もしも次に、君に逢えた時は

ただの柑橘類

もしも次に、君に逢えた時は

「着きましたよ、琥珀さん」

 その声でぱち、と目が覚める。すでに止まっている車の運転席から、私の友達である醒ヶ井絢柑さめがいあやかが顔を覗かせていた。

 広島駅から呉市まで車を走らせていたようだ。彼女の車だろう、まだ中も新しい。新車というやつだろうか。私は車の免許はとる気になれない。自衛官の頃からそうだ。一級小型船舶と特定操縦免許を持っていればある程度の職には困らないのだから。

 それよりも、まだ私が海上自衛官の頃に生起したとある事件から、私は免許を取ることをやめた……そう言う方が正しい。昭和基地で輸送任務をしていた時の話だ。輸送作業が終わり、「しらせ」に戻ろうと踵を返したまさにその時、ブリザードの「始め」に遭遇してしまったのだ。その風で煽られた大きな氷が私の頭にぶつかり、私は倒れた衝撃で左足を負傷した。昭和基地に引き返して応急処置をしてもらったはいいものの、私の左足はもう走れない足になってしまい、使い物にならなくなった。その後、艦長とよく話し合って、私は大学に通うことを決意した。それが24歳、まだ2等海曹になりたての頃だった。

 その後は大学に通いながら、南極で過ごしたことをエッセイにしようとウェブ小説で執筆していた所、とある時期から評価が伸び、たまたま出版社の目に留まって書籍化まで話が進んだ……というのが今の私だ。

「おばあちゃんに会うの、楽しみですか?」

「ちょっと怖いけど、楽しみだよ」

「良かった。琥珀さん……いや、今は「蜜柑さん」とお呼びした方が?」

「どっちでもいいよ? どの道どっちか分からないからボクって言ってるんだからね」

「じゃあ、蜜柑さんで」

 そんなことがありながらも、私はもう一つ人に隠していたことがある。

 それは前世の記憶があること。私はこの年代で生を受ける前は、戦争真っ只中の特攻隊……つまり、男の子であったのだ。夢妄想だと思って貰って構わない。それでも、私の頭の中には、空母から飛び立つ前に抱きしめた人の記憶があるのだから。名前も性別も、好きな物、嫌いな物、好きな人まで知っている。

 その好きな人がまさか前世の私だとは思わなかった。前世の私も私でそれなりに好意は抱いていたし、そういうことも何回かした。けれど、あの子は最後まで私のことを好きとは言ってくれなかった。

 そしてその人が、今会おうとしている老婆だとは、そして絢柑がその孫だとは私も未だに信じ難い。

 こうなったのは約半日前。私の知り合いである汐奏愛海しおかなでまひろが「前世の記憶持ってるんだっけ? え、醒ヶ井さんを知らないかって? うちの知り合いのおばあさんが同姓同名だけど……孫の絢柑なんて私たちと同期だし、呼ぼうか?」とトントン拍子で話が進み、駆けつけた絢柑が「前世がおばあちゃんの友達って本当ですか! そうですかすぐにうちに来ましょうおばあちゃんいるので!」と有無を言わさずドナドナされていき……そして、現在に至る。

「どうしてこんな所におるんじゃろか……」

「いきなり連れ出してすみません。とは言ってもおばあちゃん、認知症にもならずに元気に過ごしているから、もしかしたら疑っちゃうかもですよ?」

「それでもいいよ。これはボクのわがままなんだからさ」

「揺るがないですねえ」

 絢柑がドアを開ける。その音を聞いて、居間の方から犬が数匹吠えながら走って近づいてきた。

 大型犬が多い。ついでに玄関脇には散弾銃が数丁置いてある。どうやら猟犬のようだ。近づいてきたと思ったら、私の前でピタッ止まって座り始めた。頭を撫でようとすると、大人しく撫でられるがままになった。

「可愛い……これなんて言う犬種?」

「シェパードですよ。こっちはボルゾイで、こっちはチェサピークベイレトリバーです」

「長い名前が多いなあ。ペンギンの学名よりも長そう」

 笑い混じりに私は言う。絢柑は靴を脱ぎ、「さ、上がってください。おばあちゃん見てきますので、居間に座ってゆっくりしていてください」

「分かった」

 靴を脱いで綺麗に揃え、玄関に上がる。すぐ左にある居間に案内され、私は庭が見える縁側に腰を下ろす。鳥のさえずりが聞こえる。「頑張れよ」などと励ましているようには到底聞こえず、私は少し顔を顰めた。

