第3話

〈3〉


 ナシムの父、ファーザルは日に五丁のカラシニコフを作っていた。

 とはいえ銃身や引き金は村の外、大都市の鉄鋼工場で造られている。村では工場から送られた部品を加工し研磨し、機関部のカバーや木製ストックなどを削り出し、組み立てるくらいだ。

 職人の真価は、銃を構成する百を超える部品がスムーズに噛み合い動くように施される研磨と調整で問われる。

 ファーザルの銃はとりわけ機関部の密閉性を上げるボルトの調節と、銃身の中に刻まれるライフル──発射された銃弾が真っ直ぐに飛ぶように銃身の内側に彫られる四本の溝のことだ──が秀逸だった。ボルトの調節は連射性を、ライフリングは命中率を上げるのだ。

 村の目抜き通りに並ぶ数々の銃砲店に吊られたカラシニコフは一丁六〇〇ドル──観光客向けの値段であるため、パシュトゥン人同士での取引ならば交渉次第で値引きをする──だが、ファーザルの銃であれば七〇〇ドルで取引されることもある。正規ライセンスのもとに造られたカラシニコフが一〇〇〇ドル程であることを考えれば、遜色なく機能するファーザルの銃は、それでも安いということだ。



 工房に吹き込む風が夜の冷えを帯びてきたことに気付き、作業の手を止める。

 幼いナシムは手際が悪い。父の右腕は父の身にあったとき同様に動くが、長い銃身をプレス機に固定する作業に、銃身を叩き延ばす作業に、ナシムの小さな体がまごつくのだ。大きすぎる右腕によって傾いた姿勢も、素早い動きを妨げていた。

 大人の体がほしい、と呟く。

 昼間、工房を訪れたアルアウェルの精悍な体つきを、心から羨む。彼は何歳なのだろう。あと何年すれば彼に追いつけるのだろう。父の屈強な体には、どれほど耐えれば届くのだろう。

 ナシムは今日造りあげた三丁のカラシニコフを抱えて、工房のシャッターを下ろし金属柵を引く。

 アルアウェルによれば、ファーザルの銃の評判は確かなままだ。ナシムが父の代りを務めるようになって、そろそろ一年が経つ。世間では変わらず、ファーザルの銃は本人が造っていると思われているのだ。

 父の名に恥じない銃を造らなければ、と決意を新たにしつつ、三丁のカラシニコフを抱え直して工房を出る。

 できあがった銃はすべて叔父の店に納めることになっているのだ。ナシムが客に煩わされることなく作業に集中できるようにという配慮だと、叔父は言う。

 乾いた土が覆う道の端、一本の広葉樹の足元では男たちが立ち話に花を咲かせていた。父が工房を仕切っていたころ、友人と語り合った木だ。思えばずいぶんと長い間、ナシムは日差しの下に座っていない。すっかり工房の薄暗い親方席に根を張っている。

 それでいい、とナシムは唇を噛んで自分に言い聞かせる。父が帰ってくるまで、親方席を守ることこそ長男の役目なのだ。母や姉を守る、強い男の仕事なのだ。

「カファヤトゥラ」という名が聞こえた気がして、歩調が緩んだ。無意識に耳をそばだてる。

「アッ・ラシードの息子だろう? 声を掛けてくれれば俺が車を出してやったのに」

「途中までは行ったらしいが、脱輪した乗合バスが道を塞いでて通れなかったらしい」

「だからってなにもカファヤトゥラを使うことは……」

 ないだろう、と言いかけた男が、ナシムを認めて口を噤んだ。ナシムもまた、不穏なものを感じて足を止める。

 父がいたころはよく、この木の下に絨毯を敷いてカファヤトゥラと遊んでいた。父も工房の職人たちも、村の男たちやジャミーラですら、カファヤトゥラを悪く言わなかった。カファヤトゥラはカファヤトゥラであり、ナシムとなんら変わりのないパシュトゥン人の男児として扱われていた。

 けれど今、友人は明らかに冷遇されている。ナシムとかかわることを快く思われていない。カファヤトゥラ自身も自覚しているのか──表向きは──父が不在の工房に長居することはない。叔父に内緒で父の手紙を運んでくれるようになってからは、ことさら親しい素振りを見せないようにしているようだ。

 だから、だろう。男たちは気まずそうに視線を彷徨わせた。

やあサラーム兄弟アホヤ」男が白々しい挨拶だ。「仕事は進んだかい?」

「今夜、ハッジが宴を開くってさ。おまえも行くだろう? お前が造ったカラシニコフを見せてくれよ」

 宴が開かれるということは、アルアウェルは無事にハッジの家に受け入れられたということだ。

 ナシムは「うん」と小さく頷き男たちの前を行き過ぎる。彼らが肩から力を抜くのがわかった。

 三歩進み、足を止める。肩越しに振り返る。男たちはまだ木の下にいた。

「ねえ」

 ぎくりと男たちが体を強張らせる。

「みんながカファヤトゥラを悪く言うのは、カファヤトゥラがバチャ……? えっと、男の恰好をした女の子、だから?」

「え?」と男たちは互いに顔を見合わせる。

「カファヤトゥラはずっとカファヤトゥラだったのに、どうして急に、たった一年で、カファヤトゥラを悪く言うようになったの?」

「お前……カファヤトゥラがなにをしたのか知らないのか」

「おい」と隣の男が、制止するように肘で突く。「やめろよ。まだハッジが告げてないんだ。俺たちの口から伝えるべきじゃない」

「ナシム」唐突に、しゃがれ声が割り込んだ。

 朱色の夕焼けを背負った男が立っていた。背は高くないものの、巌のような体が嵐の前の雲めいた圧迫感を寄越す。豊かな髭も頭上に頂いた布帽子パコールも、逆光に潰れてなお白かった。

