第4話

〈4〉


 ナシムは字が読めない。母と姉も読み書きができない。父の代りを務めていなければ、今ごろは学校へ通っていたはずだったが、いまだに叶っていない。

 父からの短い手紙を読み、お世辞にも綺麗とは言えない文字で返事を書けるのは、ひとえに機械式の右腕で文字の形を辿ることにより、右腕が文字を判別しナシムの脳に情報として届ける故だ。

 だから目覚めて、右腕が動かないままであることがわかったナシムは、紙切れを見詰めるしかなかった。

 いつも通り紙の端を破り取った、数単語だけが並ぶ手紙だ。

 母と姉によれば、カファヤトゥラは深夜に出て行ったままだという。父との文通を快く思っていない叔父やハッジに読解してもらうわけにもいかない。

 最終的に思い当ったのは、この村に新たに加わった青年だった。

 母と姉に手伝ってもらい、白いカミーズに着替える。アヘンのビニルパックを胸ポケットに入れて、「ついでだから」と母から託された羊毛のストールを抱えて家を出る。村の女性たちが作った織物や刺繍はジャミーラが買い取り、村の土産物屋や都市部に卸される決りになっていた。

 意志の通わない右腕は、重たい金属の塊に成り果てていた。傾いた体のせいか右腕の指先が地面をこすり、歩みに合わせて道に筋を描く。

 ぱぱ、と遠くから発砲音が聞こえてくる。村の目抜き通りに並ぶ銃砲店に客が来ているのだろう。

 いつもより寝過ごしたらしい。ナシムは歩調を速めてハッジの家を目指す。坂道で息が上がった。背中に走る痛みが目を眩ませる。手探りでポケットからビニル袋を取り出し、乾いたケシの花弁の中から爪先で削いだアヘンを唇の裏に含む。わずかな苦みが口に広がり、すっと痛みが消えて呼吸が調っていく。そのくせ汗ばかりが流れた。

 ハッジの家の前には、籐の椅子に浅く座ったジャミーラがいた。「サラーム」という挨拶が二重奏になる。

「昨日は宴を台無しにして、ごめんなさい」

「もう大丈夫なのかい?」

 大丈夫とも大丈夫ではないとも断言し難く、ナシムは曖昧に笑って「モールは」と話題を変える。

「どうしたの? こんなところで、誰かを待ってるの?」

 ふふ、とジャミーラは嬉しそうに皺だらけの顔を緩ませる。

「末の息子が、帰って来るんだよ」

「アルアウェル、出掛けてるの?」

 困ったな、とひとりごちたナシムを不思議そうに見上げてから、ジャミーラは「ああ」と息を漏らす。

「サラーワだよ。十年前に出て行ったきりだったんだけどね、ようやく帰ってきてくれる気になったって手紙がきてね」

「カファヤトゥラが届けてくれたの?」

「え?」

「手紙。カファヤトゥラは郵便屋さんだから」

「サラーワは敬虔な……ちょっと神さまの教えを過剰に解釈するところのある子だったから、男の恰好をした女なんかに手紙を託さないよ。ふたりが出遭ったら……サラーワはあの娘を殺してしまうかもしれないね」

 虚空を見詰めるジャミーラは、どこか寂しそうだった。

 サラーワが村に戻ってきたら、とナシムは坂の下に並ぶ銃砲店のトタン屋根を眺める。

 ジャミーラやハッジは、カファヤトゥラがこの村へ立ち入ることを禁じてしまうかもしれない。もしそうなれば、父との秘密の文通は途絶えてしまう。村から村へ旅をする友人の安否を知ることすらできなくなる。

 いやだ、と思った。

 父は傷が癒えれば戻ってきてくれる。けれどカファヤトゥラとは二度と会えなくなるかもしれないのだ。

「ふたりで村を出れば……」

 離ればなれになることはない、と呟いたナシムの声が聞こえなかったのか、ジャミーラは枯れ木めいた指で眼下の町並みを示した。

「アルアウェルなら、夫と一緒にあんたの店に行くって言っていたよ。ファーザルの銃を随分と気に入っている様子だったから、フマムの試射場にいるのかもしれないね」

 叔父の試射場ならばナシムの店のちょうど裏手にある。アルアウェルになら父の手紙を読んでもらえると思っていたが、ハッジや叔父が一緒にいるのならば別の機会に頼むしかなさそうだった。

