ガマバック・トゥ・ミー

かさのゆゆ

ガマバック・トゥ・ミー







 とある国のとある都会に、大きくも小さくもない林つきの広場がありました。

その広場の中にある池のほとりで、仲睦まじく暮らす二匹の雄ガエル。

ダンサーを目指すミューと、絵描きのタイムです。

二匹は雄同士の番であることを理由に、同種含め周囲の多くの生き物から差別され広場内では孤立していましたが、互いに深く愛し合っていたため、それでも離れぬ道を選んでいました。

近くに住むカエル達も二匹を追い出そうと毎日彼らの住み処を荒らしに来ましたが、それでも彼らは逃げることなく池のほとりに住み続けました。




「毎日毎日、飽きもせず嫌がらせ。

こんなんじゃ心が持たないよ」


 岩の家を作り直しながらタイムは溜め息をつきますが、ミューは「気にしない気にしない」と笑います。


「いつか必ず見返してやるさ。俺がダンサーとして成功したら、ここよりもっとでっかい目立つとこに堂々と住んでやる。俺たちに誰も手出せないくらい俺が有名になってやるんだ。

だからくじけるな。 一緒に生きるんだよ。俺たちは」


 ミューはどんなときも堂々とふるまい、前向きな姿勢をとります。


「……うん。いつもごめん。弱音ばっか吐いて」


「気にすんなって」


 謝るタイムをミューは明るく励まします。


「ミューは強いな……」


「馬鹿! 俺まで弱かったらお前やっていけねーだろ! 」


「タイムは俺が守ってやるさ」と笑ってくれるミューの姿に、タイムも勇気づけられ一緒に笑うことができていました。



 しかしながら、そんな幸せな日々も束の間。

初春のまだ寒いある夜、二匹の幸せを脅かす事件がとうとう起きてしまいました。

ミューとタイムを邪魔していた他のカエル達が彼らの住み処だけでなく、ついに彼ら自身にまで攻撃を仕掛けてきたのです。


次々に降ってくる投石からタイムを庇い、ミューは致命傷を負ってしまいます




「お前は生きろ。 タイム。俺が守った命、大事にな」


「だめだ…!僕は君がいなきゃ…っ」


「うじうじすんなっ! 石がまた来るっ! 逃げるんだタイム!!」


「僕も死ぬっ……!!」


「逃げろ……って、いってんだ!!!! 」


 ミューは最後の力をふりしぼりタイムを遠くへ投げとばしました。

彼は敵の投げたすべての石を己の体に食らい、憎しみに満ちた表情を浮かべ死んでいきました。


愛する者を失ったタイムはひどく落ちこみますが、自分を守って死んだミューのためにも強く生きていかなければと心に決めました。




「ミュー。君を力に、僕は生きていくよ」












 しかし実際のところ、ミューはまだ確実に死んだわけではありませんでした。

裏で起きた想定外の出来事により、彼の命はタイムの知らないところで密かに蘇っていたのです。


ミューは蜘蛛のえさとして糸でぐるぐる巻きにされ運ばれている最中に、突如息を吹き返しました。

元は彼の死体が川に捨てられ流されている途中、魔女蜘蛛が彼を発見し捕まえたのがきっかけでした。

彼を食う気でいた魔女蜘蛛は調理の過程で美味にしようと死体に魔力を注ぎすぎ、そのせいで彼は一時的にいわゆるゾンビのような存在へと成り変わってしまったのです。



「ゾンビでもいいからっ! 俺を見逃してくれ! 頼む!! 」


 まだやり残してることがたくさんあるからできるなら生きていたいと魔女蜘蛛に懇願するミュー。

彼女は急遽予定を変更し、彼の望みを聞いてやることにします。


「良いでしょう。あなたに新しい命を授けてやることにしました。ですが条件があります。25年のうちにあなたは立派なダンサーになるというその夢を実現させるのです。

叶えられたら命は生涯あなたのもの。もし叶えられなかったり途中で諦めたりすれば、今度こそ命はとりあげ私の食事となります。


よろしいですね? 生き続けたければ決して諦めず、必ず25歳までに成し遂げるのですよ」


 ミューから血印をとり契約を交わし、彼の血に含まれている情報や記憶をすべて読んだ後、魔女蜘蛛は彼の夢が最も叶いやすい生物に彼を生まれ変わらせてあげました。






 ──────────











 生まれながらにしてダンスの才能を開花させた人間の青年、ミュー・ブラント。17歳。

父は音楽家、母は元女優という恵まれた環境の中、彼はコンテンポラリーダンサーとしての道を歩んでいくことになります。



 15歳の夏、ミューはダンスの講師で13歳年上の元バレリーナ “シャイニ”と恋に落ち、結婚の約束までしました。

きっかけはミューの一目惚れ。

彼ははじめて彼女と出会ったとき、何故かはじめてとは思えないほどの強烈な懐かしさを彼女に覚えたのです。

これは運命の巡り合わせに違いないと彼は直感し、その日のうちに愛の告白までしてしまいました。

シャイニもはじめのうちは遠慮していたものの、彼の熱烈な愛情表現に次第に心動いていき、自分も彼を愛してみようと彼の想いを受け入れるようになりました。


彼女はしなやかで美しく、優しい女性でしたが、どこか不安定であり、時々おかしな行動をとったりする女性でもありました。遠い所を見てぼんやりしたり、寝てる間にミューの知らない者の名前を呼んでうなされていたり……。

