【終着点】

【終着点】



 さて。


 何はともわれ、この物語に決着をつけなくてはならない。


 わたしや川崎さん、滝野さんは結局この会社からは姿を消した。全員仕事を辞めることになった。


 だが、話はまだ終わっていない。


 労基が残っている。


 辞める直前の1月。労基から「年末は忙しいからもう少し待って、と言われたから待つ」と言われて数日。そろそろ結果が出ただろう、と労基に電話を掛けた。


 結論を言うと、この電話で結果が出た。話のオチは決まった。大まかに物語は終わる。


「あの件、どうなりましたか」


 申告をして9ヶ月、労基と会社が接触して8ヶ月。


 わたしが申告したのは、長時間労働の改善と残業代未払いの件。一日13時間~15時間労働、サービス残業は100時間を超えるこの環境、労働基準法に明らかに違反し、だれがどう見ても「これはダメだろう」と思うようなこの会社の実態。



 この環境に耐えられず、わたしは労基に助けを求めた。お金も貰えないのに100時間以上働くのは間違っている。このままでは耐えられない。なんとかしてくれ、そのための労働基準監督署だろう、と。



 そして労基はその申告を受理し、会社と接触した。就業規則を出せ、それを改善しろ、労働環境を良くしろ、残業代を払え、そのためのレポートを書いて提出しろ、さもなければ逮捕だ。様々な要求を社長に対して行った。数ヶ月に渡った。


 躱し続けていた社長をなんとか捕まえ、ようやくその答えを引き出した。


 この数ヶ月間の答えを、つけなければならない話のオチを、起承転結の〝結〟の部分を、電話口でわたしは聞いた。


 彼はこう言ったのだ。


「1月に入ってから、ようやく話ができまして。なんとか社長と話し合いの場を設けられました。


 残業代についてなんですが、これはですね、みなし残業として計算しようかと思います。もちろん、みなし残業というのは本来の残業代より多く支払う、ということになっておりますので、その辺りの計算を今後会社側としっかりとしていき、きちんとした制度を作って行きたいと思います。


 みなし残業に伴い、就業規則も変更されます。これに納得ができない、というなら民事裁判なり何なりしてもらうしか他ありません。就業規則変更に関しては労働基準監督署が取り締まることはできないんですよ。労働契約法であり、労働基準法から離れてしまうので。


 長時間労働に関しましては、徐々に改善していこうと思っております。急に労働時間を短くしろ、と言うのは難しいですし、こちらも強制執行権もありません。なので徐々に、という話に」


 簡単にまとめると、こんな感じだ。所々間違っているかもしれなくて申し訳ないのだが、この話が衝撃的で上手く頭が回っていなかったのだ。


 結局のところ。



 長時間労働は改善する。すぐには無理。徐々に。なので、現状は変わりなし。



 残業代はみなし残業代として出そうと思う。それの計算はこれから。会社といっしょにやっていこうと思う。なので、現状は変わりなし。みなし残業に納得できないなら訴えろ。労働契約法だから労基は管轄外。


 と、いうもの。


 つまり――何ら、変わりがなかったのだ。



 わたしたちが望みを託したこの長い長い9ヶ月間も、「労基がきっと助けてくれる」という幻想も、すべて露と消えた。


 いつ作り終えるかわからない、本当に作るかどうかわからないみなし残業制度を盾にして。徐々に改善するという建前を抱えて、この会社は廻り続けるのだ。


 何も、何も変わらなかった。


 あぁ笑えるだろう。本当に、わたしたちのこの9ヶ月間は一体なんだったんだ、という感じだ。労基の行動に一喜一憂していたのがバカみたいではないか。



 それから数ヶ月経った5月、久しぶりに労基から電話が掛かってきた。


「個人の依頼だった長時間労働と残業代に関しては、これから改善していくという形になりましたので、ここで区切りとさせて頂きます。しかし、これからはあなた個人ではなく、会社全体の問題として労働基準監督署が改善に向けて行きますので」


 そう言われた。正式に打ち切り、というわけである。


 さらにその数ヶ月後の10月。別件で田上監督官と話すことがあり、そこで尋ねてみた。長時間労働とそのみなし残業代制度。現状でどうなったのか。


「長時間労働に関して、改善に向けて動いてはいるのですが、なかなか行動に移せず、現状では以前と変わりない状態です。みなし残業代については、現在会社といっしょに計算をしている最中です」