 落胆を悟られないように礼を言い、母の織物をジャミーラに渡して二ルピーを受け取る。冷やした果汁を買えば消し飛ぶ金額だが、母や姉が唯一自由にできる貴重な収入だ。

 二ルピーをポケットに仕舞って、モールに礼と別れを告げてから来た道を戻る。

 足下によたよたと蛇行する線が続いていた。ナシムが坂を上るときに右腕の先で刻んだ軌跡だ。友人に自由でいてほしい気持ちと、どこにも行かないでほしいという気持ちとの間で容易く揺らぐ自身のようだった。



 銃砲店が並ぶ目抜き通りへと出る。まだ、シャッターと鉄柵を閉ざしている店が大半だった。

 寝坊したと思ったのはナシムの勘違いだったらしい。

 と、村の入り口の方に数人の男たちが集まっているのに気付く。観光客を運んでくる乗合バスが事故でも起こしたのだろうか、と訝しんだときには、そういえば脱輪した乗合バスが道を塞いでいたのだと思い出す。だからこそカファヤトゥラは一日で何度もこの村と病院とを往き来することになったのだ。

 群がる男たちの肩越しにカラシニコフが見えた。密造銃を生業としている村とはいえ、試射場でも銃砲店の前でもない場所で振り回すには物騒なものだ。

 思わず足が向く。地面を引っ掻く右腕がかりかりと嫌な振動を伝えてきた。

 男たちが深刻そうな顔を突き合わせている。その中に、叔父もいた。

 輪の中心では、まだ年若い男がカラシニコフを肩に、身振り手振りで何事かを訴えている。

 アルアウェルだ。そしてその足元に膝をついているのは、カファヤトゥラだった。

 駆け出した途端に、転んだ。その音で全員が振り返る。なにかを警戒したのかもしれない。

 カファヤトゥラは、男に腕を捩じりあげられていた。昨日からペシャワールとこの村とを往復し続けていたせいか、汗と砂で髪が束になっている。愛用のカラコフは地面に横たわり銃口に砂が入っていた。肘に掛かったベルトが辛うじてカファヤトゥラとカラコフとをつないでいる。

 そんな状態なのに、カファヤトゥラは「大丈夫?」とナシムを気遣う。

 のそりと傍に来たハッジが、ナシムの背を支えて立ち上がらせてくれようとする。

 けれど、もはやナシムの右腕は金属の塊と成り果てている。重たい腕に逆らいきれず膝立ちになるのが精一杯だ。姿勢を直す間も惜しかった。生身の左手と両足で地面を搔き、拘束されている友人ににじり寄る。

「どう、したの?」

「大丈夫だよ、ちょっとした誤解があって」

「誤解じゃない! 俺は見たんだ!」アルアウェルの叫びがカファヤトゥラを遮った。「こいつが撃ったんだ! こいつが、殺したんだ!」

 友人にかけられている嫌疑の重さに、血の気が引いた。

 死の償いは、死だ。

「早くこいつを村から追い出さないと、仲間が復讐バダルをしに来るぞ」

 友人がいったい誰を殺したというのだろう、とナシムは左腕を突いて必死に立ち上がる。

 手を貸してくれるハッジの、豊かな髭に覆われた頬が小刻みに震えていた。目が潤んでいる。泣いているのだ。その瞳はアルアウェルでもカファヤトゥラでもなく、ふたりの背後を映している。

 ハッジの萎びた腕を振り解いて、友人に近付く。その背後にあるものを、確かめる。

 男が倒れていた。昨夜、こっそりとナシムを診察をしてくれた男ではない。

 黒々とした髭と頭から落ちたパコール。そして胸から腹、腰にかけて斜めに横切る弾痕が生々しく血を滲ませていた。男のカラシニコフは、応戦した様子もなく背中に負われたままだ。

