ある本好きの夫婦の物語

@HighTaka

本編

 少女が書の魔を知ったのは十にもならないころのことだった。女に生まれて文字を習う者は身分により限られており、少女のように地方都市の官僚の娘に生まれたくらいでは習うことはない。

 それでも二つ年長の兄は字を教えられており、兄ともども理不尽に、こっぴどく叱られるまでは内緒で教え合っていたりもした。

 あんまりの理不尽に、彼女は父親が大事にして鍵までかけて誰にも見せない書庫に忍び込んだのである。ドアは厳重だったが天井はがらあきで、少女は身軽さをいいことに梁をわたって忍び込んだのだ。

 具体的にどうするか考えてもいながった。一番大事そうな一冊を隠すとかその程度の考えしかなかっただろう。

 厳父の秘密の場所にきてやった。彼女は勝ち誇って薄暗い室内を見回した。時間は半時間ほどしか許されない。その間、彼女は薪割りをやっていることになっている。その分についてはこの何日かでよけいに割ってあって、隠してあったのをこれ見よがしに積み上げ済。戻ったら汗でもふくふりをしてればよい。そういう要領のよいところは祖父似だと言われている。ずっと幼い頃にあったきりの、記憶もあいまいな祖父に彼女は感謝した。

 何冊か手に取ってぱらぱらと中身を見る。文章の半分くらいは読めるが残りは理解できない単語であったり、読めても何か知っている前提らしく意味がつながらない。それでもこの部屋の女王様のように彼女はふるまい、鬱憤がやわらぐのを楽しんだ。

 古い紙の匂いを胸いっぱいにすった彼女は、この匂いは嫌いな人もいるだろうけど、自分は好きだと思った。本を読みたい。彼女は切望した。やっとかせいだ半時間ではまるで足らない。

「どうして女になんか生まれちゃったのかしら」

 男だったら遠慮なく読めるのに、とぼやく彼女は人口の大半をしめる農夫や漁師が文字を学ぶ機会の無い事を知らない。

 その時、彼女は誰かに呼ばれている気がした。

 視線を向けると、書見机の本の山に気になる一冊を見つけた。革装丁のそれには表紙に何も書かれていない。

 手に取り、開くと日記と書かれていた。祖父の名前と日付がある。亡くなる少し前までの日記のようだ。

「やあ、よく来たね」

 呼びかけられて少女は飛び上がった。

「誰? 」

「わしじゃよ」

 薄暗い書庫の中でそこだけ日の光を浴びているようにくっきりと生前の姿があった。

「おじいちゃん? 」

「大きくなったのう。本はすきか? 」

 こっくりうなずく少女に、祖父はにやりと笑いかけた。

「ならば、悪知恵を貸して進ぜよう」

 少女は幽霊と信じた。


 数年後、少女はもうあれを幽霊とは信じなくなっていた。書の魔と呼ばれ、禁じられた存在であることはとうに知っていた。だが、そんなことはどうでもよかった。

 彼女は読むばかりではなく、書く事もはじめていた。形式は日記であったが、祖父以外の書の魔と話をし、考察や批判を書き留めた。楽しくてしょうがなかった。人知れぬその活動はますます知にまさったものとなり、女性に求めるものにおいては旧弊な父を悩ませた。

