薬殺の日
八島清聡
第1話 Lethal injection Day
「それはね、ヤクサツされたのよ」
彼女は僕の目を見て、少し怯えたように言った。
その日のことは、今でもよく覚えている。
うららかな春の午後。僕たちはいつものように町外れにあるカフェでデートをしていた。客は僕たちだけで、お気に入りの窓際の席に向かい合って座っていた。
窓辺に置かれた観葉植物の鉢からは、鮮やかな緑がこぼれていた。
テーブルには、パリッと糊のきいたチェックのテーブルクロスがかけられていた。白の陶器のポットとカップが陽の光を反射して、彼女の憂い顔を浮かび上がらせた。
「何が? ヤクサツって?」
紅茶が入ったカップを口に運びながら、僕は尋ねた。
彼女は身を乗り出し、顔を近づけてきた。重大な秘密を打ち明けるように。
「私が小学生の時のことよ。その頃、私の親は私のために子ども用の新聞をとってくれていたの。紙面は数ページで、カラーで文字も大きくて楽しく読めるものだった」
「小学生新聞というやつか。うん、それで?」
「新聞は大人が読むものと同じく毎日来たわ。漫画や小説の連載もあって面白かった。私も親と同じく、毎朝読むのが習慣になっていたの。ある日ね、動物の親子を紹介する特集があったの。一面にカラー写真が沢山掲載されていて。生まれたばかりの馬の赤ちゃんとか、カルガモ、ライオン、カエルとオタマジャクシの組合せもあった。その中にはね、虫の親子もあったのよ。……なんだったと思う?」
僕はお茶を飲みながら「さぁ」と軽く首を傾げた。
彼女はそこで声をひそめた。
「ゴキブリよ。ゴキブリの親子の写真だったの」
「ゴ……」
僕は口に含んだお茶を吹きそうになった。数秒かけてなんとか飲みくだした。
朝刊の一面に、カラーのゴキブリの写真。想像するだけでグロテスクだ。少なくとも、僕は朝からそんなものは見たくない。
僕の気も知らず、彼女は続けた。
「親のゴキブリは羽が黒くて、テラテラ光っていた。そのお腹に、茶色で半透明の赤ちゃんゴキブリがくっついていた。きっかり四匹。触ればネバネバの液を引きそうな気色悪さで。でも私はどうしてか写真から目が離せなかった。それは確かに親子だった……。確かに生まれたばかりの命だったのよ」
「そういう話は……」
やめようよ、と僕は言いかけた。
ゴキブリなんて、語感だけで不快感が増す。食事時に聞きたいものじゃない。
しかし、彼女は僕の制止を遮って続けた。
「お願い、聞いて。私を驚かせたのは写真だけじゃなかった。ゴキブリの写真の下には、カメラマンによる注釈があった。そこにはこう書いてあったの。『※他の動物たちは撮影後に解放しましたが、これらはヤクサツしました』って」
「ヤクサツ。ああ、薬殺ね……」
僕はすぐに理解した。他の哺乳類やカエルの親子はそのまま生存を許された。が、ゴキブリの親子だけは「ゴキブリである」という理由から薬を投与されて殺されたらしい。
彼女は、ひどく悲しそうに目を伏せた。
「おそらく親ゴキブリはね、新聞の企画のために捕らえられて、卵を産んで子どもが孵ったところを撮影された。そして、用が済むと子どももろとも殺された。その時に思ったの。今でも時々思い出しては考える。あのゴキブリの子は、何のために生まれてきたのかな……? 生まれてすぐに殺されるため? だったら生まれてこなくてもいいじゃない。元から存在しないのと同じじゃない?」
彼女の問いに、僕はしばし逡巡した。
おそらくは、薬殺せざるをえなかったのだろうカメラマンについて考えた。
「とはいっても、ゴキブリは害虫だからね。体内に病原菌やウイルスを山ほど持っている。ゴキブリ親子を解放したらあちこちに菌をバラまかれてしまう。それはまずいだろ? 写真を見た子やその保護者だって不安になるだろうし。薬殺したと書いておけば読者は安心するし、クレーム防止にもなる」
