56 史上最大の遅滞防衛戦

「てっー!」


 一九四四年五月十五日〇七〇〇時過ぎ、第一遊撃部隊旗艦・大和の艦影はクェゼリン環礁から北東に離れた海域にあった。


「敵輸送船に命中を確認!」


「新たな目標の選定、急げ!」


 大和は前部にある二基の主砲塔と一基の副砲塔を振りかざしながら、二十四ノットの速力で海面を切り裂いている。


「上では、昨年のろ号作戦以来の光景が見られていることだろうな」


 艦橋下部の戦闘情報室で戦況表示板に示された彼我艦隊の情報を見つめながら、栗田健男中将はぽつりと呟いた。

 昼戦艦橋からは、戦艦がその主砲によって敵輸送船を打ち据えるという光景が見られるはずであった。


「これで、本作戦はほぼ成功裏に終わりました」


 どこか安堵の息とともに、小柳冨次参謀長が言う。

 今、第一遊撃部隊はクェゼリン環礁からの遁走を図る米輸送船団の一部を追撃、これを捕捉して砲撃を加えていた。

 第二遊撃部隊はクェゼリン環礁の南側から突入したため、米軍のルオット・ナムル島攻略部隊を乗せていた輸送船団の一部を取り逃がしてしまっていたのだ。

 環礁内への小島に築かれた米軍重砲陣地も艦砲射撃で破壊し尽くした第二遊撃部隊には、十分な数の残弾が残されていなかった。

 また、司令長官である西村祥治中将が戦死していたため、部隊の指揮を引き継いだ白石万隆少将が艦隊の集合を命じて、実際にそれが完了するまでに時間を浪費していた。

 環礁の北側から逃走した米輸送船団については、第二遊撃部隊が発進させた弾着観測機が捕捉しており、その後、山口多聞中将が二式大艇の一部を差し向けて接触を引き継いでいた。その誘導に従って、大和以下第一遊撃部隊はクェゼリンから退避を試みようとした米輸送船団を捕捉することに成功していたのである。


「クェゼリンに来寇した米上陸船団は、これで壊滅に追い込めたと見てよかろう。だが、敵輸送船団はウォッゼとマロエラップにもいる。作戦が完全な成功を収めたとは、言い難かろう」


 栗田中将は、参謀長の言葉に軽く首を振った。そして、この作戦で命を落とした艦隊将兵と守備隊の双方を悼むかのように、一瞬だけ瞑目した。


「……米軍の渡洋侵攻能力は、我々が思っていた以上に強大なものだったようだ」


 帝国海軍は、中部太平洋における米軍のマーシャル西部・東部同時侵攻という可能性を十分に考えていなかった。それが、クェゼリンに来寇した米上陸船団の殲滅だけに終わってしまった要因であるともいえよう。

 クェゼリンからウォッゼ、マロエラップに至るまでには、もう一昼夜かかるだろう。クェゼリンで輸送船団が壊滅したと知れば、ウォッゼ、マロエラップの米上陸船団は即座に退避しようとするに違いない。

 今更、第一遊撃部隊がウォッゼ、マロエラップに向かっても空振りとなる可能性が高く、また連合艦隊司令部からも戦力に余力がある場合のみ、ウォッゼ、マロエラップに突入するように命じられている。

 米新鋭戦艦との砲戦で打撃を受け、将兵の疲労や米輸送船団への追撃行動による燃料の消費量増大を考えれば、最早、ウォッゼ、マロエラップ突入の時機は逸してしまったと見るしかない。


「現在追撃中の米輸送船団を撃滅後、トラックへと帰投する」


 せめて目の前の米輸送船団を壊滅させることで、散っていったマーシャル守備隊の英霊への手向けとしよう。

 栗田はその思いと共に、大和の主砲射撃の振動を噛みしめていた。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 東京・霞ヶ関の海軍省・軍令部庁舎に報告が集まったのは、その日の陽が暮れてからのことであった。


「ウォッゼ、マロエラップ守備隊からの決別電を、先ほど、大和田通信所が受信いたしました」


 軍令部第一部作戦室に流れる空気は、粛然としたものであった。


「続いて、GF司令部からの、現時点での損害の集計も届いております。沈没が、戦艦比叡、駆逐艦涼風、巻波、藤波、早波。損傷艦艇につきましては、作戦参加艦艇のほとんどが大なり小なり、損害を負った模様です。また、艦艇の損失・損害以上に深刻でありますのが、第二十二、二十四、二十五、六十三航空戦隊の損害でありまして、戦闘機隊を除いてほぼ戦力を喪失したと判断してよろしいかと」