起きてる間にたくさん笑いあった日であっても、彼女の寝顔は悲しそうなまま。



「俺じゃ…だめなのか……」


寝ながら涙を流す彼女に、ミューは問いかけます。

とても複雑な気持ちでした。

本当は他に好きな人がいたのに自分が邪魔をしてしまったのかもしれない。彼女は自分のために無理をしてしまっているのかもしれない……。

彼女を悲しませたくないのに、助けてあげたいのに、直接理由を尋ねてしまうことも怖くて、彼女の存在を失いたくもなくて……。

ミューはただただ彼女の不可解な行動を傍で見つめることしかできませんでした。




 ある日ミューは彼女の部屋の棚から何かに引き寄せられるように、一冊のスケッチブックを手にとってしまいます。中を開こうとすると一枚の写真が落ちてきました。

そこに写っていたのは顔をペンで真っ黒く塗られた男性の隣でとても幸せそうに笑う幼い頃のシャイニの姿。




“ この男は誰なんだ。


君を苦しめてるのはこいつなの?


君が呼んでるのもこいつなの?


こいつは君とどんな関係だった?




──こいつが……まだ好きなの? ”



 シャイニとあの男のことが気になって気になって仕方なくなり、次第にミューは思うようにダンスを踊れなくなっていきました。

不安は日に日に募っていき、彼の心を苦しめます。


上手く踊れていない後ろめたさから両親のいる家にも帰りにくく、林に囲まれた池つき広場のベンチで時間を潰すことも増えていったミュー。

夜、ベンチの上でうずくまって眠る彼を覆う色濃い影。

この謎の影に包まれている間は不思議と寒さが和らいだような気がしましたが、何が起きたのかも誰の影なのかも気に留めることはせず、ミューは眠り続けました。





 ──────────










 シャイニは幼い頃、自分の母親の弟である叔父の男性に恋をしていました。

彼とは年が18歳も離れていましたが、血縁者であることや年齢差も気にならないほど彼女には彼しかいませんでした。


そんな許されぬ慕情に縋ってしまうほどの孤独な人生を、彼女は歩んでいたのです。



シャイニの母親は彼女と同じ元バレリーナでとても厳しい女性でした。

父親はシャイニが生まれてすぐ妻よりもひとまわり若い十代の女と浮気し、妻と赤子の彼女を捨て去っていきました。

元夫への報復とし娘を完璧なバレリーナとして有名にさせるべく、母親は彼女を厳しくしつけるようになったのです。

シャイニがバレエや勉強で良い結果を残せないと食事を抜いたり、家に入れないこともしょっちゅうでした。そのため彼女はさほど遠くない距離にあった叔父のボロアパートによくお世話になっていたのです。


叔父は売れない絵本作家で母ら家族からは縁を切られていましたが、シャイニは彼の書く絵本が大好きでした。

叔父は姪である自分のためだけに、女の子が主人公で必ずハッピーエンドになるおとぎ話もよく書いてくれました。

厳しい家庭環境の中で生きる彼女にとって叔父の書く物語は大きな励みであり、彼女の生きる原動力にもなっていました。



「おじさんの絵本って登場人物みんなが幸せになってくれるところがいいの。

でも友達はそんなのつまらないって。ハッピーなだけの本なんか売れるわけないって。

どうして皆おじさんの絵本の良さが分かってくれないんだろうね」


 シャイニは叔父が売れていないことへの不満を叔父本人に漏らしました。


「私は大好きなのになぁ~…」


「ありがとう。でも、そうだねぇ……。シャイニの友達は本のことをよく分かっているってことじゃないかな。……僕はすごく自分勝手でね、この世界じゃないところに逃げたくて、自分だけが楽しくなる絵やお話を自分のためだけに書いてしまってるんだ。読者よりも自分優先で。

僕が楽しい世界が皆も楽しいってわけじゃないのにね……。

そりゃ当然読まれないし売れないさ」


「 私は楽しんでるわ!」


「じゃあ僕とシャイニだけかな。

僕たちは感覚が似てるのかもしれないね」


「“めい”だもん。顔もそっくり!

私ね、怖いお母さんに顔が似てるのは嫌だけど、叔父さんにも似てるのはすっごく嬉しいの!」


「もう! 可愛いこと言ってくれるんだから。

おじさん、可愛いシャイニのためにも長生きしないといけないかもな」


「絶対生きてて! おじさんいなくなったら私も死んじゃう 」


 シャイニの叔父への愛は小学校低学年までは純粋な家族愛でした。

しかし、唯一自分を晒せる存在であり唯一の味方でもあった叔父への依存心と執着心は年々強くなり、いつしか彼女にとっての叔父への愛は、自身の心を保つためになくてはならない精神安定剤のようなものへと変わっていってしまいました。

自分にとって叔父だけが特別であるように、叔父にとっての自分もそうでありたい。求め求められたい、愛し愛されたい──。

愛と優しさに飢えた環境に長時間身を置かされているせいもあり、シャイニの共依存への願望は媚薬中毒のように熱を帯びてく一方でした。



「ねぇ、昔私たちは似てるって言ってくれたよね。

……おんなじ顔じゃお嫁さんにできない? 今も私達、世界でふたりきりの似た者同士よね? 」


 11歳の春、シャイニは叔父に告白します。しかし叔父の姪への愛が家族の域を出ることは決してありませんでした。

一年が経ち12歳の春、また告白するも返答は去年と同じ。

ひとつだけ違ったことは叔父が彼女を振った後、何年かぶりに彼女に自作の絵本を手渡したことでした。


「何? これ読んだらつきあってくれるってこと? 」


「違う。でも今、ここで、その本の感想をもらいたいんだ。

ずっと内緒にしてきた。こういうのも……書いてるって。

今のシャイニがどう思うのか、僕は知りたい」


 はじめて見るような叔父の真面目な顔。

一体どんな内容なんだとそわそわしつつ、シャイニはゆっくりと本を開きます。


絵本の内容は雄の鳥が同じく雄の鳥に恋し両思いとなり、最後は青空の彼方へ二羽だけで一緒に飛んでいくという短いお話でした。





「……きも」


 シャイニが口にしたのはたった二言、それだけでした。

偏見はありませんでしたが、12歳の彼女にとって人外の雄同士が性的な関係になる絵本はかなり衝撃的であり、多感なお年頃らしくもある冷たい反応を、不本意ながらとってしまったのです。

