第2話 犯人

 僕も人の波に乗って逃げようとした。すると、後ろで更に悲鳴が上がった。会社員の女性が脇腹を刺された。床に血のりを広げながら、這ってでも逃げようとする。そこへ、ナイフの男は馬乗りになり、女性の背中を突き刺した。その瞬間、言いがたい歓喜が僕の喉を伝ってきた。なんて、理不尽で、もっともらしい光景なのだろう。僕は車内で響き渡る狂おしい叫びに酔いはじめた。



 ナイフ男を止めようと、体格のいいサラリーマンが男に飛びかかった。ナイフの男は小柄な体格を活かし、サラリーマンの懐にナイフをいち早く突き刺した。僕の前髪にも血が噴きかかった。動悸が早まる。息切れさえ起こしそうだ。僕はどうかしている。それとも、弟に何かあったのか?


 車内の惨事を聞きつけた車掌が入ってきた。乗客は、車掌に道を開けた。


 「やめなさい。そんなことは、さあナイフを置いて!」


 ナイフの男は、息を切らして車掌にナイフを振りかぶった。車掌の悲鳴。弾ける赤い雫。電車はカーブに入り、耳障りな金属の擦れ合う音を立てた。電車が減速し、駅についた。


 「下がって! 乗らないで下さい!」

 駅は、何も知らない乗客が混乱していた。


 僕は、安心した。何だかとても、誇らしい気持ちなのだ。何もしていないのに、晴れやかな空の下にいるようだった。誰もが、僕を見ている。喚き、嘆き、泣き叫ぶ乗客と、僕は無縁だった。ただ一人孤立していた。いや、独立といった方が正しかった。



 僕は、自由を得た。



 ふと我に返った。僕の目の前では、膝をつき怯える人々と、ナイフの男の姿が見えた。警察が取り囲む車内で、ナイフの男と僕は立ち尽くしていた。僕の中に不安が広がる。これは今の自分の感情だ。僕は、車内の明かりが全て消えたような錯覚を覚えた。さっきまでの感情は僕のものではなかったのだ。


 「嘘だ」

 口をついて出た言葉は震えていた。足元に散らばる死体の山、赤い水のじゅうたんの上。ナイフの男はサングラスを床に落とした。血液の上をサングラスは線を描いて滑った。僕は、男の顔を見ることができない。嬉しいのだ。僕は笑っている。僕達は笑っている。


 「ごめんね、兄さん」

 マスクを外して、笑いかけてきたのは弟だった。

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