天空の眼

江川太洋

天空の眼

 それは空だ。ただの空だ。雲一つなく淡い青空が拡がるだけの、何の変哲もない十二月初旬の空だった。

 なのに眼前のこの青空に、今岡徳郁のりふみは妙な胸騒ぎを覚えた。徳郁は二十七階のエレベーターホールの全面強化ガラス張りの窓から、眼下に拡がる品川の全景を覆う空を眺めていた。徳郁の背後から、先方の担当で児玉という眼鏡をかけた小太りな中年男が声をかけてきた。

「ほんと、いい天気ですよね。仕事してるのが馬鹿らしくなりますよね」

「え、それだと、折角アポさせて戴いた僕の立場が」

 やんわり徳郁が返すと、児玉がお義理といった体の笑い声を上げた。児玉は雑談の時は気さくだが、金銭が絡むと執拗に些事に拘ってくるので油断がならなかった。二人は摺りガラスで間仕切りされた、尋問室じみた二人用ブースで四十分商談した。徳郁は対応で頭が一杯になって空のことも念頭から消えたが、商談後に児玉と並んで廊下を歩き、ホール突き当たりの窓が視界に入ってくると、攪拌された沈殿物が浮遊するように再び違和感が募ってくるのを感じた。

「このビルって、何処か外に出れる屋上とかあるんですか?」

 徳郁が尋ねると、児玉は面白そうに目を細めた。

「今岡さん、そんなに日向ぼっこしたいんですか?」

 徳郁が曖昧に頷いてそう思わせる仕草をすると、児玉が答えた。

「屋上は施錠されてますけど、最上階の隅っこの喫煙所は、ちょっとした展望台みたいになってますよ」

 混雑を予想していたが、三十五階の隅の一角をガラスで区切って個室化した喫煙所は無人で、徳郁は四方に巡らされた手摺りに寄りかかってゆっくり一服できた。

 喫煙所は最上階の角に位置し、壁の二面がガラス張りなので、ほぼ百八十度に近い絶景で都心を見下ろせた。ビル群の奥の地平線も視認でき、視界を遮るもののない空は果てしなく広かった。空は稜線の低い層が白みがかり、上空になるほど澄んだ青みを帯びていた。見た目に胸騒ぎを覚えるものは何もなかった。

 徳郁が感じたものは、強いて言えば視線に近かった。それが日差しのように、上空から降ってくる。目を細めて上空を見上げても何も見えなかった。しかしホールで感じた見下されているような厭な感覚が、この階だと微かに強まって感じられたので、これは錯覚ではないと徳郁は感じた。高層階に上って僅かに距離が縮まった分、干渉も強まったような感じだった。最初、この干渉ははっきりしない靄のようだったが、徐々に輪郭が明確になりつつあることに、徳郁は妙な胸騒ぎを覚えていたのだった。

 徳郁が煙を吸い込んだその時、何故分かったかは全く不明だが――視界の遥か先の上空で、何かが徳郁の存在にはっきりと焦点を合わせたことがとにかく分かった。

 見られた!

 全身に電流のような危険信号が駆け巡り、遥か遠くで何かを隔てる膜のようなものがぷつっと抜けるような感触がした途端、それがどっと徳郁の意識に雪崩れ込んできた。徳郁は咄嗟に咥えていたアイコスをその場に放り投げて喫煙所を飛び出すと、エレベーターまで全力で駆けてボタンを乱打した。水中に没した車中に浸水するような勢いでみるみるそれが徳郁に浸食し、徳郁は恐怖と焦りに煽られて大声を上げた。

 四基あるエレベーターのドアの一つが開き切る前に徳郁は強引に身体を捻じ込んで、中にいた数人の乗客を仰天させた。中に入った徳郁が手で降りるように促すと、少しでも徳郁から遠ざかろうと壁際伝いに数人の乗客が順繰りに駆け下り、彼らの姿が消えた瞬間に徳郁は閉のボタンを叩き、眼前で鉄製の扉が左右から閉じていった。

 扉上の電光掲示板で点灯する階数の数字が下がるにつれて、中に充満したそれが少しずつ希薄になっていくのを感じ、徳郁は盛大に安堵の息を漏らした。それは高所で耳孔に感じた気圧が、地表に近付くにつれて弱まる感覚にそっくりだった。総合ロビーのある二階に降りた時には、それは徳郁の体内からすっかり消え失せていた。