「ハッジ・マヒウディン……」

 ナシムは彼の存在感に立ち竦む。腰の辺りまでずりおちたカラシニコフが、サンダルの甲に当たった。

 噂話をしていた男たちもぎこちない笑みを浮かべて「サラーム、ハッジ」と挨拶を送る。

「ナシム、来なさい」ハッジは囁くように、そのくせ有無を言わせぬ抑揚で、命じる。「アルアウェルを歓迎する宴を催すから、一緒においで」

 皺だらけの手が伸びてきた。

 父より大きい、とナシムは感ずる。銃職人としての父の掌は、村をまとめる長老たるハッジの掌には敵わないのだ。

 父の敗北を突き付けられた気分で、ハッジの手を握る。生身の左手が、出た。右腕で三丁のカラシニコフを抱えていたせいだ。ハッジの掌の熱さが、年相応に小さなナシムの左手に痛みを宿す。火傷をしそうだった。対照的にカラシニコフに寄り添う右腕の付け根は凍てている。冬の風を骨の芯に注がれたようだ。

「痛くないわけじゃなくて」とカファヤトゥラの幻聴がした。「痛すぎて知覚できてないだけだよ」

「ハッジ」

「なんだい?」

 ナシムの手を引いて歩くハッジは一歩ずつが大きく、力強い。父と歩くときはもっと穏やかだった。なによりハッジは、歪んだ体でのたりのたりとしか歩けないナシムの歩調を顧みることがない。手を握り潰さんばかりの力加減で、むずかる山羊を無理矢理連れ出すようにナシムを引く。

 カファヤトゥラとは、ナシムの右腕がこうなってから一度も並んで歩いていない。けれどもし、アルアウェルが言ったことが本当ならば、ふたりで並んで歩くことは教義に反する。

「……カファヤトゥラは、男の子の恰好をしている女の子なんですか?」

「そうだよ」事もなげにハッジは頷く。「あの哀れな娘は難民キャンプの出だからね、の母親は娘の父親が誰かもわからないそうだよ」

 友人が難民キャンプの出身であることは、本人からきいて知っている。けれどその出自と父親が不明であることの間にどういう因果関係が結ばれるのかわからず、ナシムは抱え持ったカラシニコフの銃底に視線を落とす。

「あの娘の母は女性の名誉ナームスを捨て、教えに叛いている。そんな女のせいで、あの娘は男にならざるを得なかったんだよ」

 可哀相に、と呟いたハッジは、そのくせ髭に覆われた頬を緩めて嘲笑っているようだった。

 ナシムは大きく長すぎる父の右腕を引きずり、ハッジはナシムを引きずり、村を貫く通りを往く。建ち並ぶ工房のほとんどが、すでにシャッターと鉄柵を閉ざしていた。

 いつもなら叔父の銃砲店に組み上げた銃を納めて一日を終えるのだが、今日は違う。導かれるまま村の奥へと足を進める。



 村における居住地の高さは身分と同じだ。

 長老たるハッジは村でもっとも高い場所に住まいを構えている。砂地に岩が覗く山肌近く、ともすれば遊牧されている山羊たちが迷いこみかねないところに、トタン屋根を冠したハッジの家はある。

 家の前には村を睥睨するように籐の椅子が置かれていた。村の女性たちは毎日、家で織った絨毯や編み物などを持ってこの椅子の前に集う。ここに座すモール・ジャミーラに内職の品を買い取ってもらうためだ。けれど日暮れが迫る時間にあって、女性たちはみんな家で夫の帰りを待っている。

 ハッジに招かれた男たちだけが、空っぽの椅子の前にたむろしていた。

 通された広い客間には、色とりどりのクッションがずらりと並べられていた。すでに何人かの男たちが座している。

 一番奥の席はハッジのために空いている。そのすぐ隣に、アルアウェルがいた。ナシムを認めると笑顔を向けてくる。身の安全が保障されたせいか、工房で会ったときよりも随分と幼く感じる表情だった。

 ハッジの息子たちや親族に交じって、ナシムの叔父もいた。

 招待客が揃ってから、全員で体を清めて日没後の礼拝マグリブを行う。礼拝サラートにかける時間は人それぞれだ。早く終えたものはクッションに体を預け、他の人を待つのが常だった。

 招待客の全員が礼拝を終えたところで、「みんな」とハッジが客間を鎮めた。

「ナシムの銃を見てやりなさい」

 男たちが労いの言葉を口に、次々とナシムの銃に手を伸ばす。三丁しかないカラシニコフがそれぞれの手に渡り、「ファーザルの銃」との差異を探されている。

 いつの間にか広間にはよく冷えたジュースやコーラが運ばれ、ハッジの前には仔山羊の丸焼きが置かれていた。

 ナシムと同じ年頃の少年が客に飲み物を配っている。去年まで一緒にフットボールをしていた仲間だ。けれど今、ナシムは大人と宴を囲み、彼はナシムなど知らぬふりで給仕に従事していた。

