02 草原の風
「……それで、結局お受けしたんですか、勅諚を」
「……まあ、そういうことだ」
一二三九年春。
青年の名は、劉整。字を武仲といった。
劉整は、元は金の人間であったが、蒙古による金侵略の中、南宋へ亡命してきており、その際に孟珙の指揮下に入った。劉整は、孟珙も認めるほどの勇猛果敢な軍人であり、たった十二人で金との合戦の前衛を果たしたこともあった。
「やめておけば良かった、とは思わなかったのですか?」
「思ったさ、何度も」
史嵩之との舟の上での会談のあと、孟珙は早速北へ向かい、北伐から
以後、蒙古軍と南宋軍は、孟珙の尽力により一進一退の攻防を繰り広げていたが、両軍とも「
「……しかし、まあ、丞相の言うことも一理あると、今は思う」
「……ほう、そうですか」
「下手に、一武将であることに徹していたら、襄陽を奪ろうとは思わなかったろうよ」
「……うまくいくといいのですが」
「うまくいくさ。そのために、国軍を動かす立場になったからな」
そうこうするうちに、孟家軍の
「恐れながら、申し上げます」
「うむ」
「襄陽の城将は、チャガン将軍です」
「そうか……大儀」
孟珙は斥候をねぎらい、下がらせた。
その背中を見ながら、孟珙は
「チャガンか……」
「
劉整はたびたび、間者として、旧金国の領内、すなわち華北へ忍び入って、蒙古の情報を収集していた。そこで蒙古の南征軍の内容を調べ、孟珙に報告していた。
チャガンは元は西夏の人である。それを成吉思汗に見出され、子として育てたという。ジョチ、チャガタイ、オゴタイ、トゥルイの嫡出の四子に加え、あえて『第五子』と呼んで育てたところに、チャガンの能力の高さとそれに対する期待が現れている。
*
「死んだ、だと……」
オゴタイはこんな時に弟のトゥルイがいればと、ため息をついた。
末弟トゥルイは、一説によると、末子相続が基本である蒙古では、本来は二代目
トゥルイこそ、南宋征伐という大任をこなすことができる格を持つ男だった。
だがそのトゥルイは、金を三峰山に破った直後に死んだ。一説によると、オゴタイが大病を患ったため、身代わりとして呪いをその身に引き受けて死んだとされている。
他の血族では駄目だ。それぞれの縄張りを確保し広げるのに忙しく、何より、それぞれで功績を争い、下手をするとオゴタイの地位を脅かしかねない。
途方に暮れるオゴタイに、義弟であるチャガンは進言した。
「大
「クウン・ブカ、か……」
オゴタイは、成吉思汗の一族の中でも賢さで知られた男を思い出した。
たしか、同世代であるクチュとは親しかったという。
後釜としては適任か。
オゴタイはまた、ため息をつく。
「……よかろう。だがチャガンよ、汝がクウン・ブカの補佐につけ」
「御意」
チャガンは、モンゴルの貴人である証の
その背中を見送りながら、オゴタイはひとつの思いつきを得た。
「待て、チャガン」
「何でしょう、大汗」
「旧金国の漢人の将兵で使える者たちを、蒙古の兵に加えよ」
「……それは良い思いつきです」
……こうして、のちの世に、漢人世候として伝えられる、蒙古支配下における中国北部、華北の軍閥の武将たちの活躍が始まる。
ついでに言うと、蒙古の爆発的な膨張の理由は、こうした占領下の将兵の活用にあると言われている。
敗戦国の将兵が、蒙古の麾下に加わることにより、やがて勝者の一員と成ることができる。
この一事により、蒙古の支配下の人々は、こぞって蒙古軍に加わり、更なる世界の果てに旌旗を立てていった。
*
チャガンがクウン・ブカの
「叔父上、失礼いたす」
「これは、フビライどの」
オゴタイの弟・トゥルイの息子、フビライ。
のちに大蒙古帝国の大汗となり、中国においては元王朝を興す、覇者となる男だった。
祖父・成吉思汗に似た風貌の青年は、チャガンに恭しく一礼すると、颯爽と歩いて去って行った。
チャガンが天幕に入ると、クウン・ブカは早速歓待の意を示した。チャガンも一礼してそれにこたえたが、先ずは、と言った。
「クウン・ブカどの。大汗・オゴタイの命でござる。亡きクチュ殿下の代わりに、南宋に征け、と」
「勅命、かしこまってござる」
クウン・ブカが拝礼の仕草をする。チャガンは、その背後に、南宋の地図が広げられているのを見た。
「これでござるか」
クウン・ブカは地図を拾って、チャガンにある一点を指し示した。
「この襄陽という
「フビライどのがおっしゃった、と」
「察しが良くて助かる。さすがは『第五子』どのだ」
フビライは、南宋遠征は、クウン・ブカに任せられるだろうと見抜き、早速に助言に来たということらしい。
「フビライどのは、彼の地に並々ならぬ関心を抱いているようでござる……ついでに言うと、華北の人材を活用すべきとも言われ、それは良いと答えたところ、では連れてくると言われたのだ」
クウン・ブカは才ある一族の若者との会話が楽しかったらしく、笑って言った。
「ほう」
チャガンはその言を聞き、オゴタイから、漢人の将兵を用いるよう、助言を受けたことを伝えた。
そして、ちょうどそこへフビライが一人の漢人を伴って、天幕へ再来した。
「お待たせいたした。こちら、
「姚枢と申します」
姚枢。
フビライから師とあがめられ、その覇業を支えることになる軍師である。
その姚枢が拝礼を終えると同時に、クウン・ブカとチャガンは早速、フビライと姚枢を交えて、今後の戦略の相談を始めた。
フビライは早速、姚枢に問うた。
「まずは師よ、河北にて有為の将帥はおらぬか?」
「……ございます」
姚枢は、真定の漢人の軍閥の長・史天沢こそが相応しいと答えた。
「彼の者、名将の誉れ高く……」
*
「……で、クウン・ブカと姚枢は、真定の漢人の将・史天沢と合流をしに、河北へ向かい、チャガンはいち早く襄陽に入って、これを押さえる、か」
幕舎に戻った孟珙は、人払いをして、劉整に語りかけた。
「このまま座して見ていては、チャガンのみが入った襄陽に、クウン・ブカや史天沢が加わる。その前に襄陽を攻めようと思う」
劉整は「別に構わないんですが」と言ってから、孟珙に問うた。
「『第五子』チャガンを単純に攻めるというのもどうなんですか?」
「蒙古の兵は野戦は得意だが、籠城戦は不得手だろう。それゆえに漢人の将を欲しているのだ」
蒙古は草原から生まれた。
騎馬に乗って育った。
だからこそ、騎兵戦こそが本領であり、城を攻めたり守ったりするのは、本意ではないし、有体に言うと苦手だ。
「だからクウン・ブカ、いや史天沢が襄陽に到達する前に攻めよう。今こそが勝機だ」
「そんなにうまくいきますかねぇ」
「だからこそ貴殿を呼んだんだ、劉武仲どの。こたびの戦、お前が頼りだ」
「……どういう意味ですか?」
「武仲どのは金朝から
孟珙は用意していた旌旗を劉整に渡しながら、言った。
「劉整どの。別動隊を率いて欲しい」
劉整は渡された旌旗を広げて見ながら、聞いた。
「……つまり、これの相手は史天沢ということですか?」
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