01 江南の春
千里
南朝
多少楼台
杜牧「江南春」
十三世紀初頭。
中国大陸は揺れていた。
遥か西の方、草原より出でた蒼き狼、
金は同盟関係にあり、互いに
南宋国内でも、このやり方には異論があった。上下関係はあるが、それでも旧来の同盟国である金を裏切るのはいかがなものか、と。しかし、中国大陸北部を――宋の旧領を服するのは、南宋という国家の悲願であり国是であるという論調が勝り、軍閥の長である
蒙古は、二代目の大
その際、孟珙は、宋金国境地帯の金軍を打ち破って、三峰山のトゥルイの軍に兵糧を供することにより、蒙古の勝利に貢献している。
……かくして、金は二年後の一二三四年に、首都・開封を
蒙古の勢い、天を衝くがごとくであり、道義上の問題はともかく、後世から見ても、金が蒙古に抗することは困難であり、南宋の蒙古との同盟は成功したかに見えた。
しかし、金が滅亡した
これに激怒した蒙古の二代目の大
*
杭州臨安府。
キンザイとして、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に記されているこの都市は、南宋の事実上の首都(本当の首都は開封である、という建て前のため)であり、経済が発達し、
その街の中の水路を往く舟が一艘。
舟の中には、二人の壮年の男がいた。
一人は南宋の丞相となった史嵩之。
一人は南宋の武将である孟珙である。
「……足労じゃの、孟
「……丞相におかれましては、ご壮健で何よりです」
璞玉とは、孟珙の
「本日、このようなかたちで
「……何でござろう」
実を言うと、孟珙としては厭な予感がしてならない。このように廟堂ではなく、一艘の舟の上というのがもう何かの策略をうかがわせる。しかも相手は、あの海千山千の史弥遠の一族でありながらも、うまく政治の荒波をこれまで生き抜いてきた男である。油断するなと思わない方がおかしい。
「かまえずともよい……他でもない、蒙古のことだ」
かまえるしかない題材だな、と孟珙は顔をしかめる。
「私も卿も、金の、いや今となっては蒙古の開封への出兵には反対した。したが、陛下は出兵を
「存じ上げませんな」
しかし結果は見えている。孟珙は不本意ながらも蒙古と共に馬をならべて金を攻めた。その経験から、蒙古の恐ろしさというものをまざまざと見せつけられた。
たまたま空白となった開封を占領したとて、何になろう。必ずや、蒙古の鉄騎がその罪をあがなえと迫ってくるのは自明の理だった。
「……卿の読みどおりだ。今、北伐の軍は反攻に遭い、救援の要請が出ておる」
「まさか、その救援に向かえとは仰せにならないでしょうな?」
尻ぬぐいもいいところである。また、こうなった以上、南宋でまともに戦える兵は、孟家軍二万しかいない。その虎の子の二万を損じてまで、狂信的に開封回復に
「……他に人がおらぬ」
「…………」
「言いたいことは分かる。己が反対した出兵など、どうとでもなれ、という気持ちも分かる。だが今、ここで蒙古を食い止めねば、
史嵩之が両腕を広げて周囲に目を向けるようにうながす。
孟珙は勝手知ったる杭州の街を見る。
天秤を担いで野菜を売る男。
露店で魚をさばいて声高に宣伝する女。
道々を駆けまわる子供たち。
寺では高き尖塔が立ち、水路には美麗な舟が、商人たちを乗せて、観覧かつ商談の場を供している。
「……危急存亡の
丞相、というところにアクセントを置いたのは、もちろん皮肉である。
「私に蜀漢の丞相、諸葛亮のごとき神算鬼謀は無い。在るのは、適材を適所に配するのに努めることだけだ」
「拙者が適材かどうかは知りませんが、仮に北伐の軍を救援したとて、その後はどうなりましょう? 蒙古は今、勢いがある。その勢いづいた侵略はとどまるところを知らず。これをいかんとするか、それはお考えなのか?」
「孟璞玉どの。私の発言を誤解しているようだな。私は適材を適所にと言った。これは、卿を北伐軍救援のみにおいて述べているにあらず」
孟珙は、訳もなくこの場から逃げ出したく思ったが、場が舟の上であることを気づき、舌を打つ。
史嵩之はその舌打ちを聞かなかったふりをして、舟の上にて、孟珙ににじり寄った。
「……気づいたようだな、璞玉どの。卿はこれから、北伐の軍を救うのみにあらず。この国を、守り、救ってもらう」
史嵩之は、孟珙に南宋の国軍すべての指揮を執るように、皇帝とその周辺に根回しをしていた。
「……出帥の表でも奏上した方が良いでしょうかね?」
「それは北伐の将帥がやった。適材だったな……雰囲気を出すという点においては」
史嵩之は
「
出帥の表でも書くふりをして、時間を稼ごうという狙いは粉砕された。それよりも一刻も早く現地へ、という史嵩之の発言に、事態の緊急性がうかがえた。
「……かしこくもありがたい北伐のおかげで、勝算は莫須有とお伝え下さい」
「そうか」
史嵩之は孟珙の痛烈な皮肉にもどこ吹く風で、舟から下りた。
莫須有とは、かつて南宋の名将・岳飛が、ありもしない罪で、宰相・
すなわち、あったかもしれないが、なかったかもしれない、と。
「……待てよ、よく考えたら丞相も北伐に反対だったから、丞相にとっては皮肉にならんか」
孟珙がそれに気づいたときは、史嵩之はすでにこの場を去ったあとであり、孟珙は憮然として舟を漕ぎ、一路、任地である江陵府を目指すのであった。
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