継承争い

岡本紗矢子

戦いの始まり

 押され、押し返されるのは当たり前。誰もが、戦わなくては居場所はないと知っている。

 そういうものだ――満員の通勤電車に乗り込むということは。

 停車した電車のドアが、重そうに開いた。黒やネイビーのスーツをかきわけかきわけ、数人の乗客がよっこらせとホームに出てきた。さて、降りたのは数人だが、乗り込もうと列を作る人の数は膨大である。車内が四次元ポケット仕様になっていないかぎり、こんな人数が入れるわけがない。

 しかし、列の先頭にいた乗客は、まったく隙間の見えない車内に果敢な突入を開始する。列の中ほどにいた私も、唇をぐっと引き結んで、あとに続く。

 前の人を遠慮なく押し、押し返される。私も押され、押し返す。髪が乱れ、本日のオフィスカジュアルもあちこちからかかる力でしわくちゃになっている気がするが、まあ、そんなのはみんな同じだ。

 不思議なことだが、車内には奇跡が起こる。それも毎日起こる。戦い続け、あがいていると、なぜかいるべきポジションが見つかるし、ホームの列は綺麗に失せているのだ。

 この日の私も、気づけばちゃんと車内にいて、ロングシート脇のポールのあたりに位置を確保していた。綺麗に組み上がった人間パズル。私は少しだけ息をつき、そして――人と人の間にわずかに見える「偉大なる存在」に、羨望のまなざしを向けた。


 ――今日も、王がいる。


 おお、なんと優雅なことよ! その座を勝ち取るために、彼らはどれだけの苦労をしたのだろうか。玉座の名はロングシート、1シートにつきおよそ7名。あるいは眠り、あるいはスマホをもてあそぶ、年齢も性別も様々な『座席王』たち。

 能天気な発車メロディーが響き渡った。と、ドアが閉まりかけたところに無理やりふたりの戦士が駆け込んできて、車内全体にぐむと圧がかかった。ああ、ついさっき組み上がったばかりの人間パズルが崩れる。私もだ。押される。今の位置にはいられない。

 だが、そう。これはチャンスでもあるのだ。

 私はとっさに手を伸ばし、指先をポールにひっかけた。背中からかかる力を利用するような感じで、そのままポールに自分を引き寄せる。狙うのは、ロングシートの端っこに座る王の前に、うまくすべりこむこと――。

 よし、成功。

 私はそっと微笑んだ。そして、目の前に座る王に、心の中でひざまずいた。


――おお、王よ。偉大なる座席王よ、わたくしこそがあなたの継承者、『座席太子』です――


 そう、席を確保し、座る者。それが座席王。

 その座を継ぐ者。それが座席太子。

 降車駅に着いたそのとき、その座を退く座席王。では、その継承者は誰になるのかといえば、決まっている。王の前に立つ者である。

 ゆえに、今の私は、王位継承権の持ち主なのである。

 心の中で、私はひざまずいた姿勢から立ち上がり、民の方に向き直る。そして、片手を上げて、全車内に宣言する。


 「我こそは座席太子である」――。


 継承者としての宣誓をやっている間に、電車は走り出していた。

 このあたりの駅間は短く、次の駅までそれほど時間はかからない。そして、次の駅は乗降客の多いターミナル駅だ。さっそくの、王の退位も起こりうる。私は、揺れる車内で足を踏ん張りながら、我が王の動向を注視した。

 しばらくして、次の駅への接近を知らせるアナウンスが流れ始める。しかし、グレーのスーツに身を包み、お腹の辺りにビジネスかばんを抱え込んだ王は、アナウンスに反応しなかった。顔をたれ、すっかり眠っているように見える。

 残念だ。このぶんでは、次の駅での継承はないだろう。

 やがて、電車は駅に滑り込み、停車した。

 大きな駅では、車内が一気に動く。扉が開くと、人々はホームに向かって流れ出し、車内に残る者は移動の邪魔にならないように身を縮める。もちろん、座席王たちも、かなりの数が動いた。あちこちで王位継承が起こっている。だが、我が王は動かない。

 うむ、やはりこの駅での譲位はない――と思った、そのときだった。

 王が、突然ぱちっと目を開いた。彼は顔を上げ、大きく見開いた目を窓の外に向けたかと思うと、


「ああっ!」


と叫んで腰を浮かした。

 なんということか。王は、ここが降車駅だったのに眠りこけていたらしい。彼は大慌てでかばんを抱え直すと、もう大量の乗客がぞろぞろ入り始めている出口に向かってどたばたと走り始めた。

 よーし、やった。私もこれにて、座席王だ。

 ……と思ったのだが、座ろうとして私は固まった。座席の上に、何かちんまりした四角いものがあるのが目に映ったのだ。

 スマホだ。間違いなく、我が王が置き忘れたものに違いない。とっさに私はそれを取り上げ、高くつき上げていた。


「王……じゃなくて、いま降りたそこの方ー!」


 おお、何と不用意なことをなさるのか、一瞬だけの我が王よ! 世の中から公衆電話というものがほぼ消えた今、これをなくしたら遺失物センターに電話することも会社に遅刻の連絡をすることも、道で出会った急病人のために救急車を呼ぶこともできないというのに。持っていなくても緊急事態を乗り越えられるのは、非常電話の設置がある高速道路の上くらいなものだろう。

