遠い未来の話
名無之権兵衛
遠い未来の話
木漏れ日が差し込む森の一角で私は昼寝をしていた。緑豊かなあたりは私のことなど認知していないかのようにそよぎ、さえずり、這いずっていた。世界が後は朽ちていくだけの「私」を徐々に忘れようとしている。それを感じながら私はうたた寝していた。
ふと、私に近づく者がいる。それが誰だか分からないが、聞こえてくる鼓動からして恐る恐る私に手を伸ばそうとしているようだ。誰とも関わらずに余生を過ごしたいと考えていた私はフンと鼻息を立てて気配を追い払おうとした。しかし、気配は一瞬怯んだだけで、やがて再び私にコンタクトを迫った。もう一度、鼻息立ててもいいが、それではいたちごっこになってしまうだろう。幸い、あちらに敵意を感じなかったため、私は気配の好きにさせてみることにした。
気配はそっと私の頭に手をのせた。そして、ゆっくりと優しく私の頭を撫でる。春の木漏れ日が差し込む木々の下で、私は見知らぬ誰かに頭を撫でられている。普段は蛇だって寄ってこない私に近づくなんて、一体何者だろう? 私は眠そうに半目を開けて手の持ち主を視界に入れようとした。
すると、そこには一匹の知的生命体がいた。背丈からしておそらく幼体だろう。いや、幼体にしては大きいから思春期と表現する方が正しいかもしれない。性別も鑑みて、「少女」と表現した方が正しいだろう。少女は真っ直ぐな怯えた目で私のことをそっと撫でている。その愛撫に私はなんとも形容しがたい柔らかな気持ちになり、フーと鼻息を出した。少女は少し安心したように笑みを浮かべる。
「……!」
遠くで鳴き声が聞こえて少女は振り返った。彼女の後ろには同じ年頃の知的生命体が立っており、気さくに話しかけている。出立(いでたち)を見れば「少年」と形容すべきか。彼は大きな声ではっきりと鳴くものの、少女は少年のことを覚えていないのか、首を傾げて「フー・アー・ユー」の意思を示す。少年自身は彼女のことを知ってるらしく、頑張って説明する。二人の格好が似ているところから、おそらく所属が同じなのだろう。彼らには「学校」という教育機関があり、そこに所属する者はみな同じ装いをしてると昔聞いたことがある。もしかしたら、彼らは同級生なのかもしれない。
「ほら、俺だよ俺、同じクラスのコタロウだよ。シズエだよね。こんなところで何やってるの?」
「ああ、思い出したわ。こんにちは。あなたこそ、こんなところでどうしたの?」
「いや、それは……」
なんてことを話しているのかもしれない。「かもしれない」と記したのは、私には彼らの言葉が分からないからだ。つまり、彼らが本当にこんな会話をしていたかは分からない。コタロウもシズエも全て私が勝手につけた名前で、二人の口調と表情、そして言葉のつまり方から、こんな会話をしているのではないかと、あらかた予想してみたのだ。そこになんの目的もない。後は老いるだけの獣の暇つぶしだ。
二人は会話を続ける。
「それはシズエの?」
「ううん。ここで寝ているところを見つけたの。今まで見たことない動物だわ。とてもきれいな毛。絹のように白くて、ツヤツヤしてる」
少女は私の頭を愛撫し続けながら言った。満足げに鼻息を立てると、少年は少し表情を歪ませて少女を見つめた。まるで自分の存在に気付いて欲しいかのように。
ああ、なるほど。もしかしてそういうことか。私は少年の心中を察して笑みを浮かべた。その笑みが少女からは愉悦してるように見えただろう。さて、どうしたものか。
「いつもこの森に来ているの?」少年が彼女の注意を逸らすために話しかける。
「ええ、ここには動物がたくさんいるから、心が安らぐの」
「そ、そうか……」
再び会話が終わってしまう。全く、どうしようもない奴だな。私は渋々と体を揺すって起き上がると、少女の手をのけて、少年の方へ歩み寄った。四つ足で移動する私の背丈は、彼の膝辺りまでだが、私は彼の膝小僧に喉を鳴らしながら頬をすり寄せた。少年はとても戸惑った様子を見せ、私と少女を交互に見ている。
