星に願いを
椎名
君と一緒に
――どこか遠くから、
カナカナカナ…カナカナカナ…。
茜色の空に、蜩の鳴き声。
なんとなくもの哀しい気持ちになる。
賑やかだったグラウンドには、今はもう誰もいない。
運動部の活動の時間は終わってしまったのだろう。
夕暮れの中、人気のない学校の風景は酷く寂しく見えた。
わたしがそんなことを考えながら窓の外を見ていると、尖った声が叩きつけられた。
「七瀬さん、あたしの話、ちゃんと聞いてる?」
名前も知らない女の子は苛立ちを露わにして、自分の隣の友人の肩を抱く。
「
わたしは真悠と呼ばれた女の子に視線を移した。
坂口真悠。
彼女とは今年初めて同じクラスになったけど、親しく話したことはない。
彼女が日直当番の時、教卓に持参した花を飾ったり、黒板を丁寧に拭いている姿を見て、いい子だなぁ…と思っていたけれど、話す機会がないまま一学期は終わってしまった。
ふわふわの髪の毛で自分の顔を隠したいのか、わたしが一方的に話を聞かされている間、真悠さんはずっと俯いていた。
彼女はさっきから何度もハンカチで顔を拭っている。
長身のわたしから背の低い彼女の表情を窺うことはできない。
わたしは小さなため息をついた。
彼女たちの心を傷つけないよう話ができるといいのだけど…と願いながら、同時に、どう思われても仕方がないと思う投げやりな気持ちを抱えたまま口を開く。
「最初に言ったように、尾崎先輩とはほとんどお話したことがないの。
わたしは生徒会の仕事をお手伝いしてるから、サッカー部の部長さんとして彼の顔と名前は覚えているけど…」
言葉に棘が混じらないように気をつけながら、自分の率直な気持ちを二人に伝える。
「尾崎先輩が真悠さんの告白を断った時に、
だからといって、尾崎先輩に告白される前にわたしからお断りに行くなんて…できないわ」
「尾崎先輩が失恋すれば、真悠のことを見てくれるかもしれないのに、どうして協力してくれないの?
本当に先輩のことを何とも思っていないのなら、告白されても断るんでしょう?
だったら、後でも先でも同じじゃない。
泣いている真悠のことも全然心配してないみたいだし、あなたって冷たい人なのね。
人の痛みを思い遣ることができないなんて、最低っ。
ちょっと可愛いからって、その上から目線なんなの?
自分をちやほやしてくれる人を減らしたくないだけなんじゃない?」
噛みつくような勢いで、わたしを非難する言葉が返ってくる。
敵を見るような眼差しに怯みそうになる。
こういうことは、今までに何度もあった。
でも、いつまで経っても慣れない。
わたしは平静を装いながら、できるだけ丁寧に説明した。
「好きな人ができたら必ず告白しないといけない…なんて、決まりがあるわけじゃないでしょう?」
「「…?」」
「尾崎先輩が本当にわたしを好きなのだとしても、告白するかどうか決めるのは先輩の自由。
自分の気持ちをわたしに告げて…顔見知りからもっと親しい関係になりたいと願うのか、気持ちを秘めたまま遠くからわたしを見つめるだけで満足するのか。
彼がどちらを選ぶのかわからないけど、わたしがその決断を…選択を潰すようなことはしたくないの」
一呼吸おいて、肝心なことをつけ加える。
「それに、わたしが先輩に『誰から聞いたの』って訊かれたら、あなたたちが困るんじゃない?
自分が誰を好きなのか、相手に告白する前に言いふらされるのって…嫌じゃない?」
わたしはそう言い終えると、その場にしゃがんで真悠さんの顔を見上げた。
「ねぇ、さっきからあなたのお友達ばかり喋っているけれど、本当にあなたの意見も同じなの?」
「…え?」
彼女は黒目がちな目を瞬いた。
「あなたの
「…っ!」
ビクっと彼女は身体を震わすと、ほろほろと涙を流した。
「真悠は人見知りする子なのっ。
七瀬さんと違って繊細な心の持ち主なんだから、自分でうまく話せなくても仕方ないでしょう?」
また真悠さんのお友達がしゃしゃり出てきた。
いい加減面倒になってきたけど、一応訊いておこうかな。
わたしは立ち上がって、彼女の顔を正面から見つめる。
「わたしが繊細じゃないって、どうしてあなたに解るの?」
「…っ!」
「わたし、今まであなたとお話したこともないし、一緒のクラスになったこともないよね?