 徳郁は細く息を吐いて逸る動悸を鎮めながらロビーを横切り、正面玄関の向こうに覗く日溜まりを見て足を止めた。ガラス張りの回転扉をゆっくりと潜り、正面の車寄せ全体を覆う庇の突端の日差しとの境から、おずおずと陽光の照る青空を見上げたが、侵食される気配は全く感じなかった。

 徳郁は今のうちに昼食を済まようと考え、傍にあった牛丼屋のカウンターに腰を下ろした。口一杯に牛丼を頬張りながら侵食された時の感覚を思い出して、二の腕に寒気が走るのを感じた。それが何なのかは全く不明だったが、それの意志は徳郁にも感じ取れた。エレベーターを待つ間にみるみる徳郁の中に充満したそれは、絶えず泣き叫んでいた。

 頂戴、もっと頂戴と。


 空は常にあった。徳郁が何処で何をしようと、絶えず彼の遥か上にあった。

 あまりにも当然なこの事実を改めて認識すると、徳郁は空が視界に映る度に、次第に淡い怖れを抱くようになってきた。

 十二月二週目の木曜午後、蔵前から中野坂上に向かう大江戸線の車輛の中で、徳郁は四隅の擦れた鞄を膝に抱えて座りながらどうにも落ち着かなかった。窓外を暗灰色の壁が流れるだけのこんな地下深くで、一体何故俺は空の存在をこれほど明瞭に肌で感じているのかと徳郁は訝った。知覚する身体感覚がかつてとは明らかに変質しつつあり、それが怖かった。

 地下深くに建造された大江戸線は、どの駅も驚くほどエスカレーターが長かった。中野坂上駅で下車した徳郁は建物数階分の高さがある長大なエスカレーターに乗って、ゆっくりと地表へと運ばれていった。徳郁は上昇するにつれ、表皮をぷつぷつと刺されるような厭な刺激を感じ始め、額に薄く汗が滲んできた。不快感が徐々に強まってきた。それは上空から振り注いできた。全身を這い回る不快感に怯えが加わり、それを意識すると動悸が早まっていった。

 徳郁は地表に出たくなかったが、既に先方とアポを入れてしまったので、どうしても行かねばならなかった。嫌々改札を出た徳郁は、閉じた唇の奥で歯を嚙み締めながら足で階段を上って、明治通りと靖国通りが交差する地上に出た。ビル影を出て全身が陽光に晒された瞬間、これは駄目だと徳郁は直感した。

 見られてる。徳郁はそう感じた。その視線はあまりにも圧倒的で、視線に感じられなかった。人の視線は幾ら刺々しくてもあくまで点に過ぎなかったが、降り注ぐ陽光に似て空の視線は完全な面だった。こんな視線は間違いなく、人間ではあり得ないものだった。徳郁は踵を返して再び改札を潜り、ホームに向かって長い通路を歩きながら先方の担当に連絡し、体調の急変を詫びてリスケの調整をして貰った。

 両手で鞄を抱えて車両の赤い座席に身を沈めた徳郁は、萎れた野菜のようだった。路線を二度乗り換えて最寄りの住吉駅に着くと、そこからタクシーで自宅に向かった。タクシーの屋根越しでも、降り注ぐ空の視線が容赦なく徳郁の肌を刺してきたが、徳郁は目を閉じて必死に耐えた。

 徳郁は築三十年近い古臭いマンションの、八畳のリビングと六畳の洋間がある二階の一室に住んでいた。徳郁は帰宅するなり、奥の洋間の窓の雨戸を閉め、さらに紺のカーテンを閉め切った。家にいても視線は感じたが、窓を遮蔽したせいか干渉が幾分和らいだように感じられた。

 徳郁は室内着のスウェットに着替え、会社に早退の連絡を取った。応対した課長の肥後は過剰にコロナウィルスを気にし、診断書を貰うよう数度徳郁に念を押した。徳郁は通話を切るとスマホをテーブルに投げ出して、ベッドの縁に腰かけた姿勢で頭を抱えた。室内でどんな体勢を取ろうが、全身に感じる干渉はまるで緩和されなかった。寝て何も感じないようにしようと考えた徳郁はベッドに潜り込んで、歯を食い縛ってひたすら眠りの訪れを待った。それは苦しみに満ちた果てしない時間だった。

