第2話

〈2〉


 カファヤトゥラの両脚は、ナシムの父の右腕と同じく機械仕掛けだ。

 ナシムの物心がついたころには、すでにカファヤトゥラはカラコフを背負い、日焼けした白骨色のフレームと黒いチューブとが絡み合った義肢で、パキスタンとアフガニスタンの境に横たわる険しい山岳地帯を駆けていた。

 そのためカファヤトゥラが穿く、ゆったりとしたパンツは膝下で切られている。本来であれば風を孕む丈の長いシャツカミーズも、腰に巻かれたベルトで縛められ窮屈そうだ。ベルトにはいくつもポケットがついていて、それぞれにクルアーン聖典やカラコフの予備弾倉やちょっとした薬などが入っていた。

 郵便屋、と呼ばれている通り、カファヤトゥラはなんでも運ぶ。通信手段が多岐にわたる現代においてなお、切り立った峰が連なる山岳地帯の通信状況は芳しくない。電力すら滞っている村も多い。スマートフォンを手に入れたところで満足に使えないのだ。

 言伝に手紙、カファヤトゥラが持てる重さであれば老婆や医師といった人間すら郵便物となるのだという。

 あらゆる雑多な荷を、道といえば獣道しか通っていないような村から村へと届けることが、カファヤトゥラの生業だった。

「岩だらけの峯から、木々が茂った山の斜面、乗合バスが巻き上げる砂埃で前も見えなくなるような道路だって、必要なら走るよ」

 カファヤトゥラは機械の脚で器用にフットボールのリフティングを披露しつつ、自らの仕事について語ってくれた。

 まだナシムの両腕がナシム自身の骨と肉でできていたころのことだ。

 当時のナシムは同じ年頃の子供たちとフットボールをし、疲れたら工房前の通りに植わった一本の木の根元に絨毯を敷いて、銃の木製ストックを削り出す職人たちと並んで座るのが日課だった。

 カファヤトゥラは村に立ち寄るたび、村から出たことのないナシムの好奇心に応じて乾いた土に周辺地図を描いてくれていた。

 パキスタンとアフガニスタンの境にあるカイバル峠、両国に跨る山岳地帯、険しい谷底にうねる長い川、点在する誇り高きパシュトゥン人たちの村々。そこに潜むテロリストたち。あらゆる処に隠された、他国の工作員が侵入した痕跡。

 カファヤトゥラは厳しい土地に住まう人々のために干乾びて滑りやすくなった乾季の道から、水を含んでバターのように溶けた雨季の森林まで、薬だの重病人だのを抱えて走るのだ。

 友人の口から語られるなにもかもが、ナシムには新鮮だった。周囲に座る大人の職人たちですら、カファヤトゥラの話には聞き入ることが多いくらいだ。

「だから、こんなに世界に詳しいの?」と訊いたナシムに、友人は「わたしの知る世界なんて、この界隈だけだよ」と苦笑して、「アレを」と村の端にそびえる鉄塔を指した。正しくは、そこに張られている何本もの太い電線を、だ。

 村の頭上を横断し、切り立った峰から木々に覆われた谷まで延びるそれは山岳地帯のあちこちへ、蜘蛛の巣のように広がっているのだという。

「敷くのに手を貸したんだよ。いや、脚を貸した、かな。国際支援団体が山岳地帯にも電力を、って点在する集落の傍に鉄塔を立てて回ったんだけど、生身の脚の、しかも土地勘のない西洋人たちが鉄塔から鉄塔へ道もない山奥を、重たい電線を担いで歩いて巡るなんて芸当はできないだろう? だからこの辺りに慣れた、機械の脚を持つわたしが鉄塔から鉄塔へガイドロープを延ばして歩いてあげたんだ。で、そのあと、ガイドロープの先に電線をくくりつけて引っ張って、鉄塔に架ける。そうやって電気を使えるようにしたんだよ」

「じゃあ、父さんの腕も」ナシムは父の、力強いくせに繊細に動く機械の右腕を思う。「カファヤトゥラのおかげで動いてるの?」

「シャリフ・ファーザルの腕はカーボングラファイト製だろう?」

 はは、と笑った友人は「わたしも」と裾を手繰った。鋭い植物の葉を編み合せたような金属骨格の足首が覗く。

 そこには見慣れない丸いマークが刻まれていた。握手をする手だ。

「同じ仕様だからわかるよ。動かしている限り、カーボングラファイト製の筋肉と表皮の伸縮で発電できるから、充電する必要はないんだ。シャリフ・ファーザルの腕は外部電力なんかに影響されないよ。電線架けの恩恵を受けたのは、わたしのほうだ。電線運びの働きを評価されて、国際支援団体からこの最新の脚をもらったし、メンテナンスだって無償で受けられる。おかげでこの仕事が続けられているんだ」

 へえ、とよく理解できないまま相槌を打ち、ナシムは友人の足首のマークに──円の中で握手をする手首から先に──触れる。カファヤトゥラは「同じ仕様」だといっていたが、銃を造る父の機械の腕にこんなマークはない。

「この脚で」カファヤトゥラはくすぐったそうに息を漏らす。「まだ赤ん坊だったきみを抱えて、町まで走ったこともあるんだよ」

 地面に描かれた地図の、カイバル峠のすぐ横に指先を置いた。

「この村が、ここ。町へ出る街道はなだらかだけど遠回りになるから」カファヤトゥラの指は山岳地帯を横断し橋なき川を渡り、大都市へと向かう。「病人を運ぶときは、こうして最短距離を走るんだ」

