あをによし

みよしじゅんいち

あをによし

「うらないというのは未来を知ろうとすること。まじないというのは未来を変えようとすることじゃ」泉橋院せんきょういん行基ぎょうきがそう言ったとき、景静けいせいにはその意味がよく分からなかった。


天平てんぴょう九年(西暦七三七年)二月、和泉国いずみのくに大鳥郡おおとりぐん鶴田郷つるたごう凡山田村ぼんやまだむら鶴田池院つるたいけいんと名付けられた道場の中。齢六十九の老僧行基は火床ほどを囲む若い衆に鶴田池築堤ちくていの工程を伝えていた。「今日はみなご苦労じゃった。寒かったろう。まずは荒布あらめの汁を食うて、温まってくれ。景静けいせいや、玄米飯は炊けたか」

「はい。行基様、いまお持ちします」

「みなが今日、山ほどの土嚢どのうを運んでくれたおかげで築堤のめどがついた。明日は朝から柳の枝葉で粗朶そだを組む。あとは粘土と砂礫されきじゃが——」そのとき、道場の戸を叩くものがあった。

戸を開けると「——どうか助けてくださいまし。主人が、主人が」と叫ぶ青衣しょうえ女人にょにんの姿があった。

「どうした。何があったか教えてくれんか」女人を板の間に上げて、行基がきく。

里長りちょう柿本男玉かきのもとのおだまの妻、朝妻田吉女あさつまのたよしめと申します。あの人、昨晩から急に熱を出して倒れてしまって——」

「はて。風病ふうびょう(風邪)じゃろうか。よほど容体が悪いと見えるな」

「きっと罰が当たったんです、お坊さま。お坊さまは偉いお坊さまとききました。どうかその法力で主人の病を祓って頂けませんでしょうか。村は山をひとつ越えたところです」

「分かった。皆の衆、ゆっくり飯を食うて行ってくれ。話の続きは明日としよう。景静けいせい、ついて来てくれんか」

「分かりました。法義ほうぎ殿、留守を頼む。三日ばかり前、隆池院りゅうちいんで仏像が盗まれたらしい。戸締りに用心してくれ」


月明かりの山道。田吉女の後を行基。その後を松明たいまつを持った景静が付いて行く。

「そういえば、罰が当たったとか言うておったが」と行基が田吉女に尋ねる。

「——はい、そのう。お寺の仏様を盗んでしまったのです」

「行基様、もしかすると隆池院りゅうちいんの」景静が行基に耳打ちをする。

「そのようじゃな」

「罰なら私が引き受けます。どうか、どうかあの人を助けてやってください」

「盗んでどうするつもりじゃった?」

「……」田吉女は答えない。

「役人に突き出しましょう」

「いやいや。そりゃどうでも構わん。村へ急ぐとしよう」


山道を抜けると苫葺とまぶき屋根の集落が見えた。村の入口に子供が倒れていた。

「おい、どうした小僧。そんなところで寝てると野犬の餌になるぞ」と景静が顔を照らすとカサブタだらけで息がなかった。「行基様、これは——」

「いかん。触れてはいかん。むかし師匠の道昭様に聞いたことがある。おそらく裳瘡もがさという名の疫病じゃ。掛かれば二人のうち一人が死ぬという」

「田吉女とか言ったか。まさか、お前の主人も同じ病気じゃないだろうな」

「同じ、かもしれません。ちょうど十日ほど前から村にこれが流行りだしたのです」

「この村にはどのくらい人がおる?」行基が尋ねる。

「四十人くらいですが」

寧楽ならみやこ施薬院せやくいんなら、薬も豊富にあるじゃろうが、ちと遠いのう。景静。すまんが、使いを頼まれてはくれんか。いまから隆池院りゅうちいんへ行って薬を貰ってきてほしいのじゃ」

