狸、きつねを食べる。
@isako
狸、きつねを食べる。
狐が街を歩いていると、彼は見知った顔に会う。狸である。
「やぁ狸。きみはいつぞやの狸じゃないか、山を下りたんだね」
狸は狸と呼ばれ、身体をびくりと震わせた。コンビニの袋が小さく音をたてたが、すぐに街の喧騒の中に消える。
「君は……狐か? あぁ、頼む。狸と呼ばないでくれ。背筋が凍る。おれは『山田』だ。『山田好一』なんだよ」
「おっと失礼。正体が明るみにでるような発言はよしたほうがいいものな。お互いのために」狐はにやにやした。
山は切り崩され、残ったものは石造りのがらくたばかりだった。安アパートに住まう狸にとって、住んでいた場所位置は全く変わらなかったが、その空間はまったく別の物になり果てている。
「ねぇ。久しぶりに田舎の旧友に会えたんだ。今夜ちょっと飲まないかい?
?」狐が言う。
「飲む? おまえ、ずいぶん人間染みたことを言うなぁ。誘いは嬉しいんだが、おれは金欠なんだ。それに酒は……」
「いい、いい。金のことは気にするな。僕はいくぶん余裕がある。嬉しいんだ。山にいたころは縄張り争いをしていた仲だったが、今では同じ都会に暮らす数少ない仲間さ。いろいろ積もる話もあるだろう」
狸も言いはしなかったが、同じ気持ちだった。だから彼は狐の申し出を受け入れた。
狐はスマホを取り出すと、その画面を見つめながら話す。「スマホはあるだろうな? 山のものは電子機器をおそれて手に取ろうとしないから困る」
「いや、ある。なにせおれは携帯の販売員だから、もちろんそれはある」
狸はすばやくスマホを取り出した。ぼろぼろのiPhoneだった。ケースはおろか、画面シートさえしていない。脂でべとべとに光る画面を見て、狐は吹き出しそうになった。友達登録は一分もかからずに済む。確かに狸はスマートフォンの扱いにおける初歩的な技術は会得しているらしい。
「うん。うん。じゃあ、今夜八時に駅前で」
狐は細い手足をすらりと運ばせ、雑踏の中に消えていった。その後姿を見ると、狸は狐に獲物を横取りされたいつかのことを思い出した。藪の中に消えていく狐の後ろ脚。山の匂いがした。狸は涙が収まるまで、職場には戻れなかった。
***
「しかし飲むといっても、おれは酒は駄目だ。酔うとすぐに変化が
午後八時を少し過ぎて狐はやってきた。狸は五分前には約束の場所に来ていた。
「いや、大丈夫だ。今日は飲める」
「なぜだ?」
狐はにやりと笑う。
「それに飲みたくないなら飲まなくていい。まさか四国のじい様がたなら、そんなことは絶対に言わないだろうけど」
狸はすぐに真っ赤になって反駁した。「なにをッ、おれとて酒の十や二十ッ……」
そしてすぐに思い出す。四国の老狸たちは五十年も前から香川の狸園で
「はぁ。どうやら、ことばのあれこれもお前が一枚上手のようだな。もういい。どこでも連れて行ってくれ」
「もちろん。初めからそのつもりさ」
女と見間違えそうなほどに華奢な青年のあとを、中年太りという言葉をそのまま体型に写し取ったような姿の男が追っていく。
狐と狸がやってきたのは、雑居ビルの四階だった。看板には明かりもついていない。しかしぴかぴかに磨かれているドアには、〈会員制〉の三文字が突き放すように刻まれている。
狐はそのドアを躊躇なく開けて中に踏み込んでいく。暗い。狸は変化すると夜目が利かなくなるので暗闇を恐れるようになっていた。「なにしてんのさ、『山田』くん。早く入ってきなよ」中から狐の鈴のような声がする。狸はおそるおそる店内に入る。
オウセンティク・バーの様式を固く貫いている、そういう店だった。狸はテレビ以外ではこういうものを見たこともないので、実に人間的な懸念を示す。「おい、ここ、高いんじゃないのか」
「大丈夫。すぐにわかる」
ねェ。と狐が声をかけると、バックヤードから初老の男が現れる。不満そうな声で、「うちは十時からですよ」と言いながら客の顔を見ると、からりと表情の色は変わった。
「マスター。今日は貸し切りで頼むよ。山のよしみでさ」
「なるほど。今夜はほんもののお仲間と、だね」
キャハ~!うまいじゃん! と狐が跳ねる。狸には何のことかわからない。
マスターの髭が突如として左右に伸びて広がり、耳は頭の後ろに小さく縮んでいく。黒い体毛がざわざわと身体を包み始めた。その様子を見て狸はひゃあと腰を抜かした。
狐がそれを見下ろす。
「なにしてんの。彼は
その顔はこがね色の毛に覆われている。
***
十時を過ぎるまでもなく、狸はすっかり変化をとき、獣の姿のままで吠えていた。