「それは人間側の勝手な都合でしょ。たまたま害虫に生まれたことが、死に値する罪なの?」
いきなり話が大きくなって、僕は驚いた。
「いやいや、罪って。大袈裟な。そこまで深刻に考えなくても。もっと単純にいこうよ。ゴキブリは気持ち悪いし、不潔だし、人間の家に住み着いて悪さをする。人間の社会に害を及ぼすなら、駆除されても仕方ないさ。生まれたばかりの赤ちゃんであってもね」
「駆除、駆除ね……」
彼女は力なく「駆除」という単語を繰り返した。声には困惑が滲んでいた。
愚問だなぁ、と僕は密かに思った。なんでそんなことに悩むのか理解できなかった。
同時に彼女の悩みは、彼女が持つ「優しさ」からきているとも思った。彼女は優しい人だった。僕は彼女の優しい性格が好きだった。
僕は笑い、努めて明るく言った。
「結局さ、力なんだ。パワーだよ。駆除も薬殺も人間側の権利なんだよ」
「ゴキブリより人間の方が上ということ? 人間の歴史なんて、たかだか数万年程度じゃない。ゴキブリは私たちが生まれる遥か昔、それこそ恐竜がいた時代から地球に暮らしてきたのよ」
「確かに、やつらは生きものとしては大先輩だ。人類の遠い祖先なのかもしれない。けれど、やつらは進化せず何億年も同じ姿でいる。 何の進歩もないんだ。僕らは違う。人間は数万年という短い時間で著しく進化した。二足歩行を始め、火を使い、文明を築いて文字を生み出した。挙句に宇宙まで飛び出した。他の生きものにそんなことはできないだろ? この星では、人類はぶっちぎりの勝ち組さ」
彼女は僕を見つめたまま、不思議そうに言った。
「……私たちは、勝者なの?」
「少なくともゴキブリと比べたらね。だってゴキブリは僕たち人類を薬殺できない」
「そう……。命は峻別され、命は尊重され、命は冒涜されるのね」
彼女は薄い唇にどこか諦念じみたものを浮かべた。
「どうして、そんなことを僕に言うの?」
と尋ねると、彼女はうっすらと微笑んだ。
「あなたにだけは、私の葛藤を知っていて欲しいから」
「葛藤? そんなに重大なこと?」
「ええ、とっても」
彼女は大きく頷き、合図のように首をゆるりと横に振った。
この話はそれで終わりだった。
妙なことを告白されたな……と思いながらも、僕は気を取り直して食事のメニューを開いた。店員を呼び、好物のハンバーグ定食を注文した。僕たちは食事をし、他愛もない話をして笑った。
一年後、僕たちは周囲の人々に祝福されて結婚した。
僕は、彼女を好ましく想っていたし、彼女も僕の好意を拒まなかった。
結婚してすぐに彼女は妊娠した。
あっという間に月が満ちて男の子が誕生し、僕と彼女は人の親になった。
僕は外で働き、彼女は家で家事をし、赤ん坊の面倒をみた。
僕は適齢期に好きな相手と結婚して家庭を持ち、子を成すことができた。
僕は平凡ながらも親子三人の生活に満足していた。
僕は幸せだったのだ。きっと、たぶん、おそらく。
三ヶ月後、異変は起きた。
突然、宇宙からやってきた地球外生命体、高い知能と文明と科学を持つ異星人、通称Xたちが地球にやってきた。
正体不明の知的生命体Xと当初意思疎通はかなわなかった。はなから話し合う余地はなく、Xは人類に攻撃を開始した。
軍事大国であるアメリカもロシアもEUもその他の大国も、Xが持つ星空間巨砲兵器にはなすすべがなく、大陸には幾つも大穴が開いた。主要な国家は壊滅し、人類は反撃の余地が全くなかった。
大気圏外から撃ち込まれる巨弾によって人類の約半数が死んだ後、Xは地上に降りてきた。
やつらは、ことあるごとに僕たちの容姿を気味悪がった。言葉はわからずとも反応でわかった。