それにフラれた直後だったということもあり、仕返しがてら叔父がへこみそうな反応を露骨に見せてやろうという、幼気なイタズラ心も若干ありました。


「……そっか。だよね。昔から言われてたんだ。やめた方がいいって。自分でも分かってはいたんだ。

うん!これできりがついたっ! 」


 何かにふっ切れたように、いつもの優しい笑顔に戻る叔父。


「おじさん作家やめてちゃんとしたお仕事探すよ!

しばらく会えなくなると思うけど、ちゃんと働けるようになったらシャイニの家にも報告しに行くね。

30歳! 頑張ります !」


「……もう!」


 駅員さんみたいなポーズをとってへへっと笑う叔父につられ、思わずシャイニも笑ってしまいました。

帰り際、振られたのに笑い負けした腹いせとして、彼女は叔父に向け冗談半分でこう告げました。


「キモい悪趣味な絵本書いてたって、おじさんのこと嫌いになんてなるわけないから。予想が外れたってガッカリかしら。 また来るから! 」


 あの会話が叔父との最後のやりとりになろうとは、無論知る由もなく。



あの日以降、叔父は突然シャイニの前から姿を消してしまいました。

報告も一切なし。住んでたボロアパートもがら空き。

彼女は唯一の理解者であった叔父にまで裏切られたと失望しますが、それでも彼への想いを断ち切ることはできませんでした。

母親の計画通りバレリーナとしてそこそこ有名になり、母親から一流の経歴を持つ男性を紹介されては断る機会も増え、端から見ればなんでも親の力で手にいれたくせに自惚れてるお嬢様気取り。

周囲の人間からはそのぶん妬まれ、嫌われ、バレリーナを引退してからも彼女の居場所はどこにもありませんでした。


しかし時に運命の歯車は無作為にまわってきます。


誰も信用できず、結婚もせず、28歳を迎えようとしていた夏、シャイニの人生は大きく動きだすこととなるのです。

講師を務めるダンススクールに突如現れた、異彩を放ちひときわ目立つ生徒、ミュー・ブラントに告白されたことで。



「俺たち前世でも恋人だった気がするん

ですよ。あなたに今、運命びりびり感じてます 」


「 ……おませさんね。何も出ないわよ」



それが二人の最初のやりとりでした。


ミューは裕福な家に生まれながらもそれらを鼻にかけたり利用することはなく、努力と熱意をもって、自力で夢に向かっている一途な青年でした。

どんな時も明るくて、前向きで、一緒にいると自分まで勇気をもらえる──。

彼のそんな姿勢に、自分にはない心の強さに、シャイニも少しずつ惹かれていきました。


そして期待しました。


“ この人だったら自分を裏切ったりはしないだろう ” と──。







 ──────────







「近頃仕事も恋も上手くいかないことばかり……かぁ。

まぁ、僕も君くらいの時は些細なことでうじうじ悩んでばっかだったけど 」


 そうミューに語るのは古本屋の主人。

ミュー好みの雰囲気の店内でのんびり絵を描いていた中年の経営者。


「死にたいと思う時期もあったよ。一度だけ実践もした。失敗したけどね」


  落ち着いた声、柔らかく温厚な眼差し、表情。

もうすぐ50歳になるとは信じられないほどの可愛らしい顔で主人は笑います。

さっき出会ったばかりなのに店の雰囲気だけでなく主人のこともすっかり気に入っていたミューは、そんな主人の様子に不覚にも魅入られてしまいます。

見入りすぎるあまり、主人の話そっちのけで “自分もこんな風に年をとれたらな” と羨望の眼差しさえ送ってしまうミュー。


「笑えるよ! 死のうと橋から飛び降りたらさ、人もはまっちゃうくらいでかいクモの巣にひっかかってしまったんだ! 」



「!?」


ああ、この人とは合いそうだ──そう感じていた矢先のことでした。主人の口からそんな非現実的発言が飛び出したのは。



「……はい?」



──意外でした。


ミューは苦笑いをし、主人に対しこう言い放ちます。

「ファンタジーの読みすぎで現実と夢の区別がつかなくなっちゃったんじゃないですか」

と。


「あぁ、そうかもね。確かに馬鹿げてる」


 主人はミューに同意しますが話をやめる気はないらしく、そのままその馬鹿げた話を続けます。


「でね、僕は橋の下のクモの巣の中で叫びまくったんだ。クモさん殺さないでくれ~誰か助けてくれ~って。

死のうとしていたくせにね。本当に馬鹿げてるよ。

わーわー叫んでいつの間にか寝ちゃって、気がついたら僕は異世界の修業場にいた。

きっと死のうとした罰だったんだろうね。

そこで出会った…んだ……」


  相変わらずニコニコ話してるなと思っていれば今度は黙りこんでしまう主人。

おかしなことを言う人だがきっと辛いことがあってこうなってしまったんだろうと同情したミューは「無理に話さなくてもいいですよ」と、彼の背中をそっとさすってやった。

ミューの手に伝わってきた男の体温はほわっと温かく、なぜかミューに懐かしいという感情を抱かせました。


「いや……また、会えたなって」


 主人はよく分からないことを口にし、ミューに「ごめんよ」と謝りました。


「修業場にいる間、僕はとても幸せだった。僕なんかのために無茶してくれるパートナーがそばにいてくれたから。飄々としたやつだったけどいつも前向きで、頑張り屋で、かっこよくて。

