第33話 幸せに

 ガルディーユ王を歓迎するための宴が果てると、リアーヌは父を王城の奥、大公の私室に招いた。ロランの陰謀に関する話も、親子の話も、余人に聞かせるようなことではない。それに何より、親子で水入らずの時間にしたかったからだ。殿方たちには酒肴を、リアーヌには茶菓を用意して。もっとも、団欒の時間というよりは、父の表情はどこか晴れず、態度も落ち着かず──リアーヌが注いだ葡萄酒の杯に手をつけることもなく、父はまずアロイスに深々と頭を下げた。


「この度は、シェルファレーズに思わぬ災厄を招くことになってしまったようだ。決して意図したことでも望んだことでもなかったが──説明もないままに縁談を進めてしまったことを、詫びなければならぬ」

「お父様……」


 リアーヌを狙ったロランが、シェルファレーズで暗躍したことを言っているのだろう。王である父が頭を下げるところなど、リアーヌはもちろん見たことがなかった。娘の立場ではいたたまれず、かといって夫を差し置いて頭を上げるように促しても良いものか──おろおろとするリアーヌを他所に、アロイスは席を立つと父の前で膝をついた。顔を伏せたままの父と目線を合わせて、彼は穏やかに語る。


「その時は、確信のないことだったのだろうと察しております。リアーヌ姫の評判を案じられたのだろう、とも。──私こそ、義父ちち上には赦しを乞わねばならないことがあります。私こそ、不確かな噂を信じてリアーヌ姫を──」


 夫が何を言おうとしているかを察して、リアーヌも慌てて腰を浮かせた。杯が並んだ卓を素早くすり抜けて、父に駆け寄る。


「いいえ、アロイス様は何もなさっていませんの。お父様に謝らなければいけないのは私の方です! 私、お父様を誤解して、悪いように考えてしまって……おかしな手紙を送ってしまいましたでしょう? お父様を試そうとしていたのですわ。何か、ひどいことを企むのではないかと……!」


 アロイスにことを言わせないように、父に、夫を悪く思わせないように。早口でまくし立ててから、リアーヌは父が目を丸くして彼女を見上げているのに気付く。父のこんな表情も、父を見下ろす視点も、彼女にとっては初めてのもの。驚きと戸惑いに、リアーヌは一瞬言葉を失い──そして、何を真っ先に言うべきだったかを思い出す。


「アロイス様は……シェルファレーズ大公は、私の誤りを正してくださったのです。前の方々のことをきちんと悲しんで良いのだと。お父様に、心を傾けていただいたのだと──この方に、教えていただいたのです。だから、私は、お父様に感謝しております。素晴らしいご縁をいただいて……!」


 声が震えそうになるのを堪えて、リアーヌは必死に微笑んだ。何よりも笑わなければならない場面だろうから。


「……私は今、幸せです。やっと、幸せになれました。お父様が望んでくださった通り──そう、なのでしょう……?」

「リアーヌ……?」


 意外なものを目の当たりにしたかのように目を瞠る、父の視線が突き刺さって痛いと感じるほどだった。愚かな娘が何を甘えたことを言っているのだとでも思われたらどうしよう、と。埒もない不安が胸をぎる。でも──リアーヌにとっては長すぎる沈黙の後で、父は深く息を吐くと目元を抑えた。


「ああ、そうだ……ずっと、そうだったのだ。そうか……私が考えた以上に、シェルファレーズ大公はそなたにとって良い夫になってくれたのだな……」


 そして父はリアーヌとアロイスに椅子に戻るように促し、ぽつぽつと語り始めた。


「……ルメルシエのクロード王子が奇禍に遭われた後、ベルトラン公爵はリアーヌとの縁談を我が国に申し出ていたのだ。そなたの──その、過去を思うと次の縁談は難しいだろう、と。《黒の姫君》の過去を問わぬ代わりに、ルメルシエの玉座に登るための援助が欲しい、と」

「私は、まったく存じませんでしたわ……」


 捕らえて以来、リアーヌはロランと顔を合わせていない。アロイスたちが、会う必要はないと尋問の場からも遠ざけてくれた。そして今、リアーヌは改めて夫の気遣いに感謝した。ロラン本人の口からことの経緯をすべて聞かされていたら、いらぬ怒りや悲しみを味わわなければならなかっただろう。今となっては、リアーヌはロランのためには欠片たりとも思考を割きたくないと考えている。

 彼女の心労や心痛は、事前に聞かされていたとしても同様だっただろうから、決して父を責めるつもりではなかった。でも、娘の呟きを聞いて、父は苦しげに顔を顰めた。


「ベルトラン公爵はルメルシエのほかの王族や重鎮に先んじて抜け駆けしたようだな。だからそなたに知らせられる者はいなかった。それに、父として娘に聞かせたい話ではなかった……! だが、優しいそなたがルメルシエを案じない訳がなかったな──」

「だからリアーヌ姫をルメルシエから逃れさせ、次の縁談を探したのですね? シェルファレーズを、避難先と見込んでくださった……?」


 父がまた頭を下げようとした気配を察したのだろう、アロイスはすかさず先を促した。話をするのに忙しくて、誰も酒や茶に手をつけられないままでいる。


「……然様さよう。リアーヌ自身の希望もあったし、シェルファレーズの国土と国柄ならば、娘を守ってくれるだろうと考えたのだ。……その、性急かつ虫の良い話であったと、今は思うのだが……」