 気が付くと、自覚しないうちにうとうとしていたらしかった。目を閉じたまま意識が覚醒し、感覚で何となく夜になったらしきことを察した。干渉に昼夜の区別はないらしかった。目を閉じて横たわっていると視覚を遮断したせいか、不快感により意識の焦点がフォーカスされるようだった。先程から風ががたがたと雨戸を揺すっていて、まるで空が窓をこじ開けようとしているようだと徳郁は思った。

 壁と天井を覆う空の圧力が強まってきた。それはあのビルの時のように飢餓感を剥き出して、マンションの周囲に渦を巻いていた。それは何が何でも徳郁が欲しいらしかった。頂戴、もっと頂戴、という空の狂おしい衝動が雪崩れ込んできて、徳郁の全身は一瞬で氷水を被ったような寒気に包まれた。それは事故に遭う寸前の硬直に似た、全身から発せられた危険信号だった。

 ヤバい! 徳郁が胸の内で叫んだ瞬間、何かに背骨を鷲摑みにされたと感じと共に背中からずるっと意識を引っこ抜かれるのを感じて、徳郁は頭の中で絶叫を放った。

 必死に掻き回る両手が、仰臥する自分自身を虚しく擦り抜けた。徳郁は宙吊りになり、眼下で仰臥している自身の姿に衝撃を受けた。目を閉じて口を開けたまま微動だにしない自身の姿は、亡骸にしか見えなかった。徳郁は自身に向かって喚いたが、空になった肉体は口を開けて横たわるばかりだった。

 徳郁はさらに浮き上がり、背後から天井が迫ってきた。クッションの利き過ぎた座椅子に体重を預けて全身が埋もれた時のように、徳郁は背中から天井に沈んでいった。しがみ付ける起伏を探して必死に両手を天井中に這わせたが、全てが虚しく徳郁の手を擦り抜けた。徳郁は階上の寝室らしき部屋を斜めに擦り抜け、壁に吸い込まれる間際にベッドに包まって眠る中年女性の無防備な寝顔を見下ろした。徳郁は絶叫したが、女性の耳には全く届かないらしかった。徳郁は再び壁に沈み、配線や梁や建材をごちゃごちゃと透過した後、ふいに寒風吹き荒ぶ東京の夜空に投げ出された。

 顔面に冷え切った風が直撃して、徳郁の瞼に涙が滲んだ。徳郁は眼前に拡がる光景を見ながら、これは現実なのかと訝った。建物で区切られた矩形の空は一面暗灰色の雲に覆われ、時折稲光のような光輝が方々で瞬いた。その光輝は雷のような青みがかった白色光ではなく、目を刺す赤と橙色の強烈な色彩の乱舞だった。空に光輝が渦巻いて数秒経つと、雷鳴と暴風が一挙に押し寄せたような轟音が周囲の空気を激しく震わせた。

 徳郁は周囲の建物よりも高く浮き上がり、遮蔽物のなくなった空を見て目を剥いた。暗灰色の空には点々と、自分と同じく宙吊りにされた人のシルエットが浮かんでいた。灰色の夜空を背景に藻掻くそれは、子供の作った稚拙な切り抜き絵を思わせた。吊り上げられた人たちは遥か上空に向かって、じりじりと上昇し続けていた。全身を寒風に晒され、耳元を掠め続ける風の音に混じって、微かな異音が徳郁の耳に届いてきた。徳郁は耳をそばだて、それが周囲の人間たちが放つ絶叫の合唱だと気が付くと、一挙に恐怖に呑み込まれた。

 徳郁は泣き叫んで必死に藻掻いたが、地上から遠ざかる一方だった。建物が隙間なく詰まった地表を眼下に見下ろし、地表に停まった車はもはやマッチ箱程度の大きさになっていた。落ちたら即死だと考えた瞬間、冷たい戦慄が徳郁の全身を走り抜けた。