 ナシムはそっと、ハッジから一番遠いところに座る。

 また、背中が引き攣れた。右腕の付け根も凍傷を患うのではないかと危ぶむほどに冷えている。袖の上から二の腕の内側に触れた。そこに隠した父の手紙を意識する。

 唐突に、眼前にオレンジジュースが差し出された。フリルのついたワンピースを着た女の子が、にこにこと笑っている。三歳になったばかりの、ハッジの曾孫の娘だった。

 同じ女の子でも、子供のうちは男たちの宴に交ざることを許されるのだ。

 カファヤトゥラはいつから赦されなくなったのだろう、とカップを受け取りつつ考える。少なくとも一年前、父がいたころは誰もカファヤトゥラを悪く言わなかった。

 不意に客間が静かになった。ナシムは慌てて顔を上げる。

 ハッジが、古びた盃を掲げていた。

「この子の」ハッジは隣に座るアルアウェルの肩に手を置く。「愚かな姉が、男と駆け落ちをした。この子の賢明なる父は不貞の姉を粛清し、姉の逃亡を見逃した母を罰し、この子をも葬らんとした。それが不貞を清算するということだ。けれど、この子はまだ十三歳だという。まだ婚約者すら決まっていない、子供だ」

 アルアウェルは、ハッジによって暴かれる自らの家の崩壊を恥じるように俯いている。

 恥辱に耐えるアルアウェルの膝先、絨毯の上には招待客の検分を終えたナシムのカラシニコフが三丁とも横たえられていた。

「わたしは、この子を八番目の息子として迎えようと考えている」

 ロクハイが与えられることになったのか、とナシムは少なからず安堵する。アルアウェルは自らを弱者だと告白し、クルアーン聖典を手に救いを求めたのだ。ハッジはそれを受け入れた。壺を与える、ということはアルアウェルをハッジやその家族だけでなく、この村の全員が命をかけて守る、という誓いだ。

 アルアウェルはどうとり入ったのだろう。ずっとこの村に出入りしているカファヤトゥラが「ダメ」で、カファヤトゥラが助け連れてきたアルアウェルがハッジの息子になれる。ふたりの差はどこにあるのだろう。

 暗澹たる思いに沈んでいたせいか、乾杯の合図に乗り遅れた。慌ててオレンジジュースを呷る。

 乾杯が済むとジャミーラがアルアウェルの隣には座椅子を持ち込んだ。ハイウエストのワンピースケミスの袖に施されたミラーワークが手振りに合せて眩しくきらめいている。真っ赤なパンツバルトゥグも余所行きだろう。ジャミーラは精一杯めかしこんで、新しい息子に話しかけていた。先ほどまでの卑屈な佇まいをどこへやったのか、アルアウェルも笑顔で応じている。

 それを横目にナシムは平べったいパンロティをちぎり、山羊の乳に浸して食べる。肉煮込みの味は薄く、熱いスープは塩辛かった。

 しばらく平和な飲み食いが続いてから、ハッジがおもむろに客を見廻した。

「ナシムの銃は、どうかな?」

「よく出来ているんじゃないか」

「ファーザルの銃じゃないってことは、客の誰も気付いていないんだろう?」

「遜色ないできだとは思うが……ファーザルの銃として売っているのか?」

「騙して売っているわけじゃない」叔父は飄々としたものだ。「息子が造っていることは伝えてある。それに、ファーザルの名にも村の名にも恥じない出来だろう?」

 そうだなぁ、と男たちが苦笑を交わす。

 その表情を見れば、ナシムの銃が父ファーザルの銃に及んでいないことはすぐに知れた。

 彼らは、ナシムを同席させたハッジに気を遣っているのだ。熟練の銃職人である彼らの目には、父の右腕が造った銃はあくまでも摸造品であり、父の銃より劣るものなのだ。

 けれどハッジは彼らの意見に満足げに頷いた。お世辞を理解していないのか、お世辞でもかまわないと思っているのかは、わからない。

 ハッジはナシムのカラシニコフを一丁取り上げると、アルアウェルに差し出した。

「わたしの息子が銃のひとつも持っていないのは問題だからね」

 はあ、と曖昧な返事をして、アルアウェルはナシムへ顔を向けた。

「撃ってみるかい?」

 ジャミーラが手を振ると、飲み物を持ってきた少年が奥へと引っ込んだ。すぐに銃弾が詰まった紙箱を持って戻ってくる。

「さあ」と促されたアルアウェルは困惑顔でカラシニコフと箱とを見比べた。

「撃ったことが、ないんです」

 誰もが意外そうに黙り込んだ。銃の密造はこの村の伝統産業だ。生まれたときから銃に親しみ、造り方を眺めて育ち、十歳ごろから銃造りを手伝う。その過程で、当たり前に撃てるようになる。