 見たことのない男だった。ほとんど同時に、昨夜、宴の席に入ってきたカファヤトゥラが武装勢力の斥候を見た、と言っていたことを思い出す。

「……武装勢力の」

 兵士なの? と問おうとした刹那。

「わたしの、息子だ」ハッジが、一音ずつを区切ってはっきりと告げた。「帰ってくるはずだった、わたしの、息子だ」

 坂の上を、ハッジの家の前で微笑んでいたジャミーラを、振り返る。見えるはずもない。それでも確信する。彼女が幸せそうに待っていたのは、ここで死んでいる男なのだ。

 急速に口の中が乾いていく。唇の裏に含んでいたアヘンが粘って苦みを増す。

 いつの間にか、ハッジの前にはアルアウェルが立っていた。カラシニコフを──昨夜の宴でハッジから与えられた、ナシムが造ったカラシニコフを──ハッジに差し出している。

「復讐を、するでしょう? お義父さん」

 ハッジの指先がびくりと震えた。両腕が緩慢にもたげられ、けれどカラシニコフに届く前に停滞し、落ちる。噛み締められた唇からは嗚咽の欠片が漏れていた。

 そんな老人に焦れたのか、アルアウェルはカラシニコフをナシムの前へと差し出した。

 どうして自分に銃が回って来るのかわからず、ナシムは後退る。

「おまえが、やれよ。おまえになら権利がある」

「なんの、権利?」

復讐バダルだよ。おまえには、この女に復讐する権利がある」

「きみは」カファヤトゥラの、嘲笑を孕んだ声が割り込んだ。「自分ができなかったことを、誰かに代行してもらいたいだけだろう?」

「どういう意味だ」

「きみ、本当は貞操ナームスを捨てたお姉さんを、自分の手で罰したかったんだろう? 今、ハッジにそうしたように、本当は自分の父親を唆したかったんだ。そうだろう?」

 貞操を失った女性を粛正するのは、家長である男に与えられた仕事だ。

 ナシムは昨夜の宴を思い出す。ハッジに銃を認められたとき、ファーザルの店を継ぐようにと言われたとき、ナシムを見詰めるアルアウェルの眼には確かに羨望と嫉妬とが混在していた。

「どうして僕が、カファヤトゥラを撃たなきゃいけないの……? きみの復讐とは関係ないよね」

「この女がサイィド・ファーザルを殺したからだろう?」

「アルアウェル!」ハッジの叫びが雷鳴めいて轟いた。「言わないと約束しただろう!」

 え? と息が漏れた。動かない右腕の、父の手紙を隠している二の腕をつかみ締める。

 今朝、陽の下で見た紙切れには、父からの言葉があった。それなのに、父が殺されているとはどういうことだろう。

 ハッジがアルアウェルの頬に平手を叩きつけた。「でも」とアルアウェルは言い募る。

「どうせ、いつかはバレるんだ。今なら、こいつに復讐をさせてやれる。女に殺された男は天国に行けない。サイィド・ファーザルは地獄に行ったんだ! この女が! 男のフリをした女が、殺したんだ!」アルアウェルは息を継ぎ「それに」と声を潜める。「この女の死体を殺人犯として差し出せば、武装勢力の連中もこの村を襲わない。村を守れるんだ」

 カファヤトゥラは、黙って俯いていた。

 ナシムはアルアウェルを押し退けて一歩、友人へと近づく。

「……父さんが死んでるって、本当なの?」

「……わからない」

「きみが殺したって、本当?」

「……わから、ない」

「わからないって!」ナシムは膝をついて、友人の襟をつかみ上げる。「さっきから、そればっかりじゃないか!」

「本当に、わからないんだ」

 カファヤトゥラは蒼白だった。呼吸は激しく震え、泣くのを堪えているように熱く湿っている。

 友人の、こんなに気弱な顔を見るのは初めてだ。ナシムの知るカファヤトゥラはいつだって笑っていた。村の男たちからどれほど悪口を浴びせられようとも、なんでもないように振舞っていた。

「父さんと」ナシムは声量を落とす。「最後まで一緒にいた?」

 カファヤトゥラが、ナシムの肩に額を寄せる。頷いたのだろう。

「父さんが、山道から落ちたっていうのは、本当?」

 また友人の頭が上下した。

「……きみが、突き落したの?」

「わからない。シャリフ・ファーザルの手を振り払った。でも突き飛ばしてはいない。突き飛ばしてはいないと、そう、わたしが思い込みたいだけなのかもしれない。あのときは興奮してて……」