 徳郁が真上を見上げると、自分よりも高々と浮かんでいた人影の上空に、空を半分に割るかと思うほど途方もなく巨大な亀裂が走った。空に亀裂が走った瞬間、裂け目から迸り出た直視できないような橙色の激しい光輝が徳郁の眼球を直撃したが、それでも人影が亀裂に吸い込まれたのは視認できた。人影を吸い込んだ空は、唇を閉ざすように亀裂が塞がって、徳郁の眼前で再び暗灰色に拡がった。網膜に藻掻きながら亀裂に吸い込まれた人の姿が残像のように焼き付き、徳郁は死の恐怖に全身を鷲摑みにされた。徳郁は激しく藻掻きながら、虚空に向けて絶叫を放った。

「止めろおおおお!」

 叫びながら徳郁はベッドから飛び起きた。心臓が口から飛び出そうに激しく脈打ち、全身が汗に塗れていた。どれほど現実と見紛う悪夢を見ても、これほどの恐怖を感じたことは一度もなかった。自身の意志が保てない眠りに落ちると、今みたいに干渉に屈して魂を引き抜かれるのだと徳郁は思った。恐怖と嗚咽が同時に喉から衝き上げ、徳郁は声を上げて泣きそうになった。

 いきなりサイドテーブル上のスマホが振動して、徳郁は飛び上がった。スマホの液晶に表示されていたのは、妹の恵美子の名前だった。その名前を見た瞬間、忘れてた、と徳郁は思った。通話ボタンを押した徳郁の耳に、親族中から忌み嫌われて絶縁状態になった妹の、挨拶もなしに単刀直入に用件を告げる掠れた声が耳に届いてきた。

「虫の報せで電話したけど、一体何があったの? 相当危ないよ」

 その言葉を聞きながら、虫の報せという口癖から虫女と呼ばれて忌み嫌われ、ついには素性の知れない霊媒紛いになったこの女を除いて、こんな事態に対処できそうな人間はいないと徳郁は思った。


 やはり妹は奇矯だった。通話から一時間ほど経った午前三時過ぎ、兄の元を訪ねて平然とインターホンを鳴らしてきた。

 玄関のドア越しに数年ぶりに見た妹の姿は、相変わらず全く自分に似ていなかった。両親も自分も痩せ型なのに恵美子だけは肥満で、ぱんぱんに張った頬肉に押し上げられた瞼が細く吊り上がっていた。身体も太く、胸より腹が突き出ていた。そんな話は聞いた覚えはないが、徳郁は腹違いとしか思えないこの妹が不気味だった。

 恵美子が外見以上に奇異な印象を周囲に与えたのは、その言動と資質だった。徳郁も両親も全くない心霊体質を幼少時から示し、それを周囲が信じざるを得なかったのは、人の死をかなりの確率で事前に言い当てたからだ。遠慮なく人の死を告げるので自身が不吉がられ、周囲と揉めて両親から絶縁を言い渡された恵美子は十七の頃に出奔し、いつの間にか少数の信者に慕われて教祖的な立場に収まっていた。一家は以降、恵美子をなかったもののように扱い、徳郁も妹への嫌悪と忌避感を拭うことができなかった。

 リビング中央で椅子にも座らず、仁王立ちでこちらを凝視してくる恵美子には、気圧されるような威圧感があった。徳郁は落ち着かなくなって思わず尋ねた。

「何だよ?」

 恵美子は徳郁の頭部を指差した。

「気付かない? 魂が半分出てるけど」

「頭から?」

 恵美子が頷きながらピーコートのポケットから黒い五寸釘を取り出し、その物々しさに思わず徳郁が軽く上体を引くと、恵美子は意外そうな顔をして釘を持ち上げた。

「これが見えるの? ならかなりキテるね」

「何だその釘?」

 警戒も露わに徳郁が尋ねると、恵美子が無表情に答えた。

「これはね、念で出来てるの。物質じゃないから、普通の人は見えないんだよ。これが見えるってことは、もう片足突っ込んでるってことだよ。死に」

 巨漢の妹が釘で襲ってきそうに思われて無性に怖く、徳郁が思わず一歩後退ると、恵美子が当然というように頷いた。

「そう、怖い? これ、魔が嫌う念が籠ってるからね」

「それ、何に使う気だ?」

 怯えを含んだ徳郁の質問に、平然と恵美子は答えた。

「何って、頭に刺すの」

「冗談だろ?」

 恵美子は真面目な顔で首を横に振った。

「ほんとよ。放っとくと魂が吸い取られるから、頭に刺して身体に縫い止めんの」

 そう言うなり恵美子は右手の釘を頭上に掲げると、尖った先端を硬直した徳郁の脳天に躊躇なく振り下ろした。徳郁が悲鳴を上げる間もなく、眼球の奥から白い閃光が爆発して視界を埋め尽くし、頭蓋が激しい痺れと熱さに覆われた。気が付くと徳郁は椅子の背もたれに両手を付いて身体を支えていた。目を瞬かせると、太陽を直視した時のような黒い滲み状の残像がしつこく視線に貼り付いた。恵美子が言った。

「一応縫い止めたけど、緊急措置みたいなものだから、持ち堪えられる保証はないよ」

 珈琲を飲みたがった恵美子はリビングのテーブルに座り、徳郁が煎れたての珈琲を恵美子の前に置いた。恵美子は時折珈琲に口を付けながら、徳郁の話に無言で耳を傾けた。経緯を喋り終えた徳郁は、恵美子に尋ねた。

「俺を狙ってるのは、一体何なんだ?」

 恵美子は口を付けたカップを丁寧にテーブルに置いたが無言だった。徳郁はテーブルから身を乗り出して言った。

「な、相当ヤバいのはもう分かってるから。言い辛くても言ってよ。知っとかないと」

 盗み見るように徳郁を一瞥した恵美子は溜息を零すと、淡々とした口調で答えた。

「死とか、寿命とか、そう思われてるもの、って言えばいいか。名前なんてないよ。私は知らない。個人の幽霊とかそんな小さなものじゃなく、この星とか宇宙と繋がってる、そういう大きなもの」

 徳郁は恵美子の言葉を聞きながら頭から血が引くのを感じ、座りながら立ち眩みを起こしかけた。徳郁は呻き声を上げた。

「何でそんなものが、俺に目を付けて?」

 恵美子はその質問に被りを振った。

「そんなの誰も分かんない。でもいつも、何処かで誰かが、それに目を付けられてる。もうそういうものとしか」

 恵美子の言葉の語尾は、殆ど聞き取れないほど小さくなった。

「それってもう、運命っていう――」

 徳郁は呟いたが後が続かなかった。恵美子がその絶句に籠ったニュアンスを汲んだように、一度はっきりと頷いた。その肯定の仕草に、徳郁は眼前でシャッターが下ろされていくような絶望に心が兆すのを感じた。

「じゃあ、どうすれば? 何か手があるのか?」

 それは恐れていた質問だったらしく、恵美子は唇を噛み締めたまま苦しげな笑みを浮かべた。徳郁は恵美子が取り繕うように微笑んだことに衝撃を受けた。恵美子の答えは囁きに近く、非常に歯切れが悪かった。

「そうね。どうだろうね。でも、できることはやっとかないと。その為に来たんだし」

「できることって? 俺は何すればいい?」

「実際、できることって言っても限られてるよね。ここに結界張って、あとは家から絶対出ないでずっと籠るくらいしか」

「籠るって、結界張れば安全なの?」

 徳郁の質問に、恵美子は見ている方の不安を煽るような曖昧さで斜めに首を振った。

「そう太鼓判押したいけど、絶対とは、ね。効力があるのは間違いないけど」

「この壁とか天井があるだけでも、多少は遮断されてる感じがするけど、それって気のせい? それとも何か効力があるってこと?」

「あー、効力だね。何かの敷居で空間を区切ると、物質じゃなくてもやっぱ滞るの。結界ってのは、その敷居をもっと厚く補強してあげるようなもんだよ」

「窓は閉めっ放しの方がいい?」

 この質問には恵美子は即答した。

「開けるなんて論外だよ。日光なんか入れたら道ができて、あっという間に入られるよ」

「いつまでそうしてればいい?」

 恵美子は自信なさそうに首を傾げた。

「悪いけど、分かんない。数日すれば諦めてくれるのか、それまで結界が持つか――」

 恵美子の言葉が中途に途切れ、室内は重い沈黙に満たされた。徳郁がテーブルに目を伏せていると、恵美子が言った。

「私も家から祈って結界を強めるし、もし徳ちゃんを諦めたら、それって遠くても分かると思う。その時はすぐ連絡するから」

 恵美子の言葉に、そうかと声を発しながら頷いた徳郁が、言い辛そうに口にした。

「あの、ほんと、ありがとう」

 照れ臭そうに徳郁が頭を下げると、細い指先で髪を掻き上げながら恵美子が言った。

「人に御礼を言われるのは、慣れてるよ。白い眼で見られるのは、もっと慣れてるけど」

 自身が縋って初めて、徳郁は恵美子の芯にある温かさに触れたと感じた。それまで自分の方が美恵子を色眼鏡で見て、恵美子を中心に形成された集団を内心では、正気を失ったカルト集団と断じていたのだった。

「そうやって、いつも信者っていうか、周りの人を助けてるのか?」

 徳郁の質問を恵美子は肩を竦めてはぐらかしたが、その仕草から恵美子が惜しみなく労を折っていることが何となく伝わってきた。恵美子は珈琲を飲み終えるとテーブルから立って言った。

「じゃあ、結界張ろっか」

 そう言った恵美子の手には、いつの間にか黒光りする釘が握られていて、これも念でできた釘らしかった。恵美子はいきなり左の掌に釘の先端を突き立てた。

「おい!」

 制止しようとした徳郁に被りを振って留めた恵美子は、呻きながら肉に埋まった釘で傷口を横に切り開き、掌はたちまちトマトジュースみたいな色合いの血に染まった。恵美子は開いた肉の中から指先で何かを摘み出した。それは真っ赤に染まった紐状の組織だった。驚愕した徳郁に向かって、恵美子は苦痛に歪んだ笑みを見せて言った。

「これ、血肉を捧げてるから強いよ」

 そう言いながら恵美子が紐を引っ張ると、中からずるずると紐が滑り出て徳郁は目を剥いた。紐は際限なく掌から出てきた。恵美子は紐で結わえた釘を、無造作に部屋の角の壁に押し込んだ。豆腐を箸で刺すように釘は簡単に壁に沈み、恵美子は各部屋の四方に釘付けした紐を通していった。全ての部屋に紐を通し終える頃には、恵美子の顔色は紙のように白くなっていた。恵美子は重そうに身体を椅子に沈めると、徳郁に向かってだらりと垂れた右手を差し出した。

「悪いけど手握って。ほんのちょっと頂戴」

 頂戴という言葉に反応して背筋に寒気が走り、徳郁は一瞬怖気付いたが、恵美子の辛そうな表情を見て、おずおずと垂れた右手を握った。肉厚の恵美子の掌は氷みたいに冷たく、ぶよぶよに膨張した水死体の掌を連想させた。握った掌を通して徳郁は、体内から何かが吸い出されるのを感じて声を上げた。

「うわ、これ、空に魂抜かれかけた時の感じとそっくり」

 辛そうに恵美子が応じた。

「こんな感じなんだ? ごめん、もうちょっと貰うわ。今ので使い果たした」

 徳郁の手を握って項垂れていた恵美子は、二、三分で背筋が伸び、顔に赤みが差してきた。恵美子が手を離すと何かが吸われる感覚が消え、徳郁は目の前に翳した掌をしげしげと眺めた。徳郁の掌には血が付着していなかった。

「血は?」

 徳郁が尋ねると、恵美子が徳郁に向かって開いた掌を翳し、驚いた徳郁は声を上げた。恵美子の白い掌は滑らかで何の傷もなかった。

「どういうこと?」

 呆然とする徳郁に、恵美子が答えた。

「だから、物理現象じゃなくて念なんだよ。でも、ほんとなの。現実でもそうなるから」

「死ぬ時も?」

 その質問に頷いた恵美子が真顔だったことが、改めて徳郁を暗澹とさせた。二人は対処法を確認し合った。外出は厳禁で、食事は出前で済ますように言われた。スマホやネットは電波を介して侵入する可能性があるので、電源を切った方が良いと言った恵美子に徳郁は尋ねた。