 人が邪魔だ。私は高く上げたスマホをぶんぶん振り回し、ぴょんぴょん飛びながら彼の背に向かって叫ぶ。


「スマホ! 忘れ物っ! 忘れ物でーす!」

「えっ? あ、ああー、すみません!」


 答えが返る。よかった、気づいてもらえた。が、残念ながら私は女性としても小柄な方で、彼の方もそんなに背は高くないのだろう、人壁の向こうにいて姿が見えない。さらに私は、完成してしまった車内の人間パズルにはめ込まれて、もはやジャンプは不可能になった。人、人、人。人だらけ。ろくに身動きが取れない。

 どうしようと思っていると、人の肩越しに、大きく開かれた手が差し出されてきた。


「す、すみません。ありがとうございます……」


 きっと頑張って頑張って手を伸ばしているのだろう、人の向こうから、苦しそうにかすれた声が聞こえてきた。よし、あの手に届けば。私も背伸びして、人の肩越しに必死にスマホを差し伸べる。

 もう少し。もう少し。

 発車メロディが鳴り始める。

 もう少し!

 王の指先がスマホの先端にどうにか触れた。でも、触れただけ。渡せない。他の人も協力しようとしてくれているようだが、ちょっとだけ身体をずらすのが精いっぱいのようだ。

 私は覚悟を決めた。


「いいですか、投げますよ! 受け取めてくださいね!」

「は、はい!」


 うまくいけ。祈りながら、私は手のひらと指先にこころもち力をこめた。

 大きく飛び過ぎないように、足りない距離だけを補うように。慎重にイメージし、力を加減して、スマホをわずかに跳ね上げる。


 ――ぱし。


 受け止められた感触があった。ほとんど同時に彼が手を引く。


「ありがとうございました! 助かりました!」


 私にはちゃんと見えなかったが、さっと空気が動き、彼が電車を出ていったのがわかった。そのとたん、ドアが閉まる。

 電車が動き出した。


「……はぁー……」


 良かった……。

 ずっと伸ばしたままだった手を静かに引いて、私は深い息をつく。

 不注意な王様のためになかなかのスリル?を味わってしまったけれど、まあ、一日一善だ。良いことをしたのだから、きっと私にも良いことがある。そう、たとえば、晴れて座席王になれるとか――。

 そこで私ははっとした。


 ――私は座席太子だったはずだ!


 急いでロングシートの端、さっきの座席を振り返る。

 そして、唸った。唸らずにいられなかった。

 人が……人が座っている!!!


 ――ぐぅぅぅぅ。座席簒奪者に奪われたーーーっ!


 座られた。座られた! 座席太子は私だったのに。懸命に前王に誠を尽くしていたというのに。その私をさしおいて、横から玉座を奪い取るとは、座席簒奪者め! こんなことがあっていいのか!

 小柄な私は、つり革につかまれる貴族階級には決してなれないのだ。それを、せっかく座席太子になり、今まさに座席王になれるところだったのに、座席簒奪者が現れるなんて。おかげで戦士からやり直しだ。

 つかまるもののない場所で踏ん張りながら、私はぐるぐると考え続ける。こういう場合、どうしてくれよう。簒奪者が現れて、平民に身を落としたとて、私は本来の正当な継承者として、やはり刺客を差し向けねばなるまい。

 私は刺客の暗躍を思い描く。

 憎き簒奪者の周りにどれだけの護衛が人垣を築こうとも、私が雇った刺客の手からは逃れられない。彼らは一人、また一人と、倒されていく。刺客という、冷たい連続殺人者の手によって。簒奪者はきっと、この連続殺人事件におののくであろう。しかし刺客の勢いは止まらない。ひたひたと着実に簒奪者の喉元に迫り、そして――最後の仕事をやり終えたとき、真の座席太子であった私を玉座へと導く――


**


『次はA駅~、A駅で~す……』


 気が付くと、降りる駅に近づいていた。 

 私は妄想を切り上げて、通勤かばんを持ち直す。座席簒奪者のことも座席王のことも座席太子のことも、その瞬間に頭から消えうせた。

 そう。この話は終わりだ。ここから始まるのは、仕事という戦場なのだから――。


 ……ああ、皆様? 刺客がどうのこうの、殺人がどうのこうのと考えている私のことを、危うい人間と思われたでしょうか。

 大丈夫です、ご安心ください。私は妄想とゲームとライトノベルが好きなだけの、まっとうな社会人です。

 王や太子や簒奪者や、刺客やなんやといろんなことを思い描くことで、毎日の「痛」勤時間をやり過ごしているだけの、ごくごく普通の女性なのです――。

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