やがて空より帰る

いぬきつねこ

やがて空より帰る

  大学の先輩が失踪したのは、梅雨明け宣言が出た日のことだった。

地質学を専攻していた彼は伏流水の調査に行くと言ってフィールドワークに出掛けたまま、帰ってくることはなかった。

穏やかで賭け事などにも手を出さないらしい先輩が何かトラブルを抱えていたとは考えられなかったし、彼のアパートからは通帳や印鑑も手つかずの状態で見つかったという。

 実は悩みを抱えていた、道ならぬ恋をしていた、調査先で事件に巻き込まれたなど、一時期は根も葉もない噂が飛び交った。しかしそれも、道端の水たまりが干上がるように消えていった。

 私は、彼がいなくなった理由を知っているかもしれない。

それはあまりに荒唐無稽で、考えた私もいまだに信じてはいないような理由だった。

私は向き合っていたパソコンのディスプレイから目を上げて、台所に向かう。

喉の渇きをおぼえていた。

蛇口をひねり、コップで水を受ける。

台所の窓から、真夏の青空が見えた。

 彼女が空から帰ってくるんだ。

先輩の声が脳裏に蘇る。

コップから水が溢れる。私は、先輩から聞いたあの話を書くべきなのだろうか。先輩と、水と、空の記憶の話を。



 私は人から聞いた怪談を集めたブログを運営している。

小さいころから怖い話が好きだった。大学の専攻を文化人類学にしたのもそれが理由なくらいだ。会う人会う人に「怖い話ありますか?」と訊いていたら、たいそうな量になった。一人で楽しむのもいいが、怖い話は人と共有してこそだと私は常々思っていたので、それをブログに載せるようになった。

廃墟に出る長い髪の女幽霊というありきたりな話から、旧家の暗がりに棲み、富を運ぶという不思議な生き物の話まで、私のブログにはたくさんの話が並んだ。

 大学に入って付き合う人間の範囲が広がると、収集できる怪談も増えた。

増えたには増えたのだが、どこかの実話怪談本から持ってきたような話や、明らかに作り物めいた話も比例して増えてきた。少々そんな話に辟易していた時に先輩に出会った。

 先輩は、親しい友人がいたのでよくうちのゼミに顔を出した。よその学部の4回生だった。

わずかに癖のある染めていない髪に、黒縁の眼鏡。面と向かって話したことはなかった。

これと言って特徴はないが、物腰が柔らかで、育ちの良さがうかがえる人物だった。

 その日は、細い霧のような雨が校舎を濡らしていた。

先輩は、いつものようにうちのゼミに顔を出したものの、目当ての人物はすでに帰ってしまっていた。行き違いだったようだ。ため息をついて鞄を持ち直した先輩は、ふと私に目を向けた。

窓の外で、空から音もなく雨が落ちていた。

「怖い話を集めているのって、君?」

先輩は私の苗字を呼んだ。

それが、私と先輩の最初の、そして最後の会話だった。

 あまり怖くないけど、よかったら。先輩はそう切り出した。私は課題が途中だったが、喜んでそれに応じた。経験上、そう切り出す人の話は面白いのだ。

私はスマートホンの録音アプリを操作すると、「どうぞ」と先輩を促した。

「これは僕が10歳の時の夏休みの話なんだけど……」



 これは僕が10歳の時の夏休みの話なんだけど、弟が産まれたんで、母と一緒に母の実家のS県に里帰りしたんだ。

S県って駅前はそれなりに賑やかだけど、車で1時間も行くと山に囲まれたと田舎でね。僕の母の家もそんな感じだった。

母の家には、祖母と、祖父と、少し認知症が入ってきた曾祖母がいて、農家をやってた。土地だけはたくさんあって、家も広かった。

自然がいっぱいで、庭でカブトムシなんかもとれたよ。

だから最初は楽しかったんだけど、そのうちに飽きた。

同年代の子どもはいたけど、みんなすでにグループができてるからさ、都会から来た僕なんかは一緒には遊べない。祖父母も母も弟に夢中だし、ゲーム機もないし、早々に僕は来たことを後悔したんだけどね。そのうちに裏山を探検するようになった。