「……きみの村は? どこ? きみの家族も、きみが病院へ運ぶの?」

「わたし? わたしの村はどこにもないよ。仕事で立ち寄った村に泊まったり、武装勢力のアジトを避けて野宿したりして暮らしているから」

 なんでもないことのように微笑んだカファヤトゥラは、少し顔を逸らしてから、「ああ、でも」と指先をナシムの村から少し離れたところへ滑らせる。

「そうだね。わたしの母や姉妹たちはここ、ペシャワールって町の傍にあるキャンプにいるよ。ここには、一応の病院だってある」

「キャンプ?」

「そう。小さくて……でも人がたくさんいる集落だよ。この村からなら乗合バスで四十分くらいかな。わたしの脚なら二十分で行ける」

「カファヤトゥラはバスより速く走れるの?」

 凄い、と目を輝かせるナシムに、隣に座っていた髭面の職人が笑いを含んだ囁きを寄越した。

「機械の脚でだってバスは追い抜けやしないよ。こいつは病人を抱えてなくたって最短距離を走るんだ。曲がりくねった道だってお構いなしに、一直線だ」

「だから」と別の職人は、自らの頭に乗せた白い帽子を小突く。「帽子ホアリーも被れない。すぐ脱げちまうからな」

「パシュトゥン人のなら、被っていて当然なのになぁ」

「いくらカラコフを担いでいたって、その恰好じゃあ片手落ちだろう、なあ」

 職人たちの豪快な笑い声に同意を求められたナシムは、首を傾げて沈黙を保つ。

 豊かな髭を蓄えた職人たちの半分ほどが、頭頂部に張りつく形の帽子を被っている。尊敬されるべきパシュトゥン人の男性が被るものだが、まだ髭も生えていない十四歳のカファヤトゥラが帽子を被っていないことの、どこがおかしいのか理解できなかった。

 当のカファヤトゥラは苦々しげに職人たちを一瞥すると、独り言めいた抑揚で「わたしが」と言う。

「ひとりで出歩いて仕事をしていられるのは、ファーザルの銃があってこそだよ。シャリフ・ファーザルがわたしに銃を売ってくれた。だからわたしはなにも恐れず、誰よりも速く走れるし、身を守れるし、仕事をして母や姉妹たちを養っていける」

 父に「高貴なるシャリフ」と王族めいた敬称をつけたカファヤトゥラは、頬を緩めて「でもね」とナシムを見下ろした。

「この村の銃は、わたしだけじゃなくて、全てのパシュトゥン人たちを生かしてくれた銃なんだよ」

 機械の両脚で組んだ胡坐の間にカラコフを立てて、カファヤトゥラは得意げに声量を上げた。まだ声変わりをしていないカファヤトゥラは、興奮すると少年とも少女ともつかない高音を引っかける。

 隣に座っていた髭面の職人たちが、くく、と喉の奥で笑った。友人の不安定な声を馬鹿にしたわけではなく、語られようとする物語の痛快さに笑ったのだということは、あとで父が教えてくれた。

「昔、まだパシュトゥン人たちが銃を知らなかったころ、この豊かな土地を奪おうと、遠くの国から銃を持った兵士が押し寄せた」

 カファヤトゥラはモータ音のする膝を伸ばして絨毯の外、土の上に描いた地図を踵で擦り消す。国境の検問所が置かれたカイバル峠はもちろん、パキスタンとその東隣──インドという国だと隣の職人が囁いてくれた──との国境すら消え去し、がらんどうとした空白だけが残された。

 自分たちの村すら消えてしまった気がして、ナシムは薄ら寒さに身を震わせる。対するカファヤトゥラは、平然と続けた。

「パシュトゥン人たちは刀や鉈で対抗したけど、銃には対抗できなかった。だから敵の銃をそっくりそのままコピーすることにしたんだ」

 カファヤトゥラは少しカラコフを掲げると、その銃身越しにナシムの──当時はナシムの父の──工房を透かし見た。

「当時のこの村は金属製の農機具や鉈や刀を作っていてね、だから金属製の銃のコピーも任された。筒やストックは簡単だった。でも、どうしてもここの」カファヤトゥラはカラコフの胴の、ちょうど空薬莢が飛び出てくる箇所を指先で叩く。「弾の爆発に耐える部品が造れなかったんだ。鉈や刀に比べればずいぶん複雑だからね。構造がわからない物はさすがに器用なパシュトゥン人でも完璧には造れなかった」

 木製の銃のストックを整形していた職人が、「だが」と笑いを帯びた声で言葉を継ぐ。

「仲間はどんどん殺されていく。銃をコピーできませんでした、じゃすまない。坊ちゃんならどうする?」

「どうって……」ナシムは父の工房の壁から天井から所狭しと吊るされた銃を──正規品とコピー銃とが入り混じった光景を──思い浮かべる。「コピー、するんでしょ? 本物をバラバラにして、そこだけ詳しく調べる、とか?」