それでどうして、『わたし』の性質が…心の内面が解るの?」
真悠さんの友達は一瞬怯んだあと、乾いた笑い声をあげた。
「あなた、モデルをしてるじゃない。
大勢の見知らぬ人に囲まれて、写真を撮られているんでしょう?
そんな恥ずかしいことを仕事にしてお金を稼いでる人が、繊細な心なんてもっているわけがないわ」
「……そう。
あなたはそんな風に考える人なのね」
わたしはため息混じりに頷くと、彼女の言葉を否定も肯定もせずにドアを指し示した。
「お帰りはあちらのドアからどうぞ。
わたしにはまだ、学園祭関連の仕事があるから」
「…っ!」
何か言いかけた彼女の手を真悠さんが握る。
「香奈ちゃん、もう、いいから」
「でも、真悠っ」
「本当に、いいの。
わたし、自分のことばかりで、先輩のこと…先輩の気持ちを、大切に思ってなかった。
七瀬さんが断ってくれて、よかったの」
「…。」
「お仕事中押しかけて…迷惑をかけてしまって、ごめんなさい。
わたしたちがお願いしたこと、尾崎先輩のためにも忘れてください。
…香奈ちゃん、行こう」
真悠さんはわたしにぺこりと頭を下げると、応接室から出て行った。
「…あ、あたしは謝ったりしないわよ!
間違ったこと言ってないもの」
彼女はそう言い放つと、つんっと顔を逸らして足早に立ち去った。
――台風一過。
静けさを取り戻した空気にホッとしながら、わたしはソファの裏側に声をかけた。
この部屋の中に居た、もう一人の人物に向けて。
「もう出てきても大丈夫ですよ」
「…っ!」
息を殺して潜んでいた『誰か』が咳き込む声が聞こえた。
わたしがソファの裏側を覗き込むと、そこには見知らぬ男の子が座り込んでいた。
彼はおおきく目と口を開けてわたしを見ている。
日焼けした肌と色素の抜けたパサパサの髪の毛に、白い開襟シャツと黒いズボン。
彼が着ている制服が
シャツのポケットに刺繍されている校章に目が留まる。
二本の剣と白い蘭の花の意匠は、
…ということは。
「あなた、白蘭の学園祭実行委員?
今日は
今日の会議は、三校の生徒会役員と各担当部門の長と補佐が集まるのだと聞いていた。
生徒会のお手伝い要員のわたしも、お弁当とお茶のセッティングに駆り出された。
たしかここの応接室は、会議が始まるまでの控え室として他校生に利用されていたはずだけど…。
わたしの問いに、彼は頷いた。
決まり悪そうに頭を掻いて謝る。
「うん、そうなんだ。
俺、ちょっとだけ昼寝したくて…でも先輩に見つかると怒られるから、ソファの後ろに隠れて寝てたんだけど、そのまま寝過ごしたらしい。
盗み聞きなんてするつもりじゃなかったけど、出て行くわけにもいかなくて。
本当にごめん!」
立ち上った彼は、身を二つに折るように勢いよく頭を下げて謝罪した。
わたしはそのお辞儀の角度と勢いにびっくりしたあと、なんだか可笑しくなって笑い出した。
「え?
俺、笑いをとるつもりはなかったんだけど…?」
「ご、ごめんなさい」
「いや、謝らなくてもいいけど……なんで?」
彼は不思議そうな表情を浮かべてわたしの顔を見上げる。
彼が立ち上ったことで、わたしたちの身長差がはっきりする。
頭ひとつ分、わたしのほうが高い。
「ええと、その…あなたが頭を下げる角度がすごくて。
さすが、古い伝統のある学校の生徒さんは違うなぁ…と思ったの」
わたしが微妙に誤魔化しながら答えると、彼はにっこりと笑った。
「ああ、そこかぁ。
白蘭には怖い応援団がいて、一年の四月にみんな『洗礼』を受けるんだよ。
お辞儀の角度とか、声の出し方とか、すっげー厳しく叩き込まれた。
一人できない奴がいると、クラス全員居残りとかザラにあるし」
「ふぅん、大変だったんだね」
「うん、すごい大変。
だってさ、中一なんて、ついこないだまで小学生だったガキじゃん?