「父さんと、なにがあったの?」

「わたしに、結婚しろと……女に戻れと……。参列した結婚式の新婦が、元バチャ・ポシュだったからって……。シャリフ・ファーザルはわたしの生き方を認めてくれていると、わたしを男として扱ってくれていると、信じていたのに。今さらっ」

 ナシムが知る父も、男としてふるまう友人を受け入れていた。それなのに、遠い村で参列した結婚式で、カファヤトゥラが女性として幸せになる可能性を見出したのだろうか。

 そして昨夜のナシム同様、友人を傷つけたのだ。

「わたしは混乱して……怒鳴り合ううちに手が当たったんだ、たぶん。気が付いたらシャリフ・ファーザルはいなくて、右腕だけが崖を上がってきた。帰りたいと、シャリフ・ファーザルが最期に願ったのなら、そうすべきだと思った。腕だけでも家族のもとに返すべきだと。でも、だからって、きみにその腕を継がせたかったわけじゃない、きみはきみ自身の腕を守るべきだった。本当ならわたしが、きみの腕を守るべきだった……」

 父の体は発見されていないのだ、とナシムは悟る。父は、機械の右腕を頼りに崖を這い上がろうとしたのだろう。けれど接続部位が、父の肉体が、耐え切れなかった。父は機械の腕に見捨てられ、ひとり山に取り残されたのだ。

「最後にひとつだけきかせて。きみが僕に親切に、親切すぎるくらい親切にしてくれたのは、父さんを殺した罪悪感から?」

 ナシムの肩が、ふっと熱くなった。友人の吐息だ。

 ゆっくりとナシムから離れたカファヤトゥラは、笑っていた。呆れたように、バカだなと言いたそうに、歪んだ微笑を浮かべている。

「シャリフ・ファーザルがいたころから、わたしは優し過ぎるくらい優しかっただろ?」

 ふふ、と互いの息が絡んだ。

 どうしようもなく、年上の友人を守ってあげたいと思う。同じくらい、男にも女にもなれない友人を哀れに思う。哀れに思ってしまう自分自身に、言い知れぬ羞恥を抱く。

 カファヤトゥラはカファヤトゥラでしかないのに。

 ナシムは立ち上がる。重たい右腕に負けじと両足を踏ん張り、背筋を伸ばす。カファヤトゥラを庇うようにアルアウェルに向き直った。あれほど威厳を湛えていたはずのハッジが縮んで見える。

 周囲で成行きを見守っている男たちが、いつの間にかそれぞれの自動小銃を持ち出していた。

「昨日」ナシムは集う人々を順に見廻す。「ハッジからカラシニコフを二十丁造ってほしいと依頼されました」

 男たちに動揺が走った。やはり誰が聞いても異様な数なのだ。構わず、ナシムは続ける。

「でも今の僕の右腕は、動きません。父さんから受け継いだ技術も、使えません。銃は造れない。ハッジの期待に沿えない。とても、とても残念です。だからせめて」

 ナシムは叔父を見据える。

「僕の叔父であるサイィド・フマムの店に預けている、僕がこれまでに造った銃を提供します。僕の銃も父の銃も、父がいなくなってからは叔父さんが全て管理してくれていました」

 叔父の視線が泳いだ。忌々しそうに唇を噛んでいる。もしかすると叔父は父の銃を横領していたのかもしれない。けれど、もうナシムは気に留めない。最優先にすべきなのは友人の命だ。ハッジへ顔を向けた。視線は合わない。

「僕は、これから病院に行きます。父から受け継いだ右腕をちゃんと使いこなせるように、診てもらいます。正しい処置をせずに義手をつけたせいで動かなくなってしまったようなので」

「俺は、村のためにそうしたんだ!」叔父は唾を飛ばして怒鳴る。「ファーザルの銃がなくなったら、村としても困るだろう? 誰かがファーザルの腕と技術を継がなきゃならん。なら息子が継ぐべきだ。だから俺が汚れ役を引き受けてやったんだ。ハッジだって認めてくれた!」