「……」


「……」


「……」


 マリアナの防備が整うまでの、遅滞防衛戦のような作戦であった捷一号作戦。

 特に航空隊の損害の多さは、来たるべきマリアナ決戦もまた、厳しいものとなることを予測せざるを得ないものであった。


「一方、我が方も米戦艦五隻、空母三から六隻、輸送船もかなりの数を撃沈したものと見られます」


「我々は勝ったのでしょうか? それとも負けたのでしょうか?」


 第一課長の山本親雄大佐が言った。


「負けはしなかった。だが、勝ちもしなかったということだ」


 それに応じたのは、第一部長の宇垣纏中将であった。


「確かに、米軍に与えた打撃は大きかろう。だが、我々の損害もまた大きかった」


「今回の戦訓をマリアナ決戦に活かせるよう、直ちに研究を行うべきであろうな」


 宇垣の言葉を引き継いで、軍令部総長の末次信正大将が言う。彼は戦況図を睨んでいた顔を、部員たちに向けた。


「米軍との戦争は、まだまだこれからが正念場である。マリアナでの艦隊決戦において、確実に米艦隊を撃滅して彼らを講和の席に引きずり出せるようにしなければならん」


「はっ、直ちにGF司令部も含めた研究会を開催したいと思います」


「うむ。それと、損傷艦艇の速やかな修理と再訓練、第一航空艦隊のさらなる増強について……」


 そこまで言いかけた末次の体が、唐突に傾いだ。


「閣下!」


 咄嗟に、側にいた藤井茂大佐がその体を支える。


「……いや、大事ない。少し、疲労が出たのかもしれん。ははっ、年は取りたくないものだな」


 そう言って苦笑を見せた末次の顔には、明らかな影が浮かんでいた。


「……」


「……」


「……」


 宇垣を初めとする作戦室の者たちは、今年で六十四になろうとする軍令部総長の異変に少し不穏なものを感じていた。末次信正はかつて軍令部総長であった伏見宮博恭王より若いとはいえ、それでも軍人として第一線に立つにはいささか高齢といえるのだ(なお、前任の永野修身とは同年齢、アメリカ側のキング作戦部長は末次より二歳年上)。






 宇垣は第一部で一通りの報告と今後についての指示を出し終わってから、第二部長室に向かった。


「第一部の雰囲気はどうだ?」


 部屋には、宇垣に親しげに語りかけてくる人物がいた。第二部長の、鈴木義尾中将である。

 宇垣とは兵学寮同期生であり、最も気心の知れた友人といえた。

 本来であれば定期的な人事異動のために昨年の後半あたりで別の部署に転任となるはずであったが、軍令部内における宇垣との連携を考えた山本五十六が、そのまま第二部長を続投させていたのだ。


「まあ、良くはないな」


 応接椅子に腰掛けながら、宇垣は応えた。


「それに、総長閣下のご健康もあまり宜しくないような気がする」


「何かあったのか?」


「先ほど、疲労のためか少しよろめかれてな」


「かつての宮殿下ほどではないにせよ、末次閣下ももう六十を過ぎておられる。このところ、精力的に作戦指導に当たった所為かもしれんな」


「だといいのだがな」


 この戦局で、在任中に軍令部総長が死去したとなると、海軍全体の士気に関わるだろう。未だ海軍将兵の間で根強い人気を誇る人物だけに、宇垣はそう懸念せざるを得なかった。


「これは貴様のところと艦本(艦政本部)で上手くやって欲しいのだが、内地に帰還した艦艇の修理は出来るだけ速やかに行ってもらいたい」


 軍令部第二部は、軍備を担当する部署である。具体的な業務は艦政本部が担当するとはいえ、作戦用兵上の観点から軍備計画などを策定するのが、第二部の職掌であった。


「まったく、一難去ってまた一難といったところだな。雲龍と天城、それと葛城の工期繰り上げて大わらわだというのに、この上損傷艦艇の修理か」


 雲龍型航空母艦一番艦・雲龍、二番艦・天城、三番艦・葛城は、それぞれ工期を三ヶ月から四ヶ月ほど早めて竣工させることが海軍内部で決定されていた。これもすべて、来たるべきマリアナ決戦に間に合わせるためである。

 その結果、雲龍と天城は四月に何とか竣工にこぎ着け、八月には葛城も竣工するという。


「まあ、うちの部よりも艦本と各鎮守府、工廠の連中がもっと大変だろうが」


「八月には大和型三番艦の信濃も竣工する。帝国海軍が万全の状態で米艦隊を迎え撃つために、一つ、骨を折って欲しい」


「俺が骨を折るのは構わんが、艦があっても人がなければ話にならんだろう? 空母に乗せる航空隊は、他の空母や陸上でも訓練出来るからまだ何とかなるとして、信濃はそう簡単に戦力化出来んだろう。ガ島の攻防戦に、武蔵が間に合わなかったのはその好例だと思うが?」


