鉄と手紙
藍内 友紀
第1話
〈1〉
砂交じりの生温い風が、工房の奥まで真新しい硝煙の匂いを運んできた。タ、タタン、と発砲音も聞こえてくる。
アフガニスタンとパキスタンの境目に横たわる山岳地帯では珍しくもない匂いと音だ。とくに密造銃を伝統工芸とするこの村においては、誰もが赤ん坊のころからこの匂いと音に包まれて育つ。密造銃目当ての近隣都市からの客や外国人観光客から片言の外国語を学んだりもする。
そんな村の目抜き通りから一筋入ったところに、ナシムの工房はある。
薄暗い工房の一番奥、大きく開けた入口から差し込む明るさが弱まる辺りに、一段高く親方席が設えられていた。分厚い絨毯が敷かれたそこから表通りの明るさへ眼をやれば、土間に並んだ万力が三台見渡せる。土間からさらに一段掘り込み、脚を下ろして万力に向えるようにしたそこには、本来であれば銃職人たちが座っているはずだった。
けれど今、薄暗い工房に座っているのは、ナシムひとりきりだ。まだ六歳のナシムには似つかわしくない親方席に着いている。
無数の拳銃や自動小銃が飾られた壁の前にあって、白い
ギ、ギ、と軽快なヤスリの音に合せて、ウィン、ウィン、と微かなモータ音がしていた。ナシムの右腕からだ。白い
一年前、父から受け継いだ機械仕掛けの右腕だ。
ウィン、と機械仕掛けの右腕がモータを唸らせる。応じて握った金ヤスリが自動小銃の部品を滑る。大きすぎる大人用の右腕は、ナシムの幼い体では支えきれない。機械式の肘を胡坐の膝に乗せてなお、腕の重みは体を大きく右へ傾けている。
ふ、とナシムは顔をあげる。金ヤスリと右腕の音に混じって、遠くから甲高い声が届いた気がしたからだ。しばらく無人と化した土間の作業台へ顔をやり、風に巻き上げられた砂埃が躍る表通りを眺める。
その間も機械仕掛けの右腕は正確に銃の部品を整え続けている。ナシムの生身の腕を五本も束ねたかのような右腕は、その太く複雑な構造に内蔵したメモリに父の技術を記録しているのだ。父の右腕はナシムの体に移っても日々、父の技術を再現し続ける。たとえナシムが意識を逸らせたとしても作業を止めることはない。
半ば惰性で部品を整え終えたところで、表通りから一際はっきりと悲鳴じみた笑い声がした。女性の声だ。女性に慎ましさと貞淑さを求めるイスラム教を信仰する者が多い地域では珍しいことだが、銃目当ての外国人観光客が訪れるこの村ではときおり聞こえてくる高音だった。
パキスタンとアフガニスタンの国境であるカイバル峠から車で二十分ほどパキスタン側に入ったところにあるのが、ナシムの村だ。位置としてはパキスタンに属するものの、パキスタン警察はこの村で仕事をしない。二国の境に横たわる山岳地帯はどちらの国の支配も及ばない。
国境線が引かれるはるか以前からそこに住むパシュトゥン人たちが、それぞれの部族に伝わる伝統的な掟と法に従い、暮らしている。もめごとは往々にして村や部族の長たちで解決される。よしんば解決しない場合は、部族警察が橋渡しをすることになっていた。
だからパキスタンの法律では禁じられている銃造りも、この村では伝統的な産業のひとつにすぎない。村の目抜き通りには銃砲店が連なり、壁といわず天井といわず大小さまざまな銃をぶら下げている。ロシア製やアメリカ製といったホンモノから、この村で精巧にコピーされた密造銃まで、この村ではあらゆる銃が売られている。
それを目当てに国内外から客が訪れるのだ。
耳障りな女性の声が近付き、表通りに人影が差した。
ナシムは女性の姿を直視しないように、礼儀正しく視線を落とす。薄暗い手元がさらに陰った。
人影は無遠慮に工房へ踏みこんでくる。三つだ。そのうちのふたつが、細身のパンツで腰から脚の艶めかしい輪郭を際立たせた女性のものだった。
「ファーザルの銃」と言う、男の声がきこえた。ナシムには馴染み深い、叔父の声だ。片言の英語で女性のふたり連れを案内しているらしい。目抜き通りにある叔父の銃砲店は外国からの来訪者も快く受け入れている。けれどその客を、わざわざ一筋入った通りにひっそりと建つナシムの工房まで連れて来るのは珍しいことだった。
甲走った女性の声が土間に反響していた。笑っているのか喚いているのか判然としない。耳の奥が痛む声だ。