 アルアウェルが無言でカラシニコフを構えた。銃口を叔父フマムへと向けている。ハッジを侮辱することは赦さないと語る、正しい息子の仕草だった。

「別に恨んではいません。あれは僕の決断でもあった。母さんと姉さんを守るためには父さんの腕が必要だった。だから僕が病院に行っている間」ナシムは居並ぶ男たちに、村の全てを司るハッジに、頼む。「僕の代りに母さんと姉さんを守ってほしいんです」

 互いに顔を見合わせる男たちの中で、ハッジが顔を上げた。瞳に光が戻っている。村を治める長老としての、強い意志があった。

「きみの家族のことは引き受けよう、ナシム。安心して病院へ行っておいで。わたしの依頼のことも、もう気にしなくていい。息子が殺された以上、連中にファーザルの銃をくれてやる理由もないんだ。どう脅されようと村の誇りは守ってみせよう」

 やはりハッジの息子は武装勢力に加担していたのだ。ハッジはファーザルの銃を──パシュトゥン人のために造られた銃を、身内可愛さに武装勢力に渡そうとしていた。

「父の銃は」ナシムは腹の底に湧いた怒りを押し殺す。「人殺しのための銃ではありません」

「いいや」力強く、ハッジが否定した。「ファーザルの銃であろうと銃は銃だ。人殺しの道具だよ。事実、きみの友人は、わたしの息子をファーザルの銃で殺している」

 はは、となぜか、嫌疑をかけられているカファヤトゥラ自身が声を上げて笑った。

 ハッジは不気味そうに眉をひそめる。

「あなたは」カファヤトゥラは場違いに軽い口調だ。「その結論でいいんですね? ハッジ・マヒウディン」

「……おまえが、わたしの息子を撃ったんだよ、カファヤトゥラ。わたしの新しい息子が、そう証言している。サラーワの仲間にも、そう話そう。今、我々はおまえに対して血の復讐バダル・アヒスティルの権利を得た」

「ここにいる誰もが、あなたの嘘に気付いていますよ、ハッジ。それでも」

「それでも!」ハッジが遮る。「おまえが、わたしの息子を撃ったんだよ」

「女に殺された男は天国に行けないのに?」

 ぐう、とハッジの喉が鳴った。感情的な怒声を飲み下したのだ。

 その音に、カファヤトゥラは目を眇めた。ほう、と息をついて微笑みすら浮かべている。

「……ならご随意に。わたしを犯人として、撃てばいい」

「カファヤトゥラ!」

 ナシムは身を翻して、両手を広げる。命を捨てる覚悟を決めたらしい友人を真っ直ぐに見詰める。

「きみに護衛バドラガを頼むよ」

 カファヤトゥラが眼を見開いた。「それは……」と地面に転がるカラコフに視線を落として言葉を濁す。

 バドラガは、命を賭して相手を守るという掟だ。もし警護相手が誰かに襲撃され命を落としたならば、それは守っていた者の恥辱となる。恥を雪ぐには、襲撃者に復讐するしかない。

 病院へ行くナシムを護衛するということは、ナシムとともに村を出るということだ。

 仲間サラーワを殺された武装組織が犯人カファヤトゥラを赦すとは思えない。犯人が逃げればどこまでも追って復讐を成すだろう。村が犯人の逃亡に加担したと知れば、村への報復攻撃も辞さない。なによりも、村の長老ハッジの息子が殺されたのだ。村の誇りに掛けて犯人は断罪されるべきだ。

 カファヤトゥラは武装勢力からもこの村からも追われる身となる。そんな相手を護衛に指名すれば、ナシム自身の命も狙われるだろう。

「正気の沙汰じゃないよ」

「狂気の沙汰でいいんだ。僕のために、生きて」

 手を伸べた。

 刹那、ウィン、とモータ音が一際強く鳴った。

 カファヤトゥラの機械の両脚が翻る。低い位置からの強引な足払いが、周囲の男たちの膝を砕くのが見えた。と思ったときには、ナシムとカファヤトゥラの距離がなくなっている。

