01 江南の春

千里うぐいす啼緑映紅

水村山郭酒旗すいそんさんかくしゅき

南朝四百八十寺しひゃくはっしんじ

多少楼台煙雨えんう


杜牧「江南春」






 十三世紀初頭。

 中国大陸は揺れていた。

 遥か西の方、草原より出でた蒼き狼、大蒙古帝国イェケ・モンゴル・ウルスは始祖・成吉思汗チンギス・ハーンに率いられ、モンゴル高原から発し、瞬く間に西夏に迫り、成吉思汗は亡くなったものの、西夏せいかは滅ぼされ、やがて北朝である金を襲うようになる。

 金は同盟関係にあり、互いに叔姪しゅくてつという意味)の上下関係の間柄と約した南宋へ救援を求めた。しかし、南宋はこれを拒否。逆に蒙古モンゴルと同盟を結び、南北で金を挟み撃ちにするという作戦に出た。

 南宋国内でも、このやり方には異論があった。上下関係はあるが、それでも旧来の同盟国である金を裏切るのはいかがなものか、と。しかし、中国大陸北部を――宋の旧領を服するのは、南宋という国家の悲願であり国是であるという論調が勝り、軍閥の長である孟珙もうきょうに出兵を命じた。ちなみに孟珙は金との同盟を維持すべきと唱えてきており、大いに不満はあったが、勅命いかんともしがたく、孟家軍(孟珙の家の私兵。この頃は、各軍閥が独自に養う私兵が国軍の主体だった)を率い、金の領内へ攻め入った。

 蒙古は、二代目の大ハーンオゴタイの弟・トゥルイの四万の軍を派して金を追いつめており、金の勇将・完顔陳和尚わんやんちんわしょうも加わっていた十五万の大軍を、三峰山の戦いにおいて撃破している。

 その際、孟珙は、宋金国境地帯の金軍を打ち破って、三峰山のトゥルイの軍に兵糧を供することにより、蒙古の勝利に貢献している。


 ……かくして、金は二年後の一二三四年に、首都・開封をとされ、滅亡する。


 蒙古の勢い、天を衝くがごとくであり、道義上の問題はともかく、後世から見ても、金が蒙古に抗することは困難であり、南宋の蒙古との同盟は成功したかに見えた。


 しかし、金が滅亡した端平たんぺい元年(一二三四年)に、南宋の皇帝・理宗は、前年に、専横を極めた宰相・史弥遠しびえんが亡くなったこともあり、中国大陸北部の復旧を決意。廷臣である史嵩之しすうし(史弥遠の一族の者)や、孟珙の反対を退け、兵を発した。これを端平入洛たんぺいじゅらくといい、金を滅ぼしたあと、蒙古モンゴルが北に帰った隙をついて、洛陽と開封を占領した。


 これに激怒した蒙古の二代目の大ハーン・オゴタイは、軍を南進させるよう命じた……。



 杭州臨安府。

 キンザイとして、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記されているこの都市は、南宋の事実上の首都(本当の首都は開封である、という建て前のため)であり、経済が発達し、殷賑いんしんを極めていた。

 その街の中の水路を往く舟が一艘。

 舟の中には、二人の壮年の男がいた。

 一人は南宋の丞相となった史嵩之。

 一人は南宋の武将である孟珙である。

「……足労じゃの、孟璞玉はくぎょくどの」

「……丞相におかれましては、ご壮健で何よりです」

 璞玉とは、孟珙のあざなである。位の高い史嵩之が敢えてそれを言ったことに、孟珙に対する敬意が表れている(目上の者は、下の者の名を呼んでいいことになっている)。

「本日、このようなかたちでけいを呼んだのは他でもない、璞玉どの」

「……何でござろう」

 実を言うと、孟珙としては厭な予感がしてならない。このように廟堂ではなく、一艘の舟の上というのがもう何かの策略をうかがわせる。しかも相手は、あの海千山千の史弥遠の一族でありながらも、うまく政治の荒波をこれまで生き抜いてきた男である。油断するなと思わない方がおかしい。

