【そうだ、僕が裏切り者だ】2
とはいえ。
実際のところ、わたしはこのあと、何度か会社の制服に袖を通しているし、営業所にも顔を出している。制服を返したのはだいぶ後になってからだった。
彼らがぬるりと帰ったのも、どうせこれからまた会うとわかっていたからだろう。
引継ぎ中、地図の説明をしているときだ。
地図を見ながらあーだこーだと説明していると、引継ぎ相手は頭を抱えながらこう言う。「うーん、ちゃんと回れるかなぁ」と。
実際、かなり厳しい。この引継ぎの仕方は、結局のところすべて地図上での説明でしかない。引継ぎ相手は現地を知らない。地図でしか知らないのだ。
行ったことも見たこともない土地に向かい、地図だけを頼りに見知らぬお客さんを数十人と拾う。これは想像以上に大変だ。情報が地図だけ、と言うのが辛すぎる。
わたしも滝野さんの仕事を一部引継いだのでやったことがあるが、これがめちゃくちゃ大変だった。幸運なことにその場所が自宅から近いために、休日を使って下見に行けたが、それでも苦労した。何度もぐるぐる回った。せいぜい30~40人程度の地域だったが、精神的に大変疲れた覚えがある。二度とやりたくない。
なので、先輩たちの不安はもっともだし、その気持ちもわかるわけで……、わたしはつい、「初日、いっしょに回りましょうか?」と訊いていたのだ。横乗りだ。
すると、大変喜ばれる。それもそのはずで、横に前任者が乗っているのとそうでないのでは雲泥の差だ。難易度が1と100くらい違う。地図を見ながら、「この家かな……?」と当たりをつけて走るのと、「ここ右に曲がってください。あ、ここの家です。駐車場の前に停めてください」と指示されるのでは、ぜんぜん違う。
なので、わたしは辞めてからも何回か先輩の隣に乗っていっしょに走った。もちろん会社の許可を得たうえでだ。制服を羽織り、ともに接客をした。
そのことを友人に話すと、「良いように使われているだけやんけ」「あんな会社に義理立てせんくてもええやろ」「あんだけ文句言ってたのに」と結構いろいろ言われてしまった。まぁ自分でもそう思う。
そんな中、ひとりの先輩が言ってくれた「会社や社長には強い恨みがあるけど、いっしょに働いた人には感謝してるってことでしょ」という言葉が、とてもしっくりきた。
そういうことだ。
わたしは社長に対しては、それはもう純然たる敵意を持っている。なぜ俺がこんな目に、絶対に許さんぞクソ野郎、と血走った眼(寝不足)で豆腐を売っていたこともある。その考えは今でも変わっていない。
しかし、いっしょに働いた人たちに対してはそうではない。同じ営業所の人にはとてもお世話になった。良くしてくれた先輩たちにはとても感謝しているし、わたしに仕事を指導してくれた一番先輩や所長には頭が上がらない。冗談を言い合うのも楽しかった。そこにマイナスの感情はない。
クソみたいな労働環境ではあったが、営業所内は明るかった。冗談が飛び合う、気安い空間だった。珍しい仕事場だと思う。ほかのすべては劣悪であっても、人間関係だけは良好だった。
……まぁ、年末、『お祭り』の件で所長たちにキレ散らかしておいて、言うことではないかもしれないが。
時折出てくるブラック企業に染まった発言には、「はいクソしょ~もない~~~~」と内心で呆れはしたが、それは例外だ。感謝しているのは嘘ではない。
会議の翌日の日曜日、わたしは営業所にいた。所長と地図の打ち合わせをして、そのあと所長の車でコースを回るからだ。コースの下見である。
道案内をしながら道を走っていると、ふとほかの社員の話になった。「あぁ明日は、△△さんの車に横乗りするんですよ」と伝えると、所長は前を向いたまま、「あぁそういえば、横乗りするって言ってたなぁ」と言う。
そして彼は、独り言のように呟いた。
「お人好しやなぁ」
と。
……そうだろうか。
確かに、側面だけを見ればそう言えるかもしれない。お人好しかもしれない。わざわざ会社を辞めたあとも、ほかの社員に協力するお人好し。そう思われるかもしれない。
だがわたしは、散々裏で色々やっていた。
川崎さんと滝野さんと協力し、労基を会社に呼び寄せた。情報をせっせと流した。実行犯はわたしだ。
労基が会社に介入した際、わたしはどうなってもいいと思っていた。
以前、「社長に逮捕されてほしいですか」という問いにも、はい、と答えている。今もその気持ちは変わらない。社長が逮捕されてほしいと思うし、それによって会社が潰れても構わない。
そう、会社が倒産してもいい、とわたしは思っていた。そうなるように話を運んだ。
会社が倒産すれば、当然、社員は困る。所長を含め、家族を抱えている人にはとんでもないことだろう。再就職だって大変だ。わたしは当時、若かったからまだ融通が利くが、そうでない人もたくさんいたと思う。
それでも、わたしは会社が潰れればいいと思っていた。ほかの人は関係がない。潰れてしまえばいい。
そんな身勝手なことを考える人間が、本当にお人好しだろうか?