「どうやらあなたに懐いてる見たいね」少女は少し嫉妬が含んだ口調で言う。本当にそう言ったかはもちろん分からない。
「撫でてあげたら?」
少年は恐る恐る私の頭を撫でた。少女よりはガサツだが、まあ悪くないだろう。私はさも満足げにううっと鳴き声をあげた。チラリと少女の方を見てみる。案の定、動物好きであろう彼女は目を釣り上がらせて、頬を膨らませていた。よしよし。
「な、なんかごめんね」少年は気まずい表情をした。
「いいのよ、動物の心なんて変わりようなんだから」
「ね、ねえ。明日もこの森に来る?」
「だいたい毎日来ているわ。ほら、わたし友達がいないから」
彼女に本当に友達がいないかはわからない。ただ、少女の発言の後に少年がさらに気まずそうに下を向いて私の喉元にまで手を伸ばしたところから、そう察したまでである。そもそも、思春期の女の子が一人で森に入ってるというのもおかしい。
少女がそっと私の頭を撫でた。まるで自分の寂しさを紛らわすために、その小さな手で優しく私の頭を撫でた。少年の硬くなってきた手が喉を、少女の柔らかな手が頭を愛撫したことにより、私は今までに感じたこともない恍惚した感覚に酔いしれて、おおんと今まで出したこともない声を発してしまった。
「また、明日も来ていいかな?」日が傾き始めた頃合いに少年が言った。
「構わないわ。私の場所でもないし。けど、彼がいるかは分からないかも」
少女はそっと満足げに眠る私のことを見た。確かに、私はこれまで昼寝する場所を変えてきた。そういう習性というわけではないのだが、場所を変えると景色も音もあらゆるものが新鮮に感じて、私の枯れた心を潤してくれそうな気がしたからだ。
しかし、今日はとても面白いものを見てしまった。一組の雌雄をめぐる物語、これがどのように変わっていくのか、興味深い限りである。明日も同じ場所にやってくるだろう。ならば、私も明日は同じ場所で昼寝をしてみようか。
それから私と二人の雌雄は毎日同じ時を過ごした。時間帯は決まって午後の穏やかな時だった。やはり、二人は「学校」に通っているらしく、その放課後に私を尋ねて森に入ってるらしい。
二人のこともだいぶ知ることができた。元来、「私たち」は学習能力が高い。だから、発音はできずとも言葉のニュアンスや雰囲気から意味を類推し、習得することもできる。
少年の名前はツーオといい、来るたびに私に餌を持ってきてくれる。はじめは木の実や果物だったが、私が雑食と分かるや否や生肉を持ってきたため、かなり驚いた。こんなものを生で食べれば、よほど胃袋が丈夫じゃない限り難しい。私は落ち葉と枝をかき集めて火を起こすと、その中に肉を入れて焼いた。これには二人もかなり驚いていたようだ。まあ、野生動物で火を起こすのは「私」くらいだろう。肉は炭や土をかぶって絶品ではなかったが、美味ではあった。
そして少女はウィンネという。黒髪を長く伸ばした、多種族の私から見ても十分美しい容姿をしている。ただ友達がいない所以か、コミュニケーションはあまり得意ではなさそうだった。ツーオの話を聞いていないのはいつものことで、質問されても生返事か聞き返している。だから、二人と一緒にいても会話という会話は生まれない。ツーオが餌をやって、ウィンネが私の頭を撫でる。そして時々ツーオが会話を試みるといった具合で、二人の仲は進展も後退も見られなかった。
ある時、私はもう忍耐が限界にきてしまった。ここまで一緒にいるのに、ツーオはなぜ前に出ようとしないのか。なぜ、目を合わせようとしないのか。「私たち」でさえ、ここまで長く一緒にいたら浮いたエピソードの一つや二つは出てきていた。それなのにこの二人ときたら……。
そこで、私は二人の距離を縮めるための手助けをしてやった。具体的にどうしたかというとこうだ。いつもの通り、私の頭を撫でるウィンネの手首をあむと甘噛みした。少女は驚いた様子だったが、そこからさらに驚く出来事が起きる。私は甘噛みした手首を器用にツーオの頭にのせたのだ。これで、ウィンネがツーオの頭を撫でてる構図が出来上がる。突然のことに二人は黙ったまま互いの瞳を見つめ合った。そうそう、これこれ。私が見たかったのはこの景色なんだ。