特に頭から無数に生える毛の束、地域によって肌や瞳の色にばらつきがあること、手足の指がなぜか五本ずつという奇妙さ、年を経ると皮膚が皺だらけになること、僕たちの外見や成長過程の全てが奇形の極みすぎて生理的に受けつけないようだった。やつらのなかで、人類と友好的な関係を築こうとするものは皆無だった。
それでも僕たちは、Xが太陽系で唯一発見した知的生命体であるようだった。気は進まないものの、やつらは当初一応にも人類を調べようとした。
Xは、森や地中に隠れていた人類を次々と捕らえていった。
小さな島国で運よく生き残っていた僕たちも例外ではなかった。
やつらは無作為に選んだ人間の脳内に、赤ん坊の小指の爪よりも小さなマイクロチップを埋め込んだ。生かしたままチップから情報を収集し、人の歴史や思考経路を探った。
しかし、その研究もわずか数十日で終わった。
端的に言うと、やつらは飽きたのだ。
飽きたから、調査も探求もどうでもよくなった。
研究のためにかろうじて生かされていた僕たちは、ユーラシア大陸の中央、広大な砂漠に建設された収容所に集められた。
そこでやつらは、手っ取り早く人類を絶滅させるための方法を考えた。
手段は問わなかった。半数以上は死んだとはいえ、まだ三十億人ほど生き残っていた。
時間がかけていると、妊娠中の女性から次の世代が生まれてきてしまう。その妊婦が逃げだしでもしたら面倒なことになる。手間が増える前に、最終決着をつけようとした。
やつらは、僕たちを二人一組にして毎日殺し合いをさせた。
殺し合いに応じなければ、一分が経過するごとに、他の人間たちを百人ずつ殺していった。エベレストよりも高い上空に連れ去り、海に突き落とすのだ。落とされた人間は落ちている間に気を失うので、溺死の苦しみはない。文字通り、海の藻屑となって消える。
当事者二人が殺人をためらい、悩み苦しみ、葛藤すればするほど犠牲者が増える仕組みだった。
大規模な殺し合いを経るたびに、人口は概ね半分になっていった。
三十億人が十五億人に、十五億人が七億人に。一億人が五千万人に、千人が五百人に、六十四人が三十二人に、四人が二人に、そしていつか必ず一人になり……一人が消えればゼロになる。
さらにやつらは効率性を重視した。殺し合いは家族で、それも親子をペアにすることを思いついた。理由は決着に時間がかからないからだ。大抵は親の方が、子の生存を願って自ら命を断った。時々逆のパターンもあったが数は少なかった。
どんどんと人が減っていった。
僕たちの隣人、友人、知人、親戚や同僚……突然連れ出されては、裁判も死刑宣告も罵倒もなく静かに消えていく人たち。
片方が戻ってきても、彼らは一様に頭をかかえてブルブル震えるばかりで一言も口をきかなかった。その日は生き残れても、数日後に再び連れ出されると帰ってこなかった。
恐怖と喪失感に発狂する者、自殺する者もあとを絶たなかった。
僕の周りには死が充満していた。無意味な死が、茫洋とした白い霧のようになって、僕たちを包んでいた。
死は、何の選定も前兆もなくやってきて生者をさらい、僕の前に冷厳な事実として積み重なっていった。
数十日の間、延々と悪い夢を見ているようだった。
これは人類全体が見た最初にして最後の悪夢に違いなかった。
救いがないのは、その夢から醒めることは決してないということだ。
僕は死ぬ。
いつかがわからないが、確実にやつらに殺される。
Xが地球上で殲滅を決定したのは人類だけだった。僕たちはただ「醜い」「気持ち悪い」という理由で一人残らず駆逐される。
僕は人類に生まれてしまったがゆえに死ぬ。そんなものがあったのかはわからないが、天寿は全うできない。
死ぬ日までエサを与えられ続け、そして用済みになれば殺されるだろう。が、そもそもやつらが僕たちに「用」があったのかどうかもわからない。