わたしは、これから別の活動も考えていた。
そのことがあるから、わたしは「もうこの会社の人には会えないだろうな」と思っていた。合わせる顔がないからだ。
横乗りがすべて終わったあと、営業所に制服を返しに行ったが、そのときは歓迎された。「いつでも遊びに来なよ」とも言われた。実際、辞めた人が営業所に顔を出すことはあった。わたしの知らない先輩だったけれど、その人が営業所にやってきて楽しく談笑しているのを見たことがある。
また、辞めてから所長から連絡が来た。「今度、会社の人と集まるけど、お前も来ないか」と。
特別用事があったわけではないが、わたしは断った。
今でも、たまに話したいなぁ、と思うことはあるけれど、きっと彼らと会うことはもうないんだろう。
わたしは裏切り者だ。それは間違いない。
だから未だに、「お人好しやなぁ」という所長の言葉が、やけに耳に残っていた。
まぁ。
辞めたあとの話は、別にこんなセンチメンタルなことばかりじゃない。
普通にムカつく話もあった。
あれも会議の翌日だったと思うから、所長と別れてからだろう。帰るために車を走らせていると、引継ぎした先輩から電話が掛かって来たのだ。「お客さんに電話を掛けないといけないが、その電話番号がわからない」と。
電話番号は会社携帯に保存されていたが、その携帯は既に本社へ返してしまった。
なので、わたしは本社に電話を入れる。相手は総務部長だった。「本社に返した携帯に電話番号のメモリーがあるから、それを教えてほしい」と伝えると、部長は「携帯なんて来てないよ。回収するのは月曜日じゃない?」と回答する。
あ、と声が出た。勘違いしていたのだ。
営業所から本社に物は送れる。豆腐を運ぶ配送トラックに持っていってもらう、という方法だ。豆腐を持ってきた帰りに、提出物を回収する。
なので、月曜日に提出したものは火曜日朝に回収、火曜日に提出したものは水曜日朝に回収……、ということになる。金曜日に提出したなら、回収は月曜朝だ。現在は日曜日。まだ営業所に携帯は残っている。
「あぁすみません。勘違いしてました。じゃあ、営業所に行って携帯見てきますね」
わたしがそう伝えると、部長はこれ見よがしにため息を吐き、呆れを含んだ言葉を返してくる。
「あのねぇ。君はもう部外者だからさ。今回は大目に見るけど、部外者が会社に入っちゃダメでしょ。これからは、こういうのなしにしてよ」
と怒られてしまった。
わたしは普通にすみません、と謝り、「そうか、確かに部外者だな」と思いながらも、車を再び会社に発進させた。
……ん?
………………んん?
走行中、わたしはあることに気付く。
……なんで今、俺怒られたん?
いや、わかる。「部外者だから会社に入るな」っていうのはすげーわかる。その通りだ。辞めた人間が会社に入るなんて、本来は許されるべきじゃない。
だから、本来なら部長はこう続けるべきだったのだ。「部外者が会社に入るのはよくないから、わたしが取りに行くよ」と。わたしが会社に入らないようにするべきだった。
というか、本来はそうするのが当然だ。彼ら現社員が取りに行くべきだろう。その仕事を人に押し付けておいて、「今回は大目に見るけど」「こういうのなしにしてよ」だとぉ~!?
人に仕事をさせておいて、なに上から目線できてるんだ!? そこは、お願いします、じゃねぇのかよ!
わたしはこう返すべきだったのだ。「いやぁ、部外者だから会社には入れないです。なので、部長が往復3時間かけて営業所まで来て、会社携帯を確認してください」と。そうすれば、あっちも態度を改めたろうに……。
こういうとき、頭の回転が鈍いのが嫌になる……。
ちなみに、似たようなことは川崎さんもされたが、彼女はしっかりとやり返している。
彼女は引継ぎ期間があまりにも短かったために、地図作りが間に合わなかった。だから、退職後に地図を完成させ、営業所に届ける手はずだったのだが……。
「あなたはもう部外者なんだから、会社の敷居を一切跨がないように。鍵の番号ももう変えましたので」
とキツめに言われていたのだ。そこまで言うかぁ? と言うほど。
それに腹を立てた川崎さんは地図を完成後、だれもいない営業所の入り口に地図を置いて帰った。「部外者なので会社に入れないので、ここに置いておきます」と。
もう所長たちはブチギレだ。何せ、この地図は引継ぎされた人の生命線というか、これがなければ一切仕事ができない。客が全員消えてしまう。そのうえ、お客さんの個人情報でもあるので、めちゃくちゃ大切なものなのだ。それを吹きさらしの場所に置いていかれたら、そりゃ所長たちも焦るというもの。
所長は川崎さんに鬼電しまくったが、彼女はそのままフェードアウトした。
これに関しては互いに大人げないというか、子供の喧嘩というか……。なんというか、煽るのやめない?
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