「ご、ごめんなさい」しばらくしてウィンネは手を離して、視線を地面に落とした。それはツーオが目線を下にしたのとほぼ同じタイミングだった。
「い、いや、いいよ、僕こそ……」
ツーオも何を言えばいいかわからず言葉が詰まってしまう。そのまま二人は黙り込んだ。ツーオは土を撫でて、ウィンネは私に噛まれた跡を撫でていた。
まずいな、と私はこの時直感した。このままでは二人は気まずい空気のまま別れて、会うこともなくなってしまうだろう。下手に刺激しすぎてしまったかな。ならば、と私は再びウィンネに擦り寄ってううと鳴いた。
「ど、どうしたの」とウィンネは歯形のついた手を私の頭にのせる。それを私はぶるると払いのけると、鼻先でツーオのことを指した。えっ、と戸惑う彼女に私はジェスチャーと目力で彼女の意思を伝える。どうやって示したかを形容するのは難しい。首をうまく使い、彼の頭を撫でろと指示をした。
ツーオはウィンネと目を合わせないように彼女に背を向け、地面をいじっていた。そこにウィンネの柔い手が頭にぽんと乗っかる。ツーオは驚いて彼女の顔を見た。再び二人の視線が重なる。ウィンネはそのままツーオの頭を撫で始めた。よしよし、その調子だ。私は笑みが悟られないようにあくびをかいた。
「な、なんかすごい不思議な気分」ツーオはボソボソと呟いた。
「だって、ルーが撫でろっていうから」
ウィンネは頬を少し赤らめてツーオの頭を撫で続けた。ルーというのは二人が私につけた名前だ。満足げな時にるうと鳴くからだと言う。全く、身勝手なものだ。私には親より与えられた「タケル」という名前があるというのに。しかし、その名前もずいぶん最近まで覚えていなかったし、ルーと呼ばれることに別段不快感を覚えなかったため、黙認している。
ウィンネが頭を撫で終えても二人は見つめ合ったままだった。これからどうすればいいのか、二人には分からないみたいだった。仕方ない。乗りかかった船だ、と再び手助けしようとしたら、ツーオが右手をそーっと持ち上げる。何をするのかと注視していたら、彼はそのまま手をゆっくりと、でも確実にウィンネの頭の上にのせたのだ。そのまま彼女の艶のある黒髪を撫で始める。
雌雄間で行われたその行為はとても静かだった。あたりの森もまるで彼らを見守るようにしんと黙ってしまい、鳴く鳥一羽いない。少年は少女の髪の毛に慎重に指を絡ませると、そのままそっと丁寧に地肌を撫でた。少女は口を真一文字にしてそれを黙って受け止める。視線は外して俯いたままであるが、そもそもツーオより背の低い彼女が目を合わせながら撫でられるというのは彼らの体の構造的に難しい。だから、彼女が目線を下にして黙って受け止めるのはツーオの行為を肯定していると捉えていいだろう。
しばらくして、行為を終えた二人はとても気恥ずかしそうな様子だった。だが、これでもう大丈夫だろう。私はうっすらと笑みを浮かべた。
このように、私が彼らに興味を持ったのと同様に、彼らもまた私に興味を抱いていた。私が一体何者なのか、図鑑などを漁って調べていたらしい。しかし彼らの話を聞くに、私の存在はまだ誰にも発見されたことのない新種らしく、彼らの調べた書物には一切私の話は載っていなかったそうだ。昔からこの地に住んでいたため、新種だなんだと騒がずとも良いのだが、どうもこの知的生命体は新たな発見に騒がずにはいられないらしい。特にツーオの騒ぎ方は子供が初めてお祭りに行った時のようなものだった。
「すげぇや、俺たち新種を発見したかもしれないんだぜ。なあ、早くこれを偉いところに報告しないと」
しかし、ウィンネの反応は彼とは真逆だった。
「もしルーが研究所の人たちの実験台にされたらどうするの? 私はルーが苦しむところなんて見たくないわ」