 ふっと誰かが噴き出した。つられて広間が笑いに包まれる。「そうかそうか」と兄貴分ぶった男たちがアルアウェルの傍へとにじり寄り、弾のこめかたから教えてやるようだ。

 と、ハッジがもう一丁のカラシニコフを取り上げ、他ならぬナシムへと差し出す。

「みんながきみの銃を認めた。これで、きみも大人の男だよ、ナシム。これからはフマムの店ではなく、きみ自身の店できみの銃を売りなさい」

「僕の店じゃない、です。あれは父の店ですし、父の店に置くのは父の銃だけです」

 父が不在の間だけ、父の店を守っているにすぎない。叔父の店に銃を置いているのは、ナシムの銃が「ファーザルの銃」としての完成度を持っていないと、自覚しているからだ。それなのに。

「まるで、父が……」

 帰ってこないみたいな言い方だ、と音にすることはできなかった。村の男たちの前でぶちまけてしまえば、それが現実になってしまう気がした。

 アルアウェルが口を開くのが見えた。自分が封じた不吉な言葉を聞かされることが怖くて、ナシムは咄嗟に耳を塞ぐ、はずが、右腕が反応しない。取り落としたオレンジジュースが絨毯に広がっていく。

「サイィド・ファーザルの腕は」アルアウェルの声が、いやに強く響いた。「今、お前が着けてるそれだろう? ならお前が、銃も継ぐべきじゃないのか? それでみんなに認められるなら、サイィド・ファーザルだって喜ぶはずだ。お前は父親の跡を継げるんだから、いいじゃないか」

 いいじゃないか、と繰り返すアルアウェルの声音には、確かな妬みが感じられた。

 父親と道を別った自らの境遇を盾にして語る彼が、癪に触った。それが顔に出ないようにぐっと耐える。ハッジの息子となったアルアウェルに表立って反論することは憚られた。

 俯いたナシムをどう思ったのか、ハッジは宴の車座を回り込んでナシムの隣に膝をつく。ハッジが携えるカラシニコフの銃口が、視界の端で彷徨っていた。

「ナシム、きみはすでに立派な銃職人だ。だからこそ、きみを見込んで仕事を頼みたい」

 一際低く、誰かに聞き咎められることを恐れるように、ハッジが囁く。

「ファーザルのカラシニコフを二十丁、急ぎで造ってくれないかい? 一週間くらいで揃うとありがたいんだけどねぇ」

 異常な数と納期だ。それ故に、断ればナシムの銃に対する評価を一転させるだろうと知れる、ささめきだった。

 ナシムは、答えられない。腹に生じていた憤りが萎んで、困惑に変わっていく。

 そんなナシムの沈黙を了承だと理解したのか、ハッジは大きな掌でナシムの歪んだ背を撫で下ろす。

「きみはファーザルの名と店を継ぐ。きみは村の誇りとなる。ならばあとは、妻を迎えるだけだね」

 瞠目した。妻? と口の中で繰り返す。

 ナシムはまだ六歳だ。女児であれば嫁ぐこともあるが、男が妻を迎えるには早すぎる年齢だ。妻を迎えるということは、妻となる女性とその家族を養うということなのだから。

「許嫁を決めるということですか?」

 はは、とハッジはわざとらしい大声で笑った。

「許嫁に家のことはできないだろう? 男は店を、女は家を守るのが仕事なんだ。きみは店主となった。ならば家には妻を迎え、母親に楽をさせてやるべきだ」

 そうだろう? と広間を見廻すハッジに、誰もが頷いている。「ウチの娘はどうだ」と軽口までが飛ぶ。

「僕は……」

「そういえば、ムニラもまだ、結婚していなかったね」

 ナシムの姉の名だ。十三歳になったばかりの姉は、最近になってようやく女性として振舞いはじめたところだった。

姉さんムニラは」ナシムは渇き切った喉で、抵抗を試みる。「まだ、十三歳です。刺繍も下手だし、織物だって母さんほどきれいにも速くもできません。家のことだって……」

 ムニラは、ひとりで家から出ることがなくなった。出掛けるときにはナシムか叔父に付き添われて、常に慎み深く顔を伏せている。

 しょげているようだと揶揄ったナシムに、ムニラは激昂し、すぐさま感情を表すことははしたないことだと母に窘められ、身を縮めていた。

 十三歳──アルアウェルと同じ歳だ。アルアウェルは十三歳で子供で婚約者もいないから、と庇護された。ムニラは結婚するべきだと迫られている。

「父さんに、訊いてみないと……。姉さんも僕も、まだ結婚なんて」

「ナシム」笑いを排したハッジの声が、近い。「きみはもう、家長となったのだよ。家のことは全て、きみが決めなければならない。ファーザルはもう、家長ではないのだから」

 激しい混乱の中、右腕のモータ音が耳に付く。右腕に宿る父が異議を唱えているのかもしれない。機械の腕はハッジに差し出されたカラシニコフの、正規品より柔い銃身を潰したそうに力いっぱい握り締めている。そのとき。

「サラーム」カファヤトゥラの、気軽な挨拶がした。「村の入り口で武装勢力の斥候を見かけたけど、なにか物騒な事態になってるの?」

「なにしにきた!」即座にハッジの怒声が轟く。「ここは男たちの宴の場だぞ!」

「仕事だよ。あ、水をもらえる?」

 給仕をしていた少年に水を強請ると、カファヤトゥラは臆することなく客間へ踏み込んできた。革のサンダルを履いたままだ。髪や服は乱れ、頬には砂埃によって汗の跡が浮かんでいた。両脚の金属骨格だけが艶やかに電灯を反射している。

