灰の鳥
大滝のぐれ
楽しかったよね?
久しぶりに部屋の掃除をしようとあなたが思い立ったことに、筋の通った理由なんてなかった。昔からあなたは、どこからそんな発想が出てくるのかと問い詰めたくなるような意味不明な思いつきを口にしては実行し、私たちを困らせてばかりいた。
覚えているのだろうか。
だから、今回もその類の発想だったのだろう。たまたま目に入った棚に収められた本がさかさまに収納されていたからとか、職場での掃除当番がそろそろ回ってきて、それが慢性的に汚れている給湯室の担当だったことをふと思い出したからとか、いつかなんらかの理由で食べられずに残した料理たちをごみ袋やトイレに落とすときの罪悪感をなんの脈絡もなく想像して気持ち悪くなったからとか、そういった思考から飛躍した意思決定だったのだろう。それは突飛な発想力などといった耳触りのよい言葉に置き換えることもでき、そうするとなんだかとてもいいもののようにも思えてしまう。
あなたはなにもわかっていない。
この世界における幸福の総量は決まっていて、あなたがいい思いをするたびに、どこかの誰かが嫌な思いをする。手元でまどろむ幸せが、生き返ったり死んだりする。あなたが仮にそれをいくら否定したとしても、それが摂理であることは揺らがない。拒絶して受け入れず耳をふさいでうずくまっても、抗えないほどの強い力で、それは私たちを切り刻んだり飲み込んだりする。考えられないくらい、残酷に。私がそのように教えてあげたとしても、きっとあなたは「もっと具体的に」「意味がわからない」などと言うのだろう。でも残念ながら、私はそれ以上の言葉を持っていない。そう文句をつけられても、下を向いて押し黙っていることしかできない。
だから今このとき、私はあなたをじっと見つめたまま口を引き結んでいた。高校生のとき以来開けていなかった学習机の引き出しをあなたは開放したところだった。そこに置かれた黄色いカステラ色の封筒に、あなたの目は釘付けになっている。覚えのない封筒だ。指に挟んでそっと持ち上げてみると、黄色い紙で囲まれたその空間の中で、なにかが傾いで端のほうに滑り落ちていく感触がした。それにともない、封筒をつまむ親指の近くに輪郭のぼやけたおうとつが現れる。その盛り上がりをあなたはおそるおそる指でなぞった。が、『なにかが入っている』という以上の情報を得ることはできなかった。封筒を開けるしかないんじゃない、と私は思ったが、当のあなたはなかなか行動に移せずにいた。開けたら、開けてしまったら、どうなるのだろう。異国の爆破テロや、国内で起きた殺人事件を報じるニュースの空撮カメラ映像があなたの頭をよぎる。あなたは引き出しの中に封筒をそっと置くと、数秒間迷ったのち力強くそれを閉め、鍵をかけてしまった。
しかし、掃除が半分も完了しないうちにあなたは掃除機を放り出し、せっかくかけたいましめを破ってしまった。想像の中のニュース映像はどんどん凄惨なものになっていっていたが、あなたはそれと比例するように大きく育った好奇心に負けたのだ。
私はあなたのてのひらでうずくまる、小さなものを見ている。
封筒のベロに貼られたいちごのシールを剥がし、あなたは中に収められた紙片を取り出す。それを見て、あなたはようやくこの手紙の出所を思い出した。社会人となった今でも連絡を取り続けている友人、桐子。彼女が高校時代に「かわいい便せんをたくさん集めてるんだけど、使わずにいるのはなんとなくもったいないから文通してほしい」と頼まれて交わしていた手紙たちのうちのひとつだった。
たしか、同じデザインで色違いのものをわたしも持っていたはず。あなたの中で、張りつめていた気持ちがするするとほどけ始める。
しかし、てのひらへ転がり落ちてきたひよこの脚によってそれはあっけなく終わりを告げた。見ているだけで生暖かい温度を感じるような肌色のうろこや爪、切断面にかすかに残った羽毛が、あなたの甘い考えを粉々に打ち砕いていく。どうやらこれが封筒に生じた盛りあがりの正体だったようだ。あなたの頭に、先ほど浮かんだ不吉な映像が再上映される。
あなたはひよこの脚をなかば放り投げるように机上へ落とすと、汗で濡れた指で便せんを開いた。そこに文字はなにもなく、尾羽の長い大きな鳥が翼を広げた状態で三角屋根の家屋の上にとまっている絵のみが描かれていた。鳥の大きさは家の倍ほどもある。
ぜったいに桐子が描いたものではない。あなたは心の中でそう断定する。でも、だったら、では、いったいこれは誰が書いたのだろう。絵に触れるのも恐ろしく思え、あなたは足を動かして便せんから物理的な距離をとった。あなたの口の隙間から、かぼそい言葉が漏れる。誰が、こんな絵を。
私ではない。
少し考えてベッドの上に置いていた携帯を手に取ったあなたは、件の桐子に電話をかけた。メッセージでもよかったのだが、一秒でも早く疑問を氷解させられるであろう方法をとったのだ。電話を待つ間、あなたと私は紙の上で翼を広げる巨大な鳥にまた接近していった。細い頭に対して明らかにアンバランスな太いくちばしの先端が、えんぴつで塗りつぶされていた。紙の上に濃く灰色の鉛が堆積し、部屋の明かりをてらてらと反射している。するどい爪に抱かれた家屋の窓も、同じ色でぬめるように光っていた。その中に人の姿はない。
「あれ、もしもし、もしもーし」