「さっき、終わったら連絡してくれるって言ったけど、じゃあどう連絡受けたらいい? スマホ使えないんなら」

 恵美子は一瞬考えてから答えた。

「その時は、面倒だけど直接訪ねて、インターホン越しに、もう終わったって言うから」

 夜が明ける前に、恵美子は帰ると告げて椅子の背もたれにかけたコートを羽織った。徳郁は礼を言って恵美子を玄関まで送った。パンプスを履き終えた恵美子は框で振り返ると、徳郁を凝視して言った。

「じゃあ、ほんと気を付けてね」

 ふいに涙腺を刺激された徳郁は、反射的に俯いて恵美子に言った。

「ほんと、こんな時間にありがとな。何とか耐えて、終わったってお前の声をちゃんと聞くから」

 徳郁が言い切ると恵美子が微笑みながら頷き、静かにドアを閉めた。


 日中から蛍光灯を付けた不健康な自室に籠りながら、徳郁は度々外部と接触せざるを得なかった。始業前の職場にスマホで病欠の連絡をし、夕方前にウーバーイーツで炒飯を注文し、食事を運ぶ際に玄関のドアを開けた。その度に徳郁は気が気ではなくなったが、幸い何事も起きなかった。

 徳郁が家に籠る閉塞感とは異なる重圧を感じ始めたのは、午後八時を廻った辺りからだった。壁越しでも自分を見下ろす空の視線をひしひしと感じ、偏頭痛持ちでもないのに頭が痛くなってきた。特に頭頂から錐で刺されたような疼痛が断続的に拡がり、そこが恵美子に釘で刺された箇所だと気が付いた徳郁は、魂が引き抜かれかけていると思ってぞっとした。

 風が吹き始めていた。窓枠がかたかたと音を立てて揺れ、それが徐々に強まっていった。そのうち、窓は直に手で揺すっているかと思うほど激しく音を立てて揺れ、強風が空気を裂く、ごおおおという通低音が渦巻いた。徳郁は窓を突き破ろうとする力と、四囲を覆う結界の張りの強さの両方を感じた。確かにこの結界は強力だった。徳郁には風の唸りが、空の発する狂おしい慟哭のように聴こえてきた。窓の揺れは肩で体当たりした時のような、だあん、という断続的な衝突音に変わり、徳郁はこんな風があるはずがないと思った。

 玄関扉の上に嵌め込まれた換気扇に風が逆流して羽がゆっくり回り始め、特にその周辺の結界にはち切れそうな負荷がかかっているのを徳郁は感じ、大声を上げかけた。至る隙間を求めて這い回る空の動きは、際限なく活発になっていった。

 五枚ある換気扇の白い羽が徳郁の見ている前で撓み、プラスチックの表面に折り曲げた時のような白い筋が走るのを目撃した徳郁の口から抑えていた悲鳴が迸り、悲鳴と同時に自制も完全に吹き飛んだ。恐慌を来した徳郁はベッド脇のサイドテーブルのスマホに飛び付き、恵美子に連絡をした。通話が繋がった瞬間、徳郁の鼓膜を恵美子の絶叫が貫いた。

「馬鹿! 何で電話してくんの?」

 徳郁はまともに聞いておらず、一方的に叫び返した。

「か、換気扇がもう、頼むから助けて!」

「もうやってる!」

 徳郁の懇願を、恵美子の大声が遮った。

「やってんだよとっくに! 全力絞ってるけど――」

 通話がぷつぷつ断線し、バリバリと激しいノイズに覆われた。徳郁は泣き顔になって、もしもしと通話口に大声を張り上げた。風が泣き叫んでいるようにも、テレビの砂嵐のようにも聴こえる轟音の中から、高いとも低いとも言い難く性別の区別すら付かない囁き声が耳に届いた。それは確かにこう聴こえた。

 頂戴、全部頂戴と。

 受話口から何かが頭に滑り込んでくる感触に仰天した徳郁が反射的にスマホを壁に投げ付けると、壁に激突したスマホは発火しながら床に転がった。黒い筐体が溶けて中の基盤が剥き出たスマホの残骸を呆然と眺めていた徳郁は、めりめりと音のした玄関を振り返った。換気扇の羽がひとりでに、くの字を描きながら捻じ曲がっていた。内側に弧を描いて撓む結界が破れる寸前なのを感じた徳郁は玄関に飛び付いて両手で扉を押したが、物理的な力が結界に全く影響しないのを感じて悲鳴を放った。徳郁の頭を過ったのは、真っ赤に染まった紐状の結界の形状と、血肉を捧げてるから強いという恵美子の言葉だった。

