンパンを飲むのだ。それを聞いた友人は「え……! すごいいいね!」といってパッと明るい顔をする。「いいでしょういいでしょう」友人の表情をみて私は得意になる。
友人が携帯を開いてなにかを確認しはじめたので、私もお店を予約してしまおうと携帯を開く。今日が八月の終わりであることを、私はそのとき初めて知る。そうか、もう夏が終わるのだと私は思う。そのあと携帯で家族に連絡をしている友人を見ているうちに、よくわからないが私は、自分が少しだけ寂しい気持ちになっていることに気づく。
心臓のコヒーレンシー 遙夏しま @mhige
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