第5話

〈5〉



 乗合バスは乾いた砂埃をまき上げながら曲がりくねった山間の道を往く。

 黄色地に赤や青の立体的な装飾を施されたバスだ。窓や扉は開けっ放しで、外の熱気をそのまま吹きつけてくる。席は大半が埋まっていた。声高に話す外国人観光客のグループのほかは、伝統衣装を身につけた現地住民でみんなが気怠そうに車窓を眺めている。

 二人掛け席の窓際に着いたナシムの手の中では、聖典がぱらぱらと風にめくれていた。ボロボロの、美しい表紙はもちろんそれぞれのページだってすり切れ、ところどころが破れた聖典だ。それを握る右腕は、日焼けした白骨を思わせるフレームで構成された、機械仕掛けの義手だ。

 十三歳になったナシムの体にもまだ、少し大きい。

 そろそろ目的地だろうかと思われたころ、隣に座っていた少年が「ねえ」とおずおずと声を掛けてきた。六歳ほどだろう。視線がナシムの手の中に据えられている。

「聖典を破くなんて、死刑になっちゃうんだよ」

 聖典は、神さまの体そのものだ。それなのに、ナシムの握るそれはあまりにもすり切れて汚れている。子供の目にも異様に映ったのだろう。

 ナシムは他の乗客の目につかないよう、そっと聖典を閉ざし、肩から斜めにかけたベルトについたいくつものポケットのひとつに仕舞う。

 カファヤトゥラが別れ際にナシムに巻きつけたベルトだった。ポケットに入っていた聖典のくたびれ具合に気付いたのは、ずいぶんあとになってからだ。

 父からの最後の手紙が、破れた箇所にぴたりとはまった。

 彼女はナシムの父親を装うために、聖典を便箋として破り取ったのだ。神さまの体である聖典を汚したり破いたりすることは死に値する。それでも彼女は破いた。

 最後の一通を記すために。

 きっと宴の席で呼吸困難に陥ったナシムを見て、覚悟を決めたのだろう。ナシムの命を守るためならば禁忌すら犯してしまえるほど、友人はナシムを大切にしてくれていたのだ。

「これはね」ナシムは身を屈めて、少年の耳元に口を寄せる。「僕の神さまが、僕のために命を賭してくれた痕跡なんだよ」

アッラーのほかに神はなしラ・イラーハ・イッラ・アッラー

 訝る様子で答えた少年の頭を一撫でして、ナシムは立ち上がる。ウィン、と股関節からモータ音が追随した。

「お兄ちゃん、機械なの?」

 好奇心のまま無遠慮に伸びてきた少年の手が、ナシムの太腿に触れた。

 カミーズ越しに流麗な金属骨格の輪郭が浮き上がる。「わ」と感嘆の声を上げる少年に微苦笑を向けて、ナシムはバスを降りる。外国人観光客のグループも同じバス停で降りた。

 甘く苦く硝煙が香っている。軽快な発砲音も変わりなく賑やかだ。

 七年ぶりに訪れる故郷はなにも変わっていなかった。目抜き通りに並ぶ銃砲店を横目に歩く。

 店の前で、ぴったりとしたジーンズとスカーフという恰好の女性にカラシニコフを見せていた男が、ナシムを認めて「え?」と目を見張った。

 足を止めずに進む。懐かしい叔父の銃砲店も素通りする。誰かが駆け出してきて、そのくせナシムに声を掛けることもできず硬直するのを背中で察する。

 表通りから一筋入った途端に、喧騒が遠ざかった。

 ひっそりと、父の工房があった。

 歩調が速くなる。勢いこんで踏み入った工房には、銃職人が三人もいた。掘り込み式の土間に座して、万力に固定した金属部品にヤスリをかけている。

 盛り返したのだ、と口元を緩め、けれど職人たちの丸まった背から伝わるリズムで熟練工ではないと知れて、少しばかり落胆した。

 薄暗い工房に、ナシムの体から上がるモータ音がいやに大きく響く。

 店の奥、一段高くなった親方席にいた男がぎょっと腰を浮かせ、立ち上がり損ねてふらつき、背中から壁に激突した。立て掛けられていた自動小銃が倒れて、組み立て途中の部品が散らばっていく。