入学早々学ラン着た強面の先輩たちに囲まれて、怒鳴られながら延々としごかれるとか想定外だし。
泣き出す奴とか、逃げ出そうとする奴もいてさ。
脱落者が出たらクラス全員の連帯責任になるから、みんなで必死に励ましたり、なだめたりして…。
まぁそのことがきっかけで、クラス全員の団結力が増したり、お互いの性格がわかったり、いいこともあったんだけど」
初めて聞く男子校の話をわたしが興味深く聞いていると、彼は突然慌てて言った。
「――ごめん、俺、初対面の女の子に何を語ってるだろ…」
日焼けしている彼の肌がほんのりと赤く染まった。
「ううん、面白い話だったよ。
青陵にはそんなカリキュラム無かったから。
『東の
彼はしょんぼりした表情から嬉しそうな笑顔に変わった。
「…そっか、それなら良かった。
確かに、共通点って言われると無いよなぁ。
白蘭はスポーツ、青陵は学問、聖ラファエラは良妻賢母育成に力を入れているし。
男子校と共学と女子校って違いも大きいよな」
「だからこそ、三年に一度の合同学園祭がすごく盛り上がるのかもしれないけど…こうやって夏休みにまで学校に来て、準備を進めるのは大変だよね。
青陵に来て寝てしまったってことは、部活の朝練でもあったの?」
「うん、アタリ。
今日は五時起きで…朝の六時から十時半まで朝錬でしごかれた後、先生にバスで青陵に連行されてきたんだ。
実家を離れての寮生活って、結構憧れをもっていたというか、夢があったんだけど、全然自由なんかないし、もうすっげー大変」
「白蘭の寮に入る子は地方から来た特待生が多いって聞いたことあるけど…あなたも?」
「うん、俺、水泳でスポーツ推薦もらって白蘭に入ったんだ。
自宅から通っている奴もいるけど、通学にかかる時間がもったいないし、あと白蘭は勉強のほうも結構厳しいから、本気の奴ほど寮に入ってる…っと、そういえば俺たちまだ自己紹介してなかったね」
彼は背筋をぴんっと伸ばして、姿勢を正した。
「白蘭中二年、佐々木
星の
急に真面目な表情で名前を告げた彼の意図が読めない。
わたしは怪訝に思いながらも応えた。
「青陵学院中等部三年、七瀬
名前の漢字はね…こういう字」
口で説明するのは難しかったので、生徒手帳に記載されている名前を見てもらった。
「やっぱ年上かぁ…。
あ、俺のことはコータって呼んでくれると嬉しい。
馨さんと馨先輩…どっちがいい?」
「部活の先輩じゃないんだから、わたしに敬称をつけなくてもいいよ」
「タメ語でオッケーってこと?」
「うん」
わたしが頷くと、昴太くんは飛び上がって喜んだ。
「やったぁ!」
「…そんなに嬉しいことかな?」
わたしが若干退きながら尋ねると、昴太くんは逆にびっくりしている。
「馨みたいな可愛い女の子と知り合う機会なんて滅多にないし、名前呼び捨てで良くて、敬語無しって…『壁』がないみたいな感じというか、親しい間柄っぽくて、すっげー嬉しかったんだけど……迷惑?」
急に弱弱しい口調に変わり、捨てられた仔犬のような目で見つめられて、わたしは困惑した。
迷惑かと言われるとそうではないけれど…彼と同じように嬉しいと思わなかったから。
「――ええと、その、俺、さっきの話をほとんど全部…それこそ奴らがこの部屋に入ってきた音から聞いてたんだけど、聞いててすごく腹が立ったんだよ」
いきなり話が変わった。
でも、昴太くんが一生懸命に何かを伝えようとしているので、黙って話を聞く。
「隠れてたからあいつらの顔は見れなかったけど…ノックも挨拶もせずにいきなり入ってきて、馨の了解も得ずに話を始めた挙句、勝手な言い分で協力しろって言ってただろ?
頼みごとをしている立場ってもんを全然わかってないくせに、馨が断ったら逆ギレするとか…おまえらどんだけ自分勝手なんだよ! って、言ってやりたかった」
自分のことのように怒っている彼の表情の変化に驚いていると、優しい口調で訊かれた。
「俺は部外者だし、他校生だから黙って隠れてたけど……大丈夫?