うちの裏にあるから裏山って呼んでたけど、うちの所有地じゃなかったと思う。

 祖父母は危ないからやめろって言ったけど、僕は聞かなかった。

危ないという割には小さな山だったし、迷うようなところもなかったよ。小高い丘っていう感じかな。でも、都会では踏んだことのない腐葉土の感触とか、見たこともない大きな蛾とか、そんなものがいて夢中になった。庭とは比べ物にならないくらいたくさんのカブトムシもとれた。

 僕は毎日山の中を歩き回った。木に印をつけて山頂までの最短距離を探したりとかした。山に行きだして5日目くらいかな、僕は小さい池を見つけたんだ。

山の中腹くらいで、水たまりに毛が生えたくらいの大きさだった。

雨がたまたまそのくぼみに溜まったんだろう。

風のない日で、空に伸びている入道雲と、真っ青な空が鏡みたいに写っていた。

 僕は池に近づいた。僕の姿が映った。

白いシャツにひざ丈のズボンをはいた僕の姿が映ったんだ。

水音がした。

目を向けると、僕と全くおんなじ恰好をした女の子が立ってた。

髪が長くて、かすかに水のにおいがした。

人間じゃないっていうのはすぐに分かったよ。

水の上にさ、まっすぐ立ってるんだ。

彼女はこちらを見て、にこりと笑った。

瞳は空の色だった。笑うと唇から、水が落ちる音がした。

怖くはなかったよ。そういうものがいるんだとわかっただけ。

 その日から、僕は彼女に会いに行くようになった。

僕が自分の姿を水に映すと、同じ格好をした彼女が現れる。

そして水の音で笑った。

時々、人の姿をしていない彼女にも会った。

狸だったり、鼬だったり、小鳥だったりした。わかるのは、瞳が空色だからだ。

人の姿でない彼女は、僕の姿が池に映ると、すぐにいつもの形に変わった。

何をするでもない。僕は池のそばにたたずんで、一方的に彼女に話しかけた。

彼女が言葉を理解しているかはわからないけれど、時折水のこぼれる音でわらっていたよ。そして、日が傾いて辺りが茜色になる頃、彼女の瞳は同じ色になった。

 うん。彼女はそういう物なんだと思う。池に映った生き物の姿になる、そういうもの。神様ではないと思うし、妖怪の方が近いかな。水を飲みに来た動物の姿を借りていたんじゃないかな。

ある時、僕は庭に咲いていたタチアオイの花を両手に持って池に出掛けた。

なんで花なんか持っていったんだっけかな。なんだか彼女が喜ぶような気がしたんだ。

僕は花を池に浮かべた。池はあっという間に薄桃色に染まった。

彼女の瞳も、同じ薄桃色に染まっていた。

彼女は池に映った生き物の姿を真似る。そして瞳は、池の水の色に変わるのだ。

なんて美しいものだろうと僕はそう感じた。

 次の日はヒマワリを、次の日はクチナシを、ダリアを、時計草を、持って行った。

今思えば悪いことをしたと思うんだけど、よその家の庭に忍び込んでこっそり持っていくときも多かった。彼女にきれいな色をあげたいと思ったんだ。

なんでだろう。きっと彼女はさみしかったんじゃないかと思って。山の中で通るものは動物くらいだから。でも僕は彼女に会えた。だから、さみしくないように、毎日きれいなものをあげようと思ったんだ。