あなたははっと我に返った。聞き慣れた友人の声が耳を打つ。通話が繋がったのだ。
「あ、ごめんぼーっとしてた。もしもし」
「なに、どしたの急に。まあ暇だったからいいんだけど」
「手紙」
「は?」
「手紙、出てきたんだけど。ほら、高校んときに文通してたじゃんわたしたち。あのときの」
へー懐かしい。私はどこやったかなあ。彼女が電話越しに棚を開けたり物を動かしたりしている気配がする。それを聴いているあなたの視界の中で、ひよこの脚と紙の上の鳥が融合していく。爪に鉛が絡みついて巨大化し、あなたの首元にじりじりと近づいてくる。その先端に触れた皮膚がわずかにたわみ、血錆のにおいがふっとかおった。
あなたの手元でなにかが色をなくし、動きを止める。
あなたは叫んだ。私も叫んだ。
「ひゃっ! え、なにやだどうしたの」
「やだ、やっぱり気持ち悪いこの手紙。なんかね、変な鳥の絵が描いてあるの。家をわしづかみにしてるの」
「なにそれきも。そんなの私が描くわけないじゃん。ねえ、覚えてるでしょ。わたしが描くのは熊とかうさぎとかそういうのだって」
見たいから写真送ってと促され、あなたは通話をスピーカーに切り替え、手紙を撮影して彼女に送信した。メッセージアプリの画面上に、複製された鳥の絵が現れる。
「うわ、やだ本当に気持ち悪い」
「でしょ」
「え、でも、たしかにこれ私と一緒に買った便せんだよなー。ほんと無理キモい」
桐子の絵じゃないよね。桐子のキャラクターは熊とうさぎ。くまじろうとぴょんきちだもんね。彼女が話し終えた後、あなたはそう発言するつもりだった。口が横にすっと広がって前歯の裏に舌が触れて、その隙間を息が通り抜けていくはずだった。
「でも思い出したんだね。ひよこの脚は切ったよね。楽しかった?」
その代わりのように、あなたと私の間に静寂が吹き抜けた。桐子が口にした言葉の意味がわからず、あなたは机上の手紙を見つめたまま立ち尽くす。
「え、だから、ひよこの脚は切ったよね。楽しかったよね。楽しかった?」
「ち、ちょっと待ってよ。わたし、ひよこの脚なんて、というかなんでわかるの。わたし、まだなにも送ってないし話してもないのに」
「わかるよ。てか覚えてないの。あんなに楽しかったのに。楽しかったよね?」
「だから」
「答えろよ」
「覚えてないんだってば、なにも」
「私も覚えてないけど、私は覚えてるよ。卑怯だと思う。あなたが覚えてるのに、覚えてないのが」
「ちょっと、ねえ、冗談やめてよ」
え、なにが? 電話口から聞こえる声が、とつぜん元の質感に戻ったように感じた。え、冗談ってなに。気持ち悪い手紙の話してたよね。手紙から目を背け、あなたは部屋の隅の暗がりへ歩を進めた。恐怖感が薄れると考えたのだ。だが、どう考えても逆効果としか思えなかった。現に鳥は大きくなり続けている。
「あ、あったよ手紙。クッキーの缶の中にしまってあったわ」
うわ、懐かしい。桐子が、弾んだ声でそれに記されていたらしい思い出をあなたに語って聞かせていく。ああ、たしかにそんなことやったな起きたな、大切な思い出だ。いや、そんなことは覚えてないし知らない、忘れてたのに。ふたつのうちどちらかの感想が、話を聞くたびあなたの頭の中に浮かぶ。音や色、そのとき抱いていた感情までもが、今まできれいさっぱり忘れていたのが嘘のように次々と息を吹き返していく。まあ、だいたいこんなもんかな。もっとあった気がするけど。桐子がめぼしい手紙を朗読し終えるころには、あなたは様々なことを思い出していた。しかしいくら探しても、自分も保管していたはずの手紙は見つからない。
覚えているのだろうか。あなたは、それを。
「手紙、見つからない。なんでだろう」
「でもひよこの脚を切ったやつは持ってたんだね。楽しかったよね。私は覚えてるよ。ひよこは死んじゃったけど」
首元にまたあの感覚が宿るのがあなたにはわかった。通話を繋げたまま、あなたは部屋を出て玄関に向かう。お気に入りのスニーカーに足を通しかけたところで、あなたは携帯をぎゅっと握りしめた。
「今からそっち行ってもいい。どうしても手紙を確認したいの。読んで。手に取って。桐子まだ笹塚に住んでるよね三十分ぐらいでつくから」
「いいけど覚えてないの。もしかしてとっておいてないの。捨てたのそんなことないよね、ね、だけど楽しかったよね楽しかったお前も楽しんだだろ」
財布がポケットに入っているのを確認し、あなたは家を出る。おそるおそる後ろを振り返る。巨大な鳥が家を掴んでいるということはなかった。だが、あなたの皮膚に突き立てられた爪の感触は消えない。
私は知っている。それは昔からあなたの首にずっとまとわりついていた。捨てたつもりだったのかもしれないが、ちゃんと生き返って、ここにいる。
桐子の質問に「楽しかった」と答えたら、「楽しくなかった」と答えたら、それぞれどうなるのだろうとあなたは考えている。私はその答えとなる言葉を持っている。だがそれを説明することは叶わない。押し黙っているほかない。
神妙な面持ちであなたは最寄り駅へと歩を進める。手元の幸せは死に続けている。これからもっとひどくなる。思い出したのだから。楽しかったのだから。
灰の鳥 大滝のぐれ @Itigootoufu427
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます