コ・モ・ン・セ・ン・ス

塩塩塩

コ・モ・ン・セ・ン・ス

 マンションの隣の部屋は先月から空き室のはずである。しかし、この違和感は何だろう。いけないと思いつつも、私はそっと壁に耳を当ててみた。

 すると誰もいないはずの隣の部屋から、人の話し声や生活音が聴こえてきたのだ。

 幽霊などといった非科学的なものは信じていない私ではあったが、これは一般的には心霊現象と呼ぶべきものであろうし、とにかく気味が悪いのは確かなので、早急に管理人を呼んだ。


 管理人の男は、壁に耳を当てて確認した後、笑顔で話し始めた。

「これは自然現象ですよ。たとえば貝殻に耳を当てると海の音が聴こえるでしょう。あれは貝殻が昔いた浜辺の音を記録しているからですよね。それと同じ事じゃないですか。隣の部屋が昔の音を記録している事の、何が可笑しいというんですか」

 あまりの話に、何をどう言い返そうかと戸惑っていると、管理人がコーヒーの空き缶を手渡してきた。


「ほら、これと同じですよ。学生の頃よくやったでしょう」

 私は事態を飲み込めずにいたが、管理人に促されるまま、空き缶に耳を当ててみた。

『Olha que coisa mais linda…』

 聴こえてきたのは、アントニオ・カルロス・ジョビンの『イパネマの娘』だった。

 管理人は楽しそうに話した。

「ほらね。このコーヒーはブラジルの豆を使っているから、ボサノヴァが聴こえるんですよ。そもそもボサノヴァ自体が、こうして缶コーヒーと共に普及したものじゃないですか」

 管理人は古い友達の様な顔で私を見ている。

「…あぁ、そうだったね。あとはサンバの場合もあるよね、ブラジルの豆なら」

 私は自らの世間知らずっぷりを恥じながらも、それを悟られない様に上手くその場を取り繕ってみたのだった。

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