「いや、でも、行基様。この病がもしも行基様にうつってしまったら——」

「心配せんでよいから、はよう行ってこい。大黄だいおう升麻しょうま黄連おうれん青木香せいもっこうをありったけじゃ」

「そんなに沢山、高価な薬を」

「構わん。ええから、行ってこい」景静を見送って行基が言う「それで、お前さんの家はどこじゃ?」


竪穴式の住居に囲まれた、立派な茅葺かやぶ掘立柱ほったてばしらの屋敷に案内された。

「あんた、帰って来たよ。偉いお坊さまに来てもらったよ。もう大丈夫だよ」

「……」高熱で譫言うわごとを言っているが、聞き取れない。

「どれどれ。まだ発疹ほっしんは出ておらんようじゃな。亭主の名は何じゃったかの」

男玉おだまと申します。さあ、お坊さま。その法力で病を遠ざけてくださいませ」

「いや。わしにそんな力はありゃあせん」

「そんな、お坊さままで。うちの人と同じことを——。たしか、みやこでは玄昉げんぼうってお坊さんが、色々なご病気を、まじないで治してるって聞きましたよ」

「わしにそんな呪力はない。じゃが、このえやみのことなら少し知っておる。お前さんの亭主だけではない、みなが苦しんだ」

「私にはこの人しかいないんです」

「——三十年ほど前じゃったか。わしもこれに掛かったことがある」

「えっ」

「じきに薬もとどく。まずはお前さんがこれに掛からんようにしなくてはのう。今日はゆっくり休むんじゃ。お前さんがしっかりしなければ、治るものも治らん」

「——は、はい」

「体を冷やしてはならん。熱が下がれば水を欲しがるじゃろうが、あまり多くを与えんことじゃ。その代わり、できるだけ重湯おもゆかゆらせなさい」


翌朝、景静けいせいが帰ってきた頃には、行基は村の様子を調べ終わっていた。「すまんが、もうひとつ頼まれてくれんか。道昭様が言うにはな、このえやみはいちど掛かれば、二度とは掛からんらしい。道場に戻って、裳瘡に掛かったことのある年寄りを集めて連れてきて欲しいのじゃ。それと池をこしらえるのはしばらく中止と伝えてくれ」

「分かりました。行基様の人使いの荒いのには慣れております。みなの中に裳瘡もがさが流行っては工事どころではありませんからね」

「あとは都じゃな」

光明皇后こうみょうこうごうの開かれた施薬院せやくいんにも使いを出しましょう。朝廷が真に受けてくれるとよいのですが」

「施薬院の者にこの書付を渡してくれ。とう玄奘三蔵げんじょうさんぞう法師から道昭様が教わったという処方箋じゃ。行基の使いといえば分かる」


行基は田吉女に薬を渡し、水で煮て薬湯を作るように頼んだ。田吉女がくりやのある隣の建屋に向かうと、行基は男玉の枕元に座った。

「どれ、熱は少し下がったかのう。男玉おだま殿、加減はどうじゃ?」

「やかましい。何しに来やがった、糞坊主」

「ほほ。こりゃ手厳しいのう。糞坊主か」

「坊主など、祈るばかりで能がないくせに威張ってばかり居やがるからな」

「はは。ごもっともごもっとも。それだけ元気があれば、なんとかなりそうじゃ」

「笑うな、糞坊主。出ていけ」

「ところでおぬし、仏像を盗んだらしいが、どこへやった」

「そうか。あれを取り返しに来やがったのか。が、残念だったな。もうつぶしちまってどこにもねえよ」

「ほう。鋳つぶしたか。もしかすると私鋳銭しちゅうせんにでも化けたかのう」

図星を突かれたのか、男玉が行基を睨む。

「——ふん。金がなけりゃ薬も買えやしねえからな」

「そうか。なるほどな。薬なら、いま薬湯ができる。待っておれ」

「薬だと。どこで手に入れたのか知らんが、薬ならおっかあにやってくれ」

「いや、このえやみはな、いちど熱が下がるが、その後が怖いんじゃ。お前さんの女房なら、いまくりやで薬湯を煮ておるぞ」

「なに。そんなはずはねえ。あいつは。おっかあはもう虫の息なんだ」

行基の目の色が変わり立ち上がる。隣の建屋たてやに入る。くりやを覗くと薬湯が煮えていたが、田吉女の姿がない。どこへ消えたのか探すと、奥の麻衾あさぶすまの下で青衣しょうえ女人にょにんが、痘痕あばたに包まれて死んでいるのが見つかった。

「これは、どうしたことじゃ」さっきまで薬を煮ておったのは誰だったのか。行基は合掌し、不思議なこともあるものだと、田吉女を手厚く葬った。


四年後、天平十三年(西暦七四一年)三月。山城国やましろのくに相楽郡大狛村そうらくぐんおおこまむら泉橋院せんきょういん。門口で輿こしを見送る行基に柿本男玉が声を掛けた。

「行基様、さっきの客人、誰ですか? ずいぶん立派な風体でしたが」

みかど聖武しょうむ天皇)じゃ」

「えっ。帝っていうと、あの?」

「帝にあのもこのもないわい」

「その帝が行基様に何の御用で」

「何でも廬舎那仏るしゃなぶつの大仏像を作りたいと言われておった」

「大仏?」

「小山ほどの仏だというがの、みなが望むならばできるじゃろう。時が来たら男玉殿、わしに力を貸してくれんか」

「私がですか?」

「男玉殿の作った、ニセの和同開珎。それをもとの仏像に鋳なおしてもろうたことがあったじゃろう。男玉殿なら大仏の鋳造もできるのではないかと思うての」

「待ってください、行基様」景静が口を挟む。「私は大仏などというものの建立こんりゅうには反対です」

「ふむ?」

「そのような巨仏となれば建立には何年も掛かりましょう。労役の人夫も大変な労苦を負いましょう。それで仮にそのような仏像ができたからといって、何の役に立ちますか。私には意味のないまじないとしか思えません」

