第42話 【後記】食卓に見る表裏

 この四十二日というもの、いつ原稿を落とすのかという恐怖の中で日々を過ごしながら、様々なものを犠牲にしてここまで至ることができた。

 仕事に穴をあけることだけは辛うじて避けられたが、終盤は、特に残り一万二千文字となったところでの困窮は一人暮らしの部屋の中でのた打ち回るほどのものであった。

 仕事も佳境に差し掛かっており、この間の精神の摩耗は書き出しの時とは比べ物にならぬほどであった。

 それでも、何とか書き上げることができたのは、ひとえに日々ご覧くださる読者の皆様のおかげであり、レビューや応援を下さった皆様のおかげである。

 どれほど言葉を尽くしても感謝しきれぬものであり、この場を借りてせめてお礼申し上げることを許されたい。


 さて、後書ということで内容に話を戻すことにすると、本作は食にまつわるエッセイであるのだが、所謂いわゆるグルメ情報誌ではない。

 旨いものを出す店が出てくることには出てくるが、年月を経て変化した店もあるであろうし、無くなった店もあることだろう。

 事実、既に閉店したところも余さず語っている。

 一方で、私が避ける店の中にも評判の良い店はあり、文章よりあの店かと察せられた方も行ってみると別の印象を持たれることだろう。

 別のルポタージュで「グルメは他人に任せた」と言った私である。

 そうした美食を求められる方がいらっしゃれば、ご自身の舌と鼻と肌に全幅の信頼を置かれた方が良い。


 そもそもが、旨いものを単純に紹介するだけであれば、私は「徒然なるままに」の名前を冠して書くようなことはしない。

 私にとってこの主題は高校時代から遡って十八年使用している題名であり、文字数の規定があるエッセイに対して使用している。

 この名前を付けた初期の理由は無論、「徒然草」にあるような生き方、考え方に憧れたからであるが、その頃はまだその序段が持つ意味をよく分かっていなかったように思う。

 今でもその真意を理解しているとは言い難いが、

「心に移り行くよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそ、ものぐるほしけれ」

こちらの部分にこそ随想の目指すべき姿があると思い至ったのが大学生の頃であり、以降、自然とエッセイへの対し方が変化した。

 それをツイッターでも明確にし、ルポタージュとエッセイに分けたのはつい先ごろのことである。

 では、随想として私が目指すものは何なのかという問いに対する答えは、既にこれまでの話で語ってきた通りであると考えているが、もし答えになっていないとすれば私の表現力不足である。

 そうした方はぜひ、あてにならぬ私の言葉などではなくしっかりとしたエッセイの創作論を読んでいただきたい。

 ただ、そこから先へ踏み込もうとすると、日記とは異なるエッセイの世界がとぐろを巻くように存在しており、苦渋の快楽が待っていることを先にお伝えしておく。

 思い返してみるとある随筆で、

「生きることは苦しみであり、その苦しみの中に喜びがある」

とマゾヒストが書いたのではないかという一文を見たことがあるが、そうした思いが今であれば大いに分かるような気がする。


 そう、本作を書き始める前から執筆に要するエネルギーが莫大なものであり、いかに苦しいものであるかは経験則として分かっていた。

 ツイッターで見た、カクヨムコンではエッセイの受賞が可能であるのかという質問に対しても、非常に難しいと呟いている。

 私は一昨年から熊本県内の文芸賞に作品を出しているのだが、その原稿用紙五十枚分のエッセイを書くだけで臓腑を抉られているのだから、これに挑戦すれば地獄、というのは明確になっていたのである。

 だからこそ、別のファンタジー作品も準備していたのであるが、それを覆したのが第一話に在る通りにペティナイフと向き合った夜である。

 何もかも止めてやろうという心の叫びは、その活力を文章にぶつけることで変換されたのであるが、それがなければ私はどのようになっていたか分からない。

 仕事の重圧、コロナ禍による抑圧、行動の制限、一人の部屋、うだつの上がらぬ自分……こうしたものが四面に楚歌すれば導かれるものは数少ない。

 結局逃げただけであるのだが、そのおかげで私は今もこうして文章を書くことができている。

 そして、逃げることへの恐れが小さくなった今では、そういう在り方があっても良いのだという思いが強くなっている。

 次年度かその次は大きく転換する年になるだろうなという思いが膨らんでおり、それに向けて私はまた書き続ける心算つもりである。


 ここで、一つだけ種明かしをしたい。


 本作の副題である「三十路男と生きた食卓」を思いついたとき、私は何故かハリー・ポッターを思い出した。

 しかし、私は賢者でもなければ魔法使いでもなく、世間の穢れを知る一個の人間である。

 額に稲妻の傷などなく、あるのは恒例行事となりつつある右耳の上の十円ハゲだけである。

 特別なものも格好の付くものも何もない。

 ただ、強いて共通点を挙げるとすれば、共にある一点に向かっていきながら、それを強制しようとするものに抗い続けているという点である。

 背負っているものも、背景となるものもまるで違うが、それでも彼と私の間には、いや、全ての人にとってそれは等しく訪れる。

 故に、思い出した瞬間に零れた笑みというのは、単なる可笑しさによるものではなく、また、酷く乾いたものであった。


 今の私は、社会的にはおよそ以下の要素でできている。

 長崎出身の大卒、普通自動車免許を所有し、転職一回。

 三十三歳男性、熊本県熊本市在住の第三次産業正社員。

 両親は死別し、姉が一人、未婚、単身世帯。

 普通自動車以外に財産無し。

 身長一七〇センチ、体重六七キロ、アレルギー持ち。

 履歴書のように書いてみれば、そこに生きた人としての形は存在せず、その実像は霧のように消えてしまう。

 今の私が鬼籍に入れば、これらの情報から数点が抜き出され残されるだけとなる。

 それが、乾いた笑いの正体であった。


 そのような血の通わぬ文章にならぬよう、本作は書き続けてきたつもりである。

 故に、これをキャラクター文芸として上梓したのであるが、皆様の心の中に在る私は果たしてどのような姿をしているのだろうか。

 いずれ伺ってみたいなということを戯れに思いながら、本作の終わりとしたい。


春の訪れを請い願う一月     鶴崎和明

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徒然なるままに~三十路男と生きた食卓 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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