 はは、とカファヤトゥラが笑った。職人たちまでもが満足そうに頷いている。

「きみも、パシュトゥン人らしい律義さがわかっているね。そう、この村の職人は上手く造れなかった部品だけを拝借してきたんだ」

「俺たちは」職人は豪快にナシムの肩を抱く。「敵の銃を丸ごと借りてくるなんて無粋な真似はしない」

「そうして無事に敵と同じ銃を造れるようになったおかげで、パシュトゥン人の土地は守られた。といっても、攻め込んできた国が勝手に国境線を引いて法を敷いて、この辺り一帯をアフガニスタンとパキスタンなんてふたつの国に分けたりもしたけど……とにかく」カファヤトゥラはカラコフを膝の上に寝かせ、労わるように撫でた。「この村の銃はパシュトゥン人たちを守ってきた伝統的なものなんだ。だからナシムも、シャリフ・ファーザルのように誇り高く銃を造るんだよ。きみたちの銃がわたしを、わたしたちを、守ってくれているんだから」

 ね、といやに強く念押ししたカファヤトゥラの瞳には、なぜか気弱な光が宿っていた。そう諭すことに罪悪感を抱いているかのようだ。母や姉がナシムにそうしてくれるように、年上の友人の頭を撫でてあげたい気分になった。

 ナシムは手を伸ばす。ウィン、と小さなモータ音がした。生身の自らの腕からではない。カファヤトゥラが立ち上がったのだ。

「きみのために、銃を造るよ」

 そう本人に告げたことがあっただろうか。無言で踵を返したカファヤトゥラのカミーズがナシムの頭上で翻った。不安になってその裾をつかむ。

 唐突に、友人を引き留めたはずの手が、つかまれた。痛いくらい強い、大人の男性の力だ。

 いつの間にか絨毯が敷かれた木陰ではなく、薄暗い工房の土間に座っていた。

 親方席に父の姿はなく、職人たちもいない。ビニルカーテンが吊された中に、ナシムと叔父と、初めて見るパシュトゥン人の医師とが隔離されている。

 これは父がいなくなった直後の夢だ、とナシムは頭の片隅で考える。

 山道から滑落した父は、すぐにペシャワールの大病院に担ぎ込まれた。その報せとともに、カファヤトゥラが父の右腕を届けてくれた。その日の、記憶だ。

 叔父が、ナシムの右腕を──まだ発達していない子供の腕を、引っ張っている。

「大丈夫。痛くはないよ」宥める言葉の穏やかさと裏腹に、叔父の声には地の底を這うような不気味さがあった。「おまえも、お母さんや姉さんを助けたいだろう? ファーザルの……お父さんの代りを立派に務めたいだろう?」

 叔父が、鉈を振り上げる。

「パシュトゥン人の男は、女を養って初めて一人前の立派な男になれるんだ。カファヤトゥラは、偽物だよ」

 ビニルカーテンの向こうに、泣きだしそうな顔をした友人が立っていた。大丈夫だよ、と伝えたかった。カファヤトゥラきみは立派なパシュトゥン人だ、と慰めてあげたかった。でも麻酔代わりに口に含んだアヘン丸薬の粘りが、舌を噛まないようにと口に詰められた布の塊が、なにも言わせてくれない。濃厚に焚かれたアヘン香の甘さと煙の白さが視界まで覆っていく。

「お母さんや姉さんを守れない子供の腕より」叔父が、まだ口上を続けている。「お父さんとお揃いの、大人の腕がほしいだろう? 大人の、男の腕が必要だろう?」

 ナシムはとうに、覚悟を決めている。この選択を後悔していない。父の息子はナシムひとりきりなのだ。それなのに、叔父は執拗に腕の必要性を説いている。カファヤトゥラがひどく悲しそうな顔をしている。

「大丈夫だよ」ナシムは友人を安心させたくて、精一杯の笑みを浮かべる。布で膨れた口から、言葉にならない呻きを発する。「僕は、自分の腕よりカファヤトゥラとおんなじ、父さんとおんなじ、機械の腕のほうがいい」

 言い終えるや、叔父の鉈が振り下ろされた。



 骨が切断される衝撃に、体が跳ねた。そのくせ痛みはない。

 ナシムは荒い呼吸の下で目を見開く。薄暗い工房の、誰もいない土間があった。

 夢を見ていたらしい。自らの腕を捨てたときの、夢だ。思い返せばあのときも、痛みは感じなかった。

 夢の名残で心臓がうるさかった。機械仕掛けの腕の駆動音かもしれない。横たわるナシムの眼前、土間に三つ並んだ職人の席は空いている。壁から天井から自動小銃だけが賑やかに、静謐に吊るされていた。

 ナシムは、親方席の絨毯に頬を擦りつける。

 と、すぐ脇で気配がした。考えるより先に、機械仕掛けの右腕が反応する。ナシムの軽い体を吹き飛ばさんばかりの勢いで、右腕が上体を起こした。

 見覚えのない青年が、自動小銃を手にしていた。カミーズとゆったりとしたパンツは砂埃で汚れている。ナシムの急な覚醒に驚いたのか、青年は口を半開きにしたまま、壁にかけていた父のコピーカラシニコフに手をかけて硬直していた。

「戻して」

 怪しい呂律で命ずる、はずが、言葉とともに口から飛び出したなにかのせいで、大慌てで口を噤むはめになる。舌打ちしたい気分で自分の口から絨毯へと転がったものを見下ろす。

 小さな黒い丸薬が唾液でてらてらと光っていた。鎮痛用アヘンだ。あれ? と瞬きの間だけ考える。工房にあるアヘンは何日か前に使い切っていたはずだった。そしてナシムが苦しんでいるときにこれを与えてくれる相手は、母か姉か。

「……カファヤトゥラ?」

「あいつならハッジに呼ばれて、行ってる」

 年上の友人の名に、青年が答えてくれた。つまり、この青年はカファヤトゥラと一緒に来たのだ。

 意識を失う寸前に成長した自分を見た、と思ったのはこの青年の姿だったのだろう。腹の底に理由のつかめない苛立ちが生じた。

 ナシムはアヘンの屑を土間へ払い落とし、「銃を戻して」と繰り返す。

「泥棒は両腕を斬って山に捨てる決りになってるって、知っているだろう」

 剣呑な脅しに面食らったのか、青年は素直に壁にカラシニコフを掛け戻した。名残惜しそうに銃身を辿る青年の指先は、当たり前に彼自身の肌色をしている。

 青年が義手を装着していないことに軽い失望を抱いたのは、気を失う間際、彼に大人の自分を重ねたせいだろう。

「銃を買いにきたの?」

「違う。けど、これ、サイィド・ファーザルの銃だろう?」

 青年はまだ壁のカラシニコフに触れていた。ナシムは、父が「サイィド」と尊称つきで呼ばれたことに気付き、語調を緩める。

「きみは、父さんの知り合い?」

「一方的に、知ってる。サイィド・ファーザルの銃は、結婚式があれば必ず誰かが持って来て自慢する。機械の腕で造られた正確無比な銃だ、ってな。お前、息子か? その腕はサイィド・ファーザルのマネか?」

 どうやら彼は、ナシムが生身の細腕に父の腕を被せて遊んでいると思っているらしい。

 違うよ、と答える代りに右腕を上下させ、拳を握っては開く。連動した関節部のモータが規則正しく唸る。それすら、青年にとっては父親に憧れる子供の戯れと思えるようだ。ナシムの体が傾いていることに頓着する様子もなく、青年はまだ壁を彩る自動小銃の群れを見廻している。

 ナシムは少しムッとして、青年の背に問う。

「父さんの銃の評判は……最近はどう?」

「どうって?」青年は視線を壁に釘付けにしたまま、顔の半分だけで振り返る。「サイィド・ファーザルの評判なんて落ちようもない、確かなものだろう?」

 機械の腕で造っているんだから、と続く青年の言葉に重なって、表通りから聴き慣れたモータ音がした。

 陽光を背負ったカファヤトゥラが、機械の脚のモータ音を伴って入ってくる。愛用のカラコフを背負って、腰には予備弾倉を詰めたベルトを巻いていた。友人がこの村を訪れるのは一週間振りだろうか。いくぶん顔色が悪いように思えた。

やあサラーム兄弟アホヤ」カファヤトゥラの、まだ声変わりを迎えていない挨拶だ。「きみ、急に倒れるから驚いたよ。働き過ぎなんじゃない?」

「サラーム」と頷き、ナシムは年上の友人に手を伸ばす。「きみも働き過ぎだよ、たぶん」

 ウィン、とモータ音があがってから、右腕を伸ばしていたことに気付く。慌てて左手に変えようとするが、機械の右腕はすでにカファヤトゥラに届いていた。親方席に腰掛けたカファヤトゥラは機械の腕を気にすることなく、指を絡めて手をつないでくれる。

「荷物が荷物だったから部族警察に会いたくなくてね」

 ちょっと遠回りを、とおどけたカファヤトゥラは「そんなことより」とナシムのすぐ傍、親方席を包む影の中に腰を下ろす。

「腕の調子はどう?」

「……わからない」

「わたしの手の感触が拾える? 電圧はどう?」

「昨日の夜、充電したよ」

 機械の腕は、父の体にあったときは日常生活を送るだけで充分な電力を生んでいた。それなのにナシムの体に移ってからは週に一度の外部電力からの充電を必要とする。

 ナシムの体は大人用の右腕を満足に支えられない。動作が必要最小限になる。自然と人工筋肉と表皮の収縮度は小さくなり、腕を制御するための発電量に達しない日が多くなるのだ。

 充電したての右腕の先、日焼けした白骨色のフレームに触れるカファヤトゥラの手に集中する。機械の腕とつながった右肩から首筋にかけて、友人の柔らかい皮膚と体温が滲みこんでくる気がした。そして──互いの掌の間に挟まれた、小さな紙の感触が伝わってくる。

 友人が村の誰にも秘密で運んでくれる、父からの手紙だ。

「うん、わかる」

 カファヤトゥラは歯を見せて笑うと、手を離して革のサンダルを脱いだ。

 ナシムは折りたたまれた手紙と、友人の体温の残滓とをゆっくりと握りしめる。もはや、母や姉でさえこんな風に互いの体温を感じながら触れ合うことはない。これは子供同士に、そして同性同士にだけ許されるつながりなのだ。

 ナシムは義手の二の腕にある調節パネルを開け、父の手紙をその下にしまう。本当はすぐにでも読解したいところだが。友人が連れて来た青年の招待が知れない以上、余計なことはすべきではなかった。

「ハッジの用事は済んだの?」

「残念ながら、新たな用事を仰せつかったんだよ」

 ハッジ、とはメッカへの大巡礼を済ませたイスラム教徒への尊称だ。この村では唯一、長老だけがハッジと呼ばれている。

 村から村へ渡り歩く仕事をしているカファヤトゥラにとって、ハッジたちの依頼は最優先でこなすべきものだ。それなのにカファヤトゥラは、悠長に親方席で胡坐を組んだ。下ろしたカラコフをナシムへと差し出す。