本当はすごく、辛かったんじゃないのか?」
昴太くんの言葉に、わたしは一瞬言葉を失う。
「だいじょうぶ…だよ」
そう、平気。
知らない人に勝手なイメージを押し付けられることは、よくあることだし。
学校公認のアルバイトとはいえ、モデルの仕事をしていることも事実だし。
学業に支障がでないようにはしてるけど、便宜を図ってもらっていることも本当だから。
ちょっとだけ特別扱いされていることを、非難されることがあっても仕方がない。
「わたしは大丈夫、全然平気」
自分の言葉が上滑りしてゆくのを感じて、わたしは笑おうとした。
嬉しくなくても笑顔を作って、なんでもないことのように流して、忘れる。
誤魔化してしまえば、辛い出来事と向きあわなくていい。
わたしが笑顔を作り終える前に、昴太くんがわたしの手を掴んだ。
「――屋上へ行こう」
「…え?」
ぐいっとものすごい力でひっぱられ、わたしは彼に引きずられるように応接室の外へ出た。
突然のことに呆然としているわたしを連れて、昴太くんは上へ上へと進んでゆく。
人気のない校舎に階段を駆け上がる足音が響く。
わたしたちは蒸し暑いとろりとした空気の中を泳ぐように駆けて、屋上につづく扉の前までたどり着いた。
彼は重い金属製の扉を開けると、空を指差して言った。
「馨、ほら、一番星が出てる!」
「…。」
外には少しだけ涼やかな風が吹いていた。
わたしは肩で息をしながら彼の指差していた西の方角を見上げる。
夕暮れの空にダイヤモンドみたいにキラキラ光る星があった。
「あれは、アークトゥルス。
牛飼座の一等星で、オレンジ色っぽい色が特徴。
あっちに見える乙女座のスピカとは夫婦星って呼ばれてるんだってさ」
「アークトゥルスとスピカって……
「そうそう、しし座のデネボラと正三角形になるよーって教わったあの星たちだよ」
「春の大三角って名前だから、夏には見えない星なのかと思ってたけど…違うのね」
わたしの呟いた言葉を聞いて、昴太くんは大きな声で笑った。
「そ、そんなに笑わなくても…」
「ごめんごめん。
いや、馬鹿にして笑ったんじゃなくてさ、俺も一年前、馨とおんなじ台詞を言ったから」
「…?」
「俺が壁にぶつかって…タイムが縮まらなくて悩んでたとき、先輩が俺を屋上に連れ出して言ったんだ。
『星を見上げろ』って。
そうすれば涙は流れ落ちないし、やりきれない気持ちも薄れていくから…って」
「…。」
「俺、水泳やってるんだけど、屋内のプールは閉じられた空間なんだ。
プールの中に充満している塩素の匂いや音の反響って、普段は全然気にならないんだけど、凹んでいる時には辛くてさ。
親に頼み込んで寮に入ったけど、生活の場が学校と寮だと逃げ場がないっていうか…いつも『できない自分』のことが頭から離れなかった。
そんなどん詰まりのときに、こうやって夜空の星を見上げることを教えてもらったんだ」
わたしは彼の邪気の無い笑顔をぼんやりと見ているうちに気がついた。
「――わたし、辛そうな顔していた?」
「…。」
その沈黙が答えだった。
「わたし、ちゃんと笑えてなかったんだね」
わたしは苦笑いしてまた誤魔化そうとした。
「俺には本音を聞かせて欲しい…って言ったら、迷惑?」
「…え?」
「さっきの話に戻すけど……俺、馨の顔も名前も知らないまま隠れて話を聞いてたとき、この子すごいなって思ってたんだ。
自分に喧嘩売ってくる奴にも丁寧に話をしようとするのって、すごく難しいことだと思う。
俺なんかすぐに喧嘩買っちゃうタイプだしさ」
彼は苦笑いしながら、まっすぐな視線で私を捉える。
「敵意をぶつけられても、相手と同じところに堕ちない馨のことを、大人だなって思って…尊敬したし、友達になりたいと思った。
これきりじゃなくて、これからもずっと、馨のいろんなことを知りたい」
昴太くんの熱を帯びた眼差しに耐えられなくて、わたしは目を逸らす。
「ひと目惚れ、じゃなくて、ひと耳惚れ?