一緒にいるとこっちまで勇気もらえてさ! ……よく似てたよ。君と」


 主人の表情はとても穏やかで柔らかいのに、ミューの胸は何故かぎゅっと締めつけられました。


「彼女のことなんでしょうけど、好きだったんですね」


 ミューがそう伝えると、主人の目は彼から逸れ、笑顔は悲しい色が滲んだようなものに変化しました。


「愛しているさ。今だって。でも、相手はもう違う」


 二人の間にしばらく流れる重い沈黙。


「修業が終わってだいぶ経ってからそいつを見かけたけど、生まれ変わってて別人だった。いや、だいたいの性格は変わってないんだろうけど。……相手の愛する対象は変わってしまったんだ。

……はは、きっとあいつ自身が心のどこかでは自分のこと否定してたってことなんだろうな。

完全に受け入れられてはなかったんだよ……」


 自分みたいなクズが相手だったし仕方ないっちゃあ仕方ないと悲しそうに笑う主人。


「要するに僕は何度も助けられたくせに

そいつを助けることはできなかったってことさ。

……でも君は大丈夫だと思う! 彼女もちゃんと君を愛してくれているさ。

自信を持って。君はとても魅力的な男性なんだから。

“君ら”は“僕ら”のようにはならないでくれ」


 きゅっと小ぶりなファイティングポーズを作り、ミューにエールを送ってくれる主人。


「君の幸せを心から願っている者もいるんだ。……そう、両親とかね!

だから放浪も程々にすることだ。 ちゃんと家帰ってご両親に元気な顔見せてベッドで寝なよ。

きっと彼女も心配してる」


 そう促されポンと肩をたたかれたとき、ふとミューの脳裏に不確かな疑念がよぎります。しかしそれは鮮やかにならぬまますぐに消えていってしまいました。


“きっとシャイニへの愛に対する疑問だろう。でも心配ない。俺は今も彼女を愛しているんだ。

なんとかして恋愛もダンスも上手く乗りきってやるさ。”




 一方同じ頃、一週間以上家に会いに来ていないミューをシャイニが心配していました。

彼からの連絡も一切ありません。

彼女はマンションの自室の窓を開け、ぼーと空を見上げます。じきに雨が降りそうな灰色の雲がもくもくと広がりはじめています。

あてもなくどっかをほっつき歩いているかもしれないミューに傘を届けるため、彼女は外を歩きだしました。






「今日はありがとう。こんな穴場を見つけられて良かったです。

の出会いに感謝だ」


 ミューは主人に挨拶をして古本屋を後にしました。ニコニコと手を振り見送ってくれる主人を見て、ミューの気持ちはぽんわりと和みました。シャイニのことで曇っていた心も前より晴れ、今日あの本屋とあの店主に出会えて良かったと心から思えました。

そんな彼の心境とは相反して逆に怪しくなっていく雲行き。


「久々に、帰るとすっかな」


 雨が降る前までには両親のいる家に帰ろうと、ダンスの練習をするような軽い足取りでミューは小走りをしはじめました。









 ──────────












 タイムはミューの躍りが大好きでした。



人間界で売れない作家であったタイムは、同性愛者であることも誰にも打ち明けられず、自身の全てに絶望し川で飛び降り自殺を図った際に、(待たれていたのか)魔女蜘蛛の糸の結界に落ち、命を粗末に扱った罰として人間からカエルに姿を変えられました。


「あなたが生きたいと心から願った時に、その呪いは解いてあげましょう。願わなければ今度こそあなたの命、私がいただきます。


すべてはあなた次第── 」


 魔女はそれだけ伝え、橋の下を流れる川にカエルとなった彼を放り投げました。

しかし当時のタイムは既に生きる希望をなくしていたため、水に逆らい泳ぐことも必死にもがくこともせず、川の流れに身を任せるがまま、彼はただただ死ぬのを待ち流されていました。


 そんなときでした。ミューと出会ったのは。


「──っ馬鹿野郎! 何やってんだ!

 新種のダンスか? アホっ!」


「なんで……助けるんですか……」


「死にそうなやつ流れてきてほっとけるか! 勝手なやつめ! ふざけんな! 」


 助ける価値もないクズを助けたせいでハァハァと息をきらし、なのに過呼吸気味の自身そっちのけで、クズ相手に声を張り上げ怒鳴る雄ガエル。 でも彼のそんなおかしさが嬉しくて、かっこよくて、この時タイムは恋に落ちてしまてしまったのです。

一緒に行動するうち、次第にミューもタイムの繊細さ、優しさ、そんな彼の性格がよく表れた彼の描く水絵にも惹かれていき、やがて二匹の仲は友情から互いに愛を示し合える深い仲へと発展しました。