「久し振り」

「なに、しに、きた……」

「里帰り」

 親方席の男は──アルアウェルは、記憶よりずっと小さかった。この七年の間にナシムの背骨は真っ直ぐになり、身長もぐんと伸びた。一方のアルアウェルは、出会ったときからほとんど成長していない。

 ナシムはゆっくりと工房を進み、親方席の段差の前で足を止める。事態を呑みこめない銃職人たちが手を止め、不思議そうにナシムを仰いでいた。

「おまえ、よくも……」アルアウェルは忙しなく視線を彷徨わせ、後ろ手に壁の銃を探っている。「村に帰って来られたな」

 ナシムは、片足だけを親方席に乗せる。革のサンダルは脱がなかった。わざわざパンツの裾を手繰って、脛の辺りまでを顕わにしてやる。

 乳白色の金属骨格と暗色の筋肉チューブで構成された、機械仕掛けの脚だ。足首には握手をしている丸いマークが刻まれている。

「その脚……」アルアウェルの顔が蒼白になり、すぐに真っ赤になった。「あの女に、何人撃たれたと思ってるんだ」

「それ、僕らが悪いの?」

「おまえがあの女を逃がしたせいで、山狩りをしなきゃならなくなったんだぞ。ハッジはあの女に撃たれたうえに、武装勢力との和平交渉までしたんだ。和解金に二万ドルだぞ。ルピーじゃない、ドルだ! おかげでこの村は」

「とうぜんの義務だよ」

「素直にあの女を犯人として差し出しておけば、ハッジはあんな苦労をせずにすんだ! ハッジの孫娘たちだって、武装勢力の男なんかに嫁がずに済んだのに」

「とうぜんの、義務だろう?」

 ナシムは腰を折って、尻餅をついたアルアウェルと目線の高さを合わせる。

 はっと目を見開いたアルアウェルが、大きな身振りで銃職人たちを店から追い出した。七年前のことを聴かれたくないのだろう。

「あのとき、きみと僕以外にはわかったはずなんだ。ハッジにだって、わかっていたはずだ。あの男を撃ったのは、カファヤトゥラじゃないって」

「俺は……見たんだ。あの女が撃つところを」

「さっき、きみ自身が言ったじゃないか。カファヤトゥラに何人撃たれたか、って。ハッジだって撃たれたけど、生きてる。彼女の銃が、カラコフだから、だ」

 今さら、いや、銃工房を継いだ今だからこそ、アルアウェルは気付いたのだろう。

 カラコフの銃弾は小さく軽い。カラシニコフでならば致命傷となる銃創も、カラコフでならば生きながらえる場合が多い。銃創を見比べればどちらの銃で撃たれたのかは一目瞭然だ。

「それに、カファヤトゥラは無駄撃ちをしない。体を横切る銃創なんて、下手くそが撃った証拠でしかない。それなのに、みんな……」

 ナシムは天井からぶら下がったカラシニコフの銃身を、右手で握る。機械仕掛けの腕がモータ音を伴って握力を上げていく。鍛錬の甘いコピーカラシニコフの銃身が指の形に凹んでいく。

 アルアウェルに怯えが走ったのを確認してから、ナシムはゆっくりと手を開いた。鈍い墜落音がして、ひしゃげたカラシニコフが親方席に横たわる。

「そういえば」とナシムは明るい口調を装う。「母さんと姉さんは、元気?」

「は? え? なに?」唐突な話題が理解できなかったのか、間抜けな声が返ってきた。

「僕の母さんと姉さんだよ。元気? 姉さんは誰と結婚したの?」

「……会ってきたんじゃないのか?」

「会わないよ。カファヤトゥラに教えてもらったんだ、父さんのときも、この七年の間も。会わないほうが希望を持っていられる。そういうものだろ?」

 ナシムは親方席にかけていた脚を土間へと下ろす。

「あの日、カファヤトゥラと僕がこの村を出たあの日、きみは嘘をついた。きみだけじゃない。ハッジも、村の男たちも嘘をついた。カファヤトゥラと僕が逃げたのは、その嘘のせいだ。だから正直に言えば、僕の母さんと姉さんの生活についてはあまり心配していない。この村は、嘘の償いをすべきなんだ」