 雨の日には会えなかった。

雨は水面を波立たせてしまうから。でも彼女が近くにいるのはわかったよ。

その年は雨が少なくて、会えない日はそんなになかった。

 夏休みも折り返しを過ぎた頃だ。

僕は廊下で曾祖母に呼び止められた。

曾祖母は、皴の中に埋もれたような目で、僕をにらんでいた。

ーーみずわろにつかれとる。

曾祖母は、ぼそりと言った。

 その日も花を抱えて彼女に会いに行った。

池が小さくなっているのには少し前から気が付いていた。

水に花を浮かべると、手の中に残る花が増えていたからだ。

水が沸いているわけでもない小さな池だ。

雨が少なければ干上がるのも時間の問題だろう。

水がなくなれば彼女も消える。

考えたくないことだったが、その別れは避けられないこともわかっていた。

涙がこぼれてきて、水面が揺れた。

彼女の口から水の音がした。

 僕がそこまで悲観しなかったのには理由がある。

祖父の部屋にある科学雑誌で知ったんだ。この世界の水は循環している。

蒸発した水は消えてなくなったわけではない。いずれ空に昇って、また雨になって落ちてくる。確率はどのくらいかわからないけれど、彼女がまたどこかの山の中に生まれる可能性は常にある。

 死にゆくものを看取るように、僕は彼女の元へ通い続けた。

それは看取りであり、同時に新しい彼女の誕生を待つような気持でもあったよ。

蝉の声もすっかりツクツクボウシが主になって、夏の日差しもどことなく柔らんできた頃、池はもう僕の掌くらいの大きさしかなかった。

明日には消えてしまうだろうと思った。

彼女は僕の隣にいた。水に浮かべたダリアと同じ目の色をしていた。

僕は何も言えなかった。それは一瞬だった。

彼女は僕に口づけた。口の中に、少し湿った森のにおいがした。喉を通って、水が滑り落ちていった。彼女はもういなくて、池もなくなっていた。


 不思議なものだよね。この話、すぐに忘れてしまうんだ。

晴れの日が続くと、忘れてしまう。でも、今日みたいな雨の日にはふと思い出すんだよ。僕は小さいころ、祖母の家がある土地で、不思議なものに出会って彼女に恋をした。

 思い出すと、彼女に会いたくてたまらなくなるんだ。

最近思い出せる間隔が短くなっている気がする。ふとした水音にも、彼女を思いだすときがある。もししたら、どこかの山の中にまた彼女がいるのかもしれない。

長い時間を経て、彼女が空から帰ってくるんだ。

わかるよ。僕は最後に彼女を飲み込んだ。だからわかるんだ。



 私はそこで録音の停止ボタンを押した。

怪談ではないと思った。先輩はまるで熱に浮かされているように語っていた。

よくできた作り話。あるいは妄想。しかし、先輩の言葉の端々に、人ならざる彼女への思慕がのぞいて、どんな反応をしていいかわからなかった。

泳がせた視線が、カーテンの隙間をとらえた。

雨が上がっている。灰色の雲を割るように差す日の光が見えた。

窓ガラスについていた水滴はもう乾いている。

「怖い話を集めてるのって、君?」

先輩が言った。

「ごめんね。僕はあいにく役に立てそうにないよ」

先輩は鞄を肩にかけなおすと、すまなそうに頭を下げて出ていった。

私に話を聞かせていたことなど忘れているかのようだった。

演技にしてはあまりに自然で、私の背中を冷たい汗が伝っていった。



 結局私は先輩の話をブログに書かなかった。

夏は終わり、大学の木々は色づきだした。

私は今も考えている。

どうして先輩は私にあの話をしたのだろう。

私はスマートホンから録音アプリを開き、再生ボタンを押した。

水の音がする。水面であぶくがはじける音。水面を叩く水の音。波打つ音。

先輩の話した内容は、すべてこれに変わっていた。

だから、この下書きフォルダに残ったままの文章は私が先輩の話を思い出しながら書いたものだ。先輩は、自分がこれから彼女に会いに行くことを誰かに知らせたかったのかもしれない。

水童みずわろに憑かれている。」

彼の祖母が言った言葉はこれではないか。

水に依って、人に憑く妖怪、憑かれた者は永遠に彼女を探し続ける。

そう解釈すれば怪談として成立する。だが、その解釈も無粋な気がする。

 私は一枚の絵ハガキを引き出しから取り出した。郵便局で売っている、麦わら帽子をかぶった女の子が水彩画で描かれた絵ハガキだ。昨日届いた。

差出人はなかった。宛先は私のゼミで、私の苗字だけが書かれていた。

消印は大きな湖のある町からだった。

何も書かれていない絵葉書からは、湿った水のにおいがかすかにした。







 



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