「ぜぇ~んぶ人間が悪りぃンだ! おれたちの棲み処も食いもんも家族も、全部奪っていきやがった!」
そう言うとカウンターについた四つ足のそばにあるグラスに頭をつっこむ。獺よりは長く、狐よりは短い口が、ぱくぱくとグラスの冷酒を飲む。
――家族ねぇ。と狐もしみじみ応じた。そして甘い酒を傾ける。
「人間社会に馴染もうとしたって無理なんだ。やつらとは〈ことば〉が違う! 何を考えているのかさっぱりわからん!」
狸の言葉を聞いているのか聞いていないのか、獺は静かにグラスを磨いていた。
「必死こいて働いたって手取り十二万の契約社員。生活なんてかつかつだ。帰る山もない。そしていつ正体がばれるかひやひやさせられる!」
「十二万? それは大変だね。いい仕事が――」と狐は言いかけるが、獺が目でそれを止めた。幸い、酔った狸には何も聞こえていなかった。狐の瞳が、まるで人間のように曇る。
「――そうだね。大変だ。いいことは何もない。僕らはいつだってぎりぎりで生きている」
濁った瞳の狸は呟く。
「人間の世界で生きてみて初めて分かった。こんなことをしているから連中、自殺したりしちまうんだ。あぁ。おれもさっさと死んでしまいたい。生きることがこんなに苦しいのなら、わざわざ生きることはないんだから」
「君が死んだら、僕は狸鍋でもやろうかな。そばとかき揚げでもいれて、たぬきそばの一丁上がりだ」
「それはいい。お前がおれを喰ってくれるんなら。山の獣が喰いあうのは普通のことだ。いまおれは、人間たちに食いものにされているようなものだから、同じ喰われるのならお前のほうがずっとましだ」
そう言うと、狸はぼとりとカウンターから落ちた。
獺がつぶやく。「飲み過ぎだ」
狐が優しく狸を抱き上げると、獺が毛布を持ってきた。それで狸を包む。
「今日は楽しかったな」狐が言う。本当に楽しかった、と続けた。
「ああ」獺が頷いた。
「家族に会いたくなったかい?」獺が尋ねた。狐はしばらく黙った。「もう家族じゃないってさ」ようやく絞り出した言葉だった。
「そうかい」獺は目を伏せた。
***
狸が目を覚ますと、そこは彼の四畳半のアパートだった。頭がぎりぎりと痛んだ。
飲み過ぎた。すると水を差し出す手があった。狐だった。
「やぁ。おはよう」
狐が自分を連れて帰ったのだろう。狐のことだから、変化の解けた自分もうまく隠してきてくれたにちがいない。と狸は合点した。狸は礼を言って水を飲んだ。時計を見る。始業時刻をはるかに過ぎていた。
ぎゃあ、と叫んで狸は上司に電話をかけ始めるが、応答はない。
「さっき電話がかかってきていたよ」狐が言う。
「悪いんだけど、君の声を真似て出た。体調がすぐれないから、休ませてくれと伝えたら、『もうこなくていい』ってさ」
狸はあんぐりと口を開けて、その場にひっくり返った。それからしばらくして、黒っぽい毛玉になった。そしてそれが言った。
「死のうかな」
「喰ってしまうよ。たぬきそばにして」
「あぁ。喰ってくれよ。油ものばかりくっているから、少々臭うかもしれん」
狐は黒い毛玉を見下ろしていた。それから、人間の姿に化けた。
「すぐ戻る。もし僕が帰ってきて死んでいたら、君の死骸は剥製にして人間に売ってやる」そう言って飛び出した。
戻ってきた狐の手には、即席めんが二つ抱えられていた。
「湯くらいは沸かせるんだろうね、この家」
***
「お前、緑のたぬきでいいのかい。そっちはおあげさん入ってないぜ」
「いい。狸鍋を食べ損ねたからね。たぬきでいいんだ」
「あぁ。だしの染みたおあげさんがうまい」
「君、いやがらせかい? 僕が油揚げ好きなの知ってるくせに」
「うん? あぁ。すまん。我慢してたのか」
「言っとくけど、このお代はしっかりもらうからね。昨日は僕のおごりだが、今日は君のおごりだ」
「無職の狸から金をせびろうなんてな」
「狸ごときがまともにサラリーマンなんて生意気なんだよ」
「お前だって結局は給料をもらっているだろうが」
「……まぁね。それより、元気はでたかい?」
「はぁ。きつねはうまいが、しかしこればかりはなぁ……」
「まったく女々しいことだね」
「……」
狸は赤いきつねと割りばしを持ったまま、その場にすっくと立ちあがり叫んだ。
「人間が怖くて、赤いきつねが食えるかッ!」
ぺっ、と口に入った毛を吐き出す。
狸、きつねを食べる。 @isako
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