「昼にペシャワールの病院まで運んだ赤ん坊だけど、一晩か二晩泊まることになったから母乳が必要なんだって」

 ぎょっと男たちが腰を浮かせた。素早くジャミーラが立ち上がり、カファヤトゥラの裾を引いて廊下へと取って返す。女性たちが控えている部屋へと行くのだろう。「なんてはしたない」という金切声が遠ざかっていく。

 数秒、適切な話題の転換が思いつけない気まずさが客の間を支配した。

 数秒して、事態を把握していない少女が無邪気にフリルのワンピースをはためかせて駆け込んできた。客間の空気が明確に弛む。

「まったく」と安堵の滲む、誰かの嘆息だ。「あの娘はいつになったらあの恰好を止めるのか」

「代りにバチャ・ポシュをやる妹はいないのか?」

「誰か嫁にもらってやれよ」

「あの気性だ、きっと男ばかり産むぞ」

「いや、夫への当てつけに女ばっかり産むかもしれんぞ」

「生まれてくる子供の性別を母親が決められるってのは、厄介だよなぁ」

 はは、と嘲笑が広がっていく。

 ナシムは、力の抜けた右腕を見る。

 カラシニコフが、緩く折り曲げられた機械仕掛けの指の上に横たわっていた。体を捻ってカファヤトゥラが消えた戸口を振り返る。

 友人の声が届いた瞬間、右腕の制御が戻ってきた。ナシムに冷静さをもたらしてくれるのは父と、あの友人だけなのだ。

「ナシム」とハッジに鋭く呼ばれ、自分が立ち上がっていたことに気付く。無我に友人を追おうとしていたらしい。

 話がしたかった。ハッジの親族に自分のカラシニコフが認められた成行きを、父の銃砲店を継げと言われ唐突に結婚を迫られたことを、相談したかった。

 けれど友人は──男装をした少女は、女性だけが集う部屋へと連れられてしまった。女性たちは家族ではない男性と席をともにすることはない。男性も、家族ではない女性と同じ部屋に入ることはできない。

 カファヤトゥラは、そのどちらも平然と行っている。

 今までは、それが普通だと思っていた。

 カファヤトゥラはナシムやナシムの父とも並んで食事をし、礼拝をする。家族ではない女性たちと直接会って、仕事を請ける。

 自分に禁じられているさまざまなことを、友人が平然と行っていることを疑問に思ったことすらなかった。

 だって、カファヤトゥラはカファヤトゥラだ。

 ナシムはゆるりと膝を折り、座り直す。

 右手に提げたままのカラシニコフがいやに重たかった。重たくて、冷たくて、痛かった。

 そう自覚した刹那、呼吸が詰まった。視界が白く染まり、赤くなり、ひどい寒気で歯の根も合わなくなる。

 耳鳴りがひどかった。それが自分を呼ぶ声だということも、わからなかった。息が継げない。冷や汗が噴き出す。

「痛くないわけじゃなくて」カファヤトゥラの心配顔が浮かんだ。「痛すぎて知覚できていないだけだよ」

 でも本当に痛くないんだよ。ナシムは胸中で答える。痛みではなく、冷えを感ずる。右腕を構成する金属骨格と、義手の重みで傾いた体に滞る血流の冷たさだ。ナシムの意思を無視した全身の筋肉が、凍ったように硬くなる。

「体を真っ直ぐにして!」

 カファヤトゥラの甲高い怒声が近くでした。

 左手を伸ばす。温かさに包まれた。右腕が揺さぶられているようにも思うが、感覚が追えない。

「曲った背骨が神経を圧迫してるんだ。首を真っ直ぐに! 引っ張らないで」

 ずっと、この友人は声変わりを迎えていないのだと思っていた。

「女の子、だったんだね」

 自分の想像力の乏しさに苦笑しながら、必死に瞼を開ける。

 ナシムが求めた年上の友人は、まさに引き離されようとしていた。ジャミーラがカファヤトゥラを廊下へ押し戻している。ケミスの裾から覗く真っ赤なバルトゥグが、ナシムの視界をぼやけさせる。

「わたしの曾孫と銃職人の子供と、どっちが大事なんだい!」ジャミーラが、モールの尊称に似合わない叫びを上げていた。「あんたは、アリーのためにお乳を届ければいいんだよ」

 ジャミーラに加勢して、客の男たちがカファヤトゥラの細い体を突き飛ばすのが見えた。

 瞬間的に、右腕がカラシニコフの存在を思い出す。ウィン、とモータ音が体中から上がった。骨という骨を軋ませて、筋肉を引き千切らんばかりの勢いで右腕がカラシニコフを構える。

 アルアウェルが、教えられたばかりのカラシニコフを抱き寄せるのが、視界の端で見えた。ハッジが、銃口を下げさせようとナシムの右腕に取り縋る。

「ナシム」カファヤトゥラの声だけが、鮮明に届く。「大丈夫。落ち着いて。すぐに戻るから、待っていて。大丈夫。土産を持って、すぐに戻るから」

 そうだった、とナシムは頷く。

 カファヤトゥラは郵便屋なのだ。ナシムのもとに留まることはなくとも、村々を巡って必ず戻って来てくれる。

 大丈夫、と誰にともなく呟く。右腕に潜む父の気配に告げたのかもしれない。骨から全身に伝播していたモータの痺れが消えていた。仰臥した体の上にカラシニコフの重みが、ハッジごと降ってくる。右腕が脱力したのだ。