「あの女を逃がしたおまえの罪は、おまえの母親と姉貴が負うべきだった。それなのにハッジは援助までして」

「きみは、カファヤトゥラがハッジの息子を撃ったと言った。ハッジも、カファヤトゥラが犯人だと認めた。あのときカファヤトゥラが持っていたのはカラコフで、カラシニコフを構えていたのは、きみなのに、ね」

 ひゅ、とアルアウェルが鋭く息を吸い込んだ。だが反論はなく、半開きになった唇からは潰れた呼吸だけが漏れている。

「ねえ、教えて。彼女を助けたことが罪なの?」

「……この村の決断に叛いた罪だ」

「じゃあ、きみの罪は? どうしてあの男を撃ったの? ハッジの息子だと知ったうえで殺したの?」

 矢継ぎ早な質問に、アルアウェルは唇を震わせる。数秒の沈黙を堪え、ナシムはふっと息を吐いた。自分自身を落ち着かせるためだ。

「カファヤトゥラを、どうしたの?」

 予想外の質問だったのか、アルアウェルは虚をつかれた表情だった。

「なんで、俺たちがあの女の行方を知ってると思うんだ。その脚、あの女の脚だろう? おまえが今も、一緒にいるんじゃないのか」

 はは、と声が漏れた。

 カファヤトゥラは村の男たちと撃ち合い、殺されることも囚われることもなかったのだ。脚を失くしてなお、彼女は男たちから逃げ切った。彼女はナシムの知るどの男より強い。男たちが持つコピー銃が女性を守るための銃などと、よくも言ったものだ。

 ナシムは踵を返す。

 途端に、背後で銃の安全装置を外す音がした。振り返ると、アルアウェルが座りこんだ姿勢のままカラシニコフを構えていた。銃口がひどく揺れている。狙いが定まっていない。

「おまえ、復讐バダルをしにきたんじゃないのか」

「残念だけど僕はカファヤトゥラの夫じゃないから、彼女に対するあれこれに復讐する権利を持たない。母さんと姉さんはハッジが責任を持ってくれる。復讐する理由がないじゃないか」

「……おまえが村を追われたことへの復讐は?」

「僕は腕を治すために病院へ行っただけだけど?」

 正当な復讐を行わない者は、臆病者だ。パシュトゥン人の男たちがなによりも恥じる掟破りだ。いまだに掟に囚われているらしいアルアウェルは、ぽかんと口を開けている。

 今度こそ、ナシムはアルアウェルに背を向ける。腰から下の関節を動かすモータ音が、獣の威嚇めいた響きを発した。

「あの男は……」と背後に、アルアウェルの告白を聞く。

「俺を見て、自分の代りだと言ったんだ。武装勢力に入った本当の息子の代りに、俺を息子にしたんだって。だから、あの男が村に戻ってきたら、俺は用なしで追い出される。、父親に捨てられる。実際あのとき、ハッジは俺をあの男の名前で、サラーワと呼んだんだ……」

 ナシムは深く息を吸う。腹の裡に燻る怒りを冷やすために、二度、三度と呼吸を繰り返す。じわり、と脚から上がってくる記録の中に、カファヤトゥラの感情を探す。

 凪いでいた。未練も憐憫も憤りも感じられない。

「きみは」ナシムはコピー銃に見下ろされつつ、土間を横切る。「もっと父親を信じればよかったんだよ」

「それは!」アルアウェルの叫びが追ってきた。「おまえが父親に認められて生きてきたから言えることだ!」

 振り返りもしなかった。

 そのまま、両脚に意識を集中する。自分の制御を最小限にして、脚に秘められた記録を再生する。

 腹筋が引きつった。機械仕掛けの脚が、ナシムに最適姿勢を促しているのだ。力を抜いて、脚から送られる指示に従って前傾姿勢をとる。

 力強く地面を蹴った。たった十数歩で村を抜けた。

 灰色の岩が切り立った尾根を駆け、湿気た森林へと踏み込む。あの日、カファヤトゥラがナシムを抱えて走った道なき道だ。

 少し走ると、脚が止まった。落ち葉に覆われた急斜面の半ばに窪地があった。

 七年前、ふたりが別れた場所だ。

 ナシムは両手で周囲の落ち葉をかき分ける。機械仕掛けの脚で斜面を登り、目を凝らしてカファヤトゥラの痕跡を探す。

 なにかを見つけたかった。なにも見付けたくなかった。

 矛盾する気持のまま、どれほど彷徨ったのか。周囲が見通せなくなり、夜深くになっていることに気が付いた。

 カラコフすら見付けられなかった。

 彼女は誰かに保護されたのかもしれない。武装組織に連れ去られたのかもしれない。人知れず息絶え、獣に食い荒らされたのかもしれない。どの可能性も、否定されなかった。肯定もされなかった。