「その点については、俺に考えがある」


「ほう?」


「扶桑と山城の乗員、特に砲術科の人間で腕の良い奴を信濃に配属させるのだ」


「ああ、それは」


 鈴木も、それで納得した表情になった。

 昨年の第二次セイロン沖海戦で大打撃を受けた扶桑と山城については、修理の目途が付いていないといっても良かった。

 これは、雲龍型の工期繰り上げや、翔鶴型や飛龍などの昇降機、着艦制動装置を新型艦載機に対応出来るように改装しなければならないために資材と人員がそちらに取られ、帝国海軍の中でも特に旧式な二戦艦の修理にまで手が回らなかったためである。

 破孔を塞ぐ程度の応急修理を受けただけで、二艦は江田島沖に繋留されたままになっている。

 新型戦艦や新型空母を続々と就役させつつ、真珠湾攻撃で打撃を受けた旧式戦艦の近代化改修も同時並行で行ったアメリカと比べ、日本の国力の限界を象徴するような光景であった。


「扶桑型二隻よりも、大和型一隻だ」


「米新鋭戦艦の性能を考えれば、まさしくその通りだろうな」


 鈴木は海兵同期の言葉に頷いた。


「では、各艦が内地に帰還次第、直ちに損害の調査と修理に取りかかれるよう、艦本や各工廠にこちらの方で要望を出しておこう」


「ああ、頼んだぞ」


「貴様の方もな。マリアナで米艦隊を撃滅出来る作戦を期待しているよ」


 二人の同期生は軽く笑みを見せ合って、それぞれの職務へと戻っていった。






 五月二十日、第一、第二遊撃部隊はトラック泊地へと帰還した。

 帰路もポナペ、エニウェトクの航空隊の援護を受けられたため、二部隊はそれ以上の損害を受けることなくトラックに入港することが出来た。

 五月二十二日には、タラワ守備隊の収容に向かった第一水雷戦隊も、全艦が無事にトラックへと帰還した。木村昌福少将は、現地で守備兵の装備や大発を放棄させることで収容に費やす時間を短縮し、タラワの全将兵をトラックに連れて帰ることに成功していた。

 さらに現地の天候も、一水戦に味方していた。木村少将は、スコールの進行方向と艦隊の進行方向を合せるなどして自らの存在を米重爆の存在から隠し、タラワへと到達したのである。

 ガダルカナルを初めとするソロモンからの撤退作戦と同様に、タラワ撤収作戦も成功裏に終わったのである。

 これにより、捷一号作戦は完了したと見なされ、残る絶対国防圏外郭地域からの撤退も本格的に開始されることとなった。

 エニウェトク、ポナペ、ナウル、オーシャンなど中部太平洋の各島からの撤退が急速に進められた他、第八艦隊などを用いてラバウルからの撤収も行われたのである。そして最後に、中部太平洋における帝国海軍最大の根拠地であったトラック泊地も放棄され、日本は太平洋戦線を大幅に縮小させた。

 輸送船やその護衛艦艇に多少の損害は生じたものの、六月も終わる頃には帝国軍のほぼ全軍が絶対国防圏に指定された地域への撤退に成功したのである。

 このため後世、捷一号作戦、あるいはそれによって生起したマーシャル沖海戦は「史上最大の遅滞防衛戦」と呼ばれることになる。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 ホワイトハウスの戦況図室に集結した統合作戦本部のメンバーたちの表情は、一様に硬いものであった。


「つまり、我々は戦闘に負けて戦争に勝った、ということかね?」


 車椅子に乗ったまま太平洋の戦況図を眺めていたルーズベルト大統領が、確認するように問うた。


「はい、その通りです。大統領閣下」


 中部太平洋侵攻作戦を強力に推し進めたキング作戦部長が応じた。


「しかし、この損害で勝ったと言うには、いささか厳しいものがあるな」


 合衆国大統領は、膝の上に乗っている報告書に視線を落とす。

 そこに書かれている被害は、一年半前のガダルカナル攻防戦を思い出させるものであった。

 沈没した主要な艦艇だけを挙げても、戦艦アイオワ、ニュージャージー、ウェストバージニア、カリフォルニア、テネシー、空母ホーネットⅡ、バンカーヒル、ラングレー、カボット、バターン、護衛空母リスカム・ベイ、重巡キャンベラⅡ、セントポール、ルイヴィル、軽巡オークランド、ローリー、他駆逐艦多数と、ガダルカナル攻防戦を通して失われた艦艇に匹敵するだけの数を喪失していたのである。この他に損傷艦も多数、存在しているので、太平洋艦隊の被害は甚大であるといえた。

