26

 僕と彼女は、僕の家族の車に乗せられ、セントレアにやってきた。


 そう、彼女は僕の家族についに会ったのだ。

 しかも、もう何度も会っている。

 僕よりも可愛がられているのは絶対に気のせいではない。

 母親なんて本当は娘が欲しかったとまで言い出した。

 これまでの30年間で一度も耳にしたことがない。

 初めて彼女を連れて行ったときなんか……いや、やめよう。

 こんなこと誰にも語りたくなんかないし、思い出したくもない。

 とにかく、今日フランスへと旅立つのだ。


 ようやく僕は、自分の進むべき道を歩き出した。

 彼女はその僕とともに歩んでくれることを決めてくれた。

 本当に僕には過ぎた人なのだ。

 一人前の自立した女性であり、僕を一人前の自立した男にしてくれたと思う。

 きっと、僕たちはお互いに依存しあう関係ではなく、お互いに高め合うパートナーになれたはずだ。


 実際には籍にはまだ入れてはいない。

 そんな形だけのことなど問題ではない。

 共に歩んでいこうという姿勢こそ大事なのではないだろうか?

 僕たちは新しいステージへと向かうために、チェックインを済ませた。


「気を付けていくのよ。何かあったら連絡してね。」

 と、母親が彼女に言った。

 おい、僕のことなど無視か。


「あの愚息には無茶なことをさせないように見張っていてくれよ。」

 と、父。

 誰が愚息だ。


「あんなバカなんかほっといて、こっちに残れよ。」

 と、兄。

 人の彼女を口説くな。

 蹴り飛ばすぞ。

 おっと、兄嫁が先に頭をはたいた。


 僕たち二人はこうして見送られた。

 そして、出国手続きを済ませて搭乗口へと向かった。


「本当に面白い家族ね。寂しくなりそう。」

 彼女は顔を綻ばせて笑っていた。


「僕はせいせいするよ。まったく、グレなかったのが奇跡だよ。」

 僕は軽くため息をついた。


「もう、素直じゃないんだから。本当は家族を大事に思っているのは知っているんだからね。」

 彼女は僕の脇腹をひじで軽く小突いた。


 トラは一緒に連れて行くことはできないので、僕の家族に引き取られることになった。

 すんなりとあいつらになついたから問題はないだろう。

 しかし、


「結局、トラはあなたになつかなかったわね。すぐに手なづけてやるって言ってなかったっけ?」

 彼女はくすくすと笑って僕を見ていた。

 心の中を読まれたみたいでびっくりしてしまった。


「それは、あいつの性格がひねくれているからだよ。他のネコとならうまくやっていけたさ。」


 そうなんだ。

 あいつは、僕にだけは異常なまでに敵対心を抱いていた。

 その腹いせに、寝ている間にひっくり返してやったり、歩いている時にしっぽを掴んでやった。


「ケンカするほど仲が良いって言うからね。本当は、あのコと別れるのは私よりあなたの方が寂しいんじゃないの?」

 確かに、寂しくないと言えばウソになる。


 そろそろ搭乗時間になり、搭乗口の近くまでやって来た。

 その時、僕の足が竦んで動かなくなってしまった。


 どうして、このタイミングなんだ?

 何もかもがすっきりと収まるべきところに収まる、ハッピーエンドのはずだった。

 それなのに、何もかもが巧妙に仕組まれた罠だったような気がしてきた。

 僕は釈迦の掌の上で踊る孫悟空になった気分だ。

 もし、絶頂から突然全てが覆ってしまったら、人は一体どうなってしまうのだろう?

 僕はこの考えを拒絶したかった。

 しかし、見えない力に吸い寄せられていくように、その男の右隣りの席に腰を下ろした。


「……神様、久しぶりだな。」


 僕は冷静さを取り戻そうと声を振り絞ったが、自分の声ではないように震えていた。

 畏敬の念ではなく、純粋な恐怖心を抱いていた。

 今更ながら、この目の前にいる男は本当に神なのだろうか、と疑問に思った。

 もし、神なのではなく、本物の悪魔なのだとしたら、僕は一体どうなってしまうのだろうか?

 不吉な予感をぬぐうことができなかった。


「どうした、何を恐れているのだ?」


 目の前にいる男は、僕の心の動揺を見透かしたかのようにニヤリと笑った。

 こんなにも不気味な笑いをする人間をかつて見たことがなかった。

 いや、元々人間ではないのだ。

 そうだとしたら、結局僕は……


「虫けらに変えられてしまう、か?」

 目の前にいる男は、僕の心の中の声を言葉に出した。

 そして、黄ばんだ歯を剥き出しにして笑った。


「確かに、かつてはそんなことも言ったな。あの時は、それはそれで面白いと思った。お主のうろたえた顔は見ていて楽しかったぞ。それにしても、人間とは可笑しな生き物だな。ただの脳内物質の作用でいちいち一喜一憂する。生存する為に不要なことに夢中になる。愛だとか夢だとか、しょうもないことを全てだと思い込む。くだらぬことよ。人間の存在など、この世界の真理の前では、ただの塵芥に過ぎん!」


 今度は額に血管を浮かび上がらせて怒鳴りつけてきた。

 表情がネコの目のようにころころと変わる。

 この男は……

 神は僕の目の前で、人差し指を左右に揺らし、哀れみのこもった表情になった。


「私は狂ってなどいないぞ。むしろ、狂っているのはお主たち人間の方だ。目に見えることだけが、今いるこの世界だけが真実なのだと思っているのだからな。だが、お主にだけは見せてやるか。まあ、楽しませてもらった礼だ。」


 神は、左右に揺らしていた指を僕の目の前につきつけた。

 その瞬間、僕の内側に強烈な力が衝突した。


「うわぁああああ!!?」


 僕の意識は肉体から弾き飛ばされ、どこかへと飛ばされていった。


 そして、僕はどこかへと辿り着いた。

 しかし、何も見えなかった。

 ただ、白いだけだった。

 身体がふわふわと漂っているような感覚がする。


 僕の耳には、ぼそぼそとつぶやくような音が聞こえてきた。

 これが人間の声だと気が付くのに少し時間がかかった。

 だが、支離滅裂で何を言っているのか、全く理解することができなかった。


 どこからか、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 僕は反射的に声のした方を探そうとしたが、身動きすることができなかった。

 とはいえ、この辿り着いた何かは振り返った。

 どうやらこれは、僕を呼んだわけではなかった。

 この辿り着いた何かを呼んだ声だった。

 この何かは人間であり、僕と同じ名前だった。


 この何者かの視線の先には、白衣を着た二人の男が立っていた。

 一人は初老の男で、頭が前方から禿げ上がっている。

 もう一人の男は、メガネをかけ、まだ若そうだった。

 しかし、焦点は見当外れにも後ろの真っ白い壁に向かっていて見えづらい。

 さっきは何も見えていないわけではなかった。

 真っ白い壁が目の前にあって、何もない空間にいると錯覚していただけだったようだ。

 ふわふわしていると感じていたのは、この身体が、頭がふわふわと漂っているように揺れていて、錯覚したからだ。


 この何者かを見て、初老の男は失望したような目になり、若い方の男は興味津々といった目をしている。

 そして、若い男は好奇心に浮かされたように口を開いた。


「先生、この患者はどういった症状なのでしょうか?」


 患者?

 一体何の話をしているんだ?

 この何者かは病気なのだろうか?

 先生と呼ばれた男は、思慮深そうに眉をひそめた。


「今日が初日で勝手が分からないのはわかるが、患者の前でそういったことを聞くものじゃないよ。」

「すみません。少し浮ついていました。」


 若い男は少し肩を落とし、申し訳なさそうにした。

 初日ということは、研修医ということなのか?

 それならば、先生と呼ばれた方が担当医ということか。


 担当医はじっとこの患者の様子を見た。

 この患者は焦点を定めることもせず、まだ何かをぶつぶつとつぶやいていた。

 そして、担当医はため息をついて語りだした。


「まあ、今の状態ならば何も聞こえてはいないから大丈夫か。この患者は現実と虚実の区別がつかなくなってしまったのだよ。統合失調症の一種だ。どうも、ご両親の話では、元々ぼんやりとしていることが多かったそうだ。妄想に耽っていたと言った方が分かり易いね。それが、重度のストレスによって発症したようだ。ここまでの状態になると、もう実生活は不可能だからここに収容されたということだ。」

「重度のストレスですか。一体何があったのですか?」

「ふむ、私も原因を探りたいのだが、ずっとこの調子でね。何が原因かは確定できないよ。だが、私も何もしてなかったわけではない。ほら、これを見たまえ。」


 担当医は研修医に大学ノートを手渡した。

 研修医は受け取るとパラパラとページをめくった。


「どうも、小説のように見えますね。この僕というのがこの患者のことですか?」

「そういうことのようだね。話を読んでいくと、彼女だとかジローだとかいう男が大きく関わってきているようだ。だが、名前が伏せられていて実在の人物かどうかもはっきりとはしないのだ。しかし、この終盤の廃トンネルのところを読んでみたまえ。」


 そう促されて、研修医は大学ノートに目を落とした。

 そして、その場面を見つけ、ぱっと見て目を上げた。

 どうやら速読ができるらしい。


「あれ?これって。」


「そうなのだ。この患者がここに収容されるきっかけとなった事件に少し似ているのだよ。しかし、実際にはこういうことだった。

 廃トンネル内には、大型のバンはあった。しかし、二人の元米兵の死体なんてどこにもなかったし、車の表面には血のりは付いてなどいなかった。

 だが、車内には二組の男女の死体が転がっていた。側には、燃えカスとなった練炭の入った火鉢が置いてあった。この患者だけは、なぜか外に倒れていた。だから、命だけは助かったようだ。おそらく、集団自殺というやつだ。

