25
「どうかしたのか、アニキ?」
ジローは不可解な顔をして僕を見ていた。
どうやら、僕は物思いにふけっていたのだろう。
「いや、何でもない。お前はあれからどうしていたんだ?」
僕はジローに話を聞いてみた。
僕の中には、もう憎しみの感情など残ってはいなかった。
「色々とあったけど、一応あっちの業界からは足を洗ったよ。もうやってられなくなっちまってな。おかげで、また病院送りになっちまった。1ヶ月も入院しちまったぜ。今時、この年になって暴走族みたいなことをやられるとは思わなかったよ。しかも、スコーピオンのやつと病室が一緒なんてな。」
ジローは苦笑いしていた。
僕も思わず笑ってしまった。
そして、スコーピオンのことを聞いてみた。
「スコーピオンは今どうしてるんだ?」
「さあ?どうしてるんだろうな。あいつの方が先に退院したけど、もうカジノはこりごりだって言ってた。確か、パチンコかスロットの攻略本出してる会社に行くとか行かないとか言ってた気がする。」
「あいつらしいな。あいつはギャンブルだけは天才だからな。それで、お前はどうするんだ?」
僕は軽く笑って、もう少しジローのことを聞いてみた。
「オレは、あの時あんな目に遭ってようやく思い出したんだ。本当になりたかったものが何だったのかって。オレは伯父さんみたいにかっこいい大人になりたかったんだ。そんな大事なことを忘れていたなんてな。それで、小説を書くことにした。書きたいことも次々と浮かんできているよ。オレは、ドストエフスキーみたいな本物の文章を書く。」
真剣な漢の目だった。
ジローの中で凍りついていた時間がようやく溶け出したのかもしれない。
「なあ、ナッツのやつはどうしてるんだ?」
ジローは言いにくそうに聞いてきた。
「もう元気になったよ。どうやら吹っ切れたみたいだ。今はデザインのコンクールに出す作品を書いているよ。素人の僕の目から見ても、何か伝わってくるほどのレベルだよ。」
お世辞ではなく、本当にそう思った。
始めて会った時はどうしようもない女だと思ったけど、偏った見方をしていただけだった。
違う方向から見れば、誰にだって何かいいものは持っている。
ナッツの場合は、絵を書く才能が突出し過ぎている。
だから、足りない部分が目立つが、気の使い方は良く分かっている。
僕にもようやく、ものの見方が分かりかけてきた気がする。
「それで、アニキはどうだったんだ?」
「僕のこと、か。」
僕はまた、記憶をたどった。
警察署から出て行くと、すでに夜は明けていた。
台風一過の真っ青な青空だった。
車の忙しい行き交いは、何気ない日常の一幕でしかない。
昨夜の出来事など、全てが夢だったのではないかと思えるほど、何もかもが当たり前すぎる光景である。
しかし、僕のこのどん底まで弱りきった頭には、朝日の光ですら刺激が強すぎる。
そのまま倒れこんでしまいたい。
もはや、視界には霞がかかり、目の焦点など、どこにもあっていないようだ。
だが、僕は熱に浮かされたように歩いていた。
僕はただ彼女に会いたくて堪らなかった。
僕にとってもっとも安らげる場所は彼女のもと以外には考えられない。
そのことは彼女に惹かれていく内に分かってはいた。
いや、本当には分かってはいなかった。
だからこそ、彼女を傷つけてしまった。
僕は赦されるのだろうか?
彼女はまだ僕を受け入れてくれるのだろうか?
人間なんて本当に愚かな生き物だ。
失ってようやく、本当に大切なことが何だったのか気付く。
もう取り返しがつかないぐらい損なわれてしまってから、ようやくだ。
僕もまた例外ではないのだろうか?
僕は頭の中で、同じことばかり煩悶と繰り返していた。
一体どれぐらいの時間が過ぎたのだろうか?
どうやってここまで来たのだろうか?
僕は何も分からないままに、彼女のアパートの玄関の前に立っていた。
僕は土下座でも何でもして謝るつもりだった。
僕の安っぽいプライドなんて、ドブにでも投げ捨ててしまえばいい。
その程度のことで赦してもらえるのなら、僕は何だってするつもりだった。
それにもかかわらず、ここに来て足がすくんでしまった。
今更、何をどう言えばいいのだろう?
どうすれば償うことができるのだろう?
もう何をどうしても取り戻すことができないほど、何もかも失ってしまったのだろうか?
僕の頭の中は嵐の海のように大荒れだった。
僕はチャイムの音にハッとした。
考えがまとまる前に、身体が勝手にインターホンを押してしまっていた。
そのまま逃げ出そうとしたが、足が動かなかった。
僕の頭の中の小さな僕たちが、押し合いへし合いの大暴動のようなパニックになっていた。
しかし、誰も出てくることはなかった。
当然だった。
もう、彼女の出勤時間は過ぎているはずだ。
とっくの昔に会社に行っている時間だ。
僕は自分のこの道化のような狼狽振りを自嘲するように笑った。
そして、夢遊病者のように再び歩き出した。
どこに向かっているのか、自分でも分かってはいなかった。
僕は自分の精神世界へと溶け込んでいった。
そこに到っても、考えることなど一つしかなかった。
彼女に逢いたいということだけ。
どうすれば逢えるのだろう。
どこに行けば逢えるのだろう。
連絡を取る手段など何もなかった。
現代人がいかにスマホに頼っているのかが良く分かる。
ふと、何かを感じた。
光、風、太陽のぬくもり、動物の匂い。
動物?
僕は現実世界へと引き戻された。
いつの間にか動物園の前に来ていた。
僕と彼女が初めてデートをしたところだった。
思い出にでもすがろうというのか?