 機械仕掛けの右腕が嬉々としてカラコフを受け取り、即座に分解整備の手順に入る。それを生身の左手で補佐しながら、ナシムは首を傾げる。

「急ぎの用事じゃないの?」

「急ぎだけど」カファヤトゥラはベルトのポーチから白い板とケーブルの束とをとり出した。「向こうの支度がまだなのと、わたしも脚の設定を変えないといけないのと、きみの様子が気になったのと」

「大丈夫だよ」ナシムは順調にバラバラ死体になっていく友人のカラコフに視線を落とす。「でも、気にかけてくれて、ありがとう」

 うん、とカファヤトゥラの掌がナシムの生身の手の甲に触れて、離れていく。

「ハッジの用事って?」

「赤ん坊の熱が下がらないんだって。孫の家に初めて生まれた男の子だからって、モールが取り乱してね」

 モールはパシュトゥン人として尊敬され得る女性につく敬称だ。この村ではハッジの妻であるジャミーラだけが、その敬称で呼ばれていた。

「だから赤ん坊を背負って、ペシャワールの病院までひとっ走りしてくるんだよ」

 カファヤトゥラは足首の関節部にある装甲パネルを弾き開けると、ケーブルをつなぎ板状の端末を操作する。足首から先は、五つの骨格パーツとチューブとが組み合わさり、それぞれのパーツが装着者の任意によって稼働する仕組みになっているらしい。掌より器用だよ、とは本人の言だ。調整にともなう多重のモータ音は足首から先だけでなく腰から太腿、膝はもちろんふくらはぎからも発せられている。

 服に隠されているカファヤトゥラの体は、おおよそ半分が機械なのだ。

 複雑な設定をしているのか、カファヤトゥラは手元の端末に「きみ」と呼びかける。

 自分を呼ぶには硬い声音だ、と考えたナシムは、無言で立っていた青年を振り仰ぐ。

「そういうわけだから、わたしが戻るまでハッジ・マヒウディンのところで待っていて。話は通してきたからメルマスティアに則り、それなりの歓待をしれくれるはず」

「俺の……家のことは?」

「伝えてあるよ。きみがニィナワティに則って庇護を求めれば、受け入れてくれる。あとで連れて行くよ」

 パシュトゥン人が自らに定める、人に恥じることなく暮らすための掟にメルマスティアとニィナワティがある。

 メルマスティアは訪れた客をもてなすことだ。簡単にきこえるがその実、客が誰かに追われていた場合は自らの家族同様にその客も守る、という義務が生じる。敵に追われ庇護を求めて逃げ込んできた客人を無下に追い帰すことは恥だとされるため、メルマスティアは誇り高きパシュトゥン人にとってとても名誉な行為なのだ。

 対照的に、ニィナワティは自らの弱さと危機を告白し、庇護を懇願して誰かの家に逃げ込む屈辱的な行為とされている。

 それをカファヤトゥラは平然と、青年に求めた。青年もまた、唇を噛んで不服そうな表情を作ったものの、素直に顎を引く。

 ナシムは「追われてるの?」と訊きたい衝動を呑みこむ。ニィナワティという屈辱的な行為の理由を興味本位で問いただすこともまた、相手を侮辱する行動だ。

 ナシムは友人のカラコフの部品ひとつずつを丁寧に拭き、オイルを塗り、組み直す。

 カラコフの元となったカラシニコフは隙間の多い銃だ。

 極寒の吹雪の中でも動作不良を起こさないように、手袋を装着したままでも扱えるように、雪や氷が詰まっても簡単に分解掃除ができるように配慮されている。その隙間は雪だけでなく砂や熱風にも同様の働きをした。昼は灼熱になる荒野を、夜には霜が降りるほど冷え込む尾根を、昼夜問わず駆けるカファヤトゥラには最適な銃だろう。

 もっとも、まだ声変わりすらしていない友人の細い体にカラシニコフはいささか大きい。このカラコフはナシムの父が、この友人のためだけに造り上げた唯一無二のものなのだ。

 黙々とカラコフを組み上げるナシムをどう思ったのか、カファヤトゥラが脚につないだ端末を操作する手を止めた。腰のポケットから小さなビニル袋をとり出し、そっとナシムの膝の上に置く。

 暗褐色のフィルムで包まれた、親指の先ほどの丸薬がいくつか入っていた。──アヘンだ。

 カファヤトゥラが重宝されていることからもわかるように、山岳地帯の村々には病院がない。体調が悪くても、そうそう病院へ行くことも薬を買うこともできない。

 だから鎮痛から傷薬、睡眠薬にまで応用できるアヘンが重宝されている。ナシムが常用しているアヘン丸薬も、病院から処方される鎮痛剤を砕いたものとアヘンを混ぜてかさ増ししている。

 アヘンを包む褐色のフィルムがケシの花びらであることを、ナシムは知っている。花びらに包まれているのはアヘン液汁の塊だ。ケシを栽培している山深くの村から直接買い付けなければ手に入らないものだった。

