一 御者の隘路

※少女を乗せた御者の記憶


「ツェツィリア!」


 と鋭く叫ぶその声を、私は三度、聞きました。

 その頃はすでにもう、おちこちに火の手が上がっていたようで、きわにはそれ程の火力はなかったかもしれませんが、街全体は、暁闇らしからず、ほの明るくも見えました。暴力というやつは被害をよそに、正当性も批判もさておき、ただ景色的なスキャンダルとして誇張されたがるきらいはありませんか。


 実際者として、当事者として、被害者としては、その恐ろしさは恐ろしさを通り越して、たちどころに私たちを白痴にします。それはもう、みっともなくうろたえるばかりであって、叫んだり喚いたり、持ち出したり捨てるかやがて、賤しく救いの類を求めたりと、いずれも漆黒に閑却されましょう。


 東のヴォストーク皇帝が私刑したことはこの国にも伝わっていました。帝国そのものが消滅、転覆したと聞きました。そして⋯⋯なんと忌々しいことでしょう! その野蛮な革命勢力とやらが、ついにこのグニエズドにまで及んで来たのです。


 誰と誰が、何と何とが、どのような主義主張で争っているのかは判りません。ですので何の意見も持ちえません。たかが市井の私たちは、ネズミの中でも、その、とりわけ馬鹿な部類に位置するように、ちょこまかと右往左往するより他はありませんでした。


 ──その時、私の客車はピャスト新聞社の前に停まっていました。社から「どうしてもあと一人乗せて欲しい」と緊急の依頼があったので、私は遁走するが早いか、仕方なく街中に引き返したのです。やむを得ないでしょう。それが私の仕事なのですから。


 他の乗客からは散々の苦言が出ておりました。街を、日常を、今までの生活の何もかもを放り出して、文字通り着の身着のまま逃げ出そうとしているのに、一体何をぐずぐずしているのかと。

 それについては私も全く同意見でありまして、ほとんど自分の職責を放棄しそうになったくらいです。とにかく、早くこの場から離れたい。一刻も早く。怖い。


 ところが最後の乗客──『ツェツィリア』と呼ばれたその少女は、石畳に根を生やしたかのように、なかなか乗車しようとしないのです。


 二階の窓から身を乗り出している呼び声は、これもまた、歳の頃は同じ程度、十五六くらいの少女でしょうか。その緊迫した様子と声色から、強情に配車を依頼した主だとすぐに判りました。


「ツェツィリア!」


 と、社窓の少女は再び叫びました。

 名前を呼ぶ、というよりは、それは何かの決意の表明⋯⋯あるいは計画、その号令、合図、符牒のようにも聞こえました。


 しばらくの間、『ツェツィリア』はじっとあおむいたまま、窓際の娘と無言で見つめ合っていました。私は相当に苛立たしくなってしまい、「あの、もしもし、他の方をお待たせしていれば」と声をかけました。私の言葉も届かなかったその姿は、おそらく農奴の娘なのでしょう。身なりは薄汚く貧相で、触れば壊れるほど脆くちいさな体です。顔立ちにも、これといって人目を引くほどの容色はありません。

 しかしその眼差しだけは、強く熱くたぎるようで、ただの小娘と思わせない何かを持っている──瞬間的な情報量ですが、そのように記憶しています。


 やがて『ツェツィリア』も、ずっとそのままでいいわけでもなかったでしょう、彼女なりのふんぎりをぐっと踵に返し、大事を思い出した小鳥のように、ぱっと軽く、客車へと移りました。契機、私は即座に馬を促しました。


「ツェツィリア!」


 『ツェツィリア』のこころはすでに、次の階梯に移行していたようで、最後の呼び声に振り向きすらもしませんでした。握るように掴むように、まばたきひとつせず、凝然ぎょうぜんと宙を見つめたままです。それはそれでよかったのでしょう。二人の別れはセンチメンタルなそれではなくて、もっと逼迫した、実務的な離別のようでしたから。


 とまれ、ようやく馬車は走り出しました。

 もはや私には、二人の娘は取るに足らぬ逸話であって、何の構う所もありません。私たちの最大の関心事はただ一点──これから一体私たちはどうなるのか──それだけです。アイゼナハは亡命を受け入れてくれるのでしょうか。そもそも亡命にはどのような要件があるのでしょう。手続きは? 仕事は? 生活は? 不安は今にも私たちを押し潰さんばかりで、そのように乗客らもまた、頭を深く垂れたまま、鉛のようにおし黙っておりました。


 御者台の隣に座る孫のヤツェフには、不安の具体性は無かったでしょうけれど、彼は彼なりに、深刻な面持ちで首を傾げておりました。彼の未来だけは何とか守ってやれるとよいのですが⋯⋯。



 わだちが少しわだかまって、車体は大きく揺れました。私たちの心もまた、そのようになりました。


 アイゼナハへと向かうこの道は、背の高いトウヒが並木を成しており、それらの幹やこずえ、針葉らが、月の光を少なくしています。その木陰の主は黒々と、一切に動じる気配もなく、仮に焼け果てるであろうとしても、堅く屹立し、泰然自若と見えました。落ちていく私たちを側目そばめに見るのであれば、それは当然でしょう。


 私は、駅馬車、または荷馬車の御者として、もう四十年近くになるでしょうか、このグニエズドからアイゼナハへと続く街道を、何度も何度も往復してきました。けれど、これほど惨めな心持ちで馬の尻を眺めたことはありません。


 いったい、私に何の落ち度があったというのでしょう。何の咎があったのでしょうか。なぜ一瞬にして、これまでの全てを失わなければならないのでしょうか。神様。──


 私は信仰の薄い人間です。

 自らの不信仰をとするのであれば、どのような艱難も然り然りと受け容れる覚悟を、頭から用意しておくべきである──と、私はこの時初めて悟りました。

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