 さらにウィリアム・F・ハルゼー大将、ロバート・カーニー少将、アルフレッド・E・モントゴメリー少将、ヘンリー・M・ムリニクス少将など、多数の海軍将官が戦死していた。もちろん、艦艇乗員にも一万名に届く戦死者が発生している。

 そしてこれは艦隊だけの損害であり、輸送船団や陸軍・海兵隊将兵の損害も含めれば、人的被害の数はさらに跳ね上がる。

 輸送船は四〇隻近くが撃沈され(もちろん、乗員や揚陸が済んでいなかった兵員も船上で多数が戦死、装備も喪失)、陸軍・海兵隊将兵の戦死者は陸上だけで五〇〇〇人近くに上り、さらに一万名を超える将兵が負傷した。

 ガルバニック作戦の結果は、ジャップを圧倒出来ると考えていた合衆国側にとって、驚愕すべきものであった。

 しかし一方で、多数の輸送船が撃沈され、陸戦兵力も一万五〇〇〇名近くが死傷したとはいえ、ガルバニック作戦には予備兵力三万一〇〇〇が後方に控えていた。

 ウォッゼ、マロエラップのジャップ守備隊の組織的抵抗が五月十六日までに完全に終了したことを受けて、ジャップ艦隊がトラック方面に引き上げたこともあり、十八日、合衆国は残存艦艇を結集して再度、クェゼリン上陸を強行した。

 もちろん、ジャップ艦隊が引き返してくれば十五日の二の舞は免れなかったであろうが、ここで合衆国攻略部隊はその底力を遺憾なく発揮した。すでに占領していたルオット島の飛行場をわずか一日で使用可能な状態に整備し、十九日は一〇〇機単位の航空機を進出させたのである。

 空母機動部隊である第五八任務部隊がほぼ壊滅したため、この基地航空戦力でジャップ艦隊の再度の来襲に備えていたのである。

 そして、残存艦艇とルオット航空隊がクェゼリン島を猛砲撃・猛爆撃した結果、クェゼリン島のジャップ守備隊の組織的抵抗は二十二日までに完全に終了していた。

 実際このとき、日本側の第一、第二遊撃部隊の中にはクェゼリン再突入を主張する指揮官も存在していた。

 しかし、大和以下艦艇は弾薬を消費して、将兵の疲労も激しかった。そして、最も根本的な問題として、トラック泊地には艦隊の再突入を可能とさせるだけの燃料が残っていなかった。

 結果として、二十三日に上陸部隊はクェゼリン環礁の完全占領を宣言。ガルバニック作戦はその所期の目標を達成したのであった。

 戦闘に負けて戦争に勝ったというルーズベルトの言葉は、戦略的にはその目的を達成したという意味なのである。


「ブーゲンビル島も無血占領し、ジャップの太平洋の一大拠点たるラバウルとトラックに確実に迫りつつあるとはいえ、こうも出血が続いていてはトーキョーまでの道は遠ざかるばかりだ」


 小さな嘆息が、大統領の口から漏れ出した。

 議会での自分の戦争指導が追及されると思うと、気が滅入ろうというものだ。民主党と対抗する共和党が、内部で分裂してくれているのがせめてもの救いか。

 カートホイール作戦が、多少の過誤があったにせよ、順調に進んでいただけにガルバニック作戦の損害は軍事的だけでなく政治的にも痛手であった。


「この際、ラバウルは完全に無視すべきです」


 そしてキングは、そんなルーズベルトの心情に付け込むように、強い口調で言った。


「南太平洋に拘束されている海軍部隊がガルバニック作戦に投入出来ていれば、ここまでの大損害を蒙ることはなかったでしょう」


 未だキングは、ソロモン・ニューギニア方面でのマッカーサー主導の対日反攻作戦“カートホイール作戦”に否定的であった。この作戦のために、上陸を支援出来る戦艦が四隻も太平洋艦隊から引き抜かれたとなれば、なおさらであった。