 という答え。


 申告から1年と5ヶ月、労基が改善に向けて動き出してから9ヶ月後の話である。


 さらに数ヶ月後。2月。別件で田上監督官と話したとき、ついでに訊いた。


「あれから何か、会社に変化はありましたか」と。


 申告から1年9ヶ月後の話である。2年近くの月日を経て、会社は何か変化がありましたか? と。


「長時間労働の改善に動いてはいるのですが、すぐには動きだせない状況でして。みなし残業については、会社とともに計算している最中です。……なので、変わってはいません。しかし、元より急な変化は難しいことですし、これから徐々に……」


 これがこのお話の終着点である。


 会社は変わらなかった。何も。


 少しは会社に対して波風は立てられたと思うが、些細なものだ。変わらないものの方が圧倒的に多い。


 これからも社長は社員に対して、気持ち良く暴言を吐き続けるだろうし、必要とあらばいくらでも働かせるだろう。


 後ろから労基が見ていたとしても、それは変わらない。行動は変わらない。


 こんな話を聞いたことがある。


 労基はあくまで会社の味方であり、労働者の味方ではない。だがそれが、最終的に労働者のためになる。


 もし、労基がわたしたちの話を聞いて、一方的に「はい、残業代出しなさい。長時間労働やめなさい。でなきゃ逮捕です」と強く出たとしよう。それこそ本当に逮捕したとしよう。


 この豆腐屋がそうなった場合、残業代をフルで出せば、ひとりあたりの人件費が数百万以上膨れ上がる。年収は倍になる。現状で給料が遅れるくらい困窮している会社が、こんな状況になったらどうなるか。


 簡単だ。潰れる。


「残業代なんてちゃんと出したら、会社が潰れちゃうよ」


「そんな会社はとっくに破綻してるんだから、さっさと潰れろ」


 こんなやり取りはよく見かけるが、潰れて困るのは労働者だ。仕事がなくなる。職を失う。こんな会社に居続けるくらいならそっちの方が幸せな気もするが……、どうなるかはわからない。それは人によるだろう。


 だからこそ、こんな結果になったのかもしれない。


 とはいえ、正直、こんなオチになるとは思わなかった。


 何も変わらない、だなんて。


 勝ちか負けかで言えば、わたしたちの完全敗北だ。社長は大勝利である。


 相手の巧みな策略によって敗北したなら、多少は仕方がないか、と思えるかもしれない。会社によっては上手く労働基準法の穴を突いたり、労基対策をして躱すところもあるだろう。それならば、まだ納得できたかもしれない。


 しかし、社長がやっていたのはせいぜい「相手の言うことを聞くフリをして先延ばしにした」だけである。


 それがまさか、こんなにも上手くいくとは。


 労働基準監督署にこんないい加減なものが通用するとは。


 何ともやりきれない。


 わたしたちの思い描いた夢は、社長に見事に打ち砕かれた。生意気な社員の攻撃を潰せて、社長はさぞかしご満悦だろう。煽る声まで聞こえてきそうだ。


 それに関して喚き散らすつもりはない。どうせ、我々3人は会社から離れた身だ。今更会社がどう改善されようが、こういう言い方はどうかと思うが、どうでもいいのだ。自分に関係がないのだから。


 むしろ、辞めてから「完全に改善されましたよ。残業代はフルで出ますし、定時は9時18時になりました」とあっけらかんと言われたら、正直複雑な感情を抱くと思う。


 だからいい。わたしたちの負けでいい。


 しかし、しかしだ。


 このまま負けっぱなしにはならない。それはとても耐えられない。許すわけにはいかないし、まだまだ納得はしていない。



 この戦いはわたしたちの負けでいい。労基を頼り、社員として戦ったわたしたちは、完全敗北した。それでいい。


 だが、わたしたち個人はまだ負けていない。


 まだ向ける武器が残っている。



 残業代請求だ。



 労基から「払わないといけない制度なので、払ってあげてくださいねー」と言ってもらうようなものではなく、弁護士を通した正式な請求。きちんとした法律での戦いである。お願いではなく、命令だ。


 貸していた時間を返してもらわなくてはならない。なぁなぁで済ますわけにはいかない。1000時間以上に渡る残業時間、これをきちんと耳を揃えて払って頂かなければ。


 わたしたちの戦いは、まだ終わっていない。


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豆腐屋さんの社畜日記 ~愉快なブラック企業と労働基準監督署~ 西織 @tofu000

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