 父と同じだ、とナシムは自分に言い聞かせる。

 父の体も発見されなかった。今も、発見されていない。つまり父の死は、確定していない。

 それは希望になり得る。細くとも、可能性の糸を切らずにすんだ。いつの日か再び逢える可能性が残っているのだ。

 ナシムは、両脚の記録を意識する。

 ウィン、と今度は早足で、脚が斜面を下り始めた。

 この先はナシムひとりきりの逃避行だった。獣道を往き、沢を越え、乾いた砂に足をとられつつ曲がりくねった自動車道を横断していく。時折、木々の隙間から空を横切る電線が見えた。

 こんな光景だったのか、とナシムは七年ぶりに自分の逃走ルートを知る。


 あの日、ナシムの右腕は、カファヤトゥラの脚をつかんだままびくともしなかった。ナシムが転ぼうとも、沢の石で強かに脛を打とうとも、単調にひたすら進んでいった。体力の尽きたナシムは歩くこともできず、機械仕掛けの脚に引きずられ続けた。

 目覚めたときには、カブールにある大きな病院のベッドに寝かされていた。

 カファヤトゥラの機械の脚はナシムの状態を鑑みることなく、ナシムを引きずって歩き続けたらしい。険しい岩山や獣道で生身の両脚を削られたナシムは意識を失い、大通りに出たところで保護されたのだという。機械の脚が歩みを止めなかったために、随分と手間が掛かったのだときかされた。

 結局、ナシムは損傷の激しい両脚を切断した。無事だった腰の辺りまでを、自らの意思で捨て去った。

 カファヤトゥラの脚をそっくりそのまま受け継ぐためだ。あの夜、彼女がきた技術者の男が、手術を請け負ってくれた。

 もし彼女が還ってこなかったとしても、彼女の一部はともにある。彼女の記録はナシムの一部となった。

 この結果を、ふたりともが望んでいたのかもしれない。ふたりともが、心のどこかでお互いを別ちがたく思っていたのかもしれない。

 自由を得たカファヤトゥラの脚は、ナシムの体を連れて無心に歩く。森林地帯を抜け、乾いた大地を往き、派手な色彩の乗合バスにクラクションを鳴らされながらどこまでも駆ける。

 この脚に導かれて七年の間にいろいろな場所を巡った。

 アフガニスタンとパキスタンの国境を何度も越えた。切り立った崖を山羊と下り、岩だらけの川岸から魚の輝きを見、羽虫に誘われて密林の奥まで分け入った。電力もない村や武装勢力の拠点と化した砦、舗装された大きな道路と蒼天とのコントラスト、色鮮やかな一面のアヘン畑。彼女が駆けた世界を辿った。

 どんな道でも、脚から発せられる微弱電流が常にナシムの筋肉を刺激し姿勢を維持してくれるおかげで、ほとんど疲れを感じなかった。あのころのカファヤトゥラが一晩中走り通していたのも、この機能のおかげだったのだろう。

 あの薄暗い工房でナシムが思い描いていた彼女は自由だった。実際に彼女はナシムの知らない世界を歩いていた。

 けれど彼女の脚は、いつだって「その先」へと往きたがった。

 見知らぬ土地を踏みたがった。それを感じながら、ナシムは踏み出せない。彼女が追いついてくれるのではないかと、期待してしまう。彼女が追いつけない場所に行くことがためらわれた。

 そんな物思いに浸っている間に、夜が明けていた。

 村を出てから歩き通して、鉄塔の足下に寄り添う集落に到達していた。土塊を積み上げて造った家がひしめいている。トタン屋根が剥がれたのか、ブルーシートを被っている家も多い。高い鉄塔からぶら下がった鉄線が、それぞれの家へと無理矢理引き込まれていた。

