第三十五話 惨劇(二)


 ラッチ部分が壊れた扉、明かりが付いたままのフロア——と、誰も居ないライブバーには、不審な所が多々あった。何が起きたのか、それとアネモネに関しての痕跡、もしくは行方知れずのヨンスの糸口など―—何かしらの残痕が残っていないか、アイ達は店内を調べてみる事にした。


 タダシは、ステージ横の小さな物置部屋を一通り探ると、次は手洗い場へと調べていった。レオンもバーカウンターの戸棚など物色していき、アイはその横でレジスターとレジカウンターをごそごそと漁ってみた。しかし、レジスターの中には小銭すら無く、カウンターの中には埃しかなかった。


 そこでふと、微かな異臭がアイの鼻腔を掠めた。


「……何か、変な臭いがする」


 アイはそう呟くと、隣にいたレオンが鼻頭をひくひくとさせた。


「特に何も臭わないが?」


 しかし、アイは確かに異臭を感じた。


 アイはレオンを残し、バーカウンターの裏側にある調理場へ向かった。そこから異臭が漂ってきているように感じたが、少ない食器や調理器具は汚れておらず、シンクも古いが清潔に見えた。ごみ箱の中も何も無い。


 ——じゃあ、何処から?


 アイは、更に開口部がある奥へ進んだ。そこは貯蔵室のようで、棚には缶詰などが並んでいた。そして―—。


「——っ!」


 アイは飛び上がって、後ろにあった棚にぶつかった。棚からカランカランと音を立てて、缶詰が幾つか落ちていった。その音が客席フロアに届いたのか、タダシとレオンが貯蔵室へ駆け付けた。


「アイ! どうしたっ!」


 タダシは転がる缶詰も気にせずに蹴散らし、棚に張り付いて固まっているアイに近寄った。


「人、居た……」


 アイは乾いた口を何とか動かした。


「何処に?」


「そこ……」


 アイは腕を上げ、人差し指で前方を示した。アイの指先に導かれるまま、タダシとレオンは目を遣り―—アイと同じように声無き声を上げた。


 アイ達の前方には扉があった。その扉は、出入り口の扉と同じように小窓があり、……こちらを見詰める両目が見えた。


 明らかに誰かがこちらを凝視している。だが、おかしい……。何故、扉の向こうにいる人物は、こちらを見詰めるだけで何のアクションも起こさないのだろう……。それに、嫌な臭いがそこから強く感じられ、アイの鼻を強く刺激した。


「お前ら、下がっていろ」


 タダシがアイとレオンの前に出て、扉の前に立った。間近で見詰め合う程の距離にも関わらず、扉の向こうの人物は黙ったままだ。タダシは取手に手を掛けた。すると、扉は自動的に手前に開き——血に濡れた人間が倒れてきた。


「死んでいる、な……」


 タダシは屈んで、床に倒れた血濡れの遺体を見遣った。


「その人は、殺されたの?」


「あぁ。何かで胸を一突きされたようだ。部屋の中は——」


 アイにそう答えると、タダシは立ち上がって扉の中を潜っていった。


「何だ、これは……っ」


 タダシの息を飲んだ声が聞こえ、アイとレオンも部屋の中へと足を踏み入れた。


 そこは……凄惨の一言であった……。


 部屋の中には、他にも無惨な遺体が何体も転がっており、床や壁に血痕が飛び散っていた。どれもこれも体が赤黒く染まっており、驚愕、苦悶、遺恨の表情を浮かべたまま絶命していた。あまりにも惨たらしい光景に、異臭も相まって、アイは腹の奥がムカつきだした。


「悪いっ。俺、駄目だ……っ」


 レオンが口元を押さえて、足早に部屋の外へ出た。タダシは、ノア国家治安警備軍での経験があったのだろうか、顔を顰めながらもも平坦なままだ。アイも気分が悪くなって外へ出ようとしたが、ふと部屋の奥にある遺体に目が引き寄せられた。


「アイ?」


 タダシの呼び掛けに応えるのも億劫な程、アイは腹のムカつきを堪えていた。それでも、アイは部屋の奥に進んだ。どうにも、アイはが気になってしまった。近付いてみると、その遺体は、リクライニング式のベッドの上で背凭れに上体を預けたまま、胸元とベッドカバーやシーツを血で汚して絶命していた。その遺体は男で、他とは違って争ったような形跡が無かった。


「なんてこった……」


 いつの間にか、タダシがアイの横におり、その遺体を見て愕然としていた。


「こいつはアネモネの首謀者——ジェットだ」


 その名前に、アイは驚愕した。


「この男が……?」


 アイは、改めてその遺体を見下ろした。


 犯罪組織の首謀者と言うのなら、それなりに厳めしさのある風貌かと思いきや―—逆であった。髪は乾ききったようなぱさぱさの白髪で、患者着を纏った体は酷く痩せこけており、老人のようであった。そして、何と言ってもその面差しが、柔らかく、思慮深さが滲み出ていた。


