ハンニバルとクソひろい

小倉ひろあき

ハンニバルとクソひろい

 これは昔々のお話だ。

 今からおよそ2200年以上も前の話だから誰の記憶に無くても不思議じゃない。

 しかも、このお話は日本から10,664キロも離れた遠い遠いスペインのことだ。


 当時、スペイン東側はカルタゴという国の一部で、カルト・ハダシュトと呼ばれていたらしい。

 そのカルト・ハダシュトの町に一人の若者が住んでいた。名をヒミルコという。


 ヒミルコはまだ10代の半ばであったが、早くに亡くなった父親の仕事を継ぎ、立派に働いていた。その仕事は町のクソを集めて農村に売ることだ。


 少し驚くかもしれないが、当時はまだ下水道はなく、人々は家にある大きなかめなどをトイレにしていた。当然、毎日用を足しているとあふれてしまう。

 そこら辺に勝手に捨てると怒られるので、一杯になるとヒミルコのような者に金を払い、回収を頼むのだ。

 そのクソは肥料になるため農家には売れる。

 当時は町の人々は栄養が良いとされ、なかなか良い値段でクソも売れたらしい。


 ヒミルコは親から継いだ仕事に対し、何も疑問を抱かなかった。

 毎日忙しく働き、報酬を得て、飯を食う。そのサイクルはとても幸せなことだと感じていた。

 だが、その日々に変化が訪れる。


「ヒミルコや、お前も立派な若者になった。そろそろ嫁をもらわねばならないね」


 母の勧めに従い、ヒミルコは祭りの日に着飾り、神殿に向かった。

 カルタゴを建国したフェニキア人は各地と交易し、文化を吸収して独自の宗教を作り上げていた。皆が信心深い。


 豊穣ほうじょうの神をまつる神殿には若い男女が出会いを求めて集っていた。

 お見合い結婚をする貴族や上流階級は別として、庶民の若者はこうした場にて結婚相手を探すのだ。


(すごい人出だぞ)


 なるほど、豊穣の祭りとはこうしたものかとヒミルコは納得し、神殿に足を踏み入れた。

 そこかしこで若い男女が出会いを喜び、恋をささやく。なかには物陰に潜んで愛を交わす者すらいた。


 しかし、ヒミルコの周囲には誰も近づかない。

 皆が露骨に彼を避け、顔をしかめる者やニヤニヤと薄笑いを浮かべる者もいる。


(いったいどうしたことだろう?)


 ヒミルコは戸惑うが、周囲の声を聞くうちに、自らの臭いが原因だと気がついた。

 いかに身を清めて着飾ろうと香料入りの石鹸などない時代のことだ。髪に、爪に、肌に染みついたクソの臭いはとれるものではない。

 若い娘がクソの臭いを好むはずもなく、こうして彼は辱しめを受けたのだ。

 ヒミルコは羞恥心でいっぱいになり、逃げるように立ち去った。


(俺は毎日まじめに生きてきただけなのに、なぜこんな目に遭わねばならぬのだ)


 ヒミルコの目からは悔しさで涙がこぼれ、口からは嗚咽がもれた。

 その様子を見た母親は気の毒がったが、どうなるものでもない。


 真面目なヒミルコは翌日からも休まず働いた。

 だが、その様子は変わり、背を丸め顔を隠すようにうつむいて歩くようになった。

 また笑われるかもしれないと祭りの日を思い出すだけで、たまらなく人の目が怖くなったのだ。

 幸せな毎日は辛いものになり、父から継いだ仕事は呪わしいものへと変わった。


 ◆


 数年の時が経ち、ヒミルコは立派な青年になった。

 いまだにクソを集めていたが、これは他の生き方を知らないからである。

 当時は家業というものは大変重視され、パン屋の息子はパン屋になり、大工の息子は大工になる。ヒミルコはクソ集めの他には仕事は思いつかないのだ。


 老いた母も亡くなったが、嫁はこない。

 これはヒミルコが「俺に女が寄りつくはずがないさ」と諦めきっていたためだ。

 若い頃の手痛い経験は彼の心に深い傷を残していた。


 ある日、街角に布告官が立ち、大声を張り上げていた。

 当時、文字を読めるものは少なく、こうして布告官が政府の発表を告げるのだ。


「きたる明年春、ハンニバル・バルカは卑劣なるローマに懲罰を行うことを決意した! ローマは卑劣にも我らが同盟都市サグントゥムを篭絡ろうらくし――」


 どうやら布告官はカルト・ハダシュトの殿様ハンニバルが遠征のために兵を募ると言っているらしい。


 これだ、と思った。


 ヒミルコは争いを好みはしないが、健康な肉体の持ち主で奴隷ではない。兵士になる資格は十分にある。

 それに何より兵士になればバカにされることはない。


(募兵なら、俺でも参加できる)