その決意はお祭り気分のツーオと違ってかなり真面目で、もしツーオが誰かに知らせようものなら、私と一緒に逃げ出すとまで言い出した。さすがにそれにはツーオも懲りてそれ以降話題にあげることはなかった。私としても「研究所」なる怪しいところに行くのは嫌だが、何もウィンネまで一緒に来ることはないだろ。そう思いながら、頭を撫でられ続けた。
そんな折に、二人の会話にある人物が浮上する。メブ博士という、ここらに住んでいる博識の持ち主らしい。彼は森からそう遠くないところで医者をやっているらしく、周囲からの評判もいいから、私のことについて相談すべきじゃないかとツーオは考えているのだった。
これにもウィンネは反対していた。いくら優しいからと言っても、研究施設と関わりのある奴に教えたら、一体全体いつ私の存在が彼らに漏れるか分からない。だから絶対にダメだと。
しかし、今回はツーオに軍配が上がった。
「でも、ウィンネの右手の噛み傷、心配だろ。もしこいつしか持っていない菌が入り込んでいたら命を落とすかもしれないんだぜ」
ウィンネは先日私に甘噛みされた手首をさすった。手首は包帯が巻かれているが、察するに甘噛みされた跡を周囲に気づかれないように巻いたものだろう。確かに、私は雑食のため日々様々なものを食っている。自身の腹を壊さないように極力見たことないものは食べていないつもりだが、それでも目に見えない菌などは体に取り込んでいる恐れがある。もし、彼らにとって毒性の強いものであるなら、その博士とやらに見てもらうのが無難だろう。私はその意思を含めた鼻息を出した。幸いにもその意思はツーオに伝わった。彼はどうやら私が二人の話を分かっている事に気づいているみたいだった。
「ほら、ルーもメブ博士なら大丈夫だって言ってるぞ」
痛い目を見ないのであれば別に誰がきても私はいいのだが、果たしてウィンネは渋々頭を縦に振った。よし、じゃあ明日博士を連れてこよう、とツーオが張り切って言った。だが、それは私たちの運命を大きく揺るがす前日の夕暮れだった。
その日、私はいつも彼らと戯れる近くの洞窟で昼寝していた。外は大雨が降っており、時折雷も聞こえる。こんな日に外でのんのんと昼寝を決め込むのは馬鹿か馬鹿しか考えられない。おそらく彼らも今日は私に会うのは断念するだろう、そう決め込んでいたもののやはり気になって近くの洞窟で雨宿りしながら昼寝をしていたのだ。
そして私の思惑は悪くも的中してしまった。何時(いつ)ごろかは定かでない。あたりは雲に包まれて日の傾きなどろくにわかりもしない世界に、時を知る方法を私は持っていない。
「あっ、いた」
と弾んだ声が洞窟にこだました。目を開けると、そこにはウィンネが全身をずぶ濡れにさせて立っていた。こんな日に雨具も使わずに私に会いに来たというのか、馬鹿げている。おかげで濡れた制服は彼女の肌にピタリとくっついて、その細い輪郭をあらわにしていた。遠くで雷が鳴った。
「いつもの場所にいないから心配しちゃったよ」
自分の身など気にもせず、彼女は私の元まで駆け寄った。そして濡れた手で私の頭を撫でる。ひんやりと柔らかい感触が私の体毛を通じて肌に浸透した。
「ツーオももう少ししたらメブ博士を連れてくると思うから、しばらくここで待っていようね」
そう言って彼女は私の隣にちょこんと座った。ずぶ濡れの体が私に体重を預けてきて、少しヒヤリとする。一方でウィンネは私の体温が恋しくなるのだろう。私の頭を慎重に撫でながら胴を抱きしめた。本来ならそんなことは体を揺さぶって嫌がるのだが、事情が事情だ。仕方なく体温を奪われてやる。
そこからどれほど経っただろうか。少なくとも彼女の言っていた「もう少し」はとうに過ぎたと思われる。さすがにウィンネは気がきでならない様子でソワソワしている。私もそんな彼女の様子につられて不安になってきた。これは一つ彼らの居場所を特定する必要がありそうだ。