 アフガニスタン人の難民キャンプだ。背骨に接続されたカファヤトゥラの脚が騒いだ。腰が痺れるような感情がせり上がる。ナシムの故郷ではついぞ感じなかった、郷愁だ。

 カファヤトゥラの脚は迷いなく家々の隙間を縫って進む。一見して、住んでいる誰もが貧しいのだとわかった。人々が踏み固めた道はじっとりと湿り気を帯び、異臭を放っている。路地に座った子供たちは痩せ細り、それでも見ず知らずのナシムと目が合うと無邪気に手を振って笑みを見せてくれた。

 迷路のような村を進んでいた脚が、一軒の前で止まる。扉の残骸らしき板が壁に立て掛けられているために、路地から中が丸見えだった。屋根にいたってはブルーシートを掛けただけの粗末な造りだった。

 瞬間、大声で喚きたい衝動に駆られる。泣きたいほどの思慕だ。ナシムのものではない。機械の脚が記録した、カファヤトゥラの想いだ。

 ここに還りたかったのだ、同じくらい帰りたくなかったのだ、と機械の裡が身を捩る。

 自らの気持ちを機械から切り離すのに、数呼吸かかった。ようやく「サラーム」と掠れた声が出る。

 薄暗い室内は白く濁っていた。竈から出る煙が逃げ場を失って充満しているのだ。薄いパンプーリーを揚げる甘い香りがする。

 煙をかき分けて出てきたのは、ナシムより年上と思しき女性だった。緩く巻いたスカーフで髪を隠してはいるものの、臆することなくナシムの前に顔を晒している。

 女性は不愉快そうに「朝食が終ってからしか客はとらないよ」と鼻を鳴らした。どうやら彼女は体を売っているらしい。咄嗟に女性の勘違いを訂正する言葉が出ず、口を半開きにして俯く。と、ナシムの視線につられて視線を下げた女性の顔色が変わった。

 ナシムの下半身、裾から覗く機械仕掛けの両脚に気付いたのだ。女性は視線をナシムに据えたまま振り返り「お母さん!」と叫ぶ。

 その反応で、彼女がここにも戻っていないことが知れた。

 白煙の中から、杖をついた老婆が現れた。胡乱にナシムを仰ぎ、ゆっくりと眺め下ろし、はっとした様子で杖を放した。地に体を投げ出した老婆は、機械仕掛けの両脚に顔を寄せる。

 大胆な行動に、ナシムは後退る。つもりが、両足を抱きすくめられて体勢を崩した。ウィン、と優秀な両脚がナシムの上体を支える。条件反射で伸びた右腕が家の戸口をつかんだこともあって無様に転ぶことは回避した。

「ようやく男の子になってくれたんだねぇ」

 足元から聞こえた涙声に、耳を疑う。「男の子になった」とはどういう意味だろう。ナシムは老婆を引き離すこともできないまま、スカーフを巻いた女性へと助けを求める。

 女性は、ひどく褪めた眼差しで老婆を──カファヤトゥラと女性の母親だろう──見下ろしていた。

「あの子が生れたとき、この人」女性は縮こまった老婆の背を睨めつける。「あの子の脚の間に木の棒を突き立てたのよ。男の子にするんだって言って、何回も何回も。木の棒が性器になるわけもないのにね。そのせいであの子は脚がダメになったし、この人も頭がおかしくなったし、散々だったんだけど」

「おかぁさぁん?」と間延びした声が、部屋の中から女性を呼ぶ。子供がいるらしい。

「わたしも」女性は今度こそ家の中へ戻りつつ、独り言の抑揚だ。「娘をバチャ・ポシュにしないと、食べていけないしね。責められないわ」

 老婆はまだ、ナシムに縋りついていた。「お帰り」と告げられるたびに、右腕が無意味なモータ音を立てる。

 じわりと左足を引いた。老婆を蹴り倒してしまわないように注意して、右足も引く。ナシムに体を預けていた老婆が倒れ込んだ。汚水の浸みた土が老婆の爪に食い込むのが見えた。