「かまえずともよい……他でもない、蒙古のことだ」

 かまえるしかない題材だな、と孟珙は顔をしかめる。

「私も卿も、金の、いや今となっては蒙古の開封への出兵には反対した。したが、陛下は出兵をうべない、その旨の勅諚ちょくじょうを下された。今……このがどうなっているか、知っているか?」

「存じ上げませんな」

 しかし結果は見えている。孟珙は不本意ながらも蒙古と共に馬をならべて金を攻めた。その経験から、蒙古の恐ろしさというものをまざまざと見せつけられた。

 たまたま空白となった開封を占領したとて、何になろう。必ずや、蒙古の鉄騎がその罪をあがなえと迫ってくるのは自明の理だった。

「……卿の読みどおりだ。今、北伐の軍は反攻に遭い、救援の要請が出ておる」

「まさか、その救援に向かえとは仰せにならないでしょうな?」

 尻ぬぐいもいいところである。また、こうなった以上、南宋でまともに戦える兵は、孟家軍二万しかいない。その虎の子の二万を損じてまで、狂信的に開封回復にこだわった奴らを救う価値があるのか。

「……他に人がおらぬ」

「…………」

「言いたいことは分かる。己が反対した出兵など、どうとでもなれ、という気持ちも分かる。だが今、ここで蒙古を食い止めねば、宋朝わがくには終わりだ。見よ、この杭州の街を。この街も灰燼に帰すぞ」

 史嵩之が両腕を広げて周囲に目を向けるようにうながす。


 孟珙は勝手知ったる杭州の街を見る。

 天秤を担いで野菜を売る男。

 露店で魚をさばいて声高に宣伝する女。

 道々を駆けまわる子供たち。

 寺では高き尖塔が立ち、水路には美麗な舟が、商人たちを乗せて、観覧かつ商談の場を供している。


「……危急存亡のとき、という奴ですかな、

 丞相、というところにアクセントを置いたのは、もちろん皮肉である。

「私に蜀漢の、諸葛亮のごとき神算鬼謀は無い。在るのは、適材を適所に配するのに努めることだけだ」

「拙者が適材かどうかは知りませんが、仮に北伐の軍を救援したとて、その後はどうなりましょう? 蒙古は今、勢いがある。その勢いづいた侵略はとどまるところを知らず。これをいかんとするか、それはお考えなのか?」

「孟璞玉どの。私の発言を誤解しているようだな。私は適材を適所にと言った。これは、卿を北伐軍救援のみにおいて述べているにあらず」

 孟珙は、訳もなくこの場から逃げ出したく思ったが、場が舟の上であることを気づき、舌を打つ。

 史嵩之はその舌打ちを聞かなかったふりをして、舟の上にて、孟珙ににじり寄った。

「……気づいたようだな、璞玉どの。卿はこれから、北伐の軍を救うのみにあらず。この国を、守り、救ってもらう」

 史嵩之は、孟珙に南宋の国軍すべての指揮を執るように、皇帝とその周辺に根回しをしていた。

「……出帥の表でも奏上した方が良いでしょうかね?」

「それは北伐の将帥がやった。適材だったな……雰囲気を出すという点においては」

 史嵩之は水主かこに命じて、舟を陸に向けた。

おかに上がったら、すぐに向かってくれ。陛下に何か伝えておくことはないか」

 出帥の表でも書くふりをして、時間を稼ごうという狙いは粉砕された。それよりも一刻も早く現地へ、という史嵩之の発言に、事態の緊急性がうかがえた。

「……かしこくもありがたい北伐のおかげで、勝算は莫須有とお伝え下さい」

「そうか」

 史嵩之は孟珙の痛烈な皮肉にもどこ吹く風で、舟から下りた。

 莫須有とは、かつて南宋の名将・岳飛が、ありもしない罪で、宰相・秦檜しんかいおとしいれられた時に、同僚であり、やはり名将である韓世忠が秦檜に何の罪があるのかと迫った時の回答である。


 すなわち、あったかもしれないが、なかったかもしれない、と。


「……待てよ、よく考えたら丞相も北伐に反対だったから、丞相にとっては皮肉にならんか」

 孟珙がそれに気づいたときは、史嵩之はすでにこの場を去ったあとであり、孟珙は憮然として舟を漕ぎ、一路、任地である江陵府を目指すのであった。

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