 友人が戻るまで眠ろう、とナシムは体の力を抜く。父が戻らなかったあの夜も、カファヤトゥラだけは父の腕とともに還ってきてくれたのだ。だから大丈夫、と脈絡もなく確信する。



 首筋で、モータ音がした。重たい悪寒が右肩から背中から、首までを蝕んでいた。それなのに機械式の腕の存在を感知できない。ひどい倦怠感があった。大怪我を負った父の、当時の不快感が再現されているのかもしれない。なにしろこの機械の腕は父のあらゆる行動や記憶を記録し、折々にナシムに伝えてくれるのだ。

 自分自身の左腕で右腕を探る。つるりとした金属骨格が触れた。そして右腕に寄り添うように置かれた、金属の筒にも気付く。

 カラシニコフだ。宴の席で手にしたそれを、意識が途絶えてなお放さなかったらしい。

 ぼんやりと目を開けると、窓越しに紺色の空が見えた。灰色の雲が薄く伸び、合間から星々が白く覗いている。家族がそろって眠る部屋に、ナシムは横たわっていた。

 母や姉も眠っているのだろうか、と首を捻って暗い部屋を見回す。と、思わぬ近さに人影があった。ナシムのベッドに背を預けて座っている。手を伸ばそうとして、右腕が動かないことに気付く。モータ音だけが無意味に響いた。

 人影が振り返る。友人の顔が、青白く見えた。

「カファヤトゥラ……ずっと、いてくれたの?」

「ちょっと立ち寄っただけだよ」

 カファヤトゥラは体を捻ると、「配達」とナシムの鼻先に小さな紙切れを差し出した。昼間ナシムが取り落とした父からの短い手紙だろう。悪戯っぽく笑ったカファヤトゥラの歯が小さく光る。

 吸い寄せられるように左手を伸ばした。友人のかさついた頬に掌を添えて、確かめる。ともすれば窓の外で瞬く星のように、ひどく遠くにいってしまいそうな気がしたのだ。

 甘えた仔猫に似た仕種でナシムの掌に顔を預けたカファヤトゥラは「どうしたの?」と微苦笑だ。

「きみが男の子だったら、あの宴から追い出されたりしなかった?」

 ナシムの掌から、友人の頬がそっと離れていく。

「父さんが、よく言っていたんだ。男は女の子を守るために銃を持つんだって。今日、ハッジから銃をもらったよ」

 カファヤトゥラの視線が、ナシムの隣に横たわるカラシニコフに落ちた。

「だから、ねえ、カファヤトゥラ。僕と結婚しない?」

 勢いよく、カファヤトゥラが立ち上がった。闇の中でも、その眼光が研がれたのがわかった。ナシムの指先が行き場を失って空を掻く。

「きみは」怒りを孕んだ友人の声が降る。「わたしを今さら、女に戻したいの?」

「きみを、守りたいんだよ。村の人たちはきみを悪く言う。手荒に扱う。僕はそれがいやなんだ。結婚したって、僕はきみを家の中に留めたりしないよ」

 数秒、カファヤトゥラは動かなかった。白い歯がチラチラと見え隠れしている。どれくらい経ったのか、「女になれば」と高音を引っかけた掠れ声が降ってきた。

きみの許可なしに外出することができなくなる。家の中で下手くそな刺繍をして、絨毯を織って、足元まで覆うブルカに蹴躓きながら、それを買い取ってもらうためにモールの家まで歩いて行くんだ。乗合バスを追い越して走ることも、山道を往くこともできなくなる。カラコフだって持てやしない。男たちの目に留まらないように顔を伏せて、身を縮こまらせて生きるしかなくなる。そういう不便をっ」

 大きくなりつつあった声を断ち切って、カファヤトゥラは細く長い息をついた。

 沈黙の湿度に、ナシムは自分の軽率な求婚を悔いる。たった一言が、友人を救いたいと思ったことが、結果的に友人を傷つけてしまったのだ。

「きみを、守りたかったんだ。きみがこの村で急に悪く言われるようになったから、辛い思いをしているんじゃないかと……。そう考えたら僕が、辛くなって……」

 ふっとカファヤトゥラが声もなく笑った。取り乱したことを恥じたのかもしれない。

「わたしはね、守られたいわけじゃないんだよ。守ってほしくもない。ただ尊重されたいんだ」

「僕はきみを尊重できてない?」

「……きみはまだ知らないんだよ。ナシム、いい? わたしは」カファヤトゥラは数秒言い淀み「わたしも、きみも」と言い直す。「本当なら、誰に許されることもなく、誰かの許可を求める必要すらなく、好きなときに好きな場所に行けるんだ」

 ナシムは友人の脚を見る。闇に沈んでいる。仕方なく自分の、毛布に隠れた貧弱な脚を思い描いた。もう一年以上フットボールすらしていない。銃砲店の親方席に座すしかない細く頼りない生身の脚だ。