 この四隻の戦艦がガルバニック作戦に投入出来ていれば、クェゼリンに突入を敢行したジャップ戦艦部隊を圧倒する兵力で迎え撃てたものを、と憤りに近い思いを抱いている。


「太平洋の珊瑚礁一つ占領するのにこの損害です。要塞化されているニューブリテン島を完全に占領するのに、いったい、我々はどれほどの犠牲を払うことになるのでしょう?」


 もともとラバウルの攻略には、カートホイール作戦を推進していたマーシャル参謀総長も慎重であっただけに、キングの言葉に何も言い返せなかった。


「合衆国の対日侵攻ルートは中部太平洋一本に絞り、兵力の集中運用を図るべきです」


 この合衆国海軍の作戦部長は、強く断言した。

 実際問題として、再建した機動部隊が再び大損害を受け、戦艦部隊も壊滅した今、合衆国に太平洋方面で複数の攻勢作戦を同時並行的に行うだけの余力は存在していなかった。


「ソロモンもここまで北上すれば、オーストラリアへの脅威はほぼ除去されたと考えてよろしいかと」


 リーヒ議長もまた、キングに賛同する発言をした。

 もともと、カートホイール作戦は純軍事的必要性よりも政治的必要性によって行われた作戦であった。オーストラリア本土に対するジャップの脅威の除去、という目的を南太平洋では達成した以上(インド洋方面の脅威がまだ残っているが)、これ以上の作戦続行は無意味であるとすら言えた。

 海軍兵力が分散してしまっている現状では、なおさらであった。


「そうだな」


 ルーズベルトは嘆息交じりに頷いた。


「海軍は次期作戦の発動に備え、戦力の再編に専念するように」


 現在、フィラディルフィア海軍工廠では十六インチ砲十二門を搭載したモンタナ、オハイオの二戦艦の建造が急速に進められており、アイオワ級五、六番艦のイリノイ、ケンタッキーの建造も進められている(このためにアラスカ級大型巡洋艦は建造中止、ミッドウェー級空母の建造開始も先延ばしにされていた)。

 この四隻の戦艦は第一次ガダルカナル沖海戦(日本側呼称、第三次ソロモン海戦)で新鋭戦艦四隻を一挙に喪失した直後に起工された艦であった。

 この四戦艦を建造するためにエセックス級空母など他の艦艇の建造に影響が出ているという面があるが、それでも今年の後半には再び大艦隊を太平洋に浮かべることが可能であった。

 まさしく、合衆国の誇る圧倒的な工業力のたまものといえた。

 とはいえ、十一月の大統領選挙には間に合いそうにないか……。

 ルーズベルトは内心で落胆していた。どれだけ工期を繰り上げるように命じたとしても、太平洋への回航、訓練などの期間を考えれば、対日侵攻作戦を再興するのは今年の年末か年明けになってしまうだろう。

 だとすれば……。


「七月に予定されているフランスへの上陸作戦、これは連合国の威信にかけてでも成功させねばならん。枢軸国の侵略主義者どもに、これ以上、誤った希望の光を見せるわけにはいかん。諸君らも、それを肝に銘じて作戦準備に当たるように」


 ルーズベルトは断乎とした決意を秘めた声で、そう宣言した。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 中立国は、戦争当事国にとって格好の情報工作の場であった。

 戦乱に包まれている欧州大陸の中にぽつりと浮かぶ木の葉のような国家、スイスは、まさしく連合国・枢軸双方にとっての工作活動の場となっていた。

 とあるアメリカのベルン駐在武官に言わせれば、スイスは「ヨーロッパの国々が囁き合っている通路」であった。

 ベルンの街を歩く人々の姿は、平和を謳歌しているように見えて、それでいてどこか緊張感を孕んでいるようにも見える。


「ふむ、米海軍はマーシャル沖で帝国海軍のために大打撃をこうむったようだな」


 ベルンのとあるカフェで、通りに面したテーブルで珈琲を楽しみながら吉田茂は新聞に目を落としていた。


「流石はアメリカ。我が帝国と違い、損害を隠すようなことはしないというわけだ」


 どこか嗤うように言って、吉田は珈琲を口に含んだ。馥郁たる香りを混ぜ込んだ苦みは、内地では味わえなくなって久しいものだろう。

 流石は中立国だな、とハバナ産の葉巻も手に入ったこともあり、吉田はご満悦であった。


「親父さん、あんまり人に聞かれて拙いことは言わんで下さい」


 たしなめるようにそう言ったのは、吉田に付き従ってスイスに渡ってきた白洲次郎である。白洲は近衛とも親交があるため、欧州に渡った近衛使節団の一員に組み込まれていた。

 とはいえ、現在はもっぱら、吉田の私設秘書のような役割を担っている。

 近衛使節団の表向きの目的は、前年の重光使節団とも呼ばれる遣欧特別使節団と同じく、欧州情勢の視察および枢軸国要人との会談とそれによるドイツ最新技術の取得であった。

 しかし、吉田茂の発案によって実現した第二次遣欧特別使節団は、連合国側要人との接触を最重要課題としていた。

 すでに在ベルリン日本大使館付海軍武官室はフリードリヒ・ハックを通じてスイス国内での連合国要人と接触する準備を進めており、在スイス日本公使館付海軍武官の西原市郎大佐(これまでスイスの兵器産業について調査を行っていた)も、この工作に協力している。