 ヒミルコは勇んで戦支度いくさじたくを始めた……とはいっても、クソ集めを生業とする彼に武具などはない。

 鉄の鍋を首からぶら下げて鎧とし、包丁を棒にくくりつけて槍とした。頭には布を縛り付けただけだ。

 この時代、多くの兵士の装備は自弁である。ヒミルコのような者はこうするより他はない。


 支度をすませ、すぐに募兵が行われていた広場に向かうことにした。

 広場では奇妙な格好をしたヒミルコは大いに目だち、周囲からは嘲笑の的にされたが、そんなのは構わない。


(これで生き方を変えられるかもしれない)


 ヒミルコは期待に満ち募兵の列に加わった。


「おい、ハンニバル様がいるらしい」

「自ら兵を選ぶとは力が入っているな」


 左右から聞こえる声に耳を傾けると、殿様がいるらしい。

 見れば一段高い場所で立派な身なりの男性が集まった兵士たちに声を掛けているようだ。ハンニバルに間違いない。


あの殿様が俺の未来を変えてくれるかもしれない――そう考えただけでヒミルコの胸は高鳴った。


「次、名前と職業を述べよ!」


 いよいよヒミルコの番が来た。自ら「クソ集めです」と名乗るのは恥ずかしかったが、すぐにこの仕事ともおさらばだと辛抱し、消え入るような声で応えた。

 すると、壇上の立派な男――ハンニバルが「待て」と声を上げた。

 穏やかで低いが不思議と通り、耳に心地よく届く声だ。


「お前を連れていくことはできぬ、町を守れ」


 ハンニバルはハッキリと響く声でヒミルコに告げた。


(俺を、連れていけないだって!? クソ集めは兵士にもなれないって言うのか!?)


 これには黙っておられない。


「クソ集めには兵士ができないと?」


 血を吐くようにヒミルコは言葉を絞り出した。

 羞恥心で真っ赤だった顔は怒りで青くなっている。


「そうではない。周囲を見るがいい、集まった兵にお前のような立派な職の者はおらぬ」


 ハンニバルは穏やかに、だがよく通る声でゆっくりとヒミルコに語りかけた。


「いいかねヒミルコよ。クソを集める者はこの町でもっとも重要だ。クソを集める者がいなくなれば民衆はそこかしこでクソを捨て、たちまちに腐敗して病が生まれるだろう」


 当時、顕微鏡は無いが不潔な場所から疫病えきびょうが生まれることをカルタゴ人は知っていた。


「病が生まれれば塀に囲まれた町はたちどころに冒され滅びる。ゆえにクソ集めを兵にすることはできぬ。お前を連れていけば町が滅びるからだ」


 ヒミルコは驚いた。嫌で堪らなくなった仕事が町でもっとも役にたっていたことに――それを見ていた人がいたことに。


 ハンニバルが「我らの帰る町を守ってくれ」と告げるやヒミルコはわっと泣き出した。シンと静まり返った広場にヒミルコの嗚咽おえつのみが響く。


 それはかつて流した悔しさの涙ではない。

 己の仕事が認められた男の涙だ。

 古代の人々の感情は激しく、それを取りつくろうこともない。

 広場の人々は口々にヒミルコを称え、ハンニバルを尊敬した。


 ◆


 その日から、背を丸めたクソ集めはいなくなった。

 ヒミルコの仕事は町でもっとも役にたつ仕事なのだ。

 うつむいて溜まったクソ見逃すような無様なことはできない。


 懸命に働く彼にはいつの間にか嫁もでき、孫に囲まれ体が動かなくなるまでクソを集めたとのことだ。

 その時すでにカルト・ハダシュトの町はローマ人に征服され、カルタゴ・ノヴァと名を変えていた。今で言うところのカルタヘナの町である。


 今でも、カルタヘナの町では9月にはカルタゴとローマの戦争を模した祭りがある。

 カルタゴの英雄ハンニバルの姿は、今もそこで見られるだろう。


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ハンニバルとクソひろい 小倉ひろあき @ogura13

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