「それを許したくない人々が、それを許さないことこそ正義だと、脈々と語り継いでいるだけなんだよ」

 父が常々説いてくれた教義が軋んだ気がした。けれど右腕は沈黙している。父が間違っているとは思いたくなかった。けれど、だからといって友人を疑うこともできない。

 ナシムは「うん」と曖昧に頷く。

「たぶん、今のは自分勝手な求婚だった。ごめん。取り消す。カファヤトゥラはカファヤトゥラだ」

「……うん」

 友人が泣いているような気がして、ナシムは握り混んでいた左手を開く。友人の想いの全部を受け止めようと掌を差し出す。

 友人の手は、重ならなかった。背を向けてしゃがみ込むと「起きて」と低く囁く。

 床に散らばったクッションの間で、大きな黒い影が蠢いた。

 ギョッとして、傍らのカラシニコフをひっつかむ。はずが、右腕が動かなかった。取り落としそうになった銃身を左腕でなんとか支えて引き寄せる。

「大丈夫」カファヤトゥラが床に膝をついたまま、小声で言った。「きみへの荷物だよ」

 カファヤトゥラの手には折りたたみ式のナイフが握られていた。刃が床の上の影を撫でる。人、だった。床に転がっていた人の両手両脚を戒めていた結束バンドを、カファヤトゥラがナイフで切ったのだ。

「誘拐」という言葉が脳裏を過ぎった。

 けれど縛めを解かれた張本人は、両の手首をさすると怯えた様子もなく立ち上がる。紺色のシャツに同じ色のパンツを身に着けた男だった。夜の山岳部を彷徨うには寒々しい薄手の服には、丸いマークが白糸で刺繍されていた。

 カファヤトゥラの足首に刻まれているのと同じ、握手をする手だ。

 この男が──親族でもない男がいたから、母や姉が席を外していたのだ。

 男はマークのついた服の裾を払うと、まるで親しい友人宅を訪れたように「サラーム」と欠伸まじりの挨拶をした。

「機械義肢の技術者だ。カファヤトゥラの担当医だよ」

 妙な訛のある言葉使いだった。挨拶が欠伸まじりだと感じたのも訛のせいだろう。

「……どうして」ナシムは技師ではなくカファヤトゥラに問う。「縛ってたの?」

「手足がバラバラだと担ぐときに危ないから」

 友人の即答は嘘ではないだろう。けれど本質は違う。そう直感する。

「……無理矢理、連れてきたの?」

 カファヤトゥラは唇を歪めた。痛いところを突かれたという表情にも、ナシムの勘繰りに不快感を示したようにも見えた。

「えっと」男はナシムとカファヤトゥラを交互に見てから、ゆっくりと自分の発音を確かめるように話す。「これは何度も言ったことだけれど、確かにボクは機械義肢の技術者だ。でも、ボクはこの男の子を診ることはできない」

 カファヤトゥラがカラコフを構えた。技術者の男は慌てる様子もなく両手を挙げてから「できない」と繰り返す。

「脅してもダメだよ、カファヤトゥラ。きみは、ボクたち外国人がこの国の人たちに受け入れてもらうために行っている努力を甘く見ている。ボクたちは決して現地の人たちを蔑ろにしない。ボクはこの村の長に挨拶をしていない。そんなボクが村の子を勝手に診察するわけにはいかない。もしボクに彼を担当してほしいなら、まず村長か長老に会わせるべきなんだ」

「できない」

「どうして?」

「大人たちはナシムの腕を必要としている。ナシムが造る銃が村の稼ぎにつながるから、たとえ一日だって彼を自由にはしない」

「ならばまず、村の大人たちを説得するところから始めなければ」

「そんなこと……」

 カラコフの安全装置が外される音がした。それなのに、なぜか男は苦笑している。

「できないのは、きみ自身が、この村では余所者だからだろう? ここで発砲して困るのは、余所者ボクを連れて来た余所者きみ自身だ。どうしてそこまでして、この子に拘るんだい」

 カファヤトゥラは口を開き、言葉を生むことなく唇を引き結ぶ。カラコフの銃口が下がり、代りにナイフが閃いた。発砲できないならばナイフを使う、という脅しだ。

 ナシムは、この友人の攻撃性を初めて目の当たりにする。戸惑いは小さかった。理由は明白だ。ナシムはずっとカファヤトゥラをパシュトゥン人の男だと思ってきた。パシュトゥン人の男ならば、家族や友人のために銃を使うのが当然だ。

 けれどカファヤトゥラは女性だった。男装した、女の子だ。それなのにナシムは彼女に守られることに羞恥心を覚えていない。

 その事実に、なによりも困惑した。

 そんなナシムの胸中など知らず、カファヤトゥラは技術者の男に切っ先を向ける。両手を挙げたまま、男は彼女の脅しを真正面から受け止めて笑っていた。

「確かに、ボクらは支援を必要とする人たちのために派遣されている。だから、きみの脚だって無償で診察した。きみが、難民だったからだ」

 カファヤトゥラの横顔は青白く、月のように無表情だった。握っているナイフの鋭さと肩から吊されたカラコフ、そしてパンツの裾から突き出た白骨死体めいた機械の両脚とが、クッションだらけの部屋にあってをひどく孤独に彩っている。