 同じくスイス公使館付陸軍武官である岡本清福少将もまた、国際決済銀行の吉村侃を通じて連合国側要人との接触を図るべく、近衛使節団に協力的であった。


「聞こえるように言っとるんだ。問題なかろう」


「ったく、スイスは至るところ官憲の目があるんですよ。連合国要人より先にスイスの警察のご厄介になっても知りませんからね」


 スイス政府は自国が諜報工作の場となっていることを理解しており、だからこそ自国の中立を維持するために他国諜報員の摘発に余念がなかった。もっとも、反ナチス的なアンリ・ギザン将軍を事実上の指導者とする現スイス政府は、どちらかといえば連合国側の諜報員(厳密に言えば反ナチス的な諜報員)に便宜を図ることも多かった。

 ドイツ側が「赤い三点」と呼ぶ諜報ネットワークを構成する一人であるコードネーム「ルーシー」ことルドルフ・レスラーを、スイス諜報機関の一つであるハウスマン機関(ハ局)は保護していたのである。しかし、この「赤い三点」は四四年の四月までに、ドイツ側の工作と圧力に屈したスイス連邦警察によって壊滅させられていた。

 スイスはこのように、諜報機関同士による虚々実々の駆け引きが行われる、魔窟のような場所であったのである。

 そんな場所でも普段通りの皮肉と諧謔を絶やさない姿勢を貫く吉田を、白洲は感心すべきか呆れるべきか迷っていた。

 と、不意に隣のテーブル席に一人の若い紳士風の男が何気ない動作で座り、メニュー表を開いた。


「ご戦勝、おめでとうございますと言うべきですかな。日本からのお客人」


 メニュー表からちらりと顔を上げた男が英語と共に、にやりとした笑みを吉田と白洲に見せる。白洲は警戒を顔に浮かべ、吉田はこの若造を見下すように鼻を鳴らした。


「……わざわざベルンくんだりまで我々を監視に来たというわけですか、シェレンベルク局長」


「シェンメル。私はしがないスイスの銀行員ですよ」


 吉田に似た人を喰った口調に、白洲はむっとした表情を見せる。

 二人は、スイス人銀行員シェンメルを名乗るこの男を知っていた。

 ドイツ国家保安本部第Ⅵ局(SD:対外情報局)局長ヴァルター・シェレンベルク。

 スイスを拠点にしていた反ナチス諜報ネットワーク「赤い三点」を壊滅に追い込んだ張本人ともいえる、ナチス親衛隊の諜報官であった。

 吉田や白洲にとっては、ドイツでの近衛使節団歓迎式典のときに一瞬だけ邂逅した男であると共に、ストックホルムの陸軍駐在武官・小野寺信少将から紹介された人物でもあった。

 ドイツ諜報機関の首魁とも言える人物が何故身分を偽ってスイス首都ベルンにやって来たのか、その意図を吉田も白洲も図りかねていた。

 もっとも、一方のシェレンベルクにしてみれば、自ら体を張って諜報工作をするのは今に始まったことではなかった。オランダでのイギリス人諜報員誘拐作戦であるフェンロー事件、スペインやポルトガルを駆け回ったウィンザー公誘拐作戦。

 今回、日本の使節団の中で実質的な団長ともいえる吉田茂と接触することもまた、こうした自ら行う諜報工作の一環であると思っている。


「あなた方日本の友人であるハック君が連合国とも繋がりを持っていること、私も良く存じておりますよ」


 給仕に頼んだ珈琲と食事が届くまでの間、シェレンベルクは何気ない世間話をするような調子で二人に語りかけてきた。

 白人とアジア人がカフェで話している様は、ひどく目立つ。

 この男もまた、吉田と同じく見られることを意識して行動しているのだと、白洲は感じていた。


「ハック君はなかなか誠実な男であるようで、日本の友人をアメリカに売ることも、アメリカの友人に日本を売ることも出来ない。誠実さが時として相手に対する不誠実となってしまうとは、何とも皮肉な話ではありませんか?」


 実際問題、日本側はスイスである程度の人脈を確保出来たとはいえ、それを積極的に活用出来る外交ルートを構築するには至っていなかった。あくまでも、目立つことで連合国側要人が接触してくるのを待つという、何とも受け身な姿勢に回らざるを得なかったのである。