僕は狂いそうになりながらも、狂いきれなかった。
まだ家族が、彼女と一歳にも満たない息子が生きていたからだろう。
日々必死に、自分の置かれた悲惨な状況を、過去の人類史に例えようとした。Xの蛮行や日常にあふれかえる死も、数が多過ぎて安っぽくなるばかりの悲劇も、僕は決まって人の行為に例えた。
思えば、人類を頂点とした歴史において、筆舌に尽くしがたい悲惨極まる状況におかれ、非業の死を迎えた人間は山ほどいた。
天変地異、自然災害、疫病といった天災。
知性をもった人類による、極めて利己的な殺戮。紛争、暴動、テロ、革命……。
平和な時代に生まれた僕は戦争を知らない。
過去に繰り返されたあまたの戦争も、二度にわたる世界大戦も、教科書に書かれた文字の羅列、知識としてしか知らない。
第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行ったユダヤ人虐殺、スターリンによる大粛清、毛沢東が引き起こした文化大革命、ポル・ポトの知識人弾圧、中東戦争、旧ユーゴスラビアの民族紛争、国際テロ組織の台頭……どこまでいっても、僕は人が人を殺す想像しかできなかった。僕は絶望しつつも、Xに「人としての感覚や感情」を期待していたのだ。
とうとう僕の妻である、彼女の番になった。
別れの朝、僕たち三人は、収容所内にある通称「旅立ちの間」へ連れていかれた。
妻と赤ん坊である息子は、四方透明の部屋に入れられた。
引き離された僕は、なすすべもなくガラスのような透明な板にはりついた。彼女は息子を抱いたまま、茫然としていた。
やつらは、彼女に透明な薬液が入ったアンプルを渡した。
薬液は動物や植物には無害だが、人にとっては猛毒だ。
これで自分が死ぬか、子どもを殺すかどちらかを選ばせる。
彼女は床に息子を下ろした。
黙ったまま自分の腕を差し出した。
どのみち息子も長くは生きられないだろう。それでも彼女は母親として、
やつらは彼女の希望を忖度した。
細い右腕に、先端が針状になったチューブが差し込まれた。緑色の薬液が注入される。
僕は叫んだ。意味のわからない奇声を発した。
彼女は、半狂乱の僕から目を逸らさなかった。
喘ぐように唇が開き、言葉を発した。
「ねぇ、あなた。わかったわ。これが、真実正しいのよ。私の葛藤は、間違って、いな……」
声は途切れ、彼女はどうっと仰向けに倒れた。
苦悶の声は聞こえなかった。体を捻らせて、のたうちまわることもなかった。全身がピクピク痙攣したかと思うと、彼女は静止した。閉じられなかった眼が、僕の知りえない世界をのぞいていた。
僕は声を失い、激しい脱力を覚えた。
彼女、僕の愛した人。
人の子を生んで世に送り出した彼女。
からだじゅうの骨が溶け、皮膚と内臓が床にべったりとへばりつきそうだった。何も考えたくなかった。彼女を失った僕は、もはや人でありたくなかった。
日々、機械的に遂行される大薬殺。
息絶えていく同胞たち……。
僕の最期は遅かった。
この時になって初めて知ったが、僕もまた脳に例のマイクロチップを埋め込まれていた。やつらは、僕の思考、僕の記憶を僕が理解しえない言語や電波で記録していた。
彼女が死んでから二十七日後、人類は残り二人となった。
広大な収容所に残されたのは、僕と赤ん坊の息子のみだった。
感傷にひたる暇などなかった。人類二人きりの日はわずか一日で終わり、処刑の朝がきた。
僕は透明な部屋に入れられた。
後から息子も運ばれてきて床に置かれる。
息子はすやすやと眠っている。
彼女と同じように、薬液のアンプルが渡される。
僕が死ぬか、それとも息子を殺すか。
息子を殺めれば、僕の命はわずかに伸びるが……?