「口を閉じていて」

 忠告と、ナシムの腹が圧迫されるのとが、同時だった。

 ぱぱ、と一秒にも満たない発砲音が友人と触れ合った肌の表層で弾ける。カファヤトゥラが威嚇射撃を行ったのだ。

 急にナシムの視界が反転した。腹を支点に肩に担ぎ上げられたのだ。脳天まで突き抜ける衝撃がくる。口を開けるどころか、呼吸すらできなくなる。

 追いすがる発砲音が何度か上がり、すぐに止んだ。流れ弾が村人に中ることを危惧したのだろう。

 視界の端に父の工房が引っかかったようにも思ったが、すぐになにもわからなくなる。

 少し上体を起こせるようになったのは、村を出てからだった。

 初めての外の世界を見ようと首を捻れば、鼻先に切り立った灰色の岩肌が迫っていた。ぎょっと身動ぎをしたものの、ナシムの体を抱え上げている友人の腕が想像していたよりずっと細くて、生身の左手で友人の背に縋りついてしまう。

 横合いから山羊の声がした。

 岩山で山羊を遊牧している少年が無邪気に手を振ってくれている。手を振り返してあげたかったけれど、激しい振動でそれどころじゃない。暴れ山羊を腹の中に入れている気分だ。カファヤトゥラは、おおよそ山岳地帯に慣れ親しんでいるパシュトゥン人の誰よりも速く、駆けている。

 友人は一足飛びに岩肌を抜け、山羊飼いの少年を置き去りにする。

 蒼天を分断する電線が、カファヤトゥラがその脚で引いたという電線が、風に唸っている。と思ったときには激しい水音が耳を聾した。

 森林地帯に入ったのだ。枝葉がナシムの頬をかすめて過ぎていく。日差しが遮られたせいか、寒気すら覚える涼やかさだ。落ち葉と腐葉土とが衝撃を和らげてくれた。


 どれほど駆けたのか、カファヤトゥラの歩調が緩んだ。ずず、と斜面を滑り下る感覚があり、ようやくナシムの体が降ろされた。

 革のサンダル越しに、足の裏が柔らかな土を捉えた。尖った岩々と落ち葉とが木々の根に縫い止められた急斜面の底だ。

 短く息を吐いたカファヤトゥラは、岩陰に身を寄せると襟元を寛げた。パタパタと左手で首元を仰ぎつつ、右手を腰のポーチへと入れる。取り出されたのは、白い板状の携帯端末だ。脚の設定を変えるのかもしれない。

 カファヤトゥラはカミーズを絞っていたベルトを外すと、躊躇なく長い裾をたくし上げて腰を露わにした。

 ナシムは慌てて背を向ける。

「カファヤトゥラは」声が上擦った。「どうして僕の頼みなら、なんでもきいてくれるの?」

「なんでもってわけじゃないよ。わたしにも叶えてあげられないことはたくさんある」

「そうじゃなくて」

 唐突に、ナシムの肩に重みがかかった。カファヤトゥラがいつも腰に巻いているベルトだ。多数のポケットに詰められた予備弾倉の重さだろう。ついでとばかりに、頭をぐしゃりとかき回された。

「きみが生れたときね」

「え?」

 話題の転換についていけず、ナシムはつい振り返る。

 カファヤトゥラの白骨色の腰が目に入った。装甲パネルだ。友人は脚だけでなく、腰まで機械に包まれているのだ。服の下から伸ばされたケーブルが何本も端末につながれていた。めくり上げられた裾から、ちらと素肌が覗いた。肋骨の窪みが薄暗い森林の中でひときわ暗く息づいている。そこが、友人の生身の終点だった。

「きみ、息をしていなかったんだよ」

 友人の体を占める機械の割合と自身の誕生秘話とに頭がついていかない。絶句したナシムに構うことなく、カファヤトゥラは端末を操作し続ける。

「わたしはまだ十歳かそこらでね。ちょうどシャリフ・ファーザルの家に泊めてもらっていたんだけど、夜中にきみが仮死状態で生れたものだから」ふふ、とカファヤトゥラは昔を懐かしむように頬を緩めた。「シャリフ・ファーザルがペシャワールの大病院まで走るって言いだしたんだよ。生身の脚なのにね。だから、わたしが引き受けたの。初めての夜道だったけど幸い満月でね、夜盗ひとりいなかった。村を出て少し走ったとき、きみが泣きだしたんだ。息を吹き返したんだよ、わたしの腕の中で。冷えていた小さな体が熱く湿ってね、ああ、命の温度っていうのはこれなのか、と感動したんだ」