「そこで一つ、機密漏洩をして差し上げよう」


 悪戯っぽい笑みを浮かべたドイツの諜報官は、一枚の紙片をさり気なく吉田に差し出した。

 そこには、「ヘーレンガッセ二十三番地」という住所が書かれていた。


「そこに、アメリカ大統領や統合作戦本部に繋がる人物が住んでいます。まあ、信じるか信じないかはあなた方次第ではありますが」






 吉田と白洲が去っていったカフェで、シェレンベルクは悠然と新聞を読んでいた。

 先程からいくつかの視線が自分に向けられていることに気付いているが、そんなことをまるで感じさせない自然な態度であった。

 スイス官憲も無能ではない。

 吉田茂や白洲次郎に限らず、スイスにいる日本人たちがアメリカとの和平の糸口を掴もうと活動していることなど、すでに察知しているだろう。

 そして、だからこそ彼らは日本人たちに手出しをすることはない。スイスも、早くこの大戦が終わって欲しいと願っているからだ。

 そしてこの自分にも、スイス人たちは積極的に手出しをしてくることはないだろう。彼らは未だ、ドイツによる保障占領を恐れている。だからこそ、こちらの圧力に屈して「赤い三点」の壊滅に手を貸したのだ。

 それにスイスでは、シェレンベルクの協力者たるドイツ名門貴族出身のマックス=エゴン・ホーエンローエ=ランゲルブルクがスイス政府要人に、ドイツと英米との和平の仲介を働きかけている。なおさら、スイス官憲はこの親衛隊諜報官の身体に危害を加えるわけにはいかなかった。

 そうした己の置かれている立場を正確に自覚しつつ、シェレンベルクは新聞をめくった。


「……ふむ、今年のルッツェルン音楽祭はフルトヴェングラーを招待するのか」


 あの禿頭の音楽家もご苦労なことだな、とシェレンベルクは思う。

 世界的指揮者として名声を馳せるベルリン・フィルのヴィルヘルム・フルトヴェングラーは反ナチス、反ヒトラーの疑いをかけられ、秘密警察たるゲシュタポの要監視人物の一人である。シェレンベルクの上司にして親衛隊長官(正式名称は「親衛隊全国指導者」)であるハインリヒ・ヒムラーも、フルトヴェングラーの存在を危険視していた(そこにヒムラーのフルトヴェングラーに対する私怨が混じっているようだったが)。

 もっとも、シェレンベルクに言わせればフルトヴェングラーの反体制思想など監視に留めて後は放置しておいて構わない程度のものでしかない。他国の諜報員となったわけでもなく、単にユダヤ人音楽家などを保護したり、ドイツ国外に逃亡するのを手助けしている程度だ。

 自分たち諜報組織が注意すべきはそのような小物ではなく、国家の機密情報を手土産に英米に接触を図ろうとしている輩である。

 シェレンベルク率いるSDは、一人のドイツ外務省職員に英米との内通の疑いをかけていた。

 その人物は、ドイツ外務省本省とスイスのドイツ大使館との連絡役となっている、フリッツ・コルベという四十三歳の男であった。このドイツ外務省職員は、ドイツと日本との間で交わされる外交電報などの写しを手土産にして、スイスにある英米の諜報員との接触を図っているという。

 もっとも、シェレンベルクはこのコルベという男を逮捕してゲシュタポに引き渡すつもりはなかった。

 シェレンベルクの目的は、ドイツと英米との和平であった。そのためであれば、このSS将官は反体制派、反ヒトラー派ですら積極的に利用する狡猾さを持ち合わせていた。

 ドイツはアフリカで勝利し、地中海の東半分をその手中に収めているとはいえ、東部戦線ではすでに守勢に立たされている。

 バクー油田を失陥したためにソ連軍の反攻は緩慢であったが、それでもすでにドイツ軍には攻勢に出るだけの余裕はなくなっていた。

 このままでは、いずれソ連の膨大な兵力と、欧州大陸に上陸してくるであろう英米にドイツは東西から攻め込まれて敗北する。

 シェレンベルクはそう考え、すでに一九四二年頃からSS長官ヒムラーの許可の下で和平工作の土台作りを行っていた。

 親衛隊の人間でありながら、すでに彼の中にヒトラーに対する忠誠心は残っていなかった。

 シェレンベルクの心の中にあるのは、いかに現体制の中で、そしていずれ訪れるであろう戦後世界の中で自分が生き残るかということであった。

 スイスに自分自身で乗り込んだのも、表向きは近衛使節団の監視を現地で直接指揮するためであったが、隙あらば彼自身が吉田らの和平工作に一枚噛もうと目論んでいるからである。もちろん、ヒムラーからの許可は得ている(ただし、この工作はヒトラーに対しては完全な極秘で行われていた)。

 日本がアメリカ相手に善戦していることは同盟国として喜ばしい限りだが、単独で連合国と和平を結ばれてはドイツにとって甚だ不都合であった。

 日米が講和すれば、太平洋に向けられているアメリカの膨大な物資、人員がヨーロッパに向けられるようになるからである。

 何としてでも、日本とドイツが英米と講和を結ぶ時機は同時でなければならなかった。

 当のヒトラーは彼独特の人種観故か、どういうわけか日本が英米と単独で講和を結ぶ可能性よりも、世界の反対側に黄色人種の大帝国が建設されることを警戒しているようで、近衛使節団の一部が対米和平工作を行いつつあることを気にも留めていない。