部屋を取り巻くやつらがザワザワと揺れた。
群衆からぬうっと巨体が現れた。
時々収容所の視察にやってくる地上総括のボスだった。
ボスに向かい、僕はずっと考えていた疑問を口にした。
「おい、最後だ。最後に聞かせて欲しい。なぜ、お前たちは僕たちを殺す。僕たちは、お前たちに何もしなかった。お前たちのテリトリーを侵さなかった。暴力や搾取や無意味な殺戮を行わなかった」
ボスは何かことばを発したが、ガザザザ……という雑音にしか聞こえない。ボスに部下に筒状の通信器を持ってこさせ、今度はそれを通してしゃべった。少しして、僕の母国語が無感情な機械音となって聞こえてきた。
ボスは僕の問いに、はっきりと答えた。
「お前たちを、殺す理由、ない」
「理由は……ない?」
僕は怒った。思わず怒鳴り返した。
「ないんだったら、どうして殺すんだ!」
「あえて、理由を構築するならば、『そこにいたから』」
僕は愕然とした。
ボスは、尚も淡々と機械音をつむいだ。
「我々はお前たちを調べた。お前たちは、善良ではなく、害悪でもなかった。知性を持ってから一万年、多少はこの星を食い荒らし、大気や海を汚したようだが、それも一過性の瑣末なこと。星は勝手に生まれ、勝手に増殖し、勝手に死滅するものを気にとめない。所詮は一瞬のことだ」
「一瞬?」
「一瞬のうちに生まれ、終わるものに意味があるか。ないのだ、何も。お前たちは宇宙の循環に逆らい、大仰に騒ぎ立て、無駄に足掻いたがお前の問いこそが、下等生命体の下等たる証だ」
僕は大きく目を見開いた。……嘘だ。嘘だろ。
こんなこと、あってなるものか。嫌だ。受け入れたくない。
ああ、でも……これもまた、人類ではないものの真実か。
やつらは絶対的勝者で、僕たちを蹂躙し、滅ぼしていく。
それに意味はない。それどころか、無意味な殺戮に対し、泣き叫び、足掻き、絶望するのは下等な知的生命体の証だという。
僕はようやく理解した。人類はこの星の勝者ではなかった。
四十五億年以上も生きてきた星にとっては、たかだか一万年ほど地上を支配しただけの下等種にすぎなかったのだ。
僕たちが進化したのは失敗だった。無駄に大きく育ち、知性を得てはびこったゆえに目立ってしまい、絶滅の憂き目に遭う。
もし、僕の体が数センチにも満たない虫けらであったなら、土と同じ色をしていたなら、やつらに見逃してもらえたかもしれないのに……。
目から塩辛いものがあふれた。
僕は、声を出さずに
ボスを含め、やつらは泣く僕をじっと見ている。
僕はどうしようもなく、この世に生まれ、人類に生まれたゆえに、人を越える強者に押し潰されて消えていく。果てなき宇宙の、未来へ向かう星の、
ひとしきり泣いてすっきりすると、床に転がっている息子を抱き上げた。
息子は穏やかな寝息をたてている。
小さく、脆弱で、一等哀れなラストヒューマン。
でもこの子はまだいい。一歳にも満たない彼の中には、まだ知性が育っていない。今、死を迎えたとしても、彼には何の苦しみもない。希望も絶望も生まれる前に終わる。
それは、「最後の人類になりえないサンプル」としては、素晴らしく幸運な生涯ではなかろうか。判断を誤らなければ、僕は彼の幸運を見届けることができる。
僕には、息子と違って知性がある。
あと何日生きられるのかはわからないが、僕は息絶えるその瞬間まで、この身に人類を記録し続けることができる。
息子をぎゅうっと抱きしめる。頬を何度もすり寄せ、柔らかな皮膚の記憶を刻む。
それから、ボスに向かって差し出した。
「この子を」
チューブにアンプルが取りつけられた。するすると吸い上げられる薬液。鈍く光る針が、ゆっくりと近づいてくる。息子のもみじのような小さな手。その少し上の柔肌に吸い込まれる細い針。
……さようなら、人類。
わが子の痙攣と共に、口端が上向きに反るのがわかった。僕は笑った。
最後の一人として、毅然と顔をあげた。
これは大層名誉なことなのだ。きっと、たぶん、おそらく。
***
「……僕は息子を失い、晴れて人類最後の
ゆらゆらと浮かび上がる電子データを読み上げると、僕はにやりと笑った。
寝そべり椅子の向こうにいる妻が、呆れたように言った。
「どうしたの。さっきから寝言みたいにブツブツ言ってて。悪い夢でも見たの?」