 だから、と言うや、カファヤトゥラは斜面に手を突いた。ずるり、と上半身が抜け落ちる。腰から下の両脚だけが、変わらず直立したままだ。短い金属製の棒が、カファヤトゥラ自身の肉体の断面から突き出ていた。と思ったときには、ずり落ちたカミーズの裾が友人の体を隠している。

「わたしにとっての神さまは、きみなんだよ」

 ナシムは膝から崩れ落ちる。機械の両脚を失った友人と、目線の高さが同じになった。

 カファヤトゥラがナシムの手をとる。生身の左手を握り、感覚のない右腕を導く。主をなくして立ち尽くす、機械の両脚へ。

 いつの間にか、カファヤトゥラの指がナシムの襟元から侵入していた。機械の右腕の上腕部にある調整パネルを開け、人工筋肉の張力を調節するネジを捻られる感覚がした。さらに白い端末とケーブルとがつながれる。

 ウィン、と右腕が生き返った。そのくせナシムにはなんの感覚も伝わってこない。

 カファヤトゥラが端末を操作すると、右腕の肘が力強く曲った。五指がばらばらに蠢き、獲物を見つけた蜘蛛のように直立する機械式の脚へと這い寄り、断面をつかむ。本来であればカファヤトゥラの肉体があるべき場所だ。右手は溶接されたように、ぴくりとも動かない。

 嫌な予感がした。生身の左手で、カファヤトゥラの肩をつかむ。

「きみは、きみの神さまに嘘をついたりはしないよね」

「するよ」笑いを含んだ、即答だった。「シャリフ・ファーザルの手紙は、わたしが書いていたんだ」

 頭を殴られたような衝撃に、眩暈がした。

 行方不明の父、生死不明の父からの手紙、友人の嘘、ナシムが心の拠り所にしていた手紙。信じていたものがすべて、根底から揺らいで覆る。

「……最後の、あの手紙には、なんて書いたの?」

「それは……」

 カファヤトゥラは引き抜いたケーブルと白い端末とを、ナシムの肩にかけたベルトのポケットに仕舞った。そのままナシムの体を拘束するようにベルトを締める。

「いつか、きみ自身が文字を覚えて読解して」

 白い歯を見せて、カファヤトゥラが笑った。

 それが残像になる。ナシムの膝が崩れた。危うく転びそうになって、反射的に一歩を出す。強引に、次の一歩が出た。

 主を失ったカファヤトゥラの両脚が歩いていた。金属の塊と化した右腕が機械仕掛けの脚をつかみ締めて離さない。引きずられるように、歩かされる。落ち葉に足をとられて滑った。それも機械の右腕と両脚が引き留める。

「カファヤトゥラ?」

「大丈夫だよ」腰から下を失った友人が、手を振っている。「言っただろう? きみはわたしの神さまなんだって。きみが望むなら、追いかけるよ」

「嘘だ!」

 機械たちに攫われたナシムの体はどんどん斜面を下っていく。捩じった首がひどく痛んだ。視界からカファヤトゥラが消えていく。それでもナシムは絶叫する。友人を詰る。彼女の、決断の理由を暴く。

「きみは、僕に追いつく気なんてないんだ! きみは女の子であることに絶望してる。男の子になれないことにも理解していて、女を認めてくれない男たちに、この世界に、うんざりしてる。だから、自分ができなかったことを僕に押し付けて、諦めたいんだ! 逃げたいんだ! だからこんなタイミングで嘘を告白する! 自分が気持ちよく逃げられるためだけに、僕をだまし続けてもくれない」

 卑怯者、と言った。恥知らず、とパシュトゥン人ならばなによりも厭う言葉を喚いた。木々の密度がナシムの絶叫を嘲笑うようにざわめいている。

「僕は神さまなんかじゃない。きみの殉教の理由にしないで! 僕はただ、きみと一緒にいたいんだ。それだけが、僕の願いで、望みなんだよ!」

 ぱぱ、とカラコフの発砲音が応えた、気がした。いつもの、カファヤトゥラの楽しそうな笑い声に似た、寂しい音だった。


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