 ナシムは唇の裏に残る粘つきを舌先で確かめる。ざらりと粉末の名残が触れた。友人がアヘンと粉薬を混ぜて、鎮痛剤を調合してくれたのだろう。

「ありがとう。ちょうど切らしていたんだ。いくら?」

「いいよ。春のアヘンは安いから、あげる」それより、とカファヤトゥラは怒ったように目を眇めてナシムの鼻先に囁く。「あまり痛むようなら」

「え?」思いがけない心配に眼を瞬かせる。「痛くないよ?」

 カファヤトゥラの手の甲がナシムの頬をくすぐり、額へ上がり、細い髪を払い除けた。その感触で、髪が肌に張り付いていたことに気付く。汗をかいていたようだ。自覚すると同時に、体の芯に熱を感じた。

「一度、ちゃんとした医師に診てもらうべきだよ。わたしがきみを病院まで運ぶから」

 仕事を休めないよ、と口にしかけて、やめる。父の入院費を叔父に頼っているだけでも、ナシムは家長としての働きを怠っているのだ。母と姉の生活くらい、弱音を吐くことなく支えられる男なのだと虚勢を張りたかった。

 ナシムは右手で、機械の腕を辿るカファヤトゥラの指を握る。

「僕が自前の腕を落とすと決めたとき、きみはちゃんとした医師を連れて来てくれたじゃないか。だから、僕は大丈夫。ちゃんと父さんの腕を使いこなしてみせるよ」

 カファヤトゥラは数秒青褪め、唇を開き、無言のまま閉じる。なにかを告げようとし、けれど適切な言葉が思い浮かばないという様子だ。

 ナシムは友人の動揺から眼を逸らして「大丈夫」と誰にともなく呟く。

「大丈夫なんだ。本当に。痛くないから」

「違うよ」カファヤトゥラが、長い吐息の延長で言う。「違う。きみは勘違いしてる。痛くないわけじゃなくて、痛すぎて知覚できていないだけだよ。成長に伴って骨や神経は伸びるんだ。切断面から出られない神経が肉の中で渦を巻く。そのせいで義手との接合面が痛んだり、筋電信号不通を起す」

 カファヤトゥラはナシムとつながっていないほうの手で、義足の調節していたケーブルを引き抜いた。

「神経に直接くる痛みだから刺激が強すぎると倒れるし、熱もでる」

「きみも、そうなの?」

「わたしの接続面は、きみほど繊細な部位じゃなし規格も合ってるから……」

 カファヤトゥラの苦笑に「え」と頓狂な声を上げたのは、青年だった。壁の銃ばかり見ていた青年が、いまさらナシムを正面から見据える。

「その腕……おまえの腕なのか? 親父の義手で遊んでるわけじゃなくて?」

 ナシムは指の一本ずつを意識する。拳を握りこみ、わざわざ上体を捻って、青年に右腕を差し出してやる。

 けれど立ったままの青年の眼前へ掲げるには、機械の腕は重たすぎた。背中から腰にかけての筋肉が、雷でも受けたように強張り痛む。苦痛の声を洩らさなかったのは意地だ。ナシムは唇の端を上げてわざと意地の悪い笑みを浮かべると、青年の腰を拳の先で小突く。

 青年がよろめいた。闇雲に伸ばした手で壁のカラシニコフをつかんで、それでも踏み止まれず尻餅をつく。

 機械仕掛けの右腕はナシムの父が使用していたころのまま、銃の金属部品を削るに足る腕力が出るのだ。

「僕の腕は、父さんの腕そのものだよ」

 不意にカファヤトゥラが素早く両足首のパネルを閉ざし土間へと下りた。革のサンダルを履き直す。

 人の気配を感じたのだろう。最近、この友人は村の誰かにナシムと特別親しくしているところを見られないようにしているらしい。

 ナシムもまた、友人からもらったアヘンのビニルパックを胸ポケットに隠す。と、義手の付け根、パネルの下に入れたはずの父の手紙が袖口から滑り出た。焦って隠したためにパネルの蓋がきちんと閉っていなかったのだ。

 カファヤトゥラが素早く拾い上げた。青年に見咎められることを恐れたのか自分のポーチに入れてしまう。

 店にひとりの老婆が現れた。ワンピースケミスの袖が工房に差す明るさを遮ってふわふわと揺れていた。

 カファヤトゥラが駆け寄る。老婆を支えようと手を伸べ、結局、肩に手を添えるだけで親方席まで戻ってきた。

 ナシムは機械の右腕を杖に立ち上がり、親方席の縁に腰を下ろした老婆へと歩み寄る。膝をついて目線の高さを揃えると、老婆に抱えられた布の塊が見えた。カファヤトゥラは土間に膝をついている。

「サラーム」ナシムは老婆の耳元で声を張る。「モール。ようこそ」

「サラーム、ナシム。銃は売れているかい?」

 皺に埋没しそうな目をさらに細め、頭部から首、胸元にかけて緩く巻いたスカーフに隠れるように、モール・ジャミーラは上品に笑う。ハッジの第一の妻であり敬虔なイスラム教徒でもある彼女は歯を見せて笑うことも、顔と手以外の肌を親族以外の男性に晒すこともしない。村の女性たちを集めて神さまの教えを学んだりもする。そのくせ「七十を超えたおばあちゃんなんて、神さまだって女だとは見抜けないよ」と嘯いては、親族の男性マフラムを連れることも、ブルカで全身を覆うこともなく、ひとりでふらふらと村を歩き回っている。ハッジの家に招待されたときも、第二夫人や娘たちは慎み深く客人から姿を隠しているが、ジャミーラだけはあれこれと話をききたがって宴に同席するのが常だった。「誘惑されてはいけないよ」とナシムもよく、父に冗談半分で忠告されたものだ。