「夢じゃないさ、
「記録?」
「今となっては古典だけどね」
シュウウ……と、盛大なため息の音がする。
「やめてよ。古典だかなんだか知らないけど、そんな暗い話」
妻は二本の触覚の先端を光らせている。これは怒りの兆候だ。確かに少し怖がらせてやろうとは思ったけど、怒らせる気はなかった。
僕は慌てて言い訳した。
「子どもたちに読み聞かせていたんだよ」
「だったら、もっと明るい話にしてよ。ハッピーエンドがいいわ。ねぇ、そう思うでしょ?」
妻は、子どもたちに同意を求めた。僕の周囲に集まった子どもたちはカサカサと音をたてて笑った。子どもたちはまだ話せないものの、両親の会話は理解している。僕と妻の間には5
「わかったよ。今度はもっと明るい話を借りてくる」
僕は記録再生機にはめ込んだ金色のマイクロチップを取りだした。
これはレンタル用の複製品で、オリジナルは首都の中央図書館の地下に厳重に保管されている。元々のチップは今から二十億年前に作成され、劣化に伴い何十万回とコピーされてきた。
平和な当世では考えられないが、二十億年前の僕たちの先祖は宇宙を荒らし回る蛮族そのものだった。
無駄に血の気が強く、あちこちの銀河系を征服し、征服しても統治はせず、理由もなく下等生命体を殲滅した。数億年を経て、徐々に下等生命体の権利意識が芽生えると大規模な愛護運動が起きた。そして、必要のない異星間征服や殺戮は止んだ。
僕が今日読んだのは、とある太陽系の第三惑星に栄えていた
γηは我々の先祖に滅ぼされ、「予想外の早期滅亡」を迎えた。
太陽系の寿命は尽きていなかったが運命が早まった、という意味である。
なぜなら、γηの暮らしていた星は今から約二億五千万年前に、銀河系の中心にあった太陽に呑みこまれて完全消滅したからだ。
実を言えば、γηは我々がやってきた時点で残り数百年の命だった。
運よく存えたとしても、止まらない温暖化により、太陽の熱に炙られ、その他の生きもの生物と共に焼け死ぬ運命にあった。
逃れられない焼死、もしくは干上がって枯死するなんて想像するだけでゾッとする。擁護するわけじゃないけど、我々の先祖が施した薬殺は、随分と慈悲深い行為だったと思う。
子どもたちがサワサワとうごめき、物語の続きをねだる。
「また今度な。母さんがいない時に」
と僕は声をひそめた。
妻には内緒だが、「薬殺の日」には続きがある。
記録したのは、我々の先祖の中でも、γηに興味があったらしい変わり種だ。
成年体であった最後のγηには子どもがいた。
成年体のγηは死後脳からマイクロチップを取りだされただけで終わったが、子どもは特別に細胞を採取された。
さらに保存された細胞から遺伝子情報を取り出し、実験的にγηのクローンが精製された。何百年も改良を重ねてやがて大量生産に成功すると、γηは僕たちにとってなくてはならないものになった。
よかったね、最後のγη。
きみたちは、この宇宙に生まれてきた意味があったよ。
まぁ、こうして偉ぶっている我々も、いつかは終焉を迎える。
今住んでいるこの星だって、二百三十五億年後には寿命を迎える。けれど、それは気が遠くなるほど先の話。僕や子どもの世代は関係ない。僕は家族を愛し、一生懸命働き、思いっきり遊んで飲んで食べて、存分に限りある生を謳歌するつもりだ。
妻はしばらく子どもたちをあやすと、ずりずりと台所へ這っていった。食事を作るためだろう。
「夕ごはんはなんだい?」
期待を込めて尋ねると、妻のはずんだ声がした。
「あなたの大好物よ。朝、市場で活きがいいのを買ってきたの。腕によりをかけて作るわ」
「もしかして丸ごと?」
「丸ごとよ」
「楽しみだな。高かったんじゃないか?」
「それなりの値段はしたわ。でも成長すると肉が硬くなるし。足や胸肉だけじゃ物足りないでしょ。今日は奮発したの」
耳を澄ますと、台所の奥からホギャホギャと泣き声が聞こえてくる。それからドンドン、カンカンと素材を打つ音。
僕は嬉しくなった。今夜は大ご馳走だ。
γηは、名前も見た目も気持ち悪いけど、素揚げにして食べるとうまいんだよね。
【了】
薬殺の日 八島清聡 @y_kiyoaki
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