「本当に、この人がジェットなの?」


「あぁ。俺が警備軍をやってた頃、ジェットの人相を頭に叩き込まれたからな。左頬の下の二つ並んだ黒子まで覚えてる」


 アイが遺体の顔を見れば、やつれた頬に二つの黒子が確かにあった。


「こんなお爺さんだったなんて……」


「いや、年齢はまだ四十代ぐらいのはずだ。それに、この傷痕は何だ?」


 タダシは、ベッドの上に垂れ落ちているジェットの両手を見た。アイも目線で追うと、ジェットの手首には酷い傷痕があり、皮膚が引き攣れて盛り上がっていた。


「手首に深い傷がある。もしかしたら、碌に手を動かせなかったんじゃないか?」


 そう言うと、タダシは遺体の足下へ移動して、ベッドカバーを捲くった。


「足首にも同じような傷痕がある。何なんだ? まるで、拷問を受けたようだ……」


 タダシが当惑する横で、アイは少なからずも、目の前にある死者に戸惑っていた。


 アネモネの首謀者であるジェットは、大勢の生命を奪い、脅かし、幼い子供をも犯罪組織に巻き込むような、血も涙も無い卑劣な男だと想像していた。だが、実際にその男を目にすると、本当に犯罪組織の首謀者なのだろうかと、アイは疑問に思った。十四年の歳月で何かあったかもしれないが、もう生気を失った目は残忍さは無く、憂いを帯びていた。


 ——それにしても、誰に殺されたのだろう……。


 それも、犯罪組織のアジトに乗り込んで、構成員らしき者達を皆殺しにしたのだ。アネモネに恨みを持つ、複数犯の仕業か。それとも、内輪揉めから起こった殺人か……。


 そう考え込んでいたアイは、何となしに目線を彷徨わせていた。すると、ベッドの横に紙切れのような物が落ちているのを見つけた。


「これは……」


 それは、チケットであった。血液で所々汚れており、ぱっと見た感じでは、何のチケットなのか分からなかった。アイは思わずそれを拾い、何のチケットなのか確認しようとした。


「——アイ、ここから出るぞっ」


「え?」


 その時、アイはタダシに腕を掴まれ、部屋の外へ連れ出された。


「ヨンスもいないんだ。いつまでもここに留まる理由はない」


 そう話すタダシに連れられ、アイはチケットを手にしたまま、貯蔵室と調理場を通り抜けてホールまで戻った。アイが「通報はっ?」と聞くと、タダシは苦い顔をした。


「流石に二回も殺人現場に出くわしたら、警備軍に怪しまれるだろうな……」


「なら、後から匿名で通報すればいいさ」


 そう言って、顔色を悪くしたレオンが手洗い場の方から出てきた。


「クリスに頼めば、ボイスチェンジャーだって用意してくれるさ」


 まだ調子の悪そうなレオンに、アイは彼の背中を摩った。


「大丈夫?」


「すまない。情けない姿を見せたな」


 普段は息をするように格好つけるレオンの弱々しい姿に、アイも流石に心配した。


「また、あんな光景を見るとは思わなかったな……」


「……」


 知らずに零れ出たであろうレオンの言葉に、アイは何も言えなかった。今までのレオンの言動からして、おそらく十四年前の天の川事件の関係で、凄惨たる光景を目にしたのかもしれない。それに、彼はひだまりの家の卒園者である。もしかすると……——。


「……とにかく、ここから出るぞ」


「そうだな」


「……うん」


 タダシに促され、レオンとアイは出入り口に向かった。タダシもアイ達の後に続いき、ライブバーの壊れた扉を静かに閉じた。


「クリス達にも現状を伝えておこう」


 タダシが携帯電話を取り出して、電話を掛けた。アイが階段を上っている間、微かに聞こえてくる呼び出しのコール音が、暫く鳴り続けた。


「……変だな。出ないぞ」


 タダシは電話を切り、もう一度掛け直した。次はタロウの携帯電話に掛けたようだが、そちらも電話が繋がらなかった。ならばと、事務所の固定電話にも掛けたようだが、コール音が鳴り続けるだけで、誰も電話には出なかった。


 クリスとは、ここへ訪れる前に電話をしたばかりだ。そして、クリスとタロウは事務所に籠っているはずなのに……―—と、アイ達は不可解に思った。そうしている間に、アイ達は地下と地上を繋ぐ階段を上り切り、長方形型の開口部を潜った。


「え——?」


 そして、アイは目の前の光景に唖然とした。


 開口部を潜った先には、武装した集団がおり、アイ達を取り囲むように立ち塞がっていた。

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ゴッドチャイルド 第一部アネモネの花 菜埜華 @k15_nanohana

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