特定すると言っても彼らの心理状態からどう行動するかを予想するだけだ。私は時系列を追って彼らの行動範囲を予想してみた。ツーオは森の外れに住んでいるメブ博士と一緒に来ると言っていたから、おそらく一度彼の家に寄るだろう。メブ博士がどのような心の持ち主かわからぬが、最初はしぶり、ここにウィンネがいる事で行かざるを得なくなるだろう。しかし、今日は生憎の大雨模様だ。いつも使ってる道はいくつか浸水していたり、崩れたりしていて進めないだろう。となると、正規ルートから外れて遠回りすることになる。メブ博士は博識の持ち主とのことだから、私たちのいる場所の大まかな特徴を言えば、正規ルートから外れても難なくたどり着くことができるだろう。今は斜面沿いの道をぬかるみに気をつけながら進んでいる所だろうか。これならば、あと数刻で着くはずだ。
そう安堵した直後だった。私の鼻が嫌な臭いを感じ取った。それは土が動き、それにより土に埋まっていた死体であったり微生物のガスなどを混ぜたものの臭いだった。明らかにどこかで土砂崩れが起きる前兆である。私はその配合量からどの土かも特定することができる。土砂崩れが起きるのは……
私は眼を見開いて立ち上がった。ウィンネが驚いたように私のことを見る。彼女を無視して洞窟を出ようとしたが、
「ルー、どこに行くの?」
と尋ねたので振り返らないわけには行かなかった。私は目で彼女に伝えた。二人に危機が迫っている。一刻も早く現場に向かわないと手遅れになると。同時に私は覚悟していた。助けると言っても一獣が知的生命体を完全に守れるわけではない。近くで雷が鳴った。ウィンネは短い悲鳴を上げて、そこから何かを察したらしい。
「もしかして、ツーオたちが危険な目に遭ってるの?」
私は黙ってうなずいた。本来なら別種族が意思疎通できているという時点で驚くべきことなのだろうが、ウィンネの頭はそれどころではなかった。
「なら、私も連れて行って。ルーと一緒に私もツーオを助けるよ」
その語気に今まで彼女から感じたことのないはっきりとした意志が感じ取れた。だからこそ私は悩んでしまった。私がこれからやろうとしていることは同時にウィンネを危険な目に合わせるかもしれない。しかし、もし彼らを助けた所で、誰が彼女に気づいてくれるだろうか。もとよりこうするしかなかったみたいに私は黙ってうなずくしかなかった。
そこからはもう無我夢中だった。ウィンネが通れる道なき道を進みながら最短で二人のいるところまで向かった。そして二人に近づくに連れて臭いが強烈になっていくのがわかった。これは、もしかしたら助からないかもしれない。私の頭にそんな考えが浮かんだ。しかし、これも何かの縁だ。あとは朽ちていくだけの「私」がせめてこの世界をより良くするために役立てるのなら本望じゃないか。
現場に到着した時、土砂崩れは大きな奔流となって斜面を下っていた。ツーオとその隣にいる大人の知的生命体はその出来事にひどく動揺して今にも腰を抜かしそうな勢いだった。やるなら今しかない。私はウィンネを振り切って二人に体当たりした。重心が軽くなっていた二人は横に飛ばされて地面に尻餅をつく。大量の土砂が私を襲ったのはそこから瞬きすら許さぬ直後だった。
「ルー!」
二人が同時に私の名前を呼んだ気がした。
全く、私にはタケルという本名があるのに……
「博士、ルーは、ルーはどうなんんですか?」
「すまない、四方八方手を尽くしてみたんだが、上手くいったかは断言できない。彼の体の構造は私たちと根本的に異なるんだ」
「ど、どういうとですか、博士」
「いいかい、ツーオくん。私たちは普段、何かを考えるときに『お腹』を使う。しかし、ルーはどうやら『頭』を使うみたいなんだ。そこがもろに土砂のダメージを受けてしまっている。治せるか試してみたものの、彼の『脳』の構造は複雑で対処の仕方は分からないんだ」
「じゃあ助からないかもしれないんですか?」
「そこは彼の生命力に賭けるしかないね。研究時代の文献を調べてみたんだが、この星の生命たちは自己修復能力が他と比べて高い傾向にある。特に、ルーの仲間はかつて自分たちの体にいくつもの改造を施したらしく、どんな場所でも生きていける適応力を兼ね備えているみたいなんだ。だから、しばらく様子をみてみるしかない」