「カファヤトゥラは」声が震えた。「カファヤトゥラなのに。どうして……」

 どうしてバチャ・ポシュにしたのか、女の子として認めてあげなかったのか、男の子にしようとしたのか。

 そう詰ることの無意味さを、ナシムは理解している。カファヤトゥラがバチャ・ポシュとして育てられたことに憤りを覚えるのは、自分が男だからだ。その自覚があった。

 彼女の脚を継いだ今、ナシムは自分と男だと言い張れる自信がない。だからといって彼女と対等になれたとも思っていない。これまでに積み重ねた男としての人生が、彼女がバチャ・ポシュとして育った年月が、ふたりを隔てている。

 唇を噛みしめ、老婆から距離をとる。

「ねえ」ナンを焼く煙の中から女性の声がした。「あの子、死んだの?」

「死んでないよ」と答えた声は、音にならなかった。かすれた呼吸が煙を乱すだけで消えて行く。

 ナシムは脚を引きずるように路地を戻る。

 子供たちの歓声が遠くでした。銃声も硝煙の匂いもない、貧しい村だ。この村でカファヤトゥラは育ったのだ。

 土塊の家々の陰から、小さな人影が飛び出してきた。体を捻って避ける。

 ──カファヤトゥラだ。

 思わず手を伸ばす。生身の左手が出た。指先を短い髪がすり抜ける。カミーズが翻り、ゆったりとしたパンツに包まれた脚が見えた。細い、生身の脚だ。人影はぱたぱたとサンダルを鳴らして路地へと消えていく。

 カファヤトゥラの妹はまだこの村にいるのだろうか、とナシムは路地に立ち尽くす。カファヤトゥラが帰ってこなかったせいで、バチャ・ポシュとされたのだろうか。

 肩から斜めに巻いたベルトを探る。ポーチからペンをとり出し、左手で握る。右手で自分のクルアーンに挟んでいた父からの──カファヤトゥラが父を装って書いてくれていた──短い手紙の束をとり出す。

 聖典の破片に記された最後の一枚も、今は義手に頼ることなく読める。

 ──思うまま生きて

 これらはきっと、彼女が自らの家族にかけたかった言葉なのだ。そして同時に、彼女自身がかけられたかった言葉なのだ。

 最後にもらった一枚を裏返し、ペンを当てる。

 ひどくのたうった字になった。それでもナシムは左手で、自らの血が通った手で記す。

 カファヤトゥラに、父に、村に置き去りにしてしまった母や姉に、ただ一言、心からの願いを書く。

 ──生きて

 逃げ出した道を引き返す。カファヤトゥラの家族に短い手紙を届けるために、走る。

 機械の両脚が軽かった。このままどこまでも、彼女が望んだ世界まで駆けていけそうだった。

「きみは、どこへ行きたい?」

 彼女が走った山岳地帯以外を目指そう。海がいい。外国へも赴こう。どこへでも走って行けると言っていた彼女は、その実とても狭い所を彷徨っていただけなのだ。

 ふたりの脚でならば、もう、どこへだって行ける。

「大丈夫だよ」友人の幻聴がした。「追いかけるから」

「大丈夫だよ」ナシムも、友人の生家の前で答える。「待ってるから」

 ゆっくりおいで。男性だろうと女性だろうと、生身だろうと機械式だろうと、銃など持たずとも生きられる場所に行くから。

 友人は、本当は誰だって好きなときに好きな場所へ行けるのだと教えてくれた。そう望んでいた。ならばそういう世界を目指そう。

 左手から離れた手紙が風に乗り、薄暗い土塊の家へと滑り込んだ。

 行こうか、と友人の幻を誘って、ナシムは再び走り出す。


                              了




参考図書


『イスラーム基礎講座』

渥美堅持(東京堂出版)

『カラシニコフⅡ』

松本仁一(朝日新聞社)

『彼らは戦場に行った ルポ 新・戦争と平和』

石山永一郎(共同通信社)

『アフガン、たった一人の生還』

マーカス・ラトレル パトリック・ロビンソン 訳:高月園子(亜紀書房)

『三重スパイ CIAを震撼させたアルカイダの「モグラ」』

ジョビー・ウォリック 訳:黒原敏行(太田出版)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鉄と手紙 藍内 友紀 @s_skula

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