タイムはミューのために彼の踊る絵を描き、ミューもタイムの笑顔のために彼の前でよく踊りを披露しました。

タイムはミューが自分のために踊ってくれることも、彼にエスコートされながら共に踊ることも大好きでした。

二匹だけのかけがえのない時間。

ミューがみせてくれる踊りはとても芸術的で、その姿はまるで何枚もの美麗な絵画がひらひらと舞う花の美術館のようでした。





 ─────────











「ずいぶん楽しそうじゃない。ミュー 」


 道端で踊るように走っているミューを見つけ、シャイニが声をかけました。


「心配してたのよ。連絡も何もなくて 」


「公園で寝てたんだよ。あんま近寄らねぇ方がいいぞ。臭いかも。家でシャワー浴びてから寄るつもりだったけど、探してくれてたんだな。悪い」


「においなんて気にしないわ。そんなことより気になるのはあなたのその楽しそうな顔。なんでなのか教えてちょうだい。さっきも踊ってた」


「踊る? 走ってただけ──」


「浮気ね」


「は? なんでっ…──」


「浮気してたのね」


 シャイニは渡そうとしていた傘をミューにぶん投げ、「あなたも裏切り者だった」と声を震わせ言いました。


「私みたいな三十の女より同世代の子の方がいいものね 」


「断じて違うから! 勘違いはやめろよ!」


「ええそうよ。勘違いしてたわ。あなたなら大丈夫かもって。でも違う。あなたも同じ」


「同じって何とだよ。誰と比べてんだ。

まさか“タイム”ってやつか?」


「あなた…なんでその名前を…… ! 」


 ミューがシャイニの寝言で聞いていた“やつ”の名前を出すと、彼女は明らかな動揺を見せました。


「その様子じゃ図星だな。この際なんで言わせてもらうけど、よく俺がいるのにぼんやり心ここにあらずになったり、

夜中その名前出して目の前で泣かれたりするのも、ずっと気になってたんだよ。

浮気してんのはそっちだろ!」


 足早に走り去っていくミュー。シャイニは返す言葉もなく、遠ざかっていく彼の後ろ姿を黙って見送ることしかできませんでした。

無意識とはいえ自分がそんなことをして彼を傷つけていただなんて……。シャイニ自身もこの時はじめてその事実を知らされたのでした。



 傘もささず立ち尽くすシャイニに大粒の

雨が降りかかり、しとしとと彼女を濡らしていきます。

それは感情的になり落ちていた傘を拾いもせず彼女から走り去ってしまったミューも同じでした。


大雨の中、走りながら彼は考えます。


“ こんなんじゃだめだ。

すぐ感情に支配されてしまう。俺みたいなやつ、本来は恋人を持つべきじゃないんだ。

でもダンスのためにシャイニを手放したくもない……。

全部上手くこなしたいのに、このままじゃ両方失ってしまいそうだ。

もういっそダンスなんて……




やめてしまおうか──”















( 殺しなさい。彼を殺しなさい。


この時が来たのです── )



 びしょ濡れの体と髪を拭くこともせず部屋の中で呆然としていたシャイニの心に、突然聞こえてきた知らない女の声。



(ミューを殺すのです。さもなくば、あなたが殺されます。


可愛い人、わたしは貴女を守ってあげたいのです。あなたを救うためここに来たのです。)


 ショックにより弱っている今のシャイニの心に、甘く囁くような美しい女の声は良く響きます。



「あなたは……誰なのですか……」


(私は魔女。ミューがあなたを殺すために遣わした魔女です。

彼はあなたのせいで踊れないと嘆き、あなたを魔法で殺すよう私に命じたのです。

だから私は近いうちにあなたを殺さねばならない。とても辛い決断です。できることならあなたを死なせたくない。

ですから今お伝えしに参ったのです。

──殺されたくなければ彼より先にあなたが彼を殺しなさい──と。

そうすればあなたの勝ち。私はあなたを殺さずにすむのです。 )


「嘘よ……。ミューが私を殺そうだなんて。彼はいい人よ」


(いいえ。いい人ではありません。彼は自分を愛する者を自分のために平気で裏切れる人です。

現に私がここにいるのだってそうです。

彼の存在はあなたにとって害でしかないのです。

真実を教えてあげましょう。

彼は公園になんていませんでした。私は魔女ですからすべてを知っていますよ。

彼はあなたの父のように若い女に夢中です。彼もあなたの父のように、そして叔父のように、あなたを疎ましく思い捨てようとしているのです。)


「やめて……。もう、やめて……」


(ご自身の身を守るためにも、あなたは彼を殺さなければならないのです──)


「やめてってば!! 」


 たまらずシャイニは叫びました。


「……殺されたって…いいわ。私はひどい女だもの。必要としてる人なんか……いない」



( なんて憐れで美しい人。

わたしはあなたをもっと気に入り、あなたをもっと生かしたくなりました。

わたしはあきらめませんよ。常にあなたの心に語りかけましょう。そしてあなたは必ず彼を殺すことになるでしょう。わたしは魔女。予告はすべて真実となるのです──。


さぁ降りてくるのです。真実の水の中に──)


女の声に誘われるように、シャイニは深い眠りへと落ちていきます。



“おじさん……私はどうしたらいいの……。


愛してたのに……。

彼のことも愛しはじめてたのに……。



どうしてみんな、私を置いてくの……。”










 翌日、ミューの足は再びあの主人のいる古本屋へと向かっていました。

彼は先日シャイニへとってしまった直情的な態度をひどく悔いていました。怒りに任せ、きつい言葉を思ったがままにぶつけてしまった自身の幼稚さ、未熟さ、あの言い方で彼女の心をどれほど傷つけてしまったのだろうと、彼の脳内は自己嫌悪でいっぱいでした。




「もう俺ここで働こっかな……」


 テーブルに突っ伏し活気のない声でそうぼやくミューに、主人は紅茶とお菓子と、一枚の絵葉書をそっと手渡しました。


「…なんですか? これ」


「僕の描いた君の絵だよ。ちょっとでも励みになればいいんだけど」


 葉書に描かれていたのは心底楽しそうに踊るちっぽけなカエルの絵でした。

踊っているカエルの後ろには幸せそうににっこりと笑ったもう一匹のチビカエルの姿も。


「わお、こりゃびっくり。めっちゃ上手いですね。

でもひとつ言わせてください。

なんでカエル……。顔が? ダンスが?