僕は自分をバカにするように鼻で笑った。
まあいいだろう。
僕はバカモノなのだから、バカついでにチケットを買って中へと入った。
1歩、2歩と歩くと頬に温かいものが流れていくのを感じた。
僕は迷子の子供になってしまったみたいだった。
何も分からず、胸が締め付けられるように苦しかった。
いつの間にかしゃくりあげて泣いていた。
きっと周りにいる人間たちは、伝染病患者を見つけたみたいに僕を避けていることだろう。
子供たちは指を指して笑っていることだろう。
もしかしたら、檻の中の動物たちは珍しい生き物を見るように見ているかもしれない。
しかし、僕は人目を憚ることなく泣きながら歩いた。
これまで溜め続けていた涙、これから先も使うか分からない涙は止まることを知らなかった。
カンガルーの檻の前にやってくると、僕は一瞬にして泣き止んでいた。
頭の中の雑念も消えてしまった。
僕は母親を見つけた子供のように駆け寄った。
そこには、彼女が立っていた。
しかし、彼女は僕に気が付くと逃げようとした。
でも、僕は彼女の手を捕まえていた。
「待って!どこにも行かないで聞いてくれ。あの時の僕は本当にバカだった。本当に悪かったと思っているよ。どう償えばいいのかも分からない。君が僕のことをどうしようのない奴だと嫌ってしまっても仕方がない。でも、あれから本当にひどい目に遭ったんだ。それで、ようやく分かったんだ。君の事を失いたくはない。君が唯一のパートナーなんだって。君こそが一生側にいて欲しい人なんだって。君にただ逢いたくて堪らなかった。今ようやく逢えたんだ。だから、僕を赦して。どこにも行かないで。一生、僕と一緒に歩んでいってくれないか?」
僕の中に溜め込んでいた感情の泉が吹き出したようだった。
まだまだ言い足りなかったが、頭が混乱してしまって言葉にならなかった。
彼女はじっと僕のことを見つめていた。
僕にはもう彼女が何を考えているのか読み取る力すらなかった。
不意に、彼女は僕に抱きついた。
僕は彼女を抱きしめた。
そして、僕の腕の中に大切な人がいた。
……ということをかいつまんでジローに話した。
ジローは例のニヤケ面は出すことなく、最後まで聞いていた。
「結局、元の鞘ってやつだ。」
と僕は付け加えた。
「というよりも、雨降って地固まるだろ?」
とジローに訂正された。
そう、あの後、僕は彼女に逢うことができた。
そして、思いの全てをぶつけることができた。
彼女は僕の全てを赦してくれた。
その後、僕たちは付き合うことになり、婚約までした。
結局、僕たちは、あの事件の前よりも親密になれた。
警察からも大した音沙汰はなかった。
どうやら事件は疑問に思われることなく解決したらしい。
僕としてはそれでありがたかった。
僕は会社を辞めた。
もう少し残って欲しいと言われたが、僕は断った。
自分のやるべきことが何なのか、ようやく分かったのだ。
もう続ける必要はなかった。
僕の意思が固いことが分かると、会社側としては何も言えないので諦めたようだった。
一応は円満に退社をすることが出来た。
そして、僕は30歳になった。
しかし、何も暗い影など落ちてはこなかった。
これまでの後悔やこれからの不安など何もなかった。
僕にとっては、新たな領域に進む為のちょうど良い区切りにしか感じなかった。
おそらく、自分の中に自分の指針というものがはっきりとあれば、新たな挑戦にも苦になることがないのかもしれない。
「それで、アニキはこれからどうすんだ?」
「僕はフランスに行くことにした。ワイン造りの勉強をしに行くよ。本当に僕が望んでいることが何なのかようやく分かったんだ。本当は前回旅に出た時に分かってはいたんだ。だけど、失敗することを恐れて避けていただけだって気付いた。この先どうなるかは分からない。それでも挑戦してみることにした。彼女も僕について来てくれるって決めてくれたよ。明日、出発するんだ。」
彼女もまた会社を辞めた。
僕を支えてくれる為に、自分の新しい可能性に挑戦する為に。
各種手続きは全て済ませ、明日の出発を待つのみとなった。
彼女にとっては、初めての長期海外生活なので、僕が準備を手伝った。
そして、僕は今日彼女と一緒に名古屋に来ている。
出発する前に、彼女が美容院に行く為だ。
僕はただの付き添いなので、待っている間に名古屋の街を最後にぶらぶらと歩いていた。
そして、ジローに再会したというわけだ。
「そうか。アニキも本当の自分ってやつを見つけたんだな。」
「ああ、お前もな。」
僕たちは何も偽ることなく、正直に語り合った。
きっと、今だから出来たのかもしれない。
もし、今の僕たちで出会うことが出来たのなら、
「そういえば、今更だけど、何であいつスコーピオンなんだ?」
僕は、気になっていたことをふと聞いてみた。
「オレも良く知らないけど、人から聞いた話では、あいつがバンコクの屋台でサソリのから揚げを食べたんだってよ。それが気に入ったらしく、そこにあったサソリを全部食い尽くしたらしい。」
「それで、スコーピオンか。なんだかあいつらしいな。」
「ああ、あいつらしい。」
僕たちは短く笑い合った。
そして、少し黙り込んだ。
「そうか、明日フランスに行くのか。」
ジローはぽつりとつぶやいた。
「ああ。トルストイもこう書いていただろ?農業こそ、この世界で最も人間にふさわしい仕事だって。」
僕たちは軽く微笑み、それぞれの道へと歩いていった。
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