 その中にはジローいう名前の男などいなかった。そして、彼らは始めから面識はなかった。インターネットのサイトで出会ったようだ。しかし、みなこのように名乗り合い、この登場人物の特徴と似通っていた。ジロー、彼女、スコーピオン、ナッツ、そして、僕。調べていくと、みなここに書かれていることと同じような過去を持っていた。だが、この話と実際のこととは矛盾することが多い。

 何が彼らを追い立てたのかは分からない。真相はおそらく永遠に不明なままだろう。しかし、どんな虚構にもモデルはある。私が推理すると、彼らを死に追いやった出来事がこの話の中に隠されているはずだ。死ぬ間際に、お互いに自らを語り合ったのかもしれない。そして、僕となるこの患者が繋ぎ合わせて1つの物語にした。しかし、推理は所詮、推理。真実には、限りなく近づけても完全な答えではない。結局は想像するしかないのだよ。

 いずれにせよ、この患者、僕だけは助かった。そして、病院へと運び込まれたが、精神は崩壊してしまっていた。もう、社会復帰は不可能だった。そうして、ここへと収容されたのだ。」

 

 僕は何かに吸い寄せられていくように、またどこかへと飛ばされていった。


 辿り着くと空港へと戻ってきていた。

 そして、自分の意思で動く肉体があった。


 横を振り向くと、神はすでにいなくなっていた。

 辺りを見回しても、神の姿はどこにもなかった。


 そもそも、神など始めから存在していたのだろうか?

 僕の見た神は、ただの幻だったのではないのだろうか?

 僕がいるこの世界もまた、妄想の産物に過ぎないのではないだろうか?


 僕は、今の出来事によって徹底的に打ちのめされてしまった。

 自分自身の存在を確認するように両腕を抱え込んだ。

 感触や体温が伝わってきた。

 冷たい汗が吹き出し、体が震えていることにようやく気が付いた。


 しかし、だから何だというのだ?

 何も安心感を得ることなどできなかった。

 リアリティーが何もなかった。

 全ての足場が根底から崩され、アイデンティティーというものは粉々に砕け散ってしまった。

 僕には逃げ場などなかった。

 僕はどこにいるのか分からなくなってしまった。


 これが、神の言うこの世界の真理なのか?

 全ては幻想だとでも言いたいのか?

 この世界が、あの狂人となった僕が作り出した世界なのだろうか?

 逆に、僕が見たあの精神病院での出来事はただの白昼夢だったのか?

 それとも、全く違う現実世界が存在しているのだろうか?


 それならば、この僕の存在は、一体何だ?

 肉体の感覚もある。

 精神も感情もある。

 そして、過去の記憶(もちろん生い立ちからのだ)だってある。

 しかも、僕の思うこの意思だって存在している。

 しかし、これら全てが作り出された虚構なのだとしたら、今いるこの世界が現実世界なのだと、自分自身の確固たる存在を誰が証明することができるのだ?

 

 ここは何て完璧な世界パーフェクトワールドなんだ!

 

 僕は皮肉に鈍く笑った。

 そして、僕はもう現実の世界と虚構の世界との境界線を見失ってしまった。


「ねえ、どうかしたの?」


 いつの間にか、彼女が僕の隣の席に座り、僕の目をのぞき込んでいた。

 しかし、彼女のこの動作もまた、作り出されたかのように芝居がかっているように感じる。

 彼女の顔がぼやけてはっきりと見えない。


 なぜだ?


 存在があやふやでどこにでもいて、どこにもいないかのように、彼女の顔が、名前も思い出せない。

 いや、初めから、彼女の姿も名前も知っていたのだろうか?


 彼女は本当にここに存在しているのだろうか?

 僕にとっての理想の女性をここに描き出していただけではないのだろうか?

 いや、そもそも、これまでの一連の出来事もただの虚構なのではないだろうか?

 それならば、僕は何を信じればいいのだろう?

 何もかもが得体の知れないものに思えてしまった。

 出口のない迷路、答えのない問い。

 そんな言葉など陳腐すぎる。


「君は誰だ?僕は何者なんだ?」


 僕の声は、がたがたと震えて言葉になどなっていないように感じる。

 彼女はさらに深く僕の目をのぞき込み、そして微笑んだ。


「私は私で、あなたはあなた。それ以外の何者でもないわ。」

「僕は僕で、君は君?」

 僕は何度も繰り返した。

「僕は僕で、君は君?僕は僕で、君は君か。……そうか!そういうことなんだ!僕は僕で、君は君なんだ!」


 僕は、この世界の真実にたどり着いた。

 どこからか、暖かい光が差してきた。

 そして、僕はここから解き放たれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

パーフェクトワールド 出っぱなし @msato33

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説