「前世」というのには二つ種類がある。前世の人格のまま現世に産まれてくるパターン、現世の人格でいた時に、唐突に前世のことについて話し出すパターン。私は前者の方だ。最初、こんな平和ボケした世界で何をしているのだろう……と、よく考えたものだ。蛇口をひねれば水が出る、食べ物は食べたい時に食べられる……当たり前のことが当たり前に出来ない前世と比べて、随分と便利な世の中になったのだと不思議で仕方がなかった。

 私の生まれ育ちは南極だ。一面白銀の世界で、妊娠を隠していた南極観測隊員の母が、越冬隊の時に南極で陣痛を起こしたらしい。三月に産まれた私は、そのまま南極で育てられた。なぜかはわからないけど、母が言ったのだろう。「この子は産まれた所で育てるべきだ」と。

 母は頑固な人だ。それ故にプライドも高い。一度決めたことは意地でも曲げない人だった。

 父は同じく南極観測隊員の夏隊。日本で言う年越しを南極で過ごすのだ。母よりも優しく、よく高い高いをしてくれた。母を見て相当驚いただろう。

 変てこな家族の下産まれた私は、昭和基地にある図鑑を見てペンギンの存在を知った。あの頃は外国へ旅行なんぞ余裕がなさすぎて出来なかったし、そもそもペンギンという存在を知らなかった。だって、日本には水族館にしかいないのだから。私が生きていた時代は、水族館なんて貴族やお金持ちの人達が行くような所だと思い込んでいたものだから、知らないのも当然と言えよう。

 鳥を見れば思い出す。地雷で体が吹っ飛んだカラスの死骸を。その横で息絶えた人間の遺体を。見慣れたからなのかは分からないが、不思議と悪い気持ちは込み上げてこなかった。

 改めて思うのは、今いる「現世」は平和だということ。戦争なんてなかったかのように、平然と人々が暮らしている。

 でも確かに戦争があった。ここ、広島県呉市にも。

「蜜柑?」

 その声に、弾かれたように振り向く。

 そこには老婆が立っていた。その姿よりも、声が昔と差程変わりが無いことに驚いていた。

 間違いない。歩乃華ほのかだ。母譲りの海色の瞳がそれを物語っていた。

「蜜柑……なのかい?」

「……ぁ」

 声が出なかった。

 拒絶されるのか怖い。心臓の音がやけにうるさい。こめかみあたりが熱い。血管が破裂しそうだ。

 でも後戻りはできない。私は老婆……いや、歩乃華の方を向き、一言言った。

「疑わないの?」と。

「あぁ、疑わないさ。私が忘れるとでも思ったのかい、蜜柑?」

 昔と変わらない口調。その話し方が、私を前世へと引き戻してくれそうな、そんな雰囲気がする。

「……よく、分かったね。歩乃華」

 昔から、歩乃華には人を見抜く才能があった。歩乃華が「君は大物になるぞ!」と言ったとある小説家の人は、その翌年にその人が偉い人の目に留まって大出世した事もある。その後、お礼の品を添えられて何度も頭を下げられた。

 歩乃華は、戦争孤児だった私を拾ってくれた命の恩人とも言える。嬉しいはずなのに。本当に嬉しいはずなのに。

 でもどうしてだろう。ボロボロと涙が勝手に流れてくる。悲しくなんてないのに。

「ぁ……ああぁ……」

 いいや、違う。

 最愛の人に会えたことが嬉しいから、私は泣いているんだ。

 泣き崩れた私を、彼女はそっと自身の膝に乗せて、泣き止むまで私の頭を撫で続けてくれた。まるで、親を失った子供をあやすかのように、優しく、優しく。何度も、何度も。繰り返し、丁寧に。