実際に馨の顔を見て惚れ直した感じかも。
……で、今、こうやって口説いてるんだけど」
口説いてる?
その言葉の意味を理解したわたしは、一歩後ずさりして彼から離れた。
「わたしのこと、からかって遊んでるの?」
「まさか、本心だよ」
あっさりとそう言って笑う一つ年下の男の子の顔を睨みつける。
「わたしたち、さっき会ったばかりなのに」
「時間なんて関係ないよ。
俺は、馨のことがいいなって思っただけ。
そして、もっと近づきたいって思ってるだけだよ」
昴太くんは臆面なく答えた。
その言葉を聞いて、わたしの頬がどんどん熱くなってゆく。
きっと、顔、赤くなってる。
固まってしまったわたしに気がついた彼は首を傾げた。
「馨、ひょっとして…告られるの初めて?」
「…。」
わたしが無言で頷くと、昴太くんは人の悪そうな笑みを浮かべた。
「へぇ、そうなんだ?
学校が同じだと、タイミングを見計らいすぎて行動に移せなくなるのかな?
それとも高嶺の花すぎて手が出せなくなるとか?」
「そんなのわたしに言われてもわからないよ」
「まぁ、その他大勢のことなんかどうでもいいか。
『初めて告白してくれた人』として、俺が馨の記憶に残ることは確定だし」
わたしはにやにや笑う彼の頭を軽く小突いた。
「もう、恥ずかしくなるようなこと言わないで」
わたしの手を昴太くんが握りしめる。
「俺は本気で口説いてるから別に恥ずかしくないけど?
…っていうか、馨のソレ、照れてるって思っていいの?」
「…っ!」
わたしはとっさに否定できずに口ごもった。
心臓の音がうるさいくらい響いている。
否定しなくちゃ…という考えと、それは事実なんじゃないか…と冷静に指摘する心の声が交錯する。
わたしが答えを選び取るより先に、昴太くんが言った。
「――嫌われてないなら、いいや。
馨の一番近くにいたい…っていうのは、俺の勝手な望みだから」
「いちばん近く?」
物理的な距離を意味しているのだとしたら、学校が違うのだからそれは無理だ。
わたしの心を読んだようなタイミングで彼は答えた。
「心の距離の一番近いところ…って意味。
恋人になりたいって言ったほうがよかった?」
「そんなこと、訊かれても……」
「困る?」
「うん」
「そっか、でも俺はそれくらいじゃ諦める気にならないから」
掴まれていた手の力がふっとゆるめられた。
わたしが自分の手を引き戻す前に、再び指先を捕らえられる。
ちゅっ。
昴太くんはわたしの指先に音を立ててキスをした。
「なっ、何するの?」
驚いたわたしが手を引くと、あっさりと放してくれた。
「何って……ええと…マーキング?」
「マーキングって…」
「嘘、ごめん冗談だって。
俺が馨に触りたかったのと、あとは願掛け」
彼は両手を大きく広げて空を見上げる。
「こんなにたくさんの星が瞬いていると、願い事のひとつぐらい叶えてもらえそうな気がしてこない?」
昴太くんの視線を追いかけてわたしも空を見上げた。
地平線に近い空は茜色。
その少し上は藍色と薄紫色に染まっていて、中天の夜の闇を星々が輝いている。
新月の夜空にはさっきよりもずっと多くの星が見えた。
「――綺麗」
わたしの口からこぼれた感嘆の声に彼の声が重なる。
「星も綺麗だけど、馨も同じぐらい綺麗だと思うよ」
「…っ!」
「そうやって照れている表情は、すごく可愛い」
戸惑うわたしとは対照的に、昴太くんは余裕の笑みでわたしを見つめている。
わたしだけ振り回されてるみたいで、悔しい。
何か言い返してやろうと口を開いたとき、良く通る大きな声が耳に飛び込んできた。
「――コータ!
てめぇ、会議すっぽかして、
もう帰るから、さっさと下に降りて来い!」
校庭から
「やべっ、忘れてた」
昴太くんは表情を一変させると、屋上のフェンスから身を乗り出すようにして大声で返答した。
「先輩、すいません、今すぐ行きます!」
「五分以内に来なかったら、置いていくぞ!」
「はい!」
張りのある声の応答が速いテンポで交わされるのを、わたしは呆然と見ていた。
彼はフェンスから離れてわたしの隣まで戻ってくると、早口で尋ねた。
「馨、スマホ持ってる?」
「…?」
「持ってるよね?
