残酷な希望

〈金森 璋〉

残酷な希望

 寒く、そして美しい夜だった。

 あまりにも寂しく、あまりにも悲しい。

 そんな夜だった。

 僕はそのとき、寒空の下でひとりぼんやりと将来の行く末のことを考えていた。

 ご丁寧にも僕の傍らには、くしゃくしゃになった進路希望調査票が放り出されていた。まるで、絵にかいたような中学二年生だ。

 これから先、僕は何をして生きていたいのか。

 十四歳になった春、初めてそう問われて。生きている気持ちがしなくなった。

 生きているからには、死ぬのだろう。

 死ぬからには、生きてからなのだろう。

 では、今まで生きてきた意味というのは、何なのだろうか? 何か、僕は目的をもって生きてきただろうか?

 いいや、そんなことはしたことがない。

 毎日、明日の給食やアニメを楽しみに、最近は土曜日の夜の夜更かしが許されたので、午後九時から始まるドラマを楽しみに、やれ喧嘩した、やれ好きな女の子がいる、だの。そういった無為なことに時間を費やしてきた。

 これでは、原始人と同じじゃないか。

 歴史で習った、石と土と藁で暮らす、あんな人々と同じじゃないか。人間は、考えることを覚えたから進化したんじゃなかったのか。

「進路、か……」

 また、ぼんやりと頭の上を見る。

 今年の桜の花はかなり長く続いている。もう四月の七日を過ぎたのに、満開とまではいわずとも、さらさらと花を散らしながら、儚げに咲いている。


「ふふっ」


 どこからか、笑い声が聞こえた。僕の耳がおかしくなったのかと思った。早いとはいえ夜の公園だ。人影はない。ぼんやりと街灯が照らしているこのベンチの周りには、誰もいないのだ。

 桜の妖精か? とさえ思った。しかし、それは正しくない――正しくは、そう。女性がいたのだ。桜の妖精かとさえ思うような、美しい女性が。

 僕が見えていなかっただけだ。きちんとそのひとは存在していて、僕の眼が節穴だっただけである。

「ごめんね、見えなかったでしょう。お葬式の帰りなものだから」

 そう言った女性は、黒い装束に身を包んでいた。黒のレースの手袋をして、真珠の飾りを耳や首元に着けている。

「いえ、えっと」

「いいの、あなたは何も悪くないから。ただね、あなたの姿が彼に似ているなって思って」

「はぁ」

「ごめんなさいね、突然こんなこと言われても、戸惑うわよね。ごめんなさい……」

 そう言って、女性は儚げに微笑んだ。

「私と彼もね、ここでよく、桜を見て過ごした。こんなふうに夜になって、夜桜になるまで。携帯電話じゃうまく写真が撮れないね、なんていいながら」

「その彼、さん――もしかして」

「ええ。その帰りなの」

 亡くなっている。

 人は、死ぬのだ。

 人は死ぬのだ、あまりにも唐突に。

「彼とね、一緒に劇団に入っていたの。いつか、主演の舞台に立ちましょうって。できたら、ダブルキャストがいいね、なんて」

「いい夢、ですね」

「そうなの。とっても楽しかったわ。彼と即興劇なんかしたりした日には、周りから大笑いが起こるの。かと思えば、その即興劇が終わるころには、みんなハンカチを手にしているのよ。不思議な人、だったわ」

「僕がそんなすごい人と、似てるんですか?」

「ええ。そうやって進路に悩んでいたあなたに」

「進路……」

 僕は、傍らに置いてあった進路希望調査票に目をやった。春風にもっていかれないように、イキッて買ったブラックコーヒーの紙コップが乗せてある。もちろん、飲みたくないほど苦いので、中身はたっぷり入っている。

「そうやってね、コーヒーなんかを買い込んで、ずーっと考えていたみたい。真似事が好きだし、出鱈目にお話を作るのは好きだけれど、自分なんかが演者になれるんだろうか、って」

「もしかして、ブラックコーヒーを?」

 くすっと女性は笑って、

「そうよ、よくわかったわね」

 と言った。まあ、僕と似ている思考ならそうなるだろう。予想が的中した。

「寒いからね、私、おしるこの缶をふたつ持ってね。迎えに行ったの。家も近所だったし、あそこにいるだろうから連れてきなさいって言われて」

「そしたら、ここで進路に」

「ふふ、そうそう。『人間は考えることを覚えたんじゃないのか』とか『これじゃあ今まで生きてきた意味ってなんだったんだ?』とか訳のわからないことを言いながら」

 あちゃあ……そこまで、一緒だったのか。

「これから先、十何年、ううん。何十年も夢だなんて曖昧な、けれど確かに意味を持ったものを追い続けながら生きていかなくちゃならない、でも、そんなもの見つからない。どうしたらいいんだ、って。悩んでた。すっごく」