母や姉は家の中でもこんな声を上げない、とナシムは機械仕掛けの、大人と同じ大きさの掌を睨む。そこに握られた金ヤスリの輝きに、父から教わったさまざまなことを反芻する。
──我々男はとても心が弱いから、女性の美しさにすぐ心を奪われてしまう。だから、優しい女性たちは我々が惑わないように声を控え、魅力的な体つきや髪や肌を隠してくれているんだよ。彼女たちの心遣いのおかげで、男たちは誠実に生きていけるんだ。我々は彼女たちを敬い労り、大切にしなければならない。そう神さまが教えてくださっているんだ。
神さまの教えに従うことこそが誰に恥じることもない立派な生き方だ、と穏やかに語ってくれた父を思い出す。そんな父の弟が、よりにもよって父の工房へと、臆面もなく体の線を晒した女を案内してきた。
苦々しい気持を呑み込んで、ナシムは右腕が削り終えた部品を左手で辿る。右腕に記録されている父のヤスリ加減を覚えるためだ。いずれはナシム自身が父の技術を継がねばならないのだ。自身の皮膚で仕上がりを確かめる。それを。
「これが、ボルト」
伯父の手が断りもなく奪い去った。次いで壁から外した自動小銃を女性客の鼻先に吊るし、部品の位置を指した。ナシムと同じく、機械オイルが黒く浸みた爪だった。
「銃の」叔父のたどたどしい英語が続く。「弾ける場所の、蓋。とても重要な、部品。これが良いと、連射できる。ナシムだけが、造れる」
嘘だ、とナシムは理解できる単語を拾って、直感する。叔父は嘘をついている。
一発の銃弾にこめられた火薬が爆発する際の衝撃は、四トンにも及ぶ。自動小銃──とりわけ父が得意としていた
だから銃職人たちは金ヤスリで、一ミリ以下の調節をかけるのだ。この村の銃は、それぞれの家庭が所有するそれぞれの工房で誇りをもって組み上げられたものだ。精度の違いはあれ、どの工房の銃もきちんと機能する。だからこそ銃の密造村として観光地となっているのだ。
それなのに叔父は、まるでファーザルの銃のみが連射に耐え得るように話していた。
恥ずかしさで頬が熱を持つ。女性を守るのが男性の仕事だ、と父は常々言っていた。銃は男の持ち物であり、誇りである。それなのに叔父は、よりにもよって父の銃を、この異国の女性に売りつけようとしているのだ。
父の銃は、とナシムは壁一面の自動小銃を、天井から吊られた無数の銃を、見廻す。
父ファーザルが調節するボルトは、村一番の精度を誇っていた。その技術は機械仕掛けの右腕を通してナシムに宿っている。今、この工房の主はナシムなのだ。
「売りませんよ」
ナシムは叔父の背に言う。女性客が首を傾げるのを、影の形で知る。パシュトゥン語がわからないのだろう。構わず、ナシムは女性客を直視しないように壁を向いたまま繰り返す。
「女性には、売りません。父の銃も、僕の銃も、パシュトゥン人の土地と安全と伝統とを守るために造られているんです。これは部族の、強く正しい男が持つものです」
数秒、冷えた沈黙が工房を満たした。勤勉な機械仕掛けの右腕が何食わぬ顔で銃の部品を引き寄せ、万力に固定する。各関節が動くのに合わせて、低いモータ音が立つ。
ややあって、叔父が笑顔で女性客を工房の外へ促した。気分を害した風もなく、女性客はナシムに手を振って表通りへと戻っていく。
途端に、叔父が踵を返した。落ち窪んだ目をぎらつかせて、振りかぶった腕を躊躇なくナシムの頬に叩きつける。
あ、とナシムは自らの失敗を悟る。叔父の機嫌を損ねたことではない。叩かれた拍子に体勢を崩し、右腕を膝の上から滑り落としてしまったことに、焦りを覚える。支点を失った機械の腕が床に金ヤスリをぶち当てた。
「誰がおまえの銃を売ってやってると思っているんだ」叔父は声を荒らげるでもなく、淡々と話す。「俺の店に並べてやってるから、商売が成り立っているんだろう。ファーザルのいないおまえの店になんか、誰も来ない。俺が、おまえたち家族を養ってやっているんだ」
ナシムの右腕は虚空に向けて金ヤスリを振り続ける。削るべき部品の手応えを求めて、機械の腕は何度も手首の角度を変えては床にぶち当たる。
ナシムは倒れたまま絨毯に頬を預け、空を削る金ヤスリ越しの工房を見る。叔父の足の間から、誰も座っていない土間が覗いていた。