俺のどこ見てこうなったんですか」


 おもしろおかしくなってしまい、目を丸くし唇を尖らせた変顔で反応してしまうミュー。


「全部だよ」


「なんかうれしくないな……」


 ここに来るまでは人生の終わりかのような暗い顔をしていたミューが自分の絵で明るい反応を取り戻してくれたことに主人は喜びました。


「辛い時はいつだって来てくれていいからね。僕は君の力になりたいんだ」


 ミューの頭を優しく撫でながらそう語りかける主人。


「主人。俺もう17歳ですよ」


「……ごめん」


「全然いいですって。彼女もよく撫でてきますし。十三も離れてるんで。

それに、なんでなんですかね。主人の顔ってよく見ると彼女の顔にめっちゃ似てるんですよ。だから許せます」


 ミューはそう言ってケラケラと笑うと、もらった絵にまた視線を戻し言いました。

「この後ろで俺を見てるカエルはきっと俺の彼女ですね!」──と。


「かわいい顔してますから」と惚気る彼の横で、主人は少し間を空けてから「そうだね」と静かに答えました。


「この絵のように俺たちもなれたらよかったんですけどね。

なにもかも俺のせいです。器用でもないのに身勝手に手だして、ほんっと馬鹿っすよ。だからけじめというか、悩ませた責任をとるっつうか……もうダンスはやめようと思って。

中途半端に両方ひきずるよりどっちかスパッときっちゃった方がいいんですよ」


「それは……」



ミューは思いの丈を主人に吐き出します。


「ダンスだって大事ですよ。でも、彼女を失いたくないんです。

心配なんですよ。意地っぱりだけど実はめちゃくちゃ繊細で、精神的に脆い人で。彼女きっと俺が守っていかないと壊れてしまう。


今まではダンス優先で助けられてばっかだったけど、これからは俺があの人を助けていかないとって」


「………」


 ミューの言葉に“かつて共に過ごした相手”と“その彼”への気持ちも重ねてしまう主人。


「……君の踊りが見られなくなるのはやっぱ辛いかな。僕は反対だし他の人も多分そうだろう。……おそらく彼女も。

それに……すごく厳しいことを言わせてもらうけど、ダンスをやめたとして、君に彼女を守れるだけの力はどれくらい残るのかい?

ダンス以外で彼女だけじゃなく君自身のことも守れるだけの何かしらの力がなければ、彼女はおろか君の心も早々壊れかねないよ。

気持ちだけじゃどうにもならないことが、世の中にはたくさんあるんだ……」


ミューに対し主人の口から放たれた言葉は非常に現実的で正直なものでした。


「どの口が言ってるんだと自分でも思う。どうか気を悪くしないでほしい」と頭を下げる主人にミューははっきりと答えました。

「わかってます」と。


「だから辛くなったらここに現実逃避しに来させてください。いつでも来ていいって言ってくれたじゃないですか。

ここでハッピーでイカれたファンタジーもの読みまくって、あなたにカエルの自画像描いてもらって、いっぱい笑って、よし頑張ろってなって帰っていきますよ。

俺にはこの本屋とあなたもいる。これだってちゃんとした武器になりませんか?」


 若きミュー・ブラントの前向きで向こう見ず、だがとても力強くも感じるそんな言葉に、主人は涙ぐみました。


「彼女に会って気持ち伝えてきます。

絵、ありがとう。 ではまた!」


 去ってくミューを複雑な表情を浮かべ見送る主人。






“ 強いふりをするのは得意なんだから。

そういっつも強がってたけど君、


結局は変わってしまったじゃないか──”







────────────









「違う!違うっ!!

消えて…! 消えなさい……っ!」


 ミューが自宅で自己嫌悪に陥っている間や古本屋で過ごしている間も、

昨日から延々と脳内に送られてくる悪夢に、シャイニはうなされ続けていました。


「憎いわ! 許せない…!

あんた達の顔も、声も、二度と私の前に晒さないで。汚らわしいっ……!

来るな! 来るなぁっ! あんた達が死になさいよっ!! 」


 しきりなしに聞かされる魔女のささやき、愛を望んだ者達からの悪意のこもった幻覚、幻聴……。

蝕まれていく自我。崩壊していく精神。


(戦いなさい。強いのなら見せつけてやるのです。 ほら、あの人もあなたを殺そうとしています。あのバレリーナ仲間もあなたを軽蔑していました。)


「やめて……!! やめてぇぇぇっっっ!!!!」


(みんなミューが流した悪い噂に騙されてしまっているのです。

あなたを孤立させるための彼の罠。

彼はあなたからすべてを奪っていき、あげくあなたの命までも奪おうとしているのです。

彼がいる限りあなたに安息はない。

魔女の私はこうやって永遠にあなたを苦しめることも可能なのですよ)



「…もうたえられない! 分かったわ!

殺してやる! 彼を殺して私も死ぬの!