 彼女の読んで影響を受けたものが父の蔵書であることを考えると、この人は自分の鏡像に悩まされていたともいえるだろう。

「また駄目だった」

 がっくり帰ってきた父に母は言う。

「都に奉公に出しましょうか」

 この時ばかりは父娘そろって反対するので母親もそれ以上は強いことはいえなかった。

 しかし、兄がもう少し長じて結婚すれば彼女の居場所はこの家にはなくなる。それも確かでその時は老人の後妻でもなんにでもなって出て行くしか無い。

 少女はため息をついた。

 そんな彼女に転機が訪れた。

 噂をききつけて物好きにも彼女に会いにきた青年が現れたのだ。それも二人。

 父はちょっと喜んでから慎重になり、母は最初からいぶかしげに彼らを迎えた。

 二人とも都でくらす青年で、一人は大きめの村の有力者の息子、もう一人はその友人で鄙にはまれな才媛がいるときいてやってきたのだ。

「からかい半分ですよ」

 母は嘆息したが、父は会わせることにした。いい薬になるとでも思ったのであろう。

「お嬢さんはなかなかに才走っておられるとのこと」

 自己紹介を終えると友人のほうの青年が神妙な顔つきで切り出した。有力者の息子のほうは吹き出しそうな顔である。

「ご立派な殿方がお二人して、どうしてそのようなお話をお信じに? 」

 少女は凍るほど冷ややかに応対した。

「みなもうしておりますよ。お嬢さんにとってはこのへんの男どもはどうにも愚かすぎるようだと」

「女房を子育てと酒のつまみを作る人、程度にしか思わないような人は願い下げなだけですわ」

「ほほう、では、どのような男性ならお眼鏡にかなうと? 」

「どうして結婚しなければならないとお決めつけに? 」

「いや、そういうものでしょう? 」

「そのように決まっているから、と考えるのをやめない方なら、もしかすると私も心を預けるかもしれません」

「ほう」

 青年は感心したように彼女を眺めた。そしていつのまにか笑うのをやめて不機嫌な相棒の肩をぽんと叩いた。

「こりゃぁ、どうやら、愚かな男どもは退散したほうがよさそうだ」


「なんなのあいつら」

 少女はその夜、書の魔たち相手に愚痴った。そして一番旧弊な結婚観の魔を手ひどくやっつけた。


 あの青年がもう一度くるとは彼女も予想だにしなかっただろう。野良着で水くみしているところに声をかけられ、少女は飛び上がるほどびっくりした。

「や、失敬失敬」

 こぼれてはねた水をひょいとよけて彼はにっこり会釈した。

「何の御用でしょう」

 気をとりなおし、できるだけ冷ややかに彼女は問うた。万一狼藉を働くほど愚かなら桶を頭にかぶせてやろう。そこのまきですねをしたたか殴ってもやろうと警戒心も高める。

「先日は失礼な物言いをした。まずそれを謝りたい」

「あら、いいのよ、いつものことだし」

「それともう一つ知りたいことがある」

「なにかしら」

「君、本を読んでるだろう? 」

 少女は極力、わけがわからないという顔で青年を見た。

「なぜそう思うの? 」

 何か間違いを冒しただろうか。

「本はすきかい? 」

 青年はかまわなかった。

「読めもしないものを好きも嫌いもないわ」

 つっけんどんなものいいに警戒の響きがまじってはしまわなかっただろうか。彼女は内心ひやひやしていた。さっさと帰ってほしかった。

「ごらん」

 青年は一冊の本を差し出し、開いた。

「おお、これはどうしたことだ」

 また別の者の声。少女はそれが書の魔であることを察した。

「そなた、女の分際で我が輩と言葉を交わせると申すか」

 ひどく古風な身なりで、書物の内容が古典といえるものと知れた。これはさしずめ古代の賢者かなにかであろう。

 少女は青年の様子を伺った。

「やっぱりね」

 青年はにこにこしていた。

「まいったわ」

 少女は負けを認めた。

「何がお望み? 」

「善良な首都市民として君をその筋につきだす、というのはどうかな」

「あら、そのときはあなたも道連れよ」

「僕は近々こっそり処置を受けるつもりだ。残念だがしかたない」

「どうして? 」

 少女はびっくりした。こんなすばらしいことをあきらめることなんて正気とは思えない。

「いつまでもばれずにやっていくことなんて、たいていの人には無理な話だからさ。国の大図書館に奉職することになっているとなればなおさらだ」

「そんなところで働かなきゃいいじゃない」

「古今の名著があますところなく収蔵されてるんだぜ? おまけにいつでも誰でもなれるわけではない仕事だ。あきらめられないよ」

「でも、語りかけない本に何の意味があるの? 」

「対話ができなくても、読み方を知っていれば語りかけてくるという。まだ未知の世界だけどね。でもいつまでも人はおんなじではいられない。結果はみじめなものに終わるかも知れないけど、僕は前に進もうと思う」

 胸のうちがざわめいた。何か奥底から動かされたような気がする。理解できないものは一度置こう、彼女は気をとりなおした。

「あなたが立派なのはよくわかりました。では、本題のご用件をうけたまわりましょう」

「まず、君が今後どうしていくつもりを聞きたい」

「さあ、なんとかばれないようにやっていくつもり」

「それ、本気でできると? 」

 もちろん自信はない。それどころか不安要素だらけだ。

「もし、あてながいのなら」

 ここにきて、自信に満ちていた青年が初めてはにかんだ気色を見せた。

「どうだろう? うちにこないか? 」


 さて、それからすったもんだがあったが、特別感動的なこともなければ劇的なこともなく、どちらかというと成り行きとあきらめと妥協があって、さらに一、二年を経て結局結婚という形とあいなり、子供にもめぐまれて二十年と少々がたった。

 いつものように遅くなった夫は、妻一人待つ我が家に帰ってきた。子供たちは自立したり、そのための修養にもう家を出てしまっている。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 外套を受け取る妻の仕草は都市の中流婦人として何も変わったところはなかった。

「写し終えたよ」

 夫はかばんから一冊の本を取り出した。

 勤務の傍ら、図書館の予備に一つ、自分用に一つ書写してきたものであった。

「まぁ、」

 妻は目を輝かせ、本を開く。表情だけはわかるが夫には聞こえない会話が始まる。楽しそうな顔が考え込む形になり、少し怒ったようになったかと思うと、破顔し、やがてゆっくり静かに本を閉じた。

 もう共有できない世界に、夫は寂しい思いを拭い去れない。

「ちょっと書くわ」

 妻は興奮しているようであった。

「いや、もう遅い時間だろう」

「とても眠れないわ。それに、あなたに早く読んでもらってお話がしたい」

「もうそんなに若くないんだからほどほどにね」

 夫はあくびをして眠るために奥へと姿を消した。妻は物書き台に向かうとつつましい生活で唯一ぜいたくにランプをつけてペンを走らせ始めた。時々、本を開いて書の魔を呼び出し、質問をする。夫にはいっていないが、その時に筆者したときの夫の感情を感じることがある。好きなひとときだった。

 書き入れる内容は時には歴史的な解釈から現代的な批判まで多岐に及ぶ。容赦ない批判もあれば、書かれた背景を考慮しての驚きと賞賛もある。夫は彼女の注釈書に高い高い評価を与えていた。夫は時折誤読をしているが、それでも彼女がはっとするような指摘をすることがある。誤読でさえ、筆者はそう書くべきであったのではないかとうなるようなものがあった。

 夫と語り合うことがとても楽しかった。

 とはいえ、さすがにもう寝ようと隠し書庫に書きかけと夫の写本をしまいにいった彼女は、そこにぽつんと幼いころの自分がいるのを発見した。床に昔の日記が落ちている。

「こんばんわ、昔の私」

「こんばんわ、今の私」

「あのころはこんな今を想像できたかしら」

「無理ね。でも、よかったね」

「ありがとう」

 彼女は日記を拾ってぱたんと閉じた。

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