一年前まで、土間には三人の銃職人が座っていた。まだ銃の造りすら知らなかった幼いナシムも、職人たちが仕上げた部品で遊び、父の膝に登っては親方気分ではしゃいでいた。
瞼を下ろして叔父の姿をかき消す。束の間、賑やかだったころの工房を想い描く。殴られたせいで生じた耳鳴りの奥に、父の声までもが蘇る。
目を閉じたまま、ナシムはカミーズの襟元のボタンを外す。胸元から左腕を差し入れ、自身の肩と機械式の右腕とがつながる辺りを探る。腕の出力や感度を調節するためのネジを隠したパネルを、指先で弾き開ける。そこに隠した、小さな紙切れに触れた。とり出しはしない。眼前に立つ叔父に、この紙を見られるわけにはいかないのだ。
父からの短い手紙が三通きり、隠してあった。友人が密かに届けてくれたものだ。
「父さんは、帰って来る」ナシムは自分に言い聞かせる。「それまで頑張れば……」
叔父の呼吸が緩んだ。嗤われたのだろうか、と体を起こしたときには叔父の姿はなく、瞼に描いた父や職人たちの幻も拭い去られている。
左手の指先でつまんでいた紙切れを、そっととり出す。小さくたたんだそれを開く。どれもが、紙の角を咄嗟に破り取ったように歪な三角形をしている。そこに黒く、ともすれば文字の切れ目すら怪しい悪筆で、パシュトゥン語が並んでいた。
ナシムは右腕に集中する。銃の部品を求めていた腕が我に返って動きを止めた。生身の右肩と機械仕掛の腕との接続を強く意識すれば、右腕が握るヤスリの硬さを感じられた。
父の義手は無骨な造りに似合わず繊細な触覚を有している。おそらく父の体とつながっていたときは、もっと鮮明にあらゆるものの手触りを伝えていたのだろう。
ナシムの存在を思い出したらしい右腕に、「動け」と声に出して命じる。もちろん腕に集音機能はない。声にすることでナシム自身に、右腕を制御するのだ、と言い聞かせているにすぎない。一拍して、右手の指が握りこまれた。人差し指だけが伸び、小さな紙切れにのたくる文字を辿り始める。
学校に通っていないナシムは字が読めない。けれど右腕は文字を認識する。おそらく父がこの右腕で文字を書いていたからだ。機械の腕は判読した文字をナシムの脳へ音として届けてくれる。
──家族を頼む
──体調に気をつけて
──つらくはないかい?
「はやく……はやく大きくなりたい……」
この生活を辛いとは思わない。家族を守るのは家長の務めだ。父の代理とはいえ、銃造りで生計を立てられていることを誇らしく思っている。
ただ、もどかしい。父の腕を父と同じ速度で使いこなせない自分の、小さく脆弱な体がもどかしい。父の腕を完璧に使いこなせる大人の体が、叔父の拳に怯むことのない大人の意志が、欲しいと願う。
タタ、と軽快な発砲音がした。工房の裏、ちょうど叔父の銃砲店の試射場がある辺りからだ。滑らかに続く発砲はおおよそ十秒。これほどよどみなく撃てる銃を、ナシムはひとつしか知らない。
「父さんの、カラシニコフ……」
叔父の客が撃っているのだろうか。しなやかな肢体を強調するシャツとパンツを身につけた、雌鶏めいた声で笑う異国の女性たちを思い出す。
──わたしの銃は、パシュトゥン人の男の誇りを守る銃なんだよ。
父の言葉が、がらんとした工房のどこかから聞こえてくる。幻聴だ。十ほど年上の友人カファヤトゥラの声なのかもしれない。あの友人は、ナシムに物が心ついたときからずっと、父が造った
──この銃のおかげで、わたしは仕事を得たし、なにより殺されずにすんだんだよ。
そう告げた友人──カファヤトゥラの笑顔を思い出す。
父の代りに工房を任されてから、ナシムは同じ年頃の友人たちとはすっかり疎遠になっていた。朝から夕まで銃を造るナシムと、学校へ通いフットボールに興じる友人たち。そんな中で、歳の離れたカファヤトゥラだけが変わらず会いに来てくれる。
友人が持つカラコフを見詰める父の誇らしげな横顔が、連鎖的に思い出された。カラシニコフと呼ばれるAK-47より口径が小さく銃自体も小振りなため、「カラコフ」と呼ぶのだ、と教えてくれたのは父だ。その隣で、カファヤトゥラは「峠を越えるときに、真ん中の『シ』と『ニ』の音を山羊に喰われちゃったんだ」と冗談を言っていた。
