二 アーリャの追想 1

※新聞記者の少女が求めるもの


「開けて下さい。ナロードヴェ革命評議会、十三号室教導隊です」 


 扉をノックする音は、小指側でドンドンと叩くのではなくて、中指の骨でココッココッと、どこか清潔で、遠慮がちにも聞こえました。また、その声はとっても穏やかで、私たちが怯えないようにとの気配りすら感じました。


 ⋯⋯だから! だからこそ怖いのです! 今、何が起こっているの?! どうしたらいいの?!

 窓の外ではヤアヤアと、声や音が聞こえてきます。とても普通の様子ではありません。慌てふためくばかりですが、バタバタしながらもクッキリと分かることがあって、それは、私たちの街と生活が、これまでのようではなくなっていく、そして、あるグループがあって、私たちを捕まえようとしている、私たちは逃げるか屈するか、それ以外はない、ということ。


 「このグニエズド公国は、本日を以て、我が評議会の管轄下に入りました。三権はつまり、警察権も掌握しております。要するに国の執行だと考えて下されば⋯⋯」


 時間が経って少しずつ、理解ができてきました。生活⋯⋯いや、国そのものが大きく変えられようとしている。ドニエプルで起きた事と同じ。私にとっては、とても因果なこと。私自身を追いかけてきたわけではないのでしょうけど、運命から逃げ切ることはできませんよ──と、何かにそっと囁かれるようでありました。


「アリーサ・クドリャフツェヴァさん。ピャスト新聞社を含め、全ての大衆伝達は一旦、革命評議会が監督させて頂きます。関係者の皆様におかれましては、ご理解とご協力をお願いしておる次第であります」


 声の冷静さが憎たらしくて仕方ありませんでしたが、やがて私は、落ち着きを取り戻して、自分に今、何が出来るか、何をすべきか、と考えました。すると⋯⋯。


 まず第一に、私は何があっても、このピャスト新聞社から逃げてはいけない。どのような目に遭うとしても。その理由は⋯⋯あまり話したくはないのですが、とにかく、これはすぐに決意できました。


 次にツェツィリア──この子だけは逃がさなくては。それは間違いありません。だから私は即座に駅馬車を手配したのです。あの方ならきっと来て下さるでしょう。

 急ぎ、私はツェツィリアにその旨を伝えました。私はここに残る、でも、あなたは早く逃げなさい、もうすぐ迎えが来るから、と。

 ところがツェツィリアはいつも通り、うんともいやとも言わず、きょとんとした顔で私をじっと見つめるだけなのです。私は地団駄を踏みました。もう! この子は!


 ツェツィリア──


 この子は、私より二つ下で、ことし十五になるはずですが、五歳のままで止まったように、背丈もちんまりしてて、胸もぺたんこで、顔は特別可愛くもないのに、おめかしひとつもやりません。

 着ているチュニックの裾はほつけてだらしないし、髪を結っても後れ毛はてんでばらばらで、頭巾にだっていつも籾殻もみがらがぽろぽろとこびり付いていて。女の子だからちゃんとしなさい、と何度も言ったことは、いつか思い出になるのでしょうか。


 そして──これはとても強調したいのですが──この子はいつも、私たちとは全く違ったところに目を向けている。メレンゲのようなその頬に、栗色の瞳をちょこんとさせながら、じっと遠くに、何を見て、何を考えているか、さっぱり分からないのです。


 私はツェツィリアが好きです。確かによく分からない⋯⋯いや、分からないどころか、ひょっとしたら、今にも出し抜かれそうで、あざむかれそうで、魂をくしゃくしゃにされて──ふと、そんな怖さを感じることすらあります。正直に言うと、私はツェツィリアともう会わないことに、少しホッとしているくらいです。

 でも、それでも私はツェツィリアが好き。ツェツィリア。ずっと遠くから、いつまでも愛でていたいような、そんな不思議な感触です。


「ツェツィリア・レヴァンドフスカさん。貴方もそこにいるのは分かっています。評議会は一時的に、あらゆる表現手法を停止します。なので、貴女にも厳重な協力要請が出ておりますれば、どうか」


 私の生まれはグニエズドですが、名前の通り、ドニエプルからの移民の子です。なので父からは、祖国のその後については聞かされていました。やつら革命勢力は、自由な表現を一切許さないそうです。文章はもちろん、絵画や音楽、総合芸術までも。だからツェツィリアだけは、何としても逃したいと思うのです。


 ──馬車の呼び鳴が聞こえてからは、後は流れ作業でした。ピャスト新聞社には、多数の麦わらの寄贈があって、社屋の裏に積まれたその束は、二階の窓から飛び降りるクッションとして十分だったので、彼女は無事、窓から裏路地に降り立つことができたのです。


 しばらくの間、彼女はいつもの彼女らしく、全身で問いかけるようにじっと私を見つめていましたが、やがて馬車に揺られて行きました。窓際の植木鉢の、この子が大事に育てていた赤いヒナゲシは、泣くあてもない捨て子のようでありました。


 私とツェツィリアの話はここまでです。結果が全てではありませんか。私たちはそれぞれの道を選んで──選ばされて、なるとおりになる。それはそうなのでしょう。と、私には幾分かの度胸が据わってきたのです。


 私は、覚悟を決めて、扉の鍵に手を伸ばしました。


 ⋯⋯でも、私の中には第三の問題がありました。それは、あの『ダイホン』をどうするか、ということです。私はまだ『ダイホン』の経験が浅くて、内容もさることながら、これをどういう風に実現していくかを、まるで知らないままなのです。ツェツィリアを逃すまでの間、それはずっと頭にこびり付いたままでした。


 印刷屋さんに迷惑はかけられない。ならツェツィリアに渡すべき? ⋯⋯いや、この子にいわゆる『裏方』の仕事は出来ないでしょう。

 このグループに見つかれば処分や⋯⋯処罰? までされるのでしょうか。それくらいならいっそ燃やしてしまいましょうか? どれだけ拙くても、私が精一杯に書いた『ダイホン』だけど⋯⋯。


 この件について判然とできないまま、私は、私の職業、ツェツィリアとの出会い、そしてあの『左手事件』など、これまでのいきさつに漫然と思いを馳せるばかりでした。

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革命前夜のホリゾント ポン太 @iwamiponta

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