 徳郁はキッチンの引き出しの内側のラックから包丁を引き抜くと、両方の掌に躊躇なく刃先を突き立て、激痛に顔を歪めながらも何度も十字に傷口を走らせた。ぎひいいい、と口から呻きを漏らしながら、みるみる浮き上がる血玉で真っ赤に染まった両手を擦り合わせて血を拡げると、徳郁は玄関の扉や周囲の壁に掌を這わせていった。灰色の玄関扉や白い壁が、たちまち赤い手形や血の筋で斑に染まっていった。壁を擦る度に傷口が拡がる激痛のあまり、その効果を確かめることすら徳郁の頭から飛んだ。憑かれたように壁に血を擦り、玄関側の壁から始めて四方の壁全てに血を擦り付けた頃には、砕けたガラス片を掌で掻き混ぜたような激痛に覆われて半ば無感覚になり、徳郁は耐え切れずに寝室の床に膝を付いた。

 今や室内自体が鳴動するほどの物理的負荷が加わっていたにも関わらず、徳郁が恐怖に潰れなかったのは、単に恐怖よりも掌を覆う激痛の方が遥かに勝っていたからに過ぎなかった。

 徳郁が床に額を擦り付けて、苦痛に歯を剥いて唸るうちに、気が付くと空の圧力は収まっていた。痛みで頭が一杯になっていたせいで、徳郁はいつそれが収まったのかも分からなかった。はっと気付いて上体を起こした徳郁がテレビ台の時計を見ると、四時五分だった。徳郁はしばらく息を詰め、全神経を張り巡らせて周囲の状況を窺った。風も収まったらしく、干渉どころか大気の流れすら感じなかった。

 ようやく徳郁は詰めていた息を吐き出し、血塗れの掌を洗って消毒液を振りかける度に喚き声を上げた。包帯がなかったのでバスタオルを掌に巻いて応急措置を施し、そこで時計を見た時は六時近かったのは覚えていたが、次に気付いた時はインターホンのチャイムが立て続けに鳴り、いつの間にかベッドに臥せっていた。

 鳴り響くチャイムをうとうとと聞いていた徳郁は、自分の名前を呼ぶ活舌の悪い濁声を聞き付けて飛び起きた。それは上司の柴田の声だった。徳郁が反射的に時計を見ると既に十時を過ぎていて、徳郁は呻き声を上げた。完全に会社への連絡を失念していたことに気付き、頭から一気に血の気が引いた。今岡と呼ぶ柴田の声は、今や半ば怒鳴り声になっていた。後悔の念に突き動かされた徳郁がベッドを飛び出て玄関の扉を開けた瞬間、しまった! という失態の念が電流のように全身を貫いた。

 開け放った朝の玄関先には、誰もいなかった。

 扉を閉める間もなく室内に雪崩れ込んだ疾風が徳郁に押し寄せ、風に攫われて魂が抜け出た身体が床に大の字に倒れるのを眺めながら、徳郁は反対側の窓から一挙に空へと突き抜けた。四角い灰色の雨戸が視界に映ったと思うと、あっという間にマンション自体も四角い白い箱のように小さくなり、徳郁は喉が裂けるほど叫んだが、網の目のように眼下に拡がる道路を行き交う通行人の誰一人として、上空を舞う徳郁の存在に気付く者はいなかった。

 藻掻く徳郁は風に衝き上げられるビニール袋のように天高く舞い、首を捩じって上向くと、淡い青空を押し退けて生じた巨大な亀裂から、狂おしく燃え盛る業火の橙色の光輝が迸り、夕陽のように空を橙色に染めた。その亀裂の中は、業火に包まれて虫のように藻掻いて痙攣する豆粒大の人間のシルエットの群れで埋め尽くされ、徳郁は絶叫しながら頭から業火の中に吸い込まれた。

 業火に全身を包まれた徳郁が炭化して、真っ黒い土くれのように焦げゆくその時、数十キロ離れた一室の神棚に祈りを捧げていた恵美子が、長々と尾を引く絶叫を迸らせた。

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天空の眼 江川太洋 @WorrdBeans

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