道連れにしてやるわ! ミュー!! 」


 シャイニはキッチンの包丁を鞄の中へ忍ばせ、白昼の外へ飛び出しました。


昨日とはうってかわって広がる晴天。

霹靂の暗示。



“ 夢を諦めた時も命は終わる──”



魔女蜘蛛の魔の手が契約通りミューに忍び寄っていきます。












「ブラントくん! どこにいるんだ……!」


 青年ミュー・ブラントを探し、苦手な眩しい街中を走るもう一人の人物。

古本屋の主人です。

先程自身を襲った妙な胸騒ぎ。不気味な予感がし、心がざわついてなりません。

お前のせいでミューは今日殺される──あの時の魔女が心の中でそう何度もささやいてくるのです。



「……ミュー!!

どうか無事でいてくれ……!!」



守らなければ!


今度こそ……



彼を死なせはしない!!





 主人のそんな切なる願いも遠く離れてしまった今の彼には届かず、人間の青年ミュー・ブラントは、シャイニのマンションのすぐ近くまで既にたどり着いていました。


シャイニの好きな黄色いスイセンの花を手に、彼の心は緊張しています。

この気持ちを上手く伝えられるだろうか。

ダンスをやめた自分にも彼女はついてきてくれるだろうか。

なによりまずは昨日のことをすぐに謝らなければ──。


アスファルトとにらめっこし悶々としながら歩くミューの足元で、ひとつの影が動きを止めました。




“この気配は──主人か?”



「別れの挨拶ね。わざわざ私の好きな花まで買ってくれて。……嬉しいわ」


 影の持ち主はシャイニでした。


まさか外で彼女と出くわすとは想像もしていなかったため、ミューの頭からは直前まで計画していた“まず謝罪”が飛んでしまいました。


「おお! シャイニか! よかった。ちょうど君の家に向かってるとこだったんだ」


「ごめんなさいね。私で。

いいのよ、嘘なんかつかなくて。ところであなたのそれ。その胸ポケットからちょっと見えてるのは何? なぜだかとっても気になるわ。彼女さんからの手紙かしら 」


「ああこれ? 古本屋の主人にもらったんだ。やましくないし、見たければどうぞ」


彼は躊躇うことなくその絵葉書を胸ポケットから取り出し彼女に手渡します。



「……ッ!!」


 葉書に描かれた絵を目にした途端、なんとか冷静に事を進めようと必死で堪えていたシャイニの理性は一瞬のうちに、ことごとく吹き飛んでしまいました。


「この絵……! 覚えてるわ!

痛いくらい……覚えてる……っ!

ミュー! あなたその事も知っててわざと

私に見せたわね !私がこうなるって分かってて……。

ああ! また私を陥れるために仕掛けたんだわ !!

もう無理! もう耐えられない……!

どれだけ私を苦しめれば気が済むの……っっ!!」


 大好きだったタッチで描かれている、心から幸せそうに踊るカエルの絵。


「私は……こんなにっ!

こんなにも辛かったのに……!

あの人はこんなにも……幸せだったなんて。許せるわけ……許せるわけが、ないじゃない……! !

ううっ…! なんでなの……!

ずるい! ずるい!ずるい !ずるい!!」


 閑散としていた街中の裏道で、白昼堂々響き渡るシャイニの怒声。

見たことのない彼女の険相に、ミューは驚き固まってしまいます。

近くの道路標識の看板からぽたぽたと滴る雨粒の音と、地面に点々と広がっていく染みが、まるでこの後生じる何か不吉なことへの警報と点滅のようでした。




“ 逃げろ! ”



ミューの心の中で聞き覚えのある声の誰かが突然叫びます。



“だめ! 行かないで! ”



重なって聞こえてくる別の女性の声。

この心の声の主はすぐ分かりました。目の前にいるシャイニです。

泣き叫んでいるシャイニの心の声らしきものが自分に流れてくるのは、きっと本心を理解してほしいという彼女の願いによるものだろう。そう感じたミューは恋人として最初の声よりも彼女の声に心を傾けることにします。



“ 逃げなければ殺されてしまう!

早く逃げるんだ! ”



途端、勝手に走り出すミューの足。

“行かない”決意とは裏腹に、体だけがシャイニから離れていきます。


「待ちなさい!! 」


 逃げてくミューをシャイニも追いかけます。



“ 一体どうなっている!

俺はどっちの声を信じているんだ! ”



 ミューは完全に迷ってしまいました。

彼女の声に従おうとしているのに、もうひとつの声通り逃げようとしている自分もいるのです。

自分の本心が全く読めず、底なし沼のような精神の迷路の中に、ミューは入りこんでしまったようでした。

頭を抱えしゃがみこんでしまった彼の前に、コツコツと靴音をたてシャイニが近づいてきます。




“信じてたのに。


あなたも私を裏切った──”



 隠し持っていた包丁を

ミューに向け勢いよくふりあげるシャイニ。



「シャイニ!! やめてくれっ !!」



 不意に聞こえてきた、憎くも待ち続けた懐かしい男の声。




「──…っ!!」










 数十秒後、目を開けたミューが見た光景はすさまじく悲惨なものでした。


ミューの目の前で彼を庇うようにして膝をつく血まみれの男と、その男を抱きしめ泣き崩れるシャイニ。


「ああぁ…っ! ごめんなさい!

ごめんなさい……! !

私……なんてことを……っ!

あぁあ…!! ああああああぁッッ!!!!」


 どくどくと溢れる男の血で、赤黒く濡れ染まっていくミューとシャイニの体。


「……長生きした甲斐が…あったよ。

君たちはいい人と出会ってくれた。

どうか……幸せに……」


「嫌……! 嫌ぁっっ!!!!

ごめんなさい! ごめんなさい…っ!

