第5話
幸浩との連絡も途絶えがちになった梅雨の終わり、私は大学が夏休みになりルーブルへと出発して初めての海外に興奮していた。すべてが新鮮で目に映る何もかもが、鮮烈で熱を帯びていた。自分の作品がフランスの大学の会場に展示されている時は涙が流れた。
誰に見せる、そんな人私にはいない。けれどスマホで現地の案内する大学関係者にシャッターを押してもらうことを頼んだ。三週間は学生たちと英語で会話をするうちに、このままここで時が止まればいいのにとさえ思えた。
圧倒的に環境が違うと私は思った、ここにはどこにキャンバスを置いても
それがモチーフになる。行き交う人たちは全員がモデルになるのだ。夢見心地のうちに私の短期留学はあっという間に終わってしまった。帰国の日が近くなると、またあの日常が待っているのかとオルセー美術館、ルーブルの絵画を目に焼き付けて私は機上の人となっていた。
久しぶりの日本と京都の街は私の居場所だった。
やはり日本食は口に合うし、空気は胸に熱いほど蒸し暑かった。京都は七月にはもう真夏の暑さだ。うんざりしながら日常へと私は溶け込んで行く、まるで何もなかったかのように。
「幸浩、帰国したわ。お土産もあるの、いつ会えるかなあ」
「そうだな、近いうちにどこかで食事でもしよう」
どことなく優しげな幸浩に私は安らぎを感じる、いつもならため息などが混じる会話が重苦しく感じたけれど、今日は何か違うなと思っていた。
時差を埋める為に横になると自然と眠りについた。店は明日には行くように弥生ママに伝えてあった。今までに貯金していた残高は結構減ってしまった。
夕方になり、私は自然と目が覚めた。いつも出勤する時間だった。昼と夜の狭間で私はあくびをして伸びをした。玄関でベルが鳴る、狭い八畳のワンルームに響き渡る。モニターを見ると知らない女性が横を向いている。隣に入居してきたのだろうかと私はドアを細く開ける。
「はい?」
「京極香那さんですか?」
身なりの良い上品そうな三十代半ばの女性は弥生ママと同じくらいに美しい人だった。かすかな香水の香りがする。その女性は名乗らずにドアを大きく開いて、玄関に一歩踏み込んだ。
いきなり私の左の頬に彼女の平手がヒットした。
「子供のような顔をして、何をやってるの? このあばずれ女!! 人の夫にちょっかい出してんじゃないわよ」
私は呆然として立ち尽くしたが、人の夫というパワーワードはきっと彼の妻だということが簡単に想像できる。私はあばずれ女のようだ、彼女からすれば。
「あなたは人の家に上がり込んで暴力を振るうとは、あなたの方がビッチじゃないですか? 名前も聞いていませんが」
私は思う、北口先生の奥さんなんだろうなこの人は。でも私は自分からたらし込んだ訳ではないし、先生が私に目を付けたのだから。
「涙の一つでも流せばかわいいものを、この……」
もう一度青ざめた顔であげた手を私は軽く掴んだ。
「誰があばずれなんだよ! おまえがしっかり捕まえておけよ。そんなに大事なら。のし付けて返してやるから、大事にしまっておけ」
昼と夜の狭間に修羅場を演じることも悪くない。次のパトロンを弥生ママに探してもらわないと。
匂いのない華 樹 亜希 (いつき あき) @takoyan
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