 ナシムは注意深く右腕を背後に回す。父と同等の力を揮える右腕を、老婆の痩身はもちろん、にぶつけることが怖かった。

「行けるかい?」

「行けます」

 カファヤトゥラは顔も上げず即答する。

 ジャミーラがゆっくりと胸元の荷物を下ろした。顔を真っ赤にした赤ん坊が布にくるまれている。ふえぇ、と頼りない喘ぎが上がった。それも一呼吸の後には湿っぽい雑音に変る。カファヤトゥラがやけに注意深く脚の設定をいじっていたのは、走る際の衝撃が赤ん坊の負担にならないようにと気遣ったのだろう。

「わかっているだろうね」ゆったりとした語調ながら硬質なジャミーラの声はよく通る。「わたしの孫の、大事な跡取り息子だ。死なせたら、あんたの命で償うんだよ」

 ふっとカファヤトゥラの吐息が緩んだ。笑ったのかもしれない。ウィン、と機械の両脚を鳴かせて立ち上がると、ナシムの膝から組み上がったばかりのカラコフを取り、背負う。カラコフが遊ばないようにベルトをきつく絞ったカファヤトゥラは、一転して柔らかい仕草で赤ん坊を両腕に抱き上げた。ついさきほどナシムにそうしたように、指先で赤ん坊の髪を掻き上げる。

「わたしの命に懸けて、ペシャワールの病院までは請け負いますよ。でも、そこから先は赤ん坊の体力次第だ」

 ジャミーラはカファヤトゥラの軽薄な物言いを睨むと、忌々しそうに札束と油紙に包まれた薄いパンロティとを突きつけた。

 カファヤトゥラの仕事料はパンであって、札束ではない。金は全額、赤ん坊の診察代だ。前払いが鉄則の病院では、どれほど急を要する重症者でも診察代を持っていなければ見殺しにされる。

 ナシムのときもそうだった。

 叔父は鉈を叩き下ろす前からすでに、義手をつなぐための医師に診察代を握らせていた。万が一に備えて、誰よりも早く怪我人を運べるカファヤトゥラも控えていた。だからこそ、安心して右腕を差し出せたのだ。

 あのときは大人たちの方がよほど動揺していた、とナシムは汗にまみれた赤ん坊に自分を重ねる。

「大丈夫だよ」カファヤトゥラの囁き声は、赤ん坊ではなくナシムに向けられていた。「すぐにまた、を持って戻ってくるから、待っていて」

 ナシムは綻びそうになる頬を戒めて、俯く。

 土産、とはペシャワールの病院に入院している父からの秘密の手紙だ。さきほどカファヤトゥラがポケットに仕舞ってしまったものだけでなく、新しいものも持ってきてくれるかもしれない。たった一言でもよかった。父の言葉はなによりもナシムを力付ける。

 それなのに、叔父だけでなくジャミーラをはじめとする村の大人たちは、ナシムが父とやりとりすることを快く思っていない様子だった。

 父がいなくなったころはよく、父が快癒して退院してくるまでは連絡をとらず治療に専念させるべきなのだ、と諭す叔父に反抗しては強かに殴られたりもした。だから友人は、ナシムの手からこぼれた手紙を隠したのだ。

 カファヤトゥラだけがナシムと父とをつないでくれていた。

 モータ音に顔を上げたときにはもう、カファヤトゥラの姿は表通りの明るさに溶けるところだった。背負われたカラコフの暗色だけが、最後まで視界に焼きつく。

「忙しない奴……」

「いつもは、もうちょっとゆっくりしていってくれるよ」

 青年の嘆息に、ナシムは不機嫌さを隠さず語気を尖らせる。

 いつもならばあの年上の友人は茶を飲みつつ、ナシムが機械の右腕に頼って父からの手紙を読解するのを見守り、たった数語の返事を綴るまで待っていてくれるのだ。

「相変わらず」ジャミーラの呆れ口調だ。「礼儀知らずな子だよ。これだから余所者は」

 庇う言葉を口にしかけて、ナシムは慌てて呼吸ごと呑みこむ。ジャミーラに反論するということは、その夫であるハッジにたてつくのと同意だった。唇を噛んで俯いたとき、「でも」と思いがけず青年の声がした。

パシュトゥン人の掟パシュトゥンワリに則って、俺を保護してくれました。あいつはこの村の者ではないかもしれませんが、パシュトゥン人として振る舞っています」

 はっ、とジャミーラは鼻を鳴らす。露骨な嘲笑が滲んでいた。

「アレは難民キャンプの出だよ。パシュトゥン人を気取っているが、どこの部族の血かも定かじゃない。それに、ほら、あの格好だ。ただの不信心者だよ」

「……不信心者」

 ナシムは口の中でその単語を繰り返す。村の大人たちがカファヤトゥラに向ける冷たい視線の理由が、それなのだろう。

 理解できない誹りだった。あの友人はいつだって聖典とともにある。一緒に神さまに祈りを捧げたこともある。父や職人たちと並んで絨毯に額をつける友人は、じゅうぶんな信仰心を抱いているように見えた。