そんな思い出を引き裂いて、軽薄な発砲音雑じりの嬌声が聞こえてくる。やはり叔父は、女性観光客に父の銃を撃たせているのだ。
ナシムは立ち上がる。立ち上がってなお、大きすぎる右腕の指先が親方席の絨毯に触れていた。腕の重みを支えきれず体が右に傾いているせいだ。気に留めず、むしろ長すぎる右腕を杖にして土間へと足をおろす。がくり、と右腕が制御を失って崩れた。顔から転んだナシムの視界も白く黒く明滅を繰り返す。
下を向いて作業し続けていたせいで頭に血が巡っていないのだ。手探りで革のサンダルを引き寄せる。タタン、と父の自動小銃が鳴いている。
止めなければ、と思う。あれはパシュトゥン人が持つべき銃なのだ。男が誇りを、部族を、家族を、女性を守るための武器なのだ。
父が最後に造ったカラシニコフには、山ふたつ向こうの村に住む従兄の名が刻印されていた。妻を迎えてようやく一人前の男として認められた従兄への祝いの品だった。父は自分の銃が結婚式の祝砲に用いられることを、とても楽しみにしていた。
だから僕も、とナシムは眩む目を必死に見開いてサンダルを突っかける。父さんと同じように、パシュトゥン人のために銃を造るのだ。造らなければならない。そう言い聞かせる。
父が家を空けている今、家族の男はナシムひとりきりだ。女性である母や姉が外へ働きに出ることはない。父の財産である機械仕掛けの義手も技術も継げない。
父が戻るまで家族を守り養えるのは、ナシムだけだった。しっかりしろ、と左手に握った父の短い手紙が励ましてくれる。
「ナシム?」
心配そうな、母の声がした。姉かもしれない。ふたりともが、父の不在を担うナシムを案じてくれていた。
けれど、母や姉がこの工房に顔を出すことはない。貞淑なパシュトゥン人の女性である母や姉は、親族の男性を伴うことなく出歩いたりはしない。
わかっているのに、ナシムは自らが描く幻の母と姉に手を伸べる。細く頼りない左手の先が温もりを捉えた。
「ナシム?」優しい幻聴が、ナシムの頭を撫でた。「どうしたの?」
愚かな叔父から父の銃を取り戻しに行くんだよ、と答えたかった。
ナシムは、自分を抱き留めてくれた誰かの脇から、表通りを見る。
眩しい陽光の中に、青年が佇んでいる。六歳の、大きすぎる右腕に引きずられて傾く軟弱なナシムの体とは違う。太く逞しい機械式の右腕がすっかり馴染んだ、大人の躯体だ。憧れて止まない、成長した自分が光の中に立っていた。
父のようになりたい。
いつか、ではなく今すぐに。母や姉を養っていけるように。父の代りを務めなければならないのだ。ナシムは夢中で光に手を伸ばす。大人の自分が少しでも早く傍に来てくれるように、乞う。
左手を、大人の自分が握ってくれた。幻ではない確かな熱に、ナシムは困惑する。その理由を理解する前に、機械式の右腕が鉄を捉えた。太陽光で温められた優しい手触りで、閃くように理解する。
父さんのカラシニコフだ。
叔父から、叔父が招き入れたはしたない観光客から、父の銃を取り戻せたのだ。そう気を緩めた刹那、タタ、と遠くから破裂音がした。
叔父の客はまだ父の銃を撃ち続けている。では今、僕がつかんでいるのは、誰の銃だろう。
右腕が、改めて銃の種類を判別する。カラコフ──年上の友人たるカファヤトゥラの愛銃だ。
カファヤトゥラが来てくれたのか、と安堵を覚えた。耳鳴りの底から、ウィン、と自分のものではないモータ音を拾う。
友人の、機械の両脚が立てる音だ。
昔から、この年上の友人が傍にいてくれると冷静になれた。カファヤトゥラと一緒であれば、粗暴な叔父から父の銃を取り戻せるだろう。叔父の拳も、カラコフの前では恐るるに足りない。
「カファヤトゥラ」ナシムは年上の友人に懇願する。「僕と一緒に、行って」
頽れたナシムを支える腕が、いいよ、と答えてくれた気がした。全てを赦された気分で、体から力が抜けていく。
眩しい光の中で、立派な青年となった自分とカファヤトゥラが並んでいる。父の銃を提げて、一緒に叔父の蛮行を正しに行くのだ。
そんな勇ましい夢想とともに、ナシムは眠りに落ちる。
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