 フェリクスがこの場にいたら、何かしら嫌味くらいは口にしていたかもしれない。父が何も言わずにリアーヌを託したことについて、彼は不満そうな顔をしていたことがあったから。でも、こういうことを言われたらどう返すか、アロイスはあらかじめリアーヌに相談してくれている。言った通りになっただろう、とでも言いたげに、アロイスの青い目がリアーヌをちらりと見て微笑んだ。そして彼は誇らしく堂々と父に──自国よりもはるかに大きな国を統べる王に、答える。


「シェルファレーズに寄る辺を求めた者は、迎え入れるのが我が国の倣いです。その精神に従って守るべき方だと、すぐに分かりました」

「私は、シェルファレーズのことをよく知らずに嫁いでしまいました。でも、今ではこの国と夫に巡り合えて本当に良かったと思っています」


 夫婦が並んで、口々に述べたことは真実だと信じてもらえたのだろう。父の目に涙が光った。


「そうか……そう言ってくれるのか……」


 父の初めて見る姿を立て続けに見せられて、落ち着きなく身じろぎするリアーヌの手を、アロイスは卓の陰でそっと握った。宥めるように妻の手を撫でながら、彼が父に向けるのは為政者としての顔だった。


「後は──ルメルシエとの交渉について、義父上の助言をいただきたいと思っております。ベルトラン公爵の処遇について口出しをするつもりはありませんが、シェルファレーズとルメルシエの間に、禍根が残ることがないように……」

「それは、無論! 大公に申し上げることではないが、娘の悲しみの原因を作った者なのだからな。甘い裁きが下されることがないように口添えしよう。内乱が収まった後も──ほどほどに貸しを作っておくつもりだ」


 力強く請け負った父の目にも、老獪さがちらりと覗く。かつてならば恐ろしいと思ったかもしれないその気配も、今のリアーヌなら心強いと思える。本当に──父に対しても自分に対しても、世界のすべてに対しても。リアーヌの見方は何もかも良い方に変わることができた。すべて、アロイスがもたらしてくれた変化だった。


「ありがとうございます、お父様」

「親として、そなたには何もしてやれなかったからな。これくらいは何でもないことだ。夫君と仲睦まじいのは何よりだが──これからも、何かあれば喜んで力を貸そう」


 父の言葉に、リアーヌとアロイスは目を見交わして、笑った。それだけで、お互いに何を考えているかが分かる。そのことにこの上ない幸せを感じながら、リアーヌは父の方へ軽く身を乗り出した。


「では、お父様。近々誕生祝いをいただきたいと思います」

「何……?」


 父が社交辞令で言ったとは思わないけれど、こんなにも早く、こんなにも直截に強請られるとは思わなかっただろう。それも、こんな名目で。片手はアロイスの手にゆだね、もう片方の手はまだ平らな腹に置いて。リアーヌは父の顔に驚きが、次いで喜びが広がっていくのを嬉しく眺めた。リアーヌだけが酒杯でなく茶器を用意されている理由に、父もやっと思い至っただろうか。


「リアーヌ、まさか」

「はい……! あの、お父様にとっては初めての孫ではないのですけれど」

「何人目だろうと、孫が生まれるのが嬉しくない爺がいるか!」


 椅子を蹴立てて立ち上がるのは、今度は父の番だった。卓にぶつかって器に音を立てさせながら、アロイスの肩を抱き、手を握る。傍にいるリアーヌが目に入っていないのではないかと疑うほどの勢いだった。


「シェルファレーズ大公……よく、よくやってくれた。この娘が、ようやく──本当に、長かった……!」

「もう、お父様。私の旦那様ですのに」


 王である方が、遥かに年下のアロイスを拝むような仕草を見せていることへの戸惑い。父と夫が抱き合うような姿を間近に見せられることへの気恥ずかしさ。そんな思いに頬を染めて、リアーヌはできるだけそっと、父をアロイスから引き離した。


「リアーヌ、だが──」


 我に返ったのだろう、娘と同じく気恥ずかしそうな表情を浮かべる父に、アロイスはリアーヌを抱き寄せながら宣言した。


「私こそがリアーヌ姫の最後の夫になりましょう。この方を二度と悲しませることがないように、生涯共に歩むことを改めて誓います」

「私も。だからお父様、どうか安心してくださいませ。この私が不吉な《黒の姫君》などと、決して誰にも言わせませんから……!」


 それはまるで、ぎこちなく気まずい中で行われた婚礼を、やり直すかのようだった。アロイスと寄り添って、固く手を握り合って、将来を誓うだなんて。誓約の口づけを、父の前ではできないのが残念なくらいだけど──でも、些細なことだろう。リアーヌは愛する夫と生涯幸せに暮らすのだから。かつては不確かとしか思えなかった未来を、今は信じることができるのだから。

 この上なく幸せな気分で、リアーヌはアロイスの肩に頭をもたせかけた。

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黒の姫君の最後の結婚 悠井すみれ @Veilchen

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