「確かに、慎みのない女ですが……」

 青年が濁した言葉に、ナシムは瞠目する。「え?」と頓狂な声が出る。

「慎みのない女って、 誰のこと?」

 モールの尊称で呼ばれるジャミーラのことではあり得ない。だがここで話題に上る女性など他には誰も思いつかなかった。

「え?」と不可思議そうに顔を歪めたのは、青年ひとりだ。ジャミーラはもはやカファヤトゥラにも『慎みのない女』にも興味を失っていた。「あんた」と皺の間から青年に横目を向ける。

「名前は……なんだったかねぇ。命を狙われているときいているけれど」

 青年は束の間、半開きになった唇から無為な呼吸を何度も繰り返す。幾度目かの吐息が諦めを帯びた嘆息になり、ようやく小さな名乗りになった。

「……アルアウェル」

「そりゃ、あんた」ジャミーラは上品に顔を伏せて笑う。「アラビア語で『一番』って意味だろう? 大そうな名で呼ばれることになったもんだねぇ」

 アルアウェルと名乗った青年は反駁したそうに歯を剥き、すぐに俯いた。「いいんですよ」と悔しそうに呻く。

「もう、なんでもいいんです。前の名前は名乗れないんだから」

 パシュトゥン人は自分の名と父親の名、さらに部族の名などを連ねて個人を示す。名乗れないということは、この青年が部族の名を汚す行為にかかわったということだ。

 だからカファヤトゥラは青年にニィナワティを奨めていたのか、と理解する。

 部族の恥は命を持って雪がれる。誇り高いパシュトゥン人の間ではままあることだ。同時にパシュトゥン人は赦しを与えることのできる部族でもある。自らの非を認め、自らを弱者であると認め、聖典と貢物を手に平和を求める相手を殺めることもまた、恥だとされているのだ。

「そうかい」ジャミーラは両膝に手をついて、億劫そうに立ち上がる。「なら、ついておいで。あんたの安全はこの村が、わたしの夫が名誉にかけて保障しよう。たとえ、あんたの父親があんたを殺しに来たって、大丈夫だよ」

 父親は、家族の名誉を守る絶対者だ。

 不貞を犯した妻を、娘を、たとえ家を継ぐべき息子であろうと、家の名誉のためには罰する義務を負う。父親が断罪を拒んだ場合は、父の父が、親族の男たちが、父親もろともその家を罰するのだ。

 それが正しいことだと、ナシムは知っている。知っているにもかかわらず、ナシムの左腕は機械仕掛けの右腕を強く握っていた。右腕に潜む父からアルアウェルを隠すように、カミーズの袖を引き下げる。

 アルアウェルが、握っていたカラシニコフを壁へと戻した。

「持って行って、いいよ」ナシムは咄嗟に言う。「追われているのなら、銃が要るでしょう?」

「いや、いいよ」アルアウェルは苦笑した。「俺は女に助けられて、ハッジに庇護を求める分際だから、武器は要らない。武器を持つのは、強い男の特権だろ?」

 また、女だ。

 ナシムは青年の文脈を脳内で辿る。繰り返し考える。誰を示しているのか皆目わからない。思い至らない。土間へと下りるアルアウェルの裾を抓んで、引き留める。ジャミーラはもう工房の表通りへと踏み出そうとしていた。

「きみが言う女って、誰?」

「誰って……」アルアウェルは振り返り、当惑したように首を傾げた。「あの郵便屋以外に誰がいるんだ」

「カファヤトゥラは、敬虔なムスリムのパシュトゥン人だよ」

「バチャ・ポシュだろう?」

 きき慣れない言葉に、今度はナシムが首を傾げる。

「バチャ・ポシュ。ダリー語で、男装する者って意味だ。女が男の恰好をして、男として稼ぎに出るための、因習だ。家長が死んだり、親族の男に面倒をみてもらえなくなった女所帯では、まだ女には見えない年頃の子供を男として扱うんだよ。でも、あいつはダメだ」

 ダメだ、と低く繰り返すとアルアウェルは身を屈めて、裾を抓む機械の腕を外した。表通りで待つジャミーラを気にする素振りをみせてから、青年は喉仏の目立つ首を伸ばしてナシムの耳朶に低く、男の声を注ぎ込む。

「あの女はもう、とっくに女として嫁ぐべき時期を過ぎてる。本当なら女に戻って結婚して、嫁ぎ先の男に従って養われるべきなんだ。それなのにまだ男のふりをして勝手に出歩いてる。ふしだらで慎みのない、女だよ」

 そんな女に助けられたんだ、と唾棄した青年は荒々しく踵を返す。

 ジャミーラが光の中に立っていた。風に遊ぶワンピースケミスの裾からパンツバルトゥグが覗いている。スカーフの下の頬は萎れて死人のようだ。それでも美しく紅を刷いている。紛れもない女性の、老いたムスリマだった。

 アルアウェルがジャミーラの隣に並んだ。親子でも親族でもない、他人同士の男女だ。神の教えに叛くふたりだ。それなのに誰も咎めない。冷たい視線も、不信心者の誹りも向けられない。

 どうしてカファヤトゥラだけがダメなのだろう、と機械仕掛けの右腕に問う。あの友人が慕っていた父に、問う。

「カファヤトゥラは、カファヤトゥラじゃないか」

 物心がついてからずっと、ナシムにとってのカファヤトゥラは友人だった。男でも女でもなく、父のカラコフを背に野を駆ける自由な友人だった。それが、否定される。

 心細さを覚え、機械式の右腕を擦る。感覚はどこまでも遠く、生身の左手の体温はおろか感触すら捉えることはできなかった。


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