「ごめん、ごめんなさい……あの頃の俺は馬鹿だったのかもしれない……文句も言わず、ただ一筋の涙を流して見送ってくれた君を……置いていく道を選んだんだから……。

 国のため、と。自分のため、と。……それで成長できたことが、前世であったのかな……?」

「俺」が泣きながらそう問うと、歩乃華は言った。

「蜜柑は何も間違っちゃいないさ。あの時は仕方がなかった。私も私で軍人になり、蜜柑も蜜柑で特攻隊へ選抜された。お互いにお互いの道を行き、お互いにお互いの道で終戦を迎えた。蜜柑言っていたよ、戦いに後悔など必要ないって。そうでしょう?」

 頷くしかなかった。たしかに自分で言った事だ。

 男なら、発した発言には責任を持たないと、女の子にかっこ悪い。

「じゃあ、蜜柑はなんも悪くないさ。私も悪くない」

「なんだよ、それ……っ」

 思わず笑みが零れた。昔から変なことを言う所も変わっていない。

 しばらくして泣き止んだ私は、歩乃華と色々な話をした。私が拾われた時のこと、その時の歩乃華の心情、釜炊きをしたら下の部分におこげが出来て、二人でつまみ食いしていたら歩乃華の母さんに怒られたこと、二人での生活のこと、出撃前のこと……。

 歩乃華は全て覚えていた。途中で詰まることも無く、思い出そうとすることも無く、その時起こったことやいた人物のことまですらすらと話してくれた。時には、「俺」が覚えていなかったようなことも話し始めて驚いた。

 ああ、変な感じだ。生まれ変わりを持ってしてでも、私は、俺は、こんなにもこの人に逢いたいという気持ちがあったなんて。

 本当に、変な感じだ。

「ふふ、おばあちゃん嬉しそうね」

 絢柑がお茶を持ってきてくれた。

「絢柑や。いつかあんたにも、うちの蜜柑のような大切で愛せる人が出来るといいねぇ」

「私には無縁なことよ!」

「いいや、できるよ。俺でさえできたんだから」

 三人で顔を見合せ、お菓子を食べながら日が暮れるまで話をした。

 その時だけ時間が止まっているような感じがして。ずっとここにいたいと、死ぬまで付き添いたいと、何度も何度も願った。

 

「さて。蜜柑さん、心残りはないですか?」

 日が暮れる頃、絢柑の車に乗った私は「うん、大丈夫」と口にする。

 時間は無限にある訳じゃない。私もそろそろ帰らなければ、執筆の時間がある。

「蜜柑」

 歩乃華の声がした。見ると、窓越しに微笑む歩乃華の姿があった。

「……歩乃華」

 ドアを開けて、私は歩乃華に抱きついた。あの時よりも身長が縮んでいて、痩せていて、触れると骨の感触がした。

「またおいで」

 私を抱き返して、歩乃華はそう言った。

 

 ***

 

 いくつか時が過ぎた。静かな呉の景色を眺めながら、私は目を細める。

「ここにいたんですね、琥珀さん」

 その声に後ろを振り向くと、いつの間にいたのか絢柑が笑顔で立っていた。顔には涙の跡がある。

「……前世の夜、俺と歩乃華はこのからすこじまを一緒に歩いた事があるんだ。地雷だらけで危ないから外に出るなっていう歩乃華の母さんの言いつけを破って、二人で抜け出した時だった。

 その時に歩乃華が言ったんだ。「月が綺麗ですね」って」

 昼間にもかかわらず、三日月が少しだけ顔を出している。元々視力がいい為、月の細かい模様が微かに見える。

「思い出の土地なんですね」

「そういうこと。……さて、行こうか」

「ですね。琥珀さん……いや、蜜柑さん」

 先を行く絢柑は、まるで歩乃華を見ているようで、なんだか懐かしい気持ちになって目を閉じた。

 

「心残りはないですか?」


 目を開けた。「うん、大丈夫」と口にする。

 

 あの時のように、涙を流しながら。

 

 全身真っ黒な装束に身を包んで、俺と絢柑は車へと歩を進めた。

 

 前世でも現世でも、結局最後まで返事を言えないままだった。

 

 もうすぐ、桜が咲く季節になる。

 

「───愛してるよ、歩乃華」

 

 次に君に逢えた時は、開口一番にそう言ってあげたい。

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