 日本への技術供与を積極的に指示しておきながら日本を警戒するというのは何とも矛盾に満ちた話ではあるが、独裁者など結局はそういうものだろうとシェレンベルクは冷めた目で自らの国の指導者を見ていた。


「さて、これからどうなることやら」


 太平洋での日本海軍の大勝。

 まだまだ枢軸国が強大な存在であることを、連合国の指導者たちは自覚せざるを得ないだろう。果たして吉田らの動きに、英米の人間がどういう反応を示すか。

 吉田に渡したメモに書かれた住所。

 そこにいるのは、アメリカ戦略情報局(OSS)スイス支局長のアレン・ダレスという男であった。

 OSSはアメリカ統合作戦本部直属の情報機関である。つまり、ダレスには米大統領ルーズベルトへと繋がる情報伝達経路を持っているのだ。

 シェレンベルクは未だダレスと直接会ったことはない。

 しかし、彼はホーエンローエを通じて一九四三年にはダレスと間接的に接触することに成功していた。

 ダレスの示した講和条件はヒトラーの排除などドイツの現体制の否定であったが、一方で強烈な反共主義の持ち主である彼はソ連に対する西欧の防波堤としてドイツという国家と勢力の維持を認めてもいた。

 そこに、シェレンベルクは英米との講和のための一筋の光を見出していた。


「日本人たちも本格的に和平工作に乗り出してきた。ここからが正念場ということか」


 カフェを後にしたシェレンベルクは、ベルンの雑踏の中に足を踏み入れた。

 この都市にあるのは、人々の日常の生活だ。彼らスイス国民の間に多少の緊張感が流れているとはいえ、この国の指導者たちは国民を戦禍に晒さないという最善の結果を掴み取ることに成功している。

 果たして我ら枢軸国の指導者たちは、そこまで賢明になれるかな?

 シェレンベルクは皮肉とも冷笑ともつかぬ形に唇を微かに吊り上げ、やがてベルンの人々の中に溶けるようにして消えていった。


◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆   ◆


 一九四四年八月八日、奇しくも四年前に戦艦大和が進水したこの日、伊予灘を一隻の巨艦が航行していた。

 艦首が夏の陽光に煌めく海面を切り裂き、九門の主砲が力強く左舷に向けて仰角を取っている。


「射撃用意よし!」


 その報告が昼戦艦橋に届けられた時、誰もが緊張に唾を飲み込んでいた。

 機銃員退避のブザーが艦上に鳴り響き、甲板上にいた人々が一斉に待機所へと駆け込んでいく。


「撃ち方始め!」


 昼戦艦橋にいた大佐の階級章を付けた海軍士官の命令が、静かに響き渡った。

 刹那、巨艦の左舷が朱に染まった。

 耳を聾するような轟音と、胸を圧するような爆風が艦上を吹き荒れる。

 衝撃波は左舷の海面を半円形に波立たせ、熱波は波しぶきを白い蒸気へと変えていった。

 視界を遮る黒煙が後方に流れ去った頃、時計員の声が昼戦艦橋に響いた。


「だんちゃーく!」


 甲高い声で発せられた報告と共に、三万八〇〇〇メートルの彼方に九本の水柱が立ち上る。


「……凄まじいものだな、四十六センチ砲の衝撃は」


 関係者の誰もが呆けたようになっている昼戦艦橋で、先ほど射撃を命じた海軍士官―――一一〇号艦(戦艦信濃)艤装員長・有賀幸作大佐は感嘆の呻きを漏らした。

 横須賀から回航されて各種艤装を済ませた信濃はこの日、兵装関係の諸試験を行うための第二次公試に臨んでいた。

 九門の主砲が完全に作動出来たことを確認出来た今、信濃は本当の意味で戦艦としての産声を上げたと言えるだろう。

 このまま順調に試験項目を終えられれば、この大和型三番艦は八月十九日に竣工引き渡し式が行われ、晴れて帝国海軍の艦籍に加えられる。

 そして、帝国海軍は三隻の大和型戦艦を以て再び米艦隊に対し決戦を挑むことになるだろう。

 その時、この信濃がすでに敵戦艦を撃沈するという華々しい活躍をしている二隻の姉妹艦に劣るようなことがあってはならない。

 有賀はそんな決意を胸に秘めながら、自分が正式に信濃艦長に任ぜられる日を心待ちにしていた。

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蒼海の碧血録 三笠 陣 @MikasaJin

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