「でも、この村は豊かだ。独自の伝統産業があり観光客が来る。土産物屋があって外貨収入がある。この村はこの村だけで完結した、秩序ある社会だ。ボクらのような支援団体が村長の許可もなしに村人を勝手に診察することはできないよ。それは外国人であり異教徒であるボクらが、この地で困っている人たちを助けるために必要な規則なんだ。難民キャンプとは違うんだよ、カファヤトゥラ」

「……きれいごとは、終り?」

 静かな、それ故に威圧的なカファヤトゥラの問いに、男は数秒沈黙した。緩く頭を振り、ため息をつく。どうあっても彼女が揺るがないことを悟ったのだろう。

「ボクは、ここでは診察できないけれどね、きみが」男はナシムを顔だけで振り返る。「ボクの病院に来てくれたなら、きみは立派なボクの患者になる」

 カファヤトゥラのナイフが下ろされた。お互いに譲れない一線があることを理解したのだろう。

 男はナシムの傍らに膝をつく。毛布の上のカラシニコフを一瞥し「撃たないでね」と断りを入れてから、腕をナシムの背に回して抱き寄せた。大きな掌がナシムの背骨を辿っている。

「これは」ナシムは男の肩に息を吹き込む。「診察?」

「親愛のハグだよ」

 ひとしきりナシムに触れてから体を離した男の顔には、ありありとした陰りがあった。

「これは独り言だけど」と前置きをして、男はカファヤトゥラに向き直る。「早く処置したほうがいい。日中、ほとんど姿勢を変えないだろう? 背骨に変形が出始めている。背骨の中の神経を傷めたら回復不能な障害が出る可能性もあるからね」

 右腕との接合部がやけに冷えていたのも、宴の席で息が出来なくなったのも、背骨のせいなのだ、とナシムは今さら姿勢を正す。と、雷に打たれたような衝撃が体を貫いた。視界が真っ白に染まり、なにも見えなくなる。痛みよりも痺れに近い。

 友人と男がほとんど同時にナシムの体を支えてくれた。それを感触だけで知る。

「大丈夫だよ」喘ぐような声になった。「痛くないから」

 友人が息を呑む気配が近い。

 ナシムの目が痛みから解放され、闇の濃淡を捉え始める。泣き出しそうな友人の顔、父のカラコフ、そして技術者だという男の真剣な顔。

 男がやおら踵を返す。部屋を出て、どこかへ行くようだ。母や姉に話をしに行くのでは、と危惧したのはナシムだけではなかったようだ。カファヤトゥラが立ち上がりかけて、「あ」と中腰のままナシムを振り返った。

「忘れてた。これを、きみに」

 友人の指先が小さな紙切れを挟んでいた。新しい父からの手紙だ。生身の左手で受け取ると、手紙は少し温かかった。友人の体温が移っているのだ。

「電気を着けてよ」

 星の光では、友人や技術者の顔は見えても手紙を読むことはできない。けれどカファヤトゥラは夜の中に表情を隠して、「ダメだよ」と静かに拒絶する。

「もう寝な」赤ん坊をあやす声音だった。「少しでも体を休めて、病院に行ける体力をつけておいて」

「あの人は?」

「大丈夫。わたしがちゃんと話しておくから」

「ちゃんと、帰してあげる?」

「え?」と不思議そうな顔をした友人は、すぐに「ああ」と頷いた。「もちろん。借りたものはちゃんと返すよ。それがパシュトゥン人の礼儀だ」

「コピーして?」

「そう、本物と寸分違わずコピーして、自分のものにするんだ」

「きみの脚も、本物と同じくらい動く?」

「うん。本物より優秀だよ」

「……僕も、いつかは父さんの腕を自分の腕本物と同じくらい使いこなせるようになる?」

「病院でちゃんと処置をすればね」

「処置って?」

「自分の骨に金属の棒を通して、機械の腕を支える軸にするんだよ。体が歪まないようにコルセットをはめたりもする」

「……きみも、そうやってるの?」

「コルセットはしてないけど、背骨に金属棒が入ってるよ。見る?」

 ナシムは大慌てで首を振る。頬が熱を持った。女性の体を見るなど、考えるだけでも畏れ多い。

 友人はそんなナシムを吐息で笑った。端から冗談だったらしい。ムッとしたナシムを気に留める様子もなく、友人は柔らかな声で「さあ」と促す。

「もう寝て。手紙は逃げないよ」

「……病院って、父さんの病院?」

「……さあ? それはあの技師に訊いてみないとわからない」

「カファヤトゥラが連れて行ってくれるの?」

「うん。でも病院に行くことはまだ、みんなには内緒だよ」

「どうして?」

「ハッジには、わたしが話をつけるから」

 答えになっていない。

「僕たちは……」

「うん?」

「ふたりで、どこへでも、行ける……?」

 カファヤトゥラの輪郭が滲んでいく。眠気のせいなのか、星明りの差す窓辺から友人が遠ざかるせいなのか判然としない。

「行けるよ」囁き声が、ナシムの瞼を重たくする。「わたしも、シャリフ・ファーザルも、いつだってきみと一緒だ」

 ナシムは手紙を握りこむ。右腕のモータ音が優しく、体の芯を揺らす。父は、離れていてもともにあるのだ。そう感じられた。そう信じられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る