早く出して、早く早くっ」
昴太くんが切羽詰まった表情で急かす。
わたしはあわてて上着の内ポケットから携帯電話を取り出した。
「ちょっと貸して」
彼はわたしの手から携帯電話を取り上げると、自分の携帯と交互に何かの操作をしている。
「――よし、これで連絡先の交換完了っ」
「…え?」
ぽんっと、わたしの手に携帯電話が返却された。
「今は時間ないし、馨がいい返事を出す気になるまで、答えはいらない。
俺、本当に欲しいものには、手間隙と時間を惜しまないタイプだから、長期戦でも大丈夫。
じゃあまたあとで連絡する!」
自分の言いたいことだけ言って、昴太くんは風のように去っていった。
「…えっと?」
短い時間の間にいろいろなことが起きたので、わたしの許容量はいっぱいいっぱいになっていた。
いい返事以外の答えはいらないって…?
長期戦でも大丈夫って…?
あとで連絡…?
「あれ?」
もしかして…もしかしなくても、わたし、勢いに流されて対応を間違ったかも?
冷静さを取り戻した今、まともな判断力を失っていた自分自身の言動が信じられない。
「わたしって、突発事態に弱いんだ」
自分のことなのに、今まで知らなかった。
ずっと、手のかからない『いい子』だと言われてきた。
わたしは父に似て背が高く、父と母の良いところを受け継いで整った顔立ちをしているせいか、年齢よりもしっかりしていて大人びている…なんてアルバイト先の大人の人たちに褒められることも多かったけど、仕事場以外のわたしはこんなに流されやすくて弱い。
「ふふっ」
なんだか可笑しくなって、わたしは声を出して笑った。
両親から『いい子』でいることや、『早く大人になること』を求められたことはない。
でも、わたしは自覚のないまま自分自身でそう思われることを選んでいて…そして、中身が追いついてなかった。
「あははっ」
自分のことを『子供』だと思ったことなんて、数えるほどしかない。
クラスメイトや同じ学年の子たちのことを、いつも子供っぽいと思っていた。
だけど、わたしも彼らとそんなに変わらない。
それが解ったことが、勘違いしていた自分が、とても可笑しくて笑いが止まらない。
両手を広げて、星空の下でくるくると回る。
誰もいない屋上で一人、飽きるまで笑いながら回って、転んで尻餅をついてまた笑った。
制服が汚れるのはちょっと気になったけれど、そのまま寝そべって星空を見上げた。
たくさんの星のキラキラした瞬きがとても綺麗だったから、一人で見ているのが淋しいと思った。
誰かと、今、この瞬間を分かち合いたい。
一緒に空を見上げて、綺麗だねって言って…それから…。
「…誰と?」
ふと疑問が口から飛び出したとき、携帯がメールの着信を告げた。
件名のない短いメール。
≪さっきは急いでて、いろいろごめん。怒ってる?≫
短い文面から伝わってきた気持ちに、またくすっと笑みがこぼれた。
≪ちょっとだけ、ね。
いつか、あなたの名前の星を一緒に見たいな≫
返信にはわざと怒ってないとは書かなかった。
明確な日時の約束もしない。
またいつか、そんな日がくるといい…なんて思いながら枕草子の一説を口ずさむ。
「――星はすばる、ひこぼし、ゆふづつ…」
星といえば昴、と言った清少納言。
誰かと一緒に星を見るなら、昴太くんがいいな…と思ったわたし。
この気持ちは、きっとまだ恋じゃない。
でも、心と身体が浮き立つような感覚は、可笑しくてわくわくする。
彼が引き出した『わたしの知らないわたし』は、まだたくさん居るのかもしれない。
それは多分、良いところと悪いところ両方あるのだろうけど…その全部が『わたし』なら、良いも悪いもない。
昴太くんに言われる前に、まず、わたしがわたしをもっと好きになろう。
本音で話せる友達も、たくさん作ろう。
「次は絶対、わたしが主導権を握るんだから」
そう心に決めて、わたしは満点の星空を見上げる。
煌めく星々の瞬きを目に焼き付けたあと、屋上を後にした。
星に願いを 椎名 @Coeur
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