頭が割れるように痛い。それに全身の傷がずきずきと痛む。恐る恐る眼を開けるとそこには一組の雌雄が私のことを覗き込んでいた。確か名前をなんと言ったか……、思い出せない。顔は見たことあるのに、名前が思い出せないとは不思議なことだ。きっと顔見知り程度の関係性なのかもしれない。それにしてはとても愛着のある顔だ。
「ルー、大丈夫?」
少女は私の頭を撫でながら尋ねた。覚えたわけでもないのに、なぜか彼らの言葉が理解できた。だが、私の名前は間違っている。私の名前はタケル。決してルーなどではない。
「メブ博士がルーを野生に返してくれって。そうじゃないと研究所の人がやってきてルーのことをバラバラにするかもしれないから」
少女は目に涙を浮かべながら私の頭を撫で続けた。私は気持ちいと表現するためにうう、と鳴いた。しかし、喉が潰れてるせいかゔゔとかすれた声が出てしまう。ああ、これはもう長く持たないな、確かな根拠はないがそう感じてしまった。
森の外れにある建物から二人と、もう一人の見知らぬ男に見送られながら私は森へ帰っていく。去り際に、二人の少年少女の話し声が聞こえた。
「ウィンネ、俺、悔しいよ。せっかくルーに助けてもらったのに、恩返しができなくて」
「私も悔しい。だって、だって……」
「俺、生物学者になるよ。またルーと同じ動物が怪我したときに治せるように調べようと思うんだ」
「なら、私は獣医になる。どんな生物だろうと治せる獣医になってみせるわ」
二人の小さい手が繋がれるのが横目で確認できた。なぜだろう、彼らのことは顔見知りでしかないはずなのに、その光景を見るととても嬉しい気持ちになる。喜びたい気持ちが湧いてくる。
森の中を歩き続けた。相変わらず頭が割れるように痛いし、吐き気もする。おそらくこれ以上食事を取ることも難しいだろう。傷による死か、衰弱による死か、決めるのは私ではない。
見慣れた洞窟に入る。ここは私が寝床としていた場所。干し草でできたベッドや焚き火の跡があるのがその証拠だ。私は真っ暗な中、手探りで枝を探り当てて火をつけた。ぼうと燃え上がった炎が映し出したのは、壁に描かれた絵。親から聞いた話によると私の先祖が描いた絵らしい。二足歩行で手に松明を持ち、他の動物を狩る姿はかつてこの星を闊歩した知的生命体の姿が現れていた。
どこまでが本当かどうか分からない。両親に聞いた話によれば私たちの祖先は自らを「ホモ・サピエンス」と呼称し、文明を発展させていたそうだ。彼らのように建物を建て、社会を形成していたと聞いている。
しかし、ある時から歯車が狂ってしまったかのように先祖は衰退を始めた。自身の体を野生に適合するよう改造し、野宿で生活するようになった。その原因については分からない。戦争かもしれないし、革命が起きたのかもしれない。しかし、少なくともそれを期に私たちは急速にその数を減らすことになる。
ただでさえ出産と子育てに労力がかかるのに、加えて獲物まで捕まえなければならないのは、野生動物にとってコスト過多以外の何物でもなかった。急速に数を減らした私たちは今ではこの森に私しかいない。他がどうかは行った事がないから分からない。だが、ここと大して変わらないだろう。
子孫を残すための配偶者ももういない。いや、正確には十数年前までいた。私の妹にあたる個体だ。だが、彼女は餌を探している途中に肉食動物に食い殺されてしまった。それ以来、私は自分を枯れた存在だと思っている。だってそうだろう。私がいなくなれば、この森に「私たち」はいなくなるのだから。
それでも心なしか満足している。それはきっとあの二人にあるのだろう。あの二人とどのような関係だったかは憶えていない。しかし、彼らの手を繋いでいる姿、そして真っ直ぐな瞳に私は確信を持ってしまった。私はこの世界に生まれてきてよかったのだと。
さて、そろそろ眠くなってきた。もう寝ようか。
おやすみ——
<了>
遠い未来の話 名無之権兵衛 @nanashino0313
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