ごめんなさい……!!


──死なないでタイムッッ!!」


 むせび泣く彼女と共に、なぜか自分も泣いていることに気づくミュー。

理由はよく分かりません。それでも胸が悲痛なまでに締めつけられて、苦しくて苦しくて、涙だけがとめどなく溢れ出てくるのです。



「あなたが……タイム、……だったんですね」



 いかなる感情にもとれぬ声音でミューがそう告げると、“古本屋の主人”は悲しげにほほえみ、そして事切れました。


 シャイニの泣き声と野次馬の雑音、救急車のサイレンが辺り一面に轟いている不穏な空気の中、倒れ落ちた主人の微温残る亡骸を胸に、ミューも空漠たる涙をしんしんと流し続けました。







───────────


















「私は幸せになってはいけない。あなたも私といたら幸せにはなれない。

だからもうここには来なくていいわ。他の人と幸せになって。


本当にごめんなさい 」


 あの事件から三ヶ月、刑務所の面会場所を訪れたミューに淡々とした様子でシャイニはそう告げました。

無理して冷淡さを装っているのは一目瞭然であり、彼女は衰弱しきって痩せこけた体から低く掠れた声を必死に絞り出していました。


殺人を犯してしまったシャイニには殺人罪の判決が下り、(彼女は全く望んでいなかったが)当時の精神状態を考慮され懲役は5年。

ようやく面会が可能となった今日、ミューの前に久々に現れた彼女は見るに堪えないほどやつれており、その姿を確認した瞬間、ミューも心にまた大きなダメージを負いました。

ギリギリ命を繋いでいるようなそんな状態でも他人を気遣い、態度を装いつつも幾度となく贖罪の言葉を口にするシャイニ。

他の人と幸せになってほしいと彼女は言いますが、孤独故にこのようなことになってしまった彼女を放って他の誰かと幸せになんて、なれるわけがありませんでした。


「会える日は必ず会いに行くよ。

義務とかじゃなく、会いたくて会いに行くんだ。俺が君を守る。

君が出所してからも安心して暮らせるくらい俺がダンスで成功してやる 」


「いいえ。ここから出ても私、あなたのところへは行かないわ。あなたは私なんか待ってないで他の人と幸せにならなきゃだめなの」


「じゃあ君が来てくれるまでずっと待つ。

君がまだ“あの人”を愛していて俺を愛せないなら、愛してくれるまで待つ。

何年でも、何十年でも、生きてる限りずっと──。

冗談じゃないからな。

君とはじめて会った時に感じた直感を、俺は今も信じてんだぞ 」


 自身の胸を誇らしげに強くたたいてみせるミュー。


「俺が超有名になったらでっかく派手な家に二人で堂々と住んでやろう。

俺たちに誰も何も手出しできないくらい俺が強くなってやる。だからくじけるな。 一緒に生きるんだよ。俺たちは」


 かつて生まれる前にどこぞの天使にも宣言したかもしれない言葉。


 「伝える相手を間違えてるわ」と返したシャイニに、「君を愛してるからだ」とガラス越しに改めて彼女へ愛の告白をしたミュー。




 あの日以降、彼は一時期辞めようとさえしたダンスに今まで以上に専念するようになりました。

シャイニのためにも自分のためにも必ず夢は叶えてみせると、ダンスにはより一層野心を燃やし、より一層情熱も捧げるようになりました。





 そして三年後、ミュー・ブラントは世界中の人々を魅了する素晴らしいプロダンサーの一人となりました。


二十歳にして高級マンションの上階にも部屋を買い、大都会の景色を見おろしては、

ちっぽけな人々の群れと無駄に洒落た小汚い建物群おもちゃばこの滑稽さを鼻で笑い、内心で毒づいてみたりもするのです。


シャイニの出所まであと二年。

多忙になった今も時間がある時は必ず彼女の顔を見に行き、自身の近況と変わらぬ愛を伝えます。



“待ってるから。 いつまでも”──と。









 今夜もテーブルに二人ぶんの酒をセットし、グラス片手に一人で見おろす都会の景色。

かつて野宿をしていた池つきの広場も小さいですが見ることができます。


“あの池の水で平気で顔洗ったりしてたな……”


当時の自分を振り返り、つい思いだし笑いをしてしまうミュー。




「……変わらないな。あそこは」


妙に思い出深い広場の池。

あの場所に目がいく度に、なぜか心に吹き込むのは、狂おしいほどに恋しく淋しい寂寥せきりょうの風。


“野宿しかしてないはずなのに、なんでこんなにも懐かしいんだ……。


シャイニがいるのに、強い権力だって手に入れたのに、なんで俺はこんなにも──

虚しくなるんだ…… ”



 あの事件の時以来、いや、本当はあの時よりも遥かに前から、自分は深い沼の中をさ迷っているのかもしれないと最近ミューはよく感じます。

自分の本質はいつぞ沈んだ水中の時点から

いまだ地上に跳ねられず踠いているカエルなのかもしれません。

そう考える度必然的に思い出されるあのカエルの絵。

忘れたくても忘れられない亡くなった主人の面影──。




 原因不明の風は吹く度にミューの胸を震わせ、霞がかった余韻までも心に残していきます。

謎の感傷にも浸ってしまい、その都度何故なのだと戸惑いもするのに、それでも毎日、どうしても目がいってしまうあの池。


時には自然に涙すら流れてしまうその景色を、滑稽な街の風景にまざっていても尚、唯一嘲笑えぬその場所を、

彼は今日も捉え眺めずにはいられないのです。






 ──END──







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