「一休みしたらどうじゃ、景静」

「これまで行基様が作って来られた、僧院、尼院、橋、溜め池、堀川、船泊り、道路、布施屋。その数々はみなの暮らしを支えております。朝廷が行基様の人気を利用しようとしているだけではないですか」

「いや。そうではあるまい」行基が鷹のような目で景静を見据えた。「うらないとは未来を知ろうとすること。まじないとは未来を変えようとすることじゃ」

「はい?」

「わしは何もしておらん。みなが望めばできる。橋や池や布施屋と同じことじゃ」


さらに十一年後、天平勝宝四年(西暦七五二年)四月。東大寺金堂。大仏の開眼かいげんを祝う、華やかな歌舞音曲の中、柱の陰で景静が男玉に声を掛けた。

「行基様が亡くなられて三年か」

「間に合いませんでしたね。見て欲しかった」

「かつては妖言をなす小僧しょうそうと朝廷から弾圧された行基様が、大仏建立への貢献で大僧正になった。が、まさか仏像泥棒のあなたが鋳師ちゅうしとしてこれほどの昇進を果たすとはな」

「それは言いっこなしです。景静様。不思議なもので、仏像を銭に変えたばっかりに、行基様が集めた寄付で大仏を作ることになりました」

「本当に。そなたが仏像を盗んだときは驚いたものじゃ」と割って入る声がした。振り返るとそこに光明皇后が立っていた。

「——皇后様? どういうことでしょう」尋ねたのは景静だった。

「ふふ。あの頃は、私も若かった」皇后は大仏を見上げて遠くを見るような目をした。「民草の暮らしを知らねば正しいまつりごとはできないからと無理を言って変装をし、兄の藤原房前ふじわらのふささきの手引きで隠密に諸国行脚の旅に出たのじゃ。行基様の噂を聞き、隆池院りゅうちいんへ参ったとき、そこな男玉が仏像を盗むのに出くわした」

「なんと」男玉と景静が同時に声を上げる。

「どんな悪党が仏像を盗んだのかと後をつけたが、村まで来るとそれが自分の妻や村人の疫病を治療するためのことと分かった。薬売りの真似事をして田吉女に会うたのじゃが、施薬院に出入りしていた私にも何の病やら見当がつかなかった。たまたま田吉女は私と同じ青衣を着ておってな。男玉が倒れたあとは、自分はいいから主人を助けてくれとそればかりを願うて事切れたのじゃ」

「皇后様、もしかして」景静が何かに気づいたような顔をした。

「ようやく私の顔を思い出したか」

「それでは」

「ああ。行基様なら病の正体をご存知かもしれないと思うてな。私が鶴田池院に助けを求めた」

「あ、ああ。そうだったのですか——」男玉がうめき声を上げる。

「あのとき口を突いて出たのは、みな田吉女の言うておったのを真似しただけのこと。礼ならば田吉女に言うことじゃ」

「それで合点が行きました。青衣の女人は幽霊とばかり思っておりましたので」

「幽霊などおらん。隠し通すつもりはなかったが、行基様の言いつけで薬を煮ているところを兄、藤原武智麻呂ふじわらのむちまろに見つかってしまってのう。平城宮へいじょうきゅうへ連れ戻されてしもうたのじゃ。許せ」

「右大臣ですか」

「ああ。武智麻呂むちまろ房前ふささきも、四兄弟ともども、その年の夏には裳瘡で亡くなってしまったがの。承知の通り、そののち都では三人に一人が裳瘡で命を奪われてしもうた」

「はい。残念ながら流行は食い止められませんでした」男玉が言う。

「いや。そなたらが行基様と一緒に病人を診て回ったことは知っておる。施薬院もいち早く疫病について知ることが出来た。悪いことが起これば悪霊の祟りという者が現れて、まじないが流行る。が、本当に必要なのはそなたらのような人間じゃ。そなたらがいなければ、悲惨な日々はさらに深く、険しいものになっておったに違いない。改めて礼を申す」

「私は大仏もまじないの一種ではないかと疑っておりました。しかし、きっとこの大仏は千年後の未来にも残りましょう。行基様が大仏建立に協力された訳が今日になって分かったような気がします」景静が言う。

「そういえば、その行基様じゃが、協力する代わりに、墾田の私有を認めるよう帝に頼まれたそうじゃ」

「墾田永年私財法。あれも行基様の発案だったのですか」景静が大仏を見上げると行基の声が聞こえた気がした。「わしは何もしておらん。みなが願ったからできただけのことじゃ」

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