「それで、どうしたんですか」

「私がね、その調査票にこう書き込んであげたの」

 女性はそう言うと、僕に近づいてきて――正確には、調査票に近づいて。第一志望の欄を指さして言った。

「舞台役者、ってね」

 僕は色々なものに対して、驚いた。まず、女性の肌の色の白さに。白さに映える髪の黒さに。色素の薄い唇に。大きく月のような瞳に。柔らかい甘い香りに。

 そういったものを飲み込んでからようやく、ことの重大さに気が付いた。

 僕は思わず、女性の顔を覗き込んだ。

「ふふ――やっぱり似てるわ、彼とあなた」

 じっくりと、何かを透かすように、女性は僕のことを見た。

 そのとき思った。

 このひとは、僕と話をしているんじゃないんだ。

 過去の亡霊と、話をしているんだ。

「あ、の」

「彼はそれから、一生懸命に頑張って、演者として一人前になった。初主演の舞台の日に亡くなったの」

「え……」

 僕の頭の中がどんどんと白く、冷たくなっていく。

 まるで桜吹雪が舞い降りた、地面の吹き溜まりみたいに。

「私が、殺しちゃった」

 にっこりと、女性は微笑んだ。けれど、痛みを孕んだ滴は、抑えきれなかった。

「あの」

「なぁに」

「僕、は。生きていたくないです」

「……どうして?」

「こんな、酷い目にあって死ぬ人の話とか、遺された人の悲しみとか、それなのに追わなきゃいけない夢とか、考えているだけで――息が、詰まる」

 吐き出してしまいそうだった。胸が苦しい。痛みが走る。

 こんな思いをしてまで。

「生きるなんて、まっぴらだ」

 それは、単なる中学生の我儘だろう。

 しかし生きるしかない、という選択肢に僕は弄ばれているような気がした。このまま僕は、進路希望調査票に何も書かずに提出して、学年主任にこっぴどく怒られるのもよいかな、と思った。

「じゃあ、こうしましょう」

 女性は、鞄の中から一本のシャープペンシルを取り出した。調査票の第三希望に、芯をすり減らして何かを書く。


『生きていく』


 たった、五文字。

 それだけを、女性は書いた。

「ねえ、約束してちょうだい。彼の代わりとまでは言わないわ。だけど、そんなに悲しいことを言わないで」

 女性は、僕の瞳をしっかりと見据えて言った。

「絶望したり、悲しいことがあったり、たまに本当に死んでしまいたくなるけれど。でも、人生ってそんなに悪いものじゃないのよ」

 そのときの、瞳は。

 僕のことを。今、存在している中学二年生の、進路に悩む少年のことを見ていた。

 亡霊では、なく。

「さ、私、もう行かなくちゃ」

 最後に、女性はまた微笑んだ。今度は、涙が流れることは無かった。

「生きてね、少年くん」

 そして女性は、桜の舞い散る闇の中に消えていった。

 後には、僕ひとりが残された。

 寒く、そして美しい夜だった。

 あまりにも寂しく、あまりにも悲しい。

 そんな夜だった。

 僕はまだ、ぼんやりと将来の行く末のことを考えていた。

「何に、なりたいんだろうなぁ」

 しかし、ひとつだけ心に決めたことがあった。

「あなたは、何も悪いことをしていない」

 僕は、あの手袋の下のことを思った。もしかしたら、あの手袋の下には何か謎があるのかもしれない。

 私が殺しちゃった。

 比喩では、ないのだろう。きっと。

『生きること』

 彼女は、赦されたかったのか。

 それとも、裁かれたかったのか。

 どちらにしても、僕ができることはただひとつ。


「生きよっか、な」


 女性を赦し、生きること。

 与えられた希望に沿って、生きること。

 三つある希望の一番下の願いではあるけれど。

 僕が生きることが、女性にとって幸福であることは間違いない。

「好きって言えるほどの仲になれたらよかったのにな」

 僕の行く末はわからない。

 彼女の行く末はわからない。

 だけど僕は少し大人になりたくて。

 散り